ワンライ(マグカップ) 西の大陸のとある国で、初めて『家』に滞在することになった。
チェズレイと同道を始めてからこれまでは、各地のモーテルやホテルを転々としてきた。次の作戦では、一つの拠点に長く滞在する必要があるという。そのためにチェズレイが用意したのは、聳え立つマンションの一室だった。
リビング、キッチン、バスルーム。この家に一つきりのベッドルームには、清潔なベッドが二台、行儀よく並んでいた。
家具は一通り揃っている。ただ、人が住んでいる気配だけがなかった。開業したばかりのホテルの一室。そんな空気感だ。
言うなれば、まだ血の通っていない家。
今日からここで暮らすのか。
妙に現実味が薄いのは、放浪していた二十年間、『家』と呼べる場所とは、ほとほと縁遠かったせいだろう。
相棒が、隣から見上げるモクマの視線に気づきフッと口角を上げる。陶器のような彼の肌の下には、しかと熱い血が巡っていた。
近所のレストランで夕食を済ませた帰路、チェズレイの希望でスーパーマーケットに立ち寄った。
日用品を揃えたいのだと言う。たしかにあの生活感のない部屋では、寝食のうち前者しか成り立たない。
店の奥まで見渡せないほどの広いスーパー。品揃えが良く、海外からの輸入品もある。探せば故郷の食材も見つかりそうだった。
モクマが押すカートの中に、チェズレイが生活用品を次々に放り込んでいく。
「……あとはミネラルウォーターと、コーヒー。それからコップも必要ですね」
「飲み物だらけだねえ」
「お茶の方がお好みであれば、お好きなものをどうぞ」
食料はいらないのか、という意味で言った。賢いチェズレイからの「不要」という返事のようだった。
様々な銘柄のコーヒーが並ぶ棚の近くに、いくつかのカップが置かれていた。食品と食器。効率の良い並べ方かもしれない。
まじまじと吟味した末、チェズレイが手に取ったのは、真っ白なマグカップだった。それも二つ。
「あなたも飲むでしょう。それとも別の柄の方がお好みで?」
わざわざ確認されたのは、モクマが呆けた顔で見つめていたせいだ。棚にはルークや子どもが好みそうなニンジャジャン柄や、冗談のようなハートマークの描かれたペアマグも陳列されている。一瞥したモクマは、「いいや、それで構わんよ」と答えた。
マンションに帰宅し、購入品を仕舞っていく。シャンプーはバスルームへ、ペットボトルは冷蔵庫へ。家の中に、少しずつふたりの血が通っていく。
マグカップを食器棚に片付ける前、チェズレイは先程買ったばかりの食器用洗剤とスポンジで、二つを洗い始めた。
――かくいう私も、結局はこうしてカップを磨いています。美しいものが好きですので。
出会ったばかりの頃の朝、モーニングコーヒーを飲んだ後にカップを磨いていた手付きを思い出す。
オフィス・ナデシコでは、備え付けのカップを使っていた。放浪中には家どころか、己の持ち物すらろくに持たず。昔、ミカグラで暮らしていた頃に飲んでいたのは茶ばかりで、使っていたのも専ら湯呑だった。
「モクマさん。キッチンに何か必要なものでも?」
人から見られることには慣れている男が、つぶさにひたむきに見つめる相棒の眼差しについに痺れを切らした。
「んー……せっかくだから、さっき買ったコーヒー淹れよっか」
「せっかく磨いたばかりのカップを早速濁らせるおつもりで? まァ、少々休憩しても良い頃合いかもしれませんね」
洗ったばかりのカップをモクマに託し、チェズレイは先にリビングルームへ向かう。
テーブルに並んだカップを、モクマはまじまじと見つめた。
何の変哲もない、どこにでもある白いマグカップだ。
湯を沸かし、コーヒーを注ぎ入れる。牛乳を買って来なかったので、今夜はミルクで濁らせることはできなかった。
リビングの相棒の元へ運べば、濁りのない黒に満足げな笑みを浮かべたので、これで正解だったのだろう。
「……大事にするよ」
浮かんだ言葉をそのまま口にする。当然そのつぶやきは隣に座る相棒の耳に届いた。たかがマグカップひとつ、何を大仰な。そう言いたげだ。
けれど彼の口から零れたのは。
「そうですね、あなたのそばにある限りは」
ピカピカに磨き抜いた髪をさらりとかき上げた相棒に、モクマは目元を緩めた。
モクマにとって、初めてだった。
自分専用の、ピカピカのマグカップ。
真っ白なマグカップもいずれは茶渋で濁るか、手を滑らせて罅割れる日が来るかもしれない。それでも相棒が共にいれば、その手で美しく磨き上げ、罅すらも咲かせてくれる。
モクマにとって、それは覚えのない安堵感であり、幸福だった。