おにぎり「俺、人が握ったおにぎり食えんタイプ」
「だろうな」
ある日の簓と左馬刻の会話だった。
どういう経緯だったかは知らないが、家族以外の人間がこしらえた握り飯は生理的に食べられないタイプの人が多い、という話題だった。
空却はそのときただそばでゲームをしていて小耳に挟んだだけであったが、空却もまた左馬刻と同じく「だろうな」と思った。一郎もきっとそう思うはずだ。
簓は潔癖症ではないものの、許せるもの許せないものの線引きがハッキリしており独自のルールも多い。空却からすればそれは面倒な生き方に見えるが、のらりくらりと煩わしいものをかわして生きるのは簓の得意とするところだ。
こんななんでもない会話を覚えていたのはなぜだったのだろう。それは空却自身が驚いていたが、なぜそんなことを2年も経った今思い出したのかというと、自宅でたまたま点けていたテレビで、見知らぬ婆さんからおにぎりを振舞われている簓を見たからだ。
『わ、具は梅干し。もしかしてこれも作ったやつ?』
『おばあちゃんのぬくもりを感じる味ですわ~』
そうカメラに向かって喜色満面で言う簓の口元には白い米粒がついていて、スタッフに指摘されて慌てて取っていた。画面からは賑やかな笑い声が響く。
空却は思わず顔を顰めた。その計算されつくした「芸人・白膠木簓」のあざとさに鳥肌が浮くというのもあるが、それプラス、つい先程思い出した「人が握ったおにぎり食えんタイプ」発言を思い出したせいというのもある。この2年で平気になったということもないだろうから、おそらく仕事で仕方なく食べているのだろう。しかも気の利いた一言つきの笑顔で。
なんだかそれがとても気持ち悪く思えて、空却はリモコンをテレビに向けて別のチャンネルに変えた。
***
その後、簓と顔を合わせることになったのは一週間後だった。
簓がアポなしで空厳寺を訪れることなど珍しくないので、空却はもう呆れる顔を返すのもやめた。急に休みが取れたから、と言って気安くやってくるが、その距離と交通費が決して気安くはないことを空却は知っている。入れ違いになると大変だから連絡を入れろと言っても、簓はなにやらニヤニヤするばかりでちゃんと返事をしないのだった。
アポなしの弊害で、空却はタイミング悪く昼食中だった。正確には二度目の朝食である。空却は普段朝食を5時頃に食べるせいで9時には空腹になるのだ。漬物と握り飯を自分で用意して縁側でパクついていたところに、ちょうど簓がやってきたのだった。
「普通はパンとか食わん?」
「寺の仕事は肉体労働なもんでよ」
どっこらせ、と勝手に空却のとなりに腰掛けて、簓は手土産の紙袋を置いた。
「具なに?えび天?」
「ンなもん都合よくあるかよ。朝メシの残りのシャケ」
「ふーん」
関心があるんだかないんだか微妙な返事をして、手持無沙汰な簓はそのままスマホをいじりはじめた。空却はお構いなしに握り飯を咀嚼するが、それでふと先日のテレビ番組のことを思い出す。ついでに、2年前の簓と左馬刻の会話も。
「そういやお前、人が握ったおにぎり食えないって言ってなかったか」
「え?そんなん言うたか?まぁ食えんけど」
「この前……なんだっけな。なんかのテレビで婆さんのおにぎり食ってんの見た」
「ああ、先週放送のか?おおきに~。食えん言うても、なんやイヤやなぁ程度のもんやし。アレルギーでもなければその場で食わんのは失礼やろ」
そう言って笑いながら、簓は空却のほうじ茶を勝手に取って啜った。
「衛生観念とかそういう話でもないんや、不思議やなぁ。他人の体温が込められとる思うと、たとえラップ越しでも抵抗あるんや。なんなんやろな」
「その茶、拙僧の飲みさしだぞ……」
言っていることの矛盾に呆れて、空却はほうじ茶を取り返す気にもならなかった。
他人の体温が込められているどころか、一度口をつけたものを共有するなど、簓からすれば生理的に無理なのではなかろうか。だが当の本人はけろりとした顔でほうじ茶を啜っている。
「まぁ、空却やし」
「あっそ」
空却は他人ではない。そう言いたいのかもしれないが、簓の独特の線引きは今に始まったことではないので、空却はそう返すに留めた。
握り飯を食べ終わって、指先についた米粒と塩を口に含んで取りながら皿を片づけにかかる。さて立ち上がろうというとき、突然簓に腕を引っ張られた。
「うわ」
ぐらりと体が傾ぐ。皿を取り落していないことだけ咄嗟に確認し安堵した。
おい、と文句を言いながら簓の方を見ると、先程まで空却が含んでいた指先を、握り飯の米が少し残っているその指を、パクリと口に入れたところだった。
「はっ?!」
思わず大きな声を上げてしまった。
驚きすぎて、指先を取り返す前に硬直してしまう。
今簓が口に入れているのは、まぎれもなく空却の指だ。それもついさっきまで空却が含んでいた、握り飯を掴んでいた指だ。衛生観念とか、体温がどうとかいうレベルではない。親子だってこんなことはしない。指先に感じる口内の体温と舌先の感触に、カッと血が沸騰する。
簓は人差し指と親指を軽く歯先で噛みながら米の糊を舐め取り、これ見よがしに指先を吸ってから口から離した。
「うん、うまい」
「な、なに、なにして」
「お裾分けもらっただけや。はは、顔真っ赤やで」
笑われてはじめて、空却は慌てて自分の指を取り返した。
取り返した指先は異様に熱く、互いの唾液のせいで変に濡れ光っている。これ以上なく卑猥に思えて、空却はわなわなと震えたあと慌てて台所に駆けていって指を洗い流した。
「たぶんな、俺は人の想い?みたいなんを体に入れたくないねん。……けどな、お前は逆。ふふ」
空却がこのあと真っ赤な顔で頭を引っ叩いてくるであろうことを予想しながら、簓はひとり呟いた。
終