三回目の正直 一回目のセックスは、緊張しすぎてよく覚えていない。
二回目のセックスは、気負いすぎて空回りした。
では、三回目は――?
簓と空却が付き合い始めたのは二ヶ月前だ。互いに好き合っていると理解したのは随分前なので、我ながらモジモジしている期間が長すぎてキモいなと思う。結局なんだかんだとくっつくことになったわけだが、簓はともかく空却は恋愛だのお付き合いだのという経験に乏しく……いや皆無で、恋人同士が踏むだろう手順というやつがよくわからなかった。なので、付き合って一ヶ月の記念日に簓にホテルに連れて行かれたときはカチンコチンに緊張してしまい、よくわからないまま行為は終わった。完遂と言えるのかどうかもよく覚えていない。ケガはしなかったが痛かったこと、ひたすら恥ずかしかったこと、簓がやたら優しかったことは覚えている。断片的にでも思い出すだけで顔から火が出そうになって、変な呻き声を上げて頭を掻き毟りたくなる衝動に駆られるのは、ただただ恥ずかしいからだ。自分の体がコントロールできなくなるのも、誰かの眼前にすべてを曝け出すのも、何もかも初めてだったのだから。
そうして月日はちょっとだけ流れ、二人は二回目のセックスも済ませた。これは本当に「済ませた」と表現するのが正しく、初回に比べると詳細に覚えてはいるのだが、どうにも色々と微妙だったのだ。
簓の自宅でそういう雰囲気になった際、「……ええか?」と尋ねられ、その瞬間空却がハッと思い出したのは初めてセックスした際のあの緊張と羞恥だった。初回の羞恥がなぜか「負け」に類似した分類となっていた空却は、いかめしい顔で「よし、来い」と低く神妙に答えた。簓はこれに目を丸くした。さすがにセックスのお誘いと理解していないわけではあるまい。だがこれではまるで相撲とか将棋とか――とにかく、別に空却相手に頬を染めて潤んだ目で見つめてほしいなんて思っちゃいない。ムードという点では赤点だったが、まぁ空却らしいといえば空却らしい。簓は「こいつやっぱオモロ~」と内心微笑ましく思っていたが、対する空却はやはり闘いに挑む気持ちだった。
そして二回目のセックスも結局、ひどく緊張して恥ずかしくて、自分が自分でなくなったみたいで居たたまれなくて、終始よくわからなかったということには違いなかったのだった。
そうして、またちょっとだけ月日は流れる。
簓と空却は忙しいスケジュールを縫って会う約束をした。オオサカの街で食べ歩きをし、クレーンゲームをして、落ち着いた店でお茶をし、ぶらぶらと街を散策して、つまりは普通のデートをした。簓のマンションに辿り着いたのもまったく自然で、だがソファに腰掛けた瞬間、空却はハッと思い出した。以前このソファの上で、どんなことが繰り広げられたのかを。どきりと心臓が跳ねた。先程まであんなに楽しくて浮かれていたというのに、急に居心地が悪くなった気がする。一方の簓は空却の心中など露知らず、うきうきと茶の準備をしていた。
「コーヒーと紅茶、あとコーラと……あ、カルピスあるで」
「ンなもんカルピス一択だろ」
「はっはは、用意し甲斐あるわ〜」
簓自身は自宅でカルピスなど飲まないのだろうから、わざわざ空却のために買っておいてくれたということになる。そう考えると、じわじわと胸に響くものがあった。ガキ扱いかと思わないこともないが、カルピスなんて古今東西老若男女誰でも喜ぶ。鼻歌でも歌いそうな様子でカチャカチャと茶器とお菓子を用意する簓の姿を見ていると、やはり込み上げてくるのは好意しかない。だというのに、このソファで大人しくしているのはどうしてもむず痒い気持ちになってしまって、空却は何度も座る位置を直した。
「そないに警戒せんでも、今日は手ぇ出さへんよ」
え、と顔を上げる。コーヒーとカルピス、茶菓子を乗せた盆を両手に持って、簓は朗らかに言った。
警戒。そういうつもりはなかったのだが、簓からはそう見えていたのか。空却はなんとなくきまり悪い気持ちになってしまって、つい上唇を尖らせた。
「……別に、警戒なんて」
「居心地悪そうな顔はしとったで」
事実だったので、空却は黙るしかなかった。空却が何を思って居心地悪そうな顔をしていたのか、簓にはお見通しに違いない。コップの中のカルピスの水面に映った自分の顔は、ずいぶんと情けない顔をしていた。
「俺かて反省したんや。付き合うてるからって必ずしもセックスせなあかん決まりなんかないのにな」
そう言いながらコーヒーを傾ける簓の顔からは、怒りや落胆のような感情は感じなかった。
付き合って一カ月でセックスに至るのなんて、男同士であることを差し引いても不思議でもなんでもない。むしろずいぶんと大切にされているのだとわかっている。だからこそ空却は、そのうえであれだけド緊張ド羞恥に至った自分が特別みっともなく思えてしまうのだ。こんなときに否応なく年の差と経験値の違いを痛感する。そんなこと、普段は考えたこともなかったのに。
「これを訊くんはずるいってわかっとるんやけど……、嫌やったか?」
この問いには空却は慌てて首を横に振った。手の中のカルピスがちゃぷんと音を立てる。
「そか」
少しホッとしたような表情で、へにゃりと笑う簓の顔で胸がきゅうっとなった。
決して嫌なんかではなかった。そして、付き合った以上セックスに至ることを想像していなかったわけでもない。そこまでガキではないと思っていたのに、自分は自分で思っていたよりもずっとガキだった。そのことが嫌なのだ。
「……別に、お前と、その……すんのが、いやなんじゃねえ。けど、……」
「うん」
「……は、はじぃんだよ。なんつーか、居た堪れねえ、つーか……。自分が、コントロールできねえ、のが、やで……。だから、お前が、どうとか、じゃ、ねえ」
この気恥ずかしさを言語化するのは難しい。ただ「恥ずかしい」に終始する言い訳にこんなにたっぷりたどたどしく時間を使ってしまった。自分の考えを口から出すことなんて人一倍慣れているはずなのに、このザマ。なんて体たらくだ。だがとにかく、簓に触れられるのが、そして簓に触れるのが嫌なのではないということは伝えなければならないと思った。
「流されんでや、空却」
「え?」
唐突なことを言われて、空却はぽかんと簓を見返した。
「お前は口より先に手が出るタイプや、嫌なことは絶対に受け入れん奴ってことも知っとる。けど波羅夷空却が意外に押しに弱いってことを俺は知っとんねん。自分で言うのもアレやけどな、今お前をええ感じに言いくるめて丸めこんでセックスに雪崩れ込もうと思えばできる。でもそんなことはせん。俺はお前の、恋人やから」
空却は、恋人、と口の中で呟いた。
「恋人って、触れるのを許された間柄や。そんでそれを拒否することも同時に許されとる。その矛盾をまるごと受け入れる、それが好きってことやと思う。こうせなあかんってもんなんてない。せやから、お前がどうしたいか、なにが嫌か。そして俺がどうしたいか。そのうえでお前はどう思うか。それをちゃんと見なあかん。相手がこうしたいから、で主観なしで流されるんは我慢しとるんと一緒や。俺はお前に我慢なんぞしてほしくない」
「簓……」
簓がなぜこんなことをわざわざ言うのか、空却にはなんとなくわかった。恋人同士は手を繋ぐもの、キスするもの、そこまで済んだらセックスするもの、という固定観念、いわば思い込みは確かにあった。そうするものだと思ったから、受け入れた。
「……そりゃ、そういうもんだと思ってたのは事実だよ」
「そうやろ」
「けど、……うまく言えねぇけど、……たぶん、流された、のとはちっとちげぇ。……触りたいと思ってんのは、何もテメェだけじゃねぇんだ」
セックスしたことを思い出すと、自分が自分でなくなるみたいで居たたまれない。赤面して狼狽えて口籠って、自分で自覚している波羅夷空却という人物像にあまりに当てはまらない。けれどそんなの、簓からすればきっと……――。
「……こちとら、初心者なんだよ。お前と違って」
「うん……?」
「初心者向けに、もっとこう、……ゆっくり、してくれたら、……いいんじゃねえの」
簓は少し止まって、困ったように首を傾げた。
「俺はアホなんや。それやと、ゆっくり進めるセックスがええって意味に取ってまうで」
「……そう、言ってんだよ」
「うーん……。じゃあ、ちょっとずつ、な」
簓は空却の右手の甲に左手を重ねて、ゆるく握る。
「ドキドキとちゃうくて、恥ずい、だけのは嫌やろ。俺がこうやって触るんは、どうや?これは恥ずい?」
空却は首を横に振る。そうすると、今度はその左手を下側に潜り込ませてしっかり掌を握り、指を絡ませた。いわゆる恋人繋ぎである。少しドキリとはするが、恥ずかしいかというと違う気がした。なので、これにも空却は首を横に振る。
「これは?」
そのまま空却の中指と薬指の間に指をすべらせて、ゆっくりと水かきのラインをなぞるように往復させた。意味ありげな緩慢な動きに、思わずぴくりと指が動く。くすぐったい。急に心臓が早鐘を打ち始める。意識がそこに集中してしまう。
「恥ずい、わけ、じゃ、ねぇけど……っ」
「けど?」
「心臓が、やべぇ」
「……ふふっ」
簓は嬉しそうに笑った。たったこれだけ。手を握って指をなぞられただけで、なぜこうもドキドキしてしまうのか。そんなこと考えるまでもない。だからこうして簓は嬉しそうな顔をしている。
手の中のカルピスは静かに卓に戻され、今度は両手を握られた。握りこんだ簓の指が、内側の掌の柔い皮膚をなぞる。ぞわぞわと首筋を這い上ってくるのはたぶん、羞恥なんかじゃない。
「これは?」
「なん、か、ぞくぞく、する」
握られた両手はそのまま、今度はゆっくりと引き寄せられた。膝がぶつかる距離で隣にいたので、ほんの数センチ寄るだけで至近距離と言える距離になる。額と額がこつんと合わさった。
「これは?」
そう問う簓の吐息が唇に当たる。一気に顔が熱くなって、ひっきりなしに瞬きを繰り返した。
「これ、は、……さ、すがに、恥ずい」
言うなり、簓はパッと離れた。だがこれに空却は「あ」と声を上げてしまった。簓は空却の言うとおり、『恥ずかしいこと』のボーダーラインを確認しながら進めているのだから、空却がああ言った以上は離れるのは当然だった。……だが、今しがた離れた体温が惜しく思えてしまうのは、いったいなぜなのか。つい目線が下に下がっていってしまう。
「空却?」
「……簓、も、もう一回。試しに」
頬がカッカと火照る。なにが試しに、だ。怖気づいたくせに、やっぱり触れたいなんて、まるで幼児の駄々だ。けれど簓は笑うでも困るでもなく、ただ柔らかく微笑んだまま、もう一度ゆっくりと両手を引き寄せた。そうして再度、前髪がくしゃりと小さく音を立てて額が合わさる。
その瞬間、あ、と気がついた。
これは、キスの距離だ。
気が付くなり、心臓が引き絞られたみたいにきゅっと縮んだ。睫毛が触れそうな距離で、けれど簓の目を見る度胸がない。しばしひたすら右斜め下にうろうろと視線を彷徨わせ、しきりに瞬きを繰り返した。ようやくおずおずと目線を上に――簓に向けてみると、ぱちりと目線が合った。至近距離で見るそれは薄茶色と緑色の複雑なグラデーション、目尻は楽しそうに、あるいは嬉しそうに下がっている。
(このあとは散文しか書いてないのでいつか続きを書く)