寝不足 外は雨が降っている。雨の日はダメだ。タバコが湿気って不味くなるし頭痛がするし、怠くなってイライラする。事務所には簓の他に左馬刻と一郎がいるが、それぞれ別々の作業をしていて話す者はいなかった。
簓はパソコンに向かって曲の編集作業に取り掛かっていた。この作業がまた根気のいるもので、同じ場所を何度も何度も繰り返し確認しながらチマチマと電子音を入力して重ねるという、畳の目を数えるような気の狂いそうな作業である。そして音源を仕上げたら収録に移るが、スタジオの使用日はもう来週だ。そのためすでに簓は3日ほど作業に明け暮れ細切れの睡眠しか取れない日が続いていた。おかげで手元の灰皿にはうず高くタバコと灰が鎮座している。ソファでタブレット片手に項垂れている左馬刻も似たようなもので、同じく別音源の編集作業に明け暮れていた。
雨のせいでヘッドホンをつけた外耳が湿る感覚が不快だ。簓は画面を注視しながらヘッドホンを片手で押さえる。
『~~♪ ァ、♪……ザ、~~♪、……ザ……』
「ん?」
音に突然ノイズが混じり、簓は顔を顰めた。
古き良きテープ音源であればまだしも、電子記録データにノイズが生じることはない。有線接続しているから混線もあり得ない。ということは、ヘッドホンの接続不良だろうか。
「なんやねんこんなときに……」
これでは作業が進められない。簓は思い切り舌打ちをして、パソコン本体を覗き込んで音声出力端子を摘んだ。くりくり回してみるがノイズが強まったり消えたりはせず、一定のノイズが続いている。接続不良ではなくヘッドホン本体の異常かもしれない。だとしたら面倒だ。
「なんで今やねん、もぉー」
『ザ、……きゃは、~♪ ……ザザ、〜♪ ザ……』
「……?」
簓は怪訝に思って手を止めた。
ノイズだけではない。人の声が聞こえた気がした。それも、笑い声だ。そう聞こえた。
「え……」
一度そう聞こえてしまうと、つい意識を集中させて聞き入ってしまう。
簓はここ数日、何度も何度も同じ箇所を繰り返し聴いていた。声なんて入っていないことは間違いなく断言できる。だというのに、ノイズに混じって聞こえたのは、いったい何だ。
『ザ…… ザ…… あははっ……』
「……ッ⁈⁈」
簓はヘッドホンを放り投げて立ち上がった。はずみで椅子はひっくり返り、けたたましい音が事務所に響いた。左馬刻と一郎が簓の背中を不思議そうに見上げている。
ド、ド、と鳴る心臓の音がうるさい。簓は投げ捨てたヘッドホンを見つめて胸を押さえた。
――人の笑い声だった。女とも男とも、子供とも老人ともわからない、楽しげな声だった。
「簓? どうした?」
「簓さん?」
突然立ち上がったまま固まってしまった簓を不思議に思った左馬刻と一郎が声を掛け、それでようやく簓はハッとした。次の瞬間にはドッと汗が噴き出した。
「ちょ……っと、寝不足みたいや。はは」
自分でも青い顔をしていることはわかった。指先が震えているし、口角が固くてうまく笑えなかった。だが口に出してみて改めて、寝不足で夢に半分足を突っ込みかけていたのかもしれないと思った。昔、バスの中でうつらうつらしているときに降り過ごす夢を見て大慌てしたことがある。それに実際ここ数日きちんと寝ていないことは事実で、気を抜いたら寝てしまいそうな状態ではあったのだ。そういうものに違いない。うん。簓はそう結論づけて、ひっくり返った椅子を元に戻した。
「なんや疲れとるみたいや。仮眠するわ」
一郎はまだ不思議そうな顔をしていたが、努めて平静を装った。聞こえるはずのない笑い声が聞こえた、と言ったところで、結局は気のせいとか寝不足だろうとかと自分でも返すはずだ。
事務所には仮眠用のブランケットが数枚置いてある(マメな左馬刻様が時折天日干ししてくれている)。先日も大雨で事務所に缶詰めになってしまった際、新生MCD全員でそれぞれブランケットにくるまってここに泊まった。特に決まりなどないものの、なんとなくのお気に入りというものはやはり存在する。簓が良く使用するグレーのブランケットは畳んで積んである上から三番目になっていた。面倒だったので、簓はお目当てのブランケットを真ん中から引っぱった。
「む」
摩擦なのか重さなのか、ブランケットがなかなか抜けない。簓はこの悪癖で自宅のタオル類をよく崩壊させている。このまま無理に引っ張ったらやはり崩れそうだと思い、簓は上のブランケットを少し持ち上げて空間を作った。
「……は」
ブランケットとブランケットの隙間、ふんわりと暗闇に溶ける繊維の間から、誰かがこちらを見ていた。黄色く濁った白目と、どんより曇って眠そうな黒目。低い鼻はブランケットに沈み、こちらを少し上目遣いで見つめている。呆然とした簓は、その相貌がしっかりとこちらを見て瞬きをひとつするのを見た。
「ッッうああぁぁっギャアア!!」
簓は叫び声を上げて飛び退いた。背後にあった棚に背中をぶつけて書類が派手に滑り落ちた。簓は盛大に尻もちをつき、床を転がるようにして必死で這って後ずさった。左馬刻と一郎が慌てて駆け寄ってくる。
「どうした」
「な、なん、なん、だ、だ、だれ、だれか、いた……」
「はぁっ」
歯がガチガチ鳴ってろくに喋ることができない。さらには、足が震えて膝に力が入らず立ち上がることができない。腰が抜けるという状態はこういうことなのだと、簓は初めて体感した。
だって、そんな場所に誰かがいるわけがないのだ。ブランケットが積んであるのはただのスチールキャビネットで、壁に合わせて設置しているし棚だって四段組みだ。人間が入れるわけがない。けれど絶対に見間違いなんかではなかった。簓はしっかり目が合ったのだ。
「誰かって……こんなとこ人間には入れないっすよ。もしかして鏡とか」
「ああ。あとは盗撮でもされてたか」
言いながら、左馬刻と一郎はブランケットを一枚ずつバサバサと下ろしていく。すべて広げて確認したが、鏡もスマホも出てこなかった。もちろん、がらんと空いた棚のスペースのどこにも誰もいない。
「うーん……」
「簓お前、何轍目だ」
腰を抜かして震えている簓の目の前に屈んだ左馬刻は難しい顔をしている。「さんてつ……」と簓が涙声で答えると、やれやれといった感じで首を振った。
「そのせいじゃねえの。人間寝れねぇと幻覚見るらしいぞ」
「幻覚……」
確かに、幽霊と言われるよりも幻覚と言われた方がしっくりくる。マシニストという映画で主人公は幻覚と妄想でとんでもないことになっていた。そして少なくとも簓は霊に付き纏われる心当たりなどなく、簓よりもよっぽど恨みを買っているであろう奴が目の前に二人いてピンピンしているのだ。
「たしかに……」
「とりあえず帰って寝ろ、スケジュールはなんとかなる」
左馬刻もまたうっすらとクマの浮いた顔で簓の肩を叩いた。
***
簓は雨の中逃げるように帰宅した。
左馬刻の言うとおり、寝ればすべてが解決する。そう決めてかかって布団に潜り込んだが、なかなか寝付けなかった。昼間だからではない。――妙な物音がするのだ。
カシ、カシ、カリリ、カチン、コリ、カシ。
まるで爪の先で扉を開けようとしているような、狭い金属部に爪を引っ掛けては外れる、そういう音がするのだ。
さらに言うと、ベランダに続く掃き出し窓に何かの影が見える。その窓は下半分がモザイク模様の入った摺りガラスで上半分が普通の窓という少々年季の入ったもので、その右隅に小さな影が揺れているように見えるのだ。ガラスのモザイク模様と曇天のせいで判然としないが、俯いた頭部と曲げた膝のシルエットが見える気がする。だが人間にしては小さく、猫にしては大きい。
「幻覚や、幻覚や……」
もちろんそれはきっと、植木鉢か何かなのだろう。お隣の境目の隔て板が壊れたままになっているので不思議なことではない。気が動転しているからなんでもないものが変なものに思えてしまうのだ。そうに決まっている。
だがこの妙な音も相まって、嫌な妄想を脳みそが勝手に描き出してしまう。簓にはそれがどうしても……小さな子供が蹲ってサッシをこっそり開けようとしている様子に思えてならず、何度も何度も窓の施錠を確認した。
「なんでや、なんでや……なんで、俺が……」
簓は布団に潜って耳を塞いだ。
ヘッドホンから聞こえた声も、ブランケットの間から見えた顔も、サッシをカリコリ掻く音も、なにひとつ心当たりなどない。心霊スポットになど行っていないし、祠を壊したり地蔵を蹴とばしたりなんてしていない。こっくりさんもしていない。こんな目に遭う謂れなどないはずだった。
「簓ァ。おーい。簓」
「……え?」
空却の声がする。簓はびくりと肩を震わせた。
「簓。いんだろ。開けろ」
「…………」
サッと血の気が引いた。これは絶対に空却ではないと、簓の直感が告げていた。ホラー映画でありがちではないか。赤ん坊の泣き声や身近な人間の声を真似てドアを開けさせるアレである。悪霊は自らの手でドアを開けることができないらしいではないか。だから招かせる、中から開けさせる。
……ここで応えては終わりだ。簓は泣きそうになりながら布団に再度くるまって防御姿勢をとった。
「しゃーねぇな。じゃ勝手に入ンぞ」
「……は?」
――勝手に入る。って え?どうやって?
などと簓が混乱で成すすべもなく呆けているうち、空却は勝手にカギを開けて入ってきた。無遠慮にドカドカ上がりこんだ空却は布団にくるまってちまきのようになっている簓を発見し「やっぱいんじゃねえか」と顔を顰めた。対する簓はやはり呆けて空却を見上げる。
「……え?空却?本物?」
「あ?拙僧の偽物がいんのか?」
「ほ、本当に本物か?俺の誕生日言えるか?」
「11月11日」
「それ左馬刻ィ!もうええわ逆に本物や。てかなんで入ってこれたん……」
「ポストの蓋の裏側にスペアキーがあるって自分で言ってたじゃねえか」
「俺そんなん言うたんか」
「酔っぱらって潰れたときな」
ドッと安堵した。目の前の空却は簓のよく知る空却そのもので、足もあるし一人称もちゃんと「拙僧」だ(関東住みの幽霊がこのナゴヤ出身パンクロック僧侶小僧のディティールを極めることは困難であるという妙な安堵感があった)。勝手にカギを開けて入ってくることを叱る前に、とにかく安堵して脱力してしまった。
「まーた部屋のエアコン調子悪くてよ、温風しかでねぇ。死ぬっつの」
「ああ……そういうことか。ええけども……」
空却の住む古いアパートに設えられたエアコンはこれまた見るからに古いもので、リモコンがなかなか反応しないうえに冷房と暖房の切り替えすらイカれることがたびたびあった。こうして簓の家に避難と称し転がり込んでくることはこれまでにも何度かあり、そのたび簓はぶちぶち文句を言いながらも泊めてやったのだった。さすがに勝手に上がりこんできたのは初めてだが。
空却は勝手に冷蔵庫を物色して麦茶を取り出す。中に入れっぱなしのお茶パックを眺めて少々顔を顰めた。
「つかお前、寝てなすぎて幻覚見たんだって?寝てろよ」
「はぁ、聞いたんか……。わかっとるんやけど、なかなか寝れへんくて」
「ふーん」
興味があるんだかないんだか、心配しているんだかしていないんだか、特に窺い知れない声で空却は生返事を返す。麦茶のボトルのお茶パックを指先で摘まんで取り出し、シンクに放った。
「子守歌でも歌ってやろうか」
「いらん」
簓はちらりと掃き出し窓を目線だけで確認した。例の影はまだ変わらずそこにあるが、空却が騒がしいせいかあのカリコリ音は聞こえない。ついでに窓も変わらずしっかり施錠されていることを再度確認し、簓はようやく息を吐いた。
「じゃあ……寝る」
「おう」
これが寝不足によるものなのであれば、解決法は単純明快、寝ることである。例のカリコリ音のせいで気が気でなかったが、今は空却がいるからなのか――体の力が抜けて頭が重くなってきた。
空却は本当に家主にお構いなしに勝手にテレビを点けて一人で笑い、積んである雑誌をパラパラめくったり、無遠慮な足音をドスドス立てて歩き回ったりした。簓ははじめこそこれを鬱陶しく思ったが、その物音が不思議と心地よくなり、うとうとと睡眠と覚醒を行ったり来たりしているうち、気づけば寝入ってしまっていた。
***
スンと鼻を動かす。簓は嗅ぎ慣れないにおいで目を覚ました。
「……?」
むくりと体を起こした。部屋はピンクがかったグレーに染まり薄暗い。
「あ、起きたか」
「うん……」
まだ覚醒しきらない頭で、どうして空却がおるんやったっけ……とぼんやり考えた。答えに辿り着く前に、やはり不思議なにおいに感覚を引っ張られる。
「……線香?」
「ん?ああ、残っちまったか。悪ぃな」
「いや、ええけど……」
「ベランダで焚いたから大丈夫だと思ったんだけどな、テメェのタバコにすりゃよかったな」
「??」
簓は首を捻る。なぜベランダで線香を焚く必要があったのか、それはタバコで代替可能なことなのか、いろいろと疑問はあったが、まだ眠気でとろみのついた意識は深く考えることができない。当の空却も「腹減ってきたなー」などとなんでもないふうなので、まぁええか……と考えるのをやめた。
ふあ、と大あくびが出て、ぐーっと腕と肩を伸ばす。不思議なほど体が軽い。作業を始める前よりもスッキリしている気がした。
「よく寝たかよ」
「めっちゃ寝た……」
空却がやってきたのがお昼前だったので、正味7時間ほど寝たことになるだろうか。簓はもともとショートスリーパーの気があったため、普段以上に寝たことになる。
「これで幻覚とはおさらばだな」
「あ」
空却がイタズラっぽく笑うので、簓はそこでようやく思い出した。今日自分の身に起こった数々の奇妙な体験を。ハッと掃き出し窓を見ると、そこにはもうなんの影もなかった。耳を澄ませてみても変な物音は聞こえない。代わりにカラスの鳴き声がアーと聞こえて、一人で耳をそばだてているのを笑われている気がした。
簓は今日一日の出来事が急にバカバカしくなった。ノイズに混じった笑い声など音の高低の調子でそう聞こえただけだろうし、ブランケットの隙間なんて暗闇に慣れていない目が残像を見ただけだろう。窓のシルエットは飛んできたゴミ袋かもしれないし、カリコリ音だって雨音だったのかもしれない。振り返ってみれば、どれも笑えるほどしょうもない現象だったのではないかと思えてきた。
「ああ……なんや頭がスッキリしたら、全部アホらしなってきたわ……」
「そいつは良かったな。そういや左馬刻が起きたら電話しろって言ってたぞ」
「ええ~……」
問題が解決したら即作業開始。スケジュールを考えれば当然だが、しっかり休んだせいで恐ろしく億劫だった。しぶしぶ起き上がって身支度を整える簓の背中を見やって、空却は後ろ手で数珠をもとのカラビナにそっと付け直した。
時刻はもう夕飯時である。事務所に戻りがてらラーメンでも食べるかと言うと、空却は満面の笑みで「行く」と即答した。呆れ半分ながら、空却が来たおかげで気が紛れて寝ることができたのは事実であるので、簓は奢ってやることにした。まぁこのちゃっかり者のせいで毎回奢るはめになっているのだが……。
「はぁ、なんであんなビビっとったんやろ。時間無駄にしてもうたわ」
周囲がとっぷりと夜に沈もうとしている中、家のカギを指先に引っ掛けてちゃりちゃり言わせて歩きながら簓はウンザリと呟いた。辺りは夕飯を作る匂いが漂っている。そこかしこの物陰はもうまったく怖くなかった。
「ま、しゃーねぇわな。寝不足だったんだろ」
空却は簓の左肩をサッと払ってやりながら、軽快に笑った。
完