さよならだけならいくらでも 2「あー、また痕付けてるし」
シャワーを浴び終えて鏡を覗けば、首元の商品コードのあたりが薄ら赤くなっている。
ここ最近、彼は行為の度に自分の体に痕を残す。
それからセックスの始めと終わりに必ずと言っていい程首にある商品コードに口付けをする。
首の商品コードは奴隷として売られるときに付けられる消えない刻印だ。
彼から何か問われたことはないが彼程の教養を持つ人間がそれを知らないなんてことはないだろう。たとえそういった文化のない星でしか暮らしたことがなかったとしても。
「見えるところには付けるなって何回言ったら……」
じ、と鏡の中の自分を凝視する。
くる、と鏡に背を向けて振り返れば、赤い花弁のような痕は胸や腹、背中にも付けられていて、それらは遠目でもわかりそうなくらいにくっきりと自分の白い肌に落とされている。
それと比べたら首のそれは一応気を遣った……ということなのだろうが。
「いや、そもそも付けるなって言ってるんだけどなぁ」
だって、そんな愛の真似事みたいなこと、僕相手にする理由が彼にはないのだから。
そもそもこれまではこんなことなかったはずだ。
いつから? とまだ少しだけ寝惚けて働かない頭で思い出そうとする。
教授と体の関係を持つようになったのは戦略的パートナーとして組むようになって少ししてからだったように思う。
あの澄ました仏頂面をただ崩してみたかった、あれが誰かを抱くときどんな顔をするのか知ってみたかった、それからそうするのが一番手っ取り早く彼の内側に入り込めそうな気がしたから。
そんな、少しの好奇心と打算。
任務に関する事務的なやりとりだけだったのが次第に前後に食事を共にするようになり、その度に体を重ねるようになってからは教授の家に出入りすることも増えた。
ああ、でもこんな風に星間を行き来するような任務のあとでそのままカンパニーや自宅ではなく彼の家に立ち寄るようになったのはピノコニーから戻ってから、だ。
ピノコニーでの僕のやり方が相当気に入らなかったのか、あれから度々僕ひとりで行う任務にも彼は口を出してくるようになった。それ以前にも任務の方針や進め方で相談をすることはあったけれど、あくまで僕から持ち掛けたときだけだったのに。そしてそれが他の星での任務となったらその内容に関係なく終わったら報告を入れろだの、こちらに戻って来たら連絡をしろだの。
顔を見せるのが報告もできて土産も渡せて一番手っ取り早いだろうと一度そうしてしまったら、いつの間にかそれがサイクルのひとつのようになってしまったのだ。
そして教授がこんな風に僕の体に痕を付けるようになったのもたぶんそのあたりからで。
確かにピノコニーの一件では散々世話になったとは思うけれど、それにしたっていつもの僕のやり方の延長線上でしかなくて、そんなのはこれまでも幾度となく目にしてきていたというのに今になって何がそんな気に掛かるというのだろう。
今更になって情でも芽生えたのかなと思ったけれど自分が彼に選ばれるような人間ではないことは明白で、彼のように倫理的且つ合理的に物事を進められるような人間ではなく、けれど恐らくは上から命じられただけであるこの業務提携を打ち切らない程度に評価は悪くなく、特別な好意がなくともこんな風に同じ朝を何度も迎えるくらいには好かれている。そう思っていたけれど、実際彼が自分のことをどう思っているのかは知らない。
体の関係があったとしても僕達は恋人同士ではないし、まして友人ですらない。戦略的パートナーという肩書きの下に成り立つだけの間柄でしかなく、少なくとも僕は彼にそれ以上も以下も求めてはいない。
そもそも金や力や利害の一致の上に成り立つもの以外の人間関係が僕にはよくわからないのだ。
だから、まぁ、彼が僕をどう思っているかなんて知ったところで何も変わらないし、変わらないのであれば聞く意味もないので知らないままなのだけれど。
リビングに戻ればシャワーを済ませている間に起きてきたらしい教授と珈琲の匂いが僕を迎える。
「君も飲むか?」とキッチンから顔を覗かせた彼の手には既にマグカップがふたつ用意されていて思わず笑ってしまいそうになる。
勿論、断ることなんてしないのだが。
「うん、いただこうかな」
「何笑っている」
「笑ってないよ」
彼が僕のことをどう思っているのかを知らなくても、こうして行為のあとにそのまま同じ朝を迎えたら、僕がシャワーを浴びている間に起きて僕の分の珈琲も一緒に淹れてくれること、そうして出される珈琲はミルクが入って甘い、僕の口に合うものであることは知っている。
それくらいには繰り返されていて、毎度答えは同じで、既に二杯分用意しているのに、それでも毎度律儀にこのやり取りをする教授のことが僕は嫌いじゃない。
「今日このあとは?」
「カンパニーに顔出すけど今日はすぐに帰るよ。創造物達の様子も気になるし」
ソファに腰掛けて珈琲を待つ。キッチンに立つ教授の後ろ姿を眺めながら。
寝起きで少し乱れたままの髪で、寝巻き姿の背中ですらなんとなく絵になるのだからずるいよなぁ、なんてことをぼんやりと考えているうちに目の前のテーブルにマグカップがふたつ、いかにも苦そうな色をしたブラックとミルクでやさしい色になった珈琲が並んで、それから彼が隣に腰掛ける。
「なら一緒に乗って行くといい。時間はまだ大丈夫だろう?」
「ああ、うん。教授今日は講義じゃないんだ」
「ああ、関わっている開発プロジェクトの方で問題が発生したと先程連絡が入っていた」
「ふーん」
こんな風に任務帰りにふらりと立ち寄るのが当たり前のようになっているけれど、本来講義に研究に論文に忙しい身なのだ、このひとは。
「なんだ?」
じ、とその横顔を見つめていた僕の視線に気付いた教授が訝しげな目を向ける。
「んー、いや、教授って忙しいのに僕と会うんだなぁと思って」
「? パートナーなのだから当たり前だろう。それに忙しさで言えば君だって同じはずだ」
「そうかもしれないけど」
そうは言ってもさすがにこれは業務でも何でもない。
けれど、何だ、それならば何と言って欲しかったのだろうか、僕は。どんな答えだったなら納得して満足できたのだろう。
だって僕と彼は恋人でも友人でもない。
「…………」
彼に対して思ったことはそっくりそのまま自分への疑問に変わって胸の奥に濁ったわだかまりを作る。
それを流すように口に運んだ珈琲はいつもと同じ味のはずなのにいつもよりどこか苦いような気がした。