レイチュリ / 特別であるということ「んーーーー……」
アベンチュリンは本日何度目かになる携帯端末のアラームを被った毛布の中から手をのばして止める。アラームは余裕を持って設定してあるから時間はまだある、けれど。
跳躍航路を使うことのできない辺境の星での長期任務からピアポイントへ戻ったのが昨日の夜遅く。帰宅したのは明け方で、シャワーを浴びてベッドに潜り込んで数時間。今に至る。
今日を含め二日間程休暇を与えられており、いつもならばベッドから出たりなんてしない。ましてアラームをかけて眠るなんて。
いつもと違ったのは、今日は昼過ぎからレイシオと会う約束があること。
それも、彼の恋人になって初めてのふたりで会う休日だ。
どこへ出掛けよう、とか、何を食べよう、とか、何を話そう、とか。
水族館。美術館。博物館。映画館。会期中の企画展が気になるだとか、シェアして読んだ小説を原作にした映画が上映されているらしいとか、新しくできた仙舟料理の店の火鍋が評判だとか。
会えない長い時間の隙間を縫うように交わした会話やメッセージで彼も自分と同じようにこの日を楽しみにしてくれていること。何よりあの仏頂面が浮かれたような機嫌の好い声で、それが端末越しだとより一層顕著で、自分とのことで彼がそんな風になっているのが嬉しかった。
だから長い任務も今日という日を楽しみに乗り切れたといっても過言ではなかった、のに。
体がひどく重い。それはもうここから少しも動きたくないくらいに。
次に端末に手をのばしたとき、それはアラームとは異なる音を発していた。
電話だった。レイシオからの。
あれ、でも約束の時間まではまだあるはずだけれど……。
訝しく思いながら通話ボタンを押す。
「もしもし、レイシオ?」
おはよう、と言えば、おはよう、と返ってくる。端末越しの声はどこか焦っているようにも聞こえて一瞬嫌な予感が頭を過る。
「早くにすまない。まだ眠っていただろうか」
「いや、そろそろ起きようと思ってたところだから大丈夫。何かあった?」
「ああ、今朝早くに研究室から緊急の呼び出しがあって出向いていたんだが…………」
暫しの沈黙に疑問符が浮かび始めた頃、
「君、もしかして具合が悪いんじゃないのか」
続いたのは今の自分の状態を見ているかのような指摘。
「え、と……」
予想外の問い掛けに思わず言い淀んでしまったけれど彼に隠し事など無理であることは経験上わかっている。無理を押して会いに行ったところで良い顔をしないことも。
「だ、大丈夫! 本調子ではないけど……」
けれどそれ以上にずっと楽しみにしていた今日の約束がなくなることの方が嫌だった。ただでさえ互いに忙しい身で休みを合わせられることなんてそうそうないのに。今日を逃したら次はいつになるかなんてわからない。
「…………レイシオ?」
恐らく正解ではない回答をした自覚はあったので再びの沈黙に少しだけ不安な気持ちになる。
「……ええと、そのまま眠っていてもらってもいいか?」
どこか迷いの滲んだような声でそんなことを言われて思わず「えっ」と大きな声が洩れる。
「あ、もしかして何かトラブルが……」
「いや、それについては先程片付いた。だが約束の時間に少し遅れそうだったから電話をしたんだが」
「そうだったんだね! なら大丈夫。時間は君の方に合わせるから、」
だから今日はなしにしようと言わないでほしかった。
「いや、このまま君の家に向かう。だからそのまま楽にしていてくれないか」
「へ?」
「…………すまない」
「え、と、何が?」
「君のことだ、たいしてちゃんと休めてもいないのだろう? 本来なら今日ではなく明日にするべきだと頭ではわかっていたのだが」
少しでも早く会いたくて、
そう心許なさそうに口にした声に胸の奥の方がぎゅっとなって堪らない気持ちになる。
「うん、」
「だから今日は君の家でゆっくりさせてくれないか。生憎僕も早くから呼び出されて少し疲れている」
はぁ、と大袈裟に溜め息を吐いてみせたそれは彼のやさしさでしかないのだろう。
うん、と頷いたあとで何か話したような気がしたけれど、会えるのだと安心したからだろうか。僕の意識は彼の声を聞きながらとろりと溶けていって、
「ん、」
次に瞼を開いたときにはレイシオの腕の中。
合鍵を使って中に入ったのだろう。いつもより少しラフな格好の彼が自分の隣に横たわって静かな寝息をたてていた。
疲れているというのも案外半分くらいは本当だったのかもしれない。今携わっている研究プロジェクトも佳境を迎えていると僕がこちらに戻る少し前に話していた気がする。
すり、とその胸元に身を寄せる。ずっと会いたかった体温と腕の重みはひどく自分を安堵させた。
いつもと同じ自分の部屋のベッドの上でしかないのに、それだけで全く違うどこか特別な場所のようで。
「おはよう」
頭上からした穏やかな声に顔をあげれば声音と同じ表情のまなざしがそこにある。
「ん、おはよう。ごめんね、起こしちゃった」
「いや、かまわない。いつの間にか一緒になって眠ってしまっていた」
彼の指先が顔に掛かった前髪を流して、そのまま髪を撫でる。自分のことを愛おしいのだと静かに、けれどうるさいくらいに伝えてくる触れ方は未だに少し慣れなくて、くすぐったくて逃げ出してしまいたいような気持ちになる。
「慣れない場所での長い任務を終えて緊張が解けたのだろう。だが、少しは回復したようだな」
「ああ、おかげさまで」
彼が寄り添ってくれていたからだろうか。久しぶりにちゃんと眠ることができたような気がする。纏わり付くような体の重さもすっかりどこかに消えてしまっていた。
「でもよくわかったね、僕の調子があんまり良くなかったこと」
「君の戦略的パートナーになってどれだけ経つと思っているんだ。それくらい声を聞けばわかる」
「はは、そんなの君くらいだよ」
「ふん」
「んー、でもどうしようか。今からじゃ君が見たがっていた企画展には間に合わなそうだし……カフェにでも行くかい? それか映画とか」
時計に目を遣る。昼時はとっくに過ぎていたけれど日が暮れるまではまだいくらかある。
「僕としては今日はもうこのままこうしてゆっくり過ごすだけでかまわないと思っていたのだが」
じ、と赤を帯びた深い橙が僕を見る。
「……君がそれでいいなら」
「それがいい」
ぎゅ、と抱きしめ直される。まるで自分の存在を確かめるように。
「ごめんね、せっかく色々出掛ける場所とか決めてたのに」
「久々に会うというのに謝ってばかりだな、君は」
「だって今日は君の恋人になって初めてのデートじゃないか」
「なら尚更、いいだろう。これで」
「…………?」
意味がわからない、と僕が思ったのなんて顔を見なくたってわかってしまうのだろう。彼が笑ったのが顔を見なくてもわかる。
「一緒に出掛けたり同じものを見たり、そういう時間も勿論大事だが、何もなくたって特別な時間になるのが特別であるということだ」
現に僕は君とこうしているだけで十分満たされているが、なんて、
そんなことをあまりにもやさしい声で言うものだから、「僕も」と言いたかったのに、どんな風にそれを口にしたらいいのかわからなくなってしまう。
「ああでも夜には一度僕の家に帰ろう。君のことをあまり独り占めしたらまたケーキたちにへそを曲げられてしまうからな」
そう笑う声を聞きながら僕はちいさく「うん」と頷く。
他の誰でもなく自分にとって特別なただひとりが、自分と同じだけの感情を分け合ってくれる、その奇跡のようなやわらかさを噛み締めながら。