さよならだけならいくらでも 3 朝が来る度にまた生き延びてしまったと思う。
ずっと夜ならいいのに。
ああでも夜もすきじゃないんだった。
眠れない夜と夢見の悪い夜は特に。
けれどここで過ごす夜は眠りが浅いことも夢見が悪いこともない。
だからだろうか。
ここで迎える朝は嫌いじゃない。
少なくとも、生き延びてしまったなんて思ったりしない程度には。
ソファにぼんやり座っているとそのまままたうとうとと意識が溶け出していってしまいそうになる。
それをなんとか堪えようとアベンチュリンは天井を仰ぐ。
もうすっかり自分の家のように……とまではいかなくともここにいることにそれなりに馴染んできているのは否めない。
テーブルの上には飲みかけの珈琲が入ったマグカップがひとつ残されている。熱いものはどうにも得意になれないままだ。
自分の分の珈琲を飲み終えて、教授はさっさとシャワーを浴びにいってしまった。
良く言えばシンプルで洗練された、悪く言えばあまり生活感のない部屋で、特に何をするでもなく睡眠の延長のように静かに呼吸を繰り返す。
この家はいつ来ても無駄なものがひとつもなくて整理整頓されている。まるでここの家主そのものみたいに。
講義や研究に常に忙しいはずなのに、一体どこにこれを保つだけの時間や余裕があるのだろうと不思議で堪らないのだけど、彼曰く、散らかった場所では思考も整理されないのだとか何とか。
その隙のなさに落ち着かなさを感じていたのはいつまでだったっけ。
「あ、」
ふと目に付いたのは棚の一角に増えていた写真立て。
そこに収められていたのは少し前に仕事で訪れたとある辺境の星で撮った空の写真。撮ったのは僕だ。
空を染め上げる、燃えるような橙の夕陽とそれをゆっくり飲み込んでいく夜の濃紺。
ただ単に綺麗だと思ったから。それでいて教授の瞳とか髪の色と似ていて。気付けば端末をかざしてシャッターを切っていた。
けれどまさかそれをわざわざプリントして飾るとは思わなかった。
そこでこの部屋の棚に少しずつ物が増えていたことに気付く。
珍しい花の標本。虹色の羽ペン。辺境のとある星でしか採れない鉱石。夜になると発光する砂の入った砂時計。
みんな自分が他の星へ仕事で行ったときに土産で買ってきたものだ。
「…………」
何を渡しても「ふん」としか言わないくせにちゃんと並べておいてくれるんだ。この、彼にとって無駄なものがない空間に。
そのことにどうしてか胸の奥がじんわりとしたのを感じる。
「待たせたな」
「ん、わ!?」
「!?」
びくりと跳ねた僕に教授の方が驚いた顔をする。
「す、すまない……? 驚かせるつもりはなかったんだが」
「いや、ごめん、ちょっとぼーっとしてたから」
リビングに戻って来た教授はもうすっかりいつもの外行きの顔で。
「ん、すぐ仕度終えるからちょっと待って」
急いで珈琲の残りを口の中に流し込む。もうすっかり冷めていたけれどやさしい甘さだけは変わらないそれ。
「別に急がなくても大丈夫だが」
「うん」
ピアスを着けて腕時計とブレスレット、手袋、指輪、それから最後にサングラス。それでいつもの僕の出来上がり。
傍らでその一連を眺めていた教授と並んで部屋を出る。
「やっぱり昨日はすぐに寝かせるべきだったな」
「なんで?」
窓の向こうをもう見慣れたものになりつつある景色が流れて行く。それを眺めながら助手席にゆったりと座っていればカンパニーに到着するのだからありがたい話だ。
「君がぼんやりしているのは珍しいと思って。疲れが取れていないんじゃないのか」
「ああ、それは大丈夫。むしろ教授んちの方がよく眠れるくらいだし」
「ならいいが……」
「なんでだろう。やっぱりいいベッドだからかな」
言っている傍からふぁ、とあくびが洩れる。
車内ではクラシックだろうか……ゆったりとした音楽が耳に心地好い音量で流れていて、静かで荒さのない教授の運転も相俟って心地が好くて目を閉じたら再び眠りの中に舞い戻れてしまいそうだ。
「寝ててもいいぞ。着いたら起こす」
「んー、ありがと。でも大丈夫」
教授って以前からこうだったっけ。
前はなんかこう、もっと刺々しいというか、口が悪かったような気もするけど。
まぁでもそれを言うなら僕も同じか。
戦略的パートナーを組んだばかりの頃だったら煩いのがいなくてよかったとは思ってもお土産を買っていこうなんて思いもしなかっただろうし。付き合いの一環としてたまに菓子折を買っていくことくらいはあっても。
「教授って案外優しいよね」
「何の話だ」
「んー、僕があげたお土産ちゃんと取っておいてくれてたんだなぁと思って」
「? 君がせっかく買ってきてくれたものを捨てるわけがないだろう」
一瞬、解せない、というように僅かに横顔の眉間に皺が寄る。
「でも君、いつもそんなに嬉しそうじゃないから」
「そんなつもりはなかったのだが……」
「だから残らないものの方がいいのかなと思って最近は食べ物にしてたんだけど」
ちなみに今回は深い紫色のワイン。ほんのり甘い、優雅な花の香りがする。
「そうだったのか。気を遣わせてすまない」
「迷惑だったんじゃないならいいよ」
教授はいつから僕があげたものを部屋に飾るようになっていたのだろう。度々行き来しているはずなのに今日までずっと気付きもしなかった。
だってあの部屋に置かれるのは彼にとって無駄ではない、選ばれたものであるはずで。だからそもそも自分があげたものがその中のひとつみたいな顔をして並んでいるなんて思いもしなかったのだ。
「君の選ぶものは興味深いものが多いし、ちゃんと毎回楽しみにしているんだ」
「それならよかった」
「何より君がちゃんと僕のことを考えて選んでくれたことがわかる」
「うん、まぁ君は僕よりずっと色んなものを見聞きしているだろうから目新しいものはあんまりないだろうけどそれなりにちゃんと選んでるよ」
僕の言葉に隣の横顔はやわらかく笑う。
「そうやって君が僕のいないあいだに僕のことを思い出す瞬間があるのが嬉しいんだ」
「あはは、何ソレ。教授いつもそんなこと思ってたんだ」
「ただ君が任務を終えて戻って来ると今回はどんな無理や無茶をしたのだろうとそればかりが気になって……」
「君、いつもお土産より先に報告書を開くもんね」
あー、とそこで合点がいく。
僕は教授が土産の包みを開くのを見たことがないのだ。
「すまない、悪気はないんだ」
「別にいいよ。戦略的パートナーとしてはそれが正解だろうし」
「戦略的パートナーとしてというよりはただ君が心配で……」
「え?」
車は赤信号で停止する。
何かを言い掛けた教授は口元に手を当てるとそのまま黙り込んでしまう。まるで幾重にも絡んだ思考の中から答えを探し出そうとしているように。
「いや、違うな」
ぽとん、とひとつ、どこからともなく林檎が落ちて来る。
「心配であることに違いないが……僕がただ不安なだけなんだ。だから君に対してできることを見つけたいだけで……」
信号が青に変わって車が再び前へと進み出す。次の角を曲がればもうカンパニーの駐車場に到着だ。
「結局僕は怖いだけなんだ。ピノコニーで君を失うかもしれないと思ったときそれに気が付いた。我ながら愚かだと思う」
きっちりと規定の位置に車を停めたあとで彼は再び口を開く。書き終えたばかりの報告書を読みあげるように淡々と。
「え、えー……? 何それ、さっきからなんか僕のこと好きみたいな……」
「ああ、そうだ」
「え、」
それは冗談などではないのはさすがの僕にもわかる。
「僕は君のことが好きだ」
どこにも逃げようのない狭い空間で、まっすぐな目を向けられながら、そんなことを言われて、
「え、と、そりゃあ教授のことは僕もすき、だけど……」
静かな朝、車内で流れる音楽がいやに遠くに聴こえた気が、した。