レイチュリ / 夢でならきみにすきだと言える 1 ただ君のいない今日と明日と明後日と、それからずっとをどう迎えたらいいのかわからなかった。
理由を挙げるとしたら、ただそれだけの、
初めて降り立ったときはふたりだったその場所にひとりで向かうことにももうすっかり慣れた。
シャトルを降りて夢境ホテルのロビーでチェックインを済ませる。といってももうずっと同じ部屋を借りたままなので留守の間預けていた鍵を受け取るだけだ。そうして帰り慣れた自宅へ向かうかのような足取りで部屋までの廊下を歩いていく。
平日は一応ちゃんと帰宅しているとはいえ今週もまた研究室からそのままこちらへ来てしまったのでそろそろケーキ達が寂しがっているかもしれない。こうも頻繁にこの地を訪れるのならもういっそケーキ達を連れて拠点をこちらに移すべきなのかもしれない、ともう何度も思ったことが頭の片隅を過って、けれどきっと自分はそうしないであろうことも心のどこかでわかっていて、だから思うだけだ、今日もまた。
慣れた足取りで辿り着いた部屋の扉の鍵を開けて、ベリタス・レイシオはそこへ足を踏み入れる。
ゆったりとしたソファ。ぱちぱちと音をさせながら揺れる暖炉を模した恒温装置の炎。サイドテーブルの上には前回来たときに忘れて行ってしまった読みかけの本が置かれたままになっている。
程良い温度と明るさで整えられたその部屋は夢の入り口に相応しい心地好さで、そんな空間の片隅で彼は眠り続けている。
水槽のような長方形の立方体の中、その肉体を保持する為だけにつくられた液体の中でゆらゆらとたゆたうように彼のうつくしいきんいろの髪が揺れている。
彼はかつてアベンチュリンと呼ばれた男で、スターピースカンパニーの高級幹部で、ツガンニヤのエヴィキン人の唯一の生き残りで、そして僕の恋人だ。
けれどもうその瞼の内側のうつくしい極彩色の瞳が僕を見ることも、彼が僕の名前を呼ぶこともない。
幸運の女神の祝福を受けていたという彼は、だからだろうか。これまでずっと一度として負けることができなかったのが嘘のように、ある日突然彼女に連れて行かれてしまったのだ。
何が最後に勝つのは僕だから、だ。
「…………」
硝子越し、眠るその顔は自分の隣に在った間のどの瞬間よりも穏やかで、であればきっとある意味で彼は勝ったと言えるのだろう。口にしたことはなかったけれど、彼が心のどこかで負けてしまいたいと願っていたのは出会った頃から感じていたことで、それが彼の望みであったなら、それで。
そう思うのに、それと同じくらい彼を失ってしまうことに耐えられなかった僕の、これはただのエゴだ。
もう少し、あと少しだけ。
穏やかな寝顔に何度同じ言い訳をしただろう。
そしてあと何度同じ言い訳を並べたら僕は彼の手を離す準備が整うのだろう。
ドリームプールに体を横たえて瞼を閉じる。呼吸を数回繰り返した頃にとろりと意識が揺らいで、深い海の底に落下していくような感覚。
「やぁ、おかえり教授」
夢の泡に包まれて落ちた先では聞き慣れた、それでいて触れたくて堪らなかった声が僕を迎える。
「今日はこっちに来るかなと思って迎えに来たんだ。行き違いにならなくてよかったよ」
ひかりの粒子が浮遊する夢の向こう側、閉じていた瞼を開いた視界の中に彼は確かに存在していた。
きんいろのやわらかな髪。ピンクや水色を閉じ込めた極彩色の瞳は緩やかに弧を描き、その声が「教授」と僕を呼ぶ。
「おつかれさま。お茶でも淹れる? それともバーにでも寄って行くかい?」
まるでずっと続いた日々の延長線上にいるかのように僕に問い掛けたそのひとに手をのばして抱き寄せる。
抱きしめた腕の中に在る体も体温も記憶の中と寸分も変わらないのに、確かに触れているのに、もう何処にもいないのだ、彼は。
僕が今抱きしめているのは彼のかたちをした夢、だ。
僕が望んだから此処にあって、此処から何処にも行けない、そういうモノ。
「教授?」
「アベンチュリン」
その名前を口にする。
隣にいた頃はどうにもこそばゆくてうまく呼ぶことができなかった彼の名前。
「会いたかった」
腕の中の彼はきっときょとんとした顔をしているのだろう。見えないけれどわかる。ずっと見ていたから。そしてきょとんとしたあとで笑うのだ。
「あはは、どうしたのさ、教授。珍しく素直だ」
「疲れてる?」ぽんぽんと背に回された手が肩甲骨のあたりを宥めるように撫でる。
どうして声を聞くだけでこんな胸の奥が苦しくなるのだろう。
苦しくてせつなくて、けれど、やさしくじんわりと僕の肺の中を満たして溶かして解していく。
「寄り道はしないで帰ろうか」
懐からサングラスを取り出して慣れた手つきでそれを掛けたあとで、僕の手のひらに彼の指先が絡んでやさしく手を引く。
無言の肯定で、引かれるままに彼に付いて歩き出す。
いつから僕はこの手を離せなくなってしまったのだろう。
「君の持つ知識と頭脳と富と名声はこんなことの為に使われるべきじゃないと思うんだけど」
夢境で再会した僕の顔を見た彼の第一声がそれ。
死んだあとにこの場所で僕と会う、そのことが何を意味するのか、僕が彼に対して何をしたのか、恐らく彼は全てを察したのだろう。学はないが頭の回転は異様に速い男なのだ。そして僕への理解もある。さすがは長年戦略的パートナーとして共に戦い、いくらかの年月を恋人として過ごしてきただけのことはある。満点だ。
けれどまさか自分に対して僕がここまでするとも思っていなかったのだろう。
「僕の持つものは全て僕のものだ。それを僕がどう使おうと僕の勝手だ」
思わず僕はむ、と口を尖らせる。こんな言い合いをする為にここまで来た訳ではないのに。
「それはそうなんだけどさぁ」
「けれど君は僕の所有物ではない」
彼の言葉を遮って先回りのようにそれを言う僕はずるいのだろう。
「にも関わらず勝手に巻き込んだ。そのことについては謝罪する。そして君が望むならすぐにでも終わりにすると約束しよう」
解っている、解っているさ。自分がしようとしていることの愚かさなどもうとっくに。
君が心のどこかで負けてしまいたいと思っていたことも、そうして君がようやく手に入れたはずの安寧を僕がこうして取り上げてしまうことの身勝手さも横暴さも。
解っている。解って、いる。
黙り込んだ僕を君は口をへの字に曲げて数秒間見つめたあとではぁ、とちいさく息を吐く。
「別に責めてるわけじゃないよ」
ゆっくりと僕の前まで歩いて来た彼は僕の顔を覗き込む。くだらない喧嘩をしたあとでうまく謝れもしない僕に歩み寄ってくれるのはいつも君の方で、そのときにいつもそうしていたように。
「死ぬ間際、最後に君の顔を見れないことだけが心残りだった」
だから、ありがとうね、と彼は笑って、そして項垂れたままの僕の髪をそっと撫でる。
「こうしてもう一度君に会える時間をくれて」
「すまない、」
「だから謝らないでよ」
猶予という名の君のやさしさに僕は甘え続けている。
きらきらと煌びやかな、夢の都市の象徴であるかのような黄金の刻ではなく、その裏側の、忘れられた誰かの過去のようなドリームリーフの路地裏に僕たちの家は秘密の隠れ家のように存在していた。
路地裏に建ち並ぶよく似たビルのひとつの、地下へと続く階段を降りて扉を開けばそこにはピアポイントにある暮らし慣れた僕たちの部屋とよく似た空間が広がっている。
まさか誰もドリームリーフの路地裏の一角にベリタス・レイシオが所有する部屋があり、そこにアベンチュリンが暮らしているなどと思いもしないだろう。
そもそもアベンチュリンがこのような形でこの世界に存在していることも自分を除いてはファミリーの一部とごく限られた信頼できる人間しか知らないことだ。
ここはもう、彼が存在するはずのない世界になったのだ、しばらく前に。
ただいま、と誰に言うでもなく口にして、掛けていたサングラスを外した彼の繋いでいた手を引けば、それが合図であるかのようにその腕がのばされて首に絡められる。
啄むように二度、三度キスをする。そのあとで舌と舌を絡ませて。
会っていなかった時間を埋めるように、求めたそのひとがここにいることを確かめるように抱きしめ合う。
すこしの間そうしたあとで体を離したアベンチュリンが「お腹は空いてないかい?」と首を傾けて口にする。
そう問われて部屋の中を漂っていた食欲をそそる匂いに気付いて、気付いた途端ぐぅ、と腹が鳴る。
「あはは、今日も研究室からそのまま来た?」
僕のことなんてまるで全てお見通し、と言いたげに笑った彼に「ああ」と頷く。
「そうだろうと思って夕飯の支度をしておいたんだ。温め直すから先に食べない?」
「ああ、そうしよう」
そういえば朝から何も口にしていないな、と思い出す。
元々研究に没頭すると食事を疎かにしがちではあったが、彼を失ってからその傾向はさらに強くなった。
彼を繋ぎ止める為に費やす時間はいくらあっても足りない。間に合わないようなことがあってはならない、失敗をするようなことがあってはならない。
けれどきっとそんなことも彼はお見通しなのだろう。
「シチューか?」
鍋の前に立つ彼の肩越しにその中を覗き込む。
「うん、ピアポイントはそろそろ少し冷えてくる頃だろうと思って」
「君がこんな料理をするようになるとは思わなかったな。いつも栄養ドリンクとよくわからない栄養補助食品ばかりだった気がするが」
「退屈なんだよ、君が来ないと。仕事がないと何をしていたらいいかわからないんだよ」
無闇に外を歩き回るわけにもいかないし。料理と、君が好きだって言ってた本を読んで、あとは映画を観たり? それくらいしかすることがないからねぇ、と困ったようにぼやく。
「おかげですっかり料理の腕があがったよ。生きてるときより死んでからの方がちゃんと人間的な生活をしてるなんておかしくないかい?」
「余生としては正解なんじゃないのか」
「あはは、余生ねぇ」
こちらで再会してからの彼はもう戦う必要がなくなったからか、何かから解き放たれたかのようにどこか穏やかな顔をしていることが多くなった。
そもそもずっと自分をチップにするような戦いに身を投じるばかりの人生を送ることの方がそうそうないのだが、それしか知らない人間に言ったところで仕方のない話だ。結局世界というのは自身の見える範囲にしか存在しないのだから。
「こんなのんびりした生活を死んでからすることになるとは思わなかったなぁ。どうせなら君やケーキ達といたときにそうできたらよかったのに」
「…………」
そうなるはずだった。そうしたかった。いつかは、と描いていた未来は結局心の中で描くだけで、そのときが来るより先に終わりが来てしまった。
ぎゅ、と後ろから彼を抱きしめて、その首元に顔を埋める。
「教授? どうしたの? ってああ、僕が余計なこと言ったのか」
君は何も悪くないだろう、と彼は言う。
僕が勝手に死んだだけでさ、と。
「君だって何も悪くない」
「うん、そうだね。誰も悪くない」
僕は君がひたむきに生きていることを知っていた。震える左手を隠して、それでも懸命に戦っていることを知っていた。
それでもいつか全てのことに終わりはやって来る。
僕にも君にも世界にも。
行きたい場所に辿り着くのに人生はあまりに短く、時間が足りなすぎた。ただ、それだけのこと。
「そういえばケーキ達は元気にしてる? 毎週末君が帰って来ないんじゃ寂しがってるんじゃないのかい?」
「みんな元気にしている。彼らも君にとても会いたがっていた」
「ケーキ達もこっちに来られたら良かったのにね。無理かなぁ、やっぱり」
「どうだろうな。さすがにルアン・メェイの創造物をドリームプールに入れるなんて実験はできていないからな」
創造物も夢を見るのだろうか。
「彼らがいてくれたらここも少しは賑やかになるんだけどね」
ああ、そういえば先週君が帰ったあとにメモキーパーの彼女が遊びに来たよ。彼女にとって今の僕は面白い記憶のひとつなんだろうね。ときどき来ては少しだけお喋りをしていくんだ。
それから数日前は星核くんが訪ねて来たよ。次の星に出発したらしばらく来られなくなるからって。数少ない貴重な話し相手だったのに残念だなぁ。
僕がいないあいだの出来事を彼が話すのを、彼の首元に顔を埋めながら聞いていた。ときどき相槌なんかを打ちながら。
そうして思うのだ。
僕は夢という檻の中で彼を飼い殺しているに過ぎないのではないのか、と。
夢の端、夜の片隅、ベッドの上。
僅かな灯りの中で愛を食む。
「あ、……しお、れいしお、」
鼓膜をなぞっていく舌足らずな声。
髪。額。瞼。頬。唇。首、の商品コード。鎖骨。肩。胸。腹。それから、その内側のやわらかな熱。それらひとつひとつ順番に、そのかたちを、温度を、確かめるように触れて口付けて抱き合って。
縋るようにのばされた手のひらに、何度も自分の名を呼ぶまるいあまい声に、ぐちゃぐちゃと混じり合った体液と熱に、まだそれが記憶の中と寸分変わらず今日も此処に在ることに安堵して。
いつからだろうか。
愛し合う行為が彼の存在を確かめる為の行為へと変わっていったのは。
そのあとで分け合って包まる毛布はふたり分の体温が溶け合ったやわらかな繭のようで、此処以外に何処にも行きたくないような気にさせられる。
かつては眠りが浅く、悪夢に魘されがちだったアベンチュリンが今では自分の腕の中で安らかな寝顔を浮かべているのだから皮肉だな、と思う。
そしてそれを眺める度に今夢の外側で二度と目覚めることはない彼の穏やかに眠る顔を思い出すのだ。
「眠れないの?」
腕の中の彼がもぞ、と動く。
「眠れない……というより、そもそも此処にいる僕自体が常に眠った状態だからな」
「やっぱり夢の中じゃ眠れない、か」
「そうだな」
習慣のようにベッドに入りはするけれどここは夢の中。夢の中では死ぬことも眠ることもない。
「散歩にでも行く?」
「いや、いい。というよりはできるだけこうしていたい」
ぎゅ、と僅かに抱きしめ直す。
「ならいいけど」
ずっと明けない夜のようなドリームリーフでは何処からが夜で何処からが朝なのだろう。
「ねぇ教授、」
いくらか呼吸を繰り返したあとで、何か秘密のはなしでもするような静かさで彼は僕を呼ぶ。
「何だ」
「君はいつまでこうやって僕の夢を見ているつもりだい?」
「――――」
彼の言葉に僕は一瞬呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
いつかは訪れるはずのそのときがいよいよやって来てしまうのだ、と思った。
責めるでも問い質すでもない穏やかさとやわらかさを内包した彼の言葉で。
「今僕たちが見ているのはきっとこの上なくしあわせな時間の夢で、ここには君と僕のふたりしかない、ただやさしいだけの、そんな夢だ」
けど、どんな夢もいつかは覚める日が来る。
僕たちはずっと眠り続けたままではいられない。
瞼を開いた先の世界がかなしみや苦しみしかなかったとしても。
「二度と君に会えなくても」
「…………」
はくはくと速くなった心臓の音が耳に煩い。それなのに体の奥から温度が消えていくように背中は薄ら寒い。
「……僕は、」
喉から絞り出した自分の声はまるで知らない誰かのように頼りない声をしていて思わず耳を塞いでしまいたいような気分になる。
「僕は……君を失くしたくない」
「うん、」
それは僕も同じだよ、と彼の指先が目尻に触れて、そこで僕は初めて自分が涙を流していたことに気付く。
君を失うのが怖かった。
君ともう一度言葉を交わしたかった。
君にもう一度触れたかった。
挙げ出せばきりがなくて、けれど、本当はただわからなかった。
君のいない今日と明日と明後日と、それからずっとをどう迎えたらいいのかわからなかった。
ただ、それだけの、
それだけの、
どうしていつも世界が欠けてしまうのはほんの一瞬で、それは心よりも先にやって来てしまうのだろう。
「ねぇ、教授、夢の泡を作ろうよ。僕たちふたりだけの」
それに触れたら幸せだった時間を思い出せるようなとびきりのやつ。
そう言って笑って、それから泣き出しそうな顔をする。言い出したのは自分の方なのに。
けれどきっと泣き出すことはないのだろう。僕は彼が泣いたのを一度として見たことがない。
「君は案外寂しがり屋だからね」
君がひとりでも寂しくないように。
君が僕を忘れないように。
「僕はいつか君に忘れられてしまう日が来るのが怖い。でもそれ以上に君をずっと此処に縛り付けていることの方がずっとずっと怖い」
だからこれは僕からの最後のお願いだ。
そんな風に言われて頷く以外の選択肢が僕にあっただろうか。
とおくの方で立ち止まっていた終わりが再びゆっくりと歩き出す。
もうすぐ夢から覚めて、そのとき僕はこの手を離さなければならなくなる。