レイチュリ / 雨の音 リフレイン ポツポツ、と研究室の窓を叩いた雨音にレイシオは顔をあげる。
午後三時。降水確率は八〇パーセント。もうあと1システム時間経つ頃には雨は本降りになっていることだろう。
だから、今日もそろそろ来るはずだ。
そう思ったのと机の上に置いていたスマートフォンがメッセージを受信したのがほぼ同時。
送り主は案の定アベンチュリンで、メッセージは『今日行ってもいい?』という簡素な一文のみ。それに『かまわない』とだけ返信をする。
端末を机の上に置き直して、意識は再び打ちかけの論文へ。
余程の用事でもない限りこのあと彼から連絡が来ることはない。だからもうこの煩わしい端末を少なくとも夕方までは気にしなくていい。
天気予報が雨を告げる日は意識がそぞろになって良くない。愚鈍の極みだな、と思うけれど雨なのだから仕方がない。
僕たちは雨の日だけ同じ夜を過ごす。
午後六時半。定時を少し過ぎた頃研究室を後にする。
止むことなく降り続けている雨は地面にいくつもの水溜りを作り、輪を描いてその中に映り込んだ光を揺らす。
カンパニー本社ビルを出たところに見慣れた人影を確認して僕はほう、と息を吐く。
「待たせたな」
「いや? 僕もさっき来たところだよ」
雨の日にこうして会うとき、先にいるのはいつも彼の方なので彼がいつもどれくらい待っているのかを僕は知らない。
知っているのは雨の日は彼から連絡が来ることと、彼は傘を持っていないこと。雨に濡れるのを嫌がるくせに。
「きょ~じゅ、傘入れて」
傘を開こうとすれば、さもそれが当然の流れであるかのように隣にやって来る。
「どうして君はいつも傘を持って来ないんだ」
「だって教授が持ってるんだから必要ないでしょ」
「僕は君を入れる為に傘を持ってきている訳ではないのだが」
「でも入れてくれるんでしょ」
「それは君が傘を持っていないからで……」
そこで会話が堂々巡りになっていることにはた、と気が付いてはぁ、と溜め息を洩らす。なんだってこんな実のない会話をしなければならないんだ。
そんな僕を見てギャンブラーはふっと吹き出して笑い出す。どうやら会話の始めから彼の掌の上で転がされていたようだ。
「君は雨に濡れるのが嫌だと言っていなかったか」
「うん、嫌だねぇ」
「なら傘の一本くらい置いておいたらどうなんだ」
「野暮だなぁ、教授は」
広げた傘の中にするりと入り込んで来た肩が腕に当たる。仄かに香る香水の匂いにすぐにでもその唇を唇で塞いでしまいたくなったのをぐっと堪えて何でもないような顔をする。
彼はただのビジネスパートナーで恋人ではないのだ。たとえばこんな風に業務とは関係のない雨の夜にだけ落ち合って抱き合うことがあるとしても。
駐車場までの短い道のりをポツポツと当たっては弾ける雨粒の不規則で賑やかな音の中、ひとつの傘で身を寄せ合うように歩いて行く。
僕より狭い歩幅の彼に合わせるように。なるべく彼が傘の内側にあるように。
「あんまりこっちに傘傾けたら教授が濡れるよ」
「どうしたってひとつの傘じゃふたりは収まりきらないのだから今更だろう」
「そうなんだけどさぁ」
解っているなら傘を持ってきたらいいだけの話なのだ。そう言い掛けて、さっきと同じ会話を繰り返すだけになることに気付いて飲み込む。
「以前会ったときに君に気象予報アプリを勧めたはずだが」
「ああ、君も開発に加わってたやつだろう? 勿論ちゃんと入れてるよ。ピアポイントだけじゃなくていくつかの星系の惑星を網羅している上に精度もほぼ一〇〇パーセント。さすがと言わざるを得ないね」
「君が雨に濡れるのが嫌だ何だと喧しいから開発に協力したんだ。ちゃんと活用してもらわないと困る」
「あはは、そうだったのかい? それは知らなかった。愛だねぇ」
「そんな訳あるか。任務と雨が重なる度に不機嫌になられる僕の身にもなれ」
「ごめん、ごめんって。別に不機嫌になってるつもりはないんだけどなぁ。君とだと少し気が緩むのかも」
「…………」
ああ、調子が狂う。
調子が狂うのはきっと必要以上に近い距離と雨でいつもよりしっとり匂う香水のせいだ。
「しっかり有効活用はさせてもらってるよ。おかげで仕事の計画も立てやすいし、君にも次いつこうやって会えるのか知ることができる」
「は、」
何だ、それ。
思わず声を洩らした僕を見上げた極彩色がにやりと弧を描く。それから内緒話のように耳元でそっと囁く。
「今日もめちゃくちゃになるまで抱いてね」
雨が嫌いなのだと彼は言う。
雨に濡れるのが嫌なのだと彼は言う。
それなのにいつからか決まって雨の日の午後にスマートフォンが鳴らされて、夜に僕たちは同じ時間を過ごすようになった。
幾度目かの雨の夜、彼はひどく憂鬱そうな顔をしていて、もっと、もっと、とベッドの上でねだるように僕を求めた。
後から知ったことだがその日は彼の本当の誕生日だったらしい。誕生日は決まって雨なのだという。別にめでたくないから祝わなくていいよと素っ気なく言われてしまったので僕はおめでとうのひとつも言えないままだ。
そもそも戦略的パートナーを組んでもうそれなりの年月が経つのに僕は彼の本当の名前すら教えて貰えていない。
それでも嫌いな雨の日に、彼は僕のところへやって来る。
「どうして雨の日なんだ?」
ベッドの上でくたりと横たわったままの背中にミネラルウォーターのボトルを差し出して問う。
さっきまで僕を受け入れていた細い背中。
「何が?」
外ではまだ雨が降り続いているのだろう。微かに雨音が窓の向こうから聴こえる。
「どうして雨の日は僕のところに来るのか、そろそろ教えて貰ってもいいと思うのだが」
ベッドの端に腰掛けてボトルの蓋を開ける。
「どうしてって言われてもなぁ」
気だるそうな背中は逃げ場所を探すように手繰り寄せた毛布に埋まっていく。
「雨が嫌いだから?」
「それは前にも聞いた」
「…………」
一本線が引かれて、ここから先には入って来るなと言われているような気がした。そんな、拒絶を含んだ間。
「話したくないならそれでかまわないが、それならそれで僕は君との関係を考え直す必要がある」
「それはこうやって会ってはくれなくなるってこと?」
「そうだな」
「それは困るなぁ」
「そう言われても明らかに業務上のパートナー関係の域を越えているだろう、これは」
「んん……」毛布の塊から何かを迷うようなくぐもった声が洩れる。
今更そんな風に言うのはずるいのだろう、と思う。
けれど僕だってただのありふれたひとりの人間に過ぎない。同じ時間を何度も重ねて熱を分け合えば当たり前に情は芽生えるし知りたいとも思う。
それでもそれが自分の一方的なものでしかないのなら僕はそれにどこかで区切りを着けなければならない。戦略的パートナーとしてこの先もやっていくのなら尚更。
「……雨の日は、」
すこしの沈黙のあとでゆっくりと彼は口を開く。
「悪いことばかり思い出して夢に見るから嫌なんだ。だから雨の夜にひとりになりたくない」
「それなら僕である必要もないだろう。少なくとも君のところには創造物達だっているのだから」
「違……、」
包まっていた毛布から慌てて顔を出した彼はひどく狼狽したような表情で、縋るように僕にのばしかけた指先は、けれどすぐに思い留まって、ぎゅ、と握り締められてしまう。それを目にしたとき、たった今僕は彼を傷付けたのだ、と思った。
「……君が……いなくなる夢を見たから……」
「――――」
彼はぽつりぽつりと言葉を続ける。
「本来ツガンニヤのエヴィキン人にとって雨は恵みや祝福の象徴なんだ」
博識な君は知ってると思うけど。
「けど僕にとっては祝福でも何でもなかった。だって雨が降った次の朝には必ず何かが失われているんだから」
昨日まで一緒に遊んでいた友人。挨拶をした隣人。並んだテントのうちのいくつかが壊れていることもざらで、そういう場合大抵その中は空っぽだ。父さんも母さんも雨の日にいなくなった。そして姉さんも。
「雨の度に僕の世界から何かが欠けていく。そして最後に残ったのは僕だけだ」
ちいさい頃のことは正直もうよく覚えていない。それでも雨の度に何かがなくなっていくってことだけは消えてくれなくて、雨の夜は決まって夢に見る。
「君とパートナー関係になって少し経った頃、任務先で大雨に降られたことがあっただろう? まぁ君は覚えてないかもしれないけど」
その晩も僕は夢を見て、その日の夢でいなくなったのは君だった。目が覚めたとき隣のベッドで眠る君を見てひどくほっとしたのと同時に怖くもなった。君はとっくに僕の世界の一部になってたんだって気付いて。だからきっといつか君もいなくなる。
その日はもう眠れなくて僕はベッドを抜け出したけど勿論行くあてもないからぼんやり雨に降られるだけでさ。どうしたらいいのかわからなくてちょっと自暴自棄になってたところもあったのかもしれない。
これ以上何かを失くすくらいなら自分がいなくなればいいんだ、って。
「でも君は探しに来てくれただろう? 馬鹿みたいに怒られたけど。でも君が傘を差してくれたら雨は止むんだって僕は思った」
ああ、どうして忘れていたのだろう。
最初に彼とこうなった日のことを。
「雨の夜に君と眠れるときは不思議と悪い夢を見ないで済むんだ。それで同じ朝を迎える度に僕はまだ君を失くしていないことを確かめて安心するんだ」
だから君じゃないとだめなんだ、なんて、
ひとりにしないでほしい、なんて、
「馬鹿なのか、君は」
握り締められたままの彼の手を引いて、ぎゅっと抱きしめる。
「どうしてそんな大事なことを今までずっと黙っていたんだ」
「だって君は僕のことなんて好きじゃないだろう? こうして一緒にいてくれるのだって僕が君のビジネスパートナーだからだ」
「……それだけでこんなことまでする訳ないだろう。君は僕を何だと思ってるんだ」
「まぁ君が何とも思ってない相手と寝るような人じゃないこともわかってはいたけど確かめて何かが壊れる方が嫌だったんだよ」
だから雨の度に君が僕と会ってくれて、文句を言いながらでも君の傘に入れてくれて、朝まで一緒にいてくれることが嬉しかった。
「新調した君の傘のサイズが少し大きくなってたのも嬉しかった」
「言うな」
あはは、と耳元で笑う声がいとおしい。
「今度は晴れの日にどこかに出掛けないか。君さえよければだが」
「うん」
そのときは手を繋ぎたいのだと彼は言う。
「だってひとつの傘の中にいるときは手、繋げないんだもん」