「……ここ、どこ」
エンジェルがぽつんと立ち尽くすそこは、慣れ親しんだ地獄の風景とも違う、なんとも奇妙な場所だった。
建物どころか人影さえもないそこは、まるでただっ広い荒野のようでありながら天も地もない無機質な空間のようでもあり、見上げた先には赤黒くどんよりとした血のような色が広がっていた。
地獄に堕ちてからそれなりの年月を過ごしていたエンジェルでさえも、こんな光景は見たことがない。
「なにこれ。なんで俺こんなところにいんの?」
ここに至るまでの記憶を辿ろうとしても何一つ思い出せることがなく、エンジェルは途方に暮れる。
「待て待て待て、どういうこと?なぁ!誰かいないのか!?なぁ!!」
理解が追いつかない状況に頭を抱えながらも一縷の望みを抱いて虚空に向かって叫ぶが、やはり応えが返ってくることはない。
「嘘だろう。ちょっと待ってくれよぉ……ん?」
大きなため息と共に肩を落とそうとも、相変わらず周りには人の気配もなければ、空はどす黒く汚れている。
しかしいつまでもここでぼんやりと突っ立っているわけにもいかず、思考を切り替えるように頭の毛をかき上げながら大きく息を吸うと、突然ピリッとエンジェルの背中に緊張が走った。
この感覚はよく知っている。これは──視線だ。
職業柄、視線というものには敏感だ。エンジェルは、誰もいないはずのこの空間で確かに誰かの視線を感じていた。
「だ、誰かいるの?なぁ!誰かいるなら出て来いよ!」
そう叫びながら辺りを見渡すが、返ってくるのは結局沈黙ばかりで物音一つなかった。
もしかしたら気のせいだったかもしれない。そう自分に言い聞かせるが、肌が、空気が、脳が、エンジェルを見つめる誰かの視線を感じている。
「なんだってんだよマジで……」
ジワジワと足元からせり上がってくる不快感に心臓がうるさく騒ぎ始める。
それはやがて警鐘に変わり、エンジェルは自分を守るように上段の腕で自分の体を抱きしめた。
はぁ、はぁと自分の口から吐き出される息の音さえも煩わしい。
不安が、恐怖が、不快感が、怯えるエンジェルの心を飲みこもうと大きく口を開いて近づいてくる。
けれどそれらから守ってくれる者は、ここには誰もいない。
エンジェルは小さく震えだした体を更に強く抱きしめ、ひとまずこの場から離れて辺りを探索してみることにした。もしかしたらどこかに誰かがいるかもしれない。
ザッ、ザッ、とブーツの底が地面を擦る。
地面にはあちらこちらに黒く淀んだ水たまりができていて、エンジェルは跨いだり、隙間を縫うようにして足を進めていく。
「はぁ、マジで誰もいないの?」
込みあげてくる恐怖心から逃げるようにひたすら足を前へと進めていると、どこからともなくピチャン、と水が跳ねる音が聞こえ、エンジェルは足を止めた。
よく耳を澄ましてみると、その音はエンジェルの前方から鳴っていた。
音を頼りに目を凝らしてみると、そこには今まで見たものより一回り大きな水たまりがあった。
ピチャン、ピチャン。水たまりに向かって、天から黒い雫が垂れている。
不思議なことに、いくつもの水たまりの中で、雫が落ちているのはその水たまりだけだった。
いったいどこから落ちているのかと天を見上げても、原因は全く分からなかった。
唐突に現れた雫が、この空間で唯一の音を奏でる。
ピチャン、ピチャン。落ちてきた雫が、水たまりに落ちて飛沫を上げる。
その音を聞きながら、エンジェルは何故かその場から離れることができなかった。
それどころか視線さえも逸らすことができず、目が地面に広がる黒い液体に引き寄せられる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
ドクンッドクンッ、と心臓の鼓動が頭と共鳴し、視界がグラグラと揺れ出す。すると目の前にある水たまりまでグラグラと揺れ始めた。
──いや、水たまりが揺れているのはエンジェルのせいではなかった。
「……、は?」
グラグラと揺れていた水たまりは中心から外側へ向けていくつもの波紋を生み出し、最後はゴポゴポとまるで沸騰するように気泡を膨らませる。
そして膨らんだ気泡はあっけなく限界を迎え、弾ける。すると弾け飛んだ飛沫は、ある形を作り始めた。
それは、巨大な手だった。黒い水が滴る、黒い水から作られた、一本の腕。
「っ……!!」
状況を理解するよりも早く、エンジェルはソレに背を向け、勢いよく駆け出した。
ソレが何なのか、ここがどこなのか。そんなことはまだ何一つ分からなかったが、アレに捕まってはいけないことだけは分かった。
「はぁ、はぁっ、……っ、はぁ!」
もつれそうになる足を叱咤しながら、エンジェルひたすら前へ走った。
視界の隅でさっきまでは何ともなかった水たまりから次々に腕が生えてくるのが見えた。
右も、左も、次から次に腕が生まれ、それらは真っすぐにエンジェルに向かって伸びてくる。
「なんだよなんだよ、っなんなんだよぉ!!」
どれだけ悲痛な叫びを上げようと、エンジェルを助けてくれる者はどこにもいない。
あまりに恐ろしすぎて後ろを確認する余裕もない。エンジェルは痛みを訴えだした体に鞭を打ちながら、ひたすらに足を前へ突き出す。
「あっ!!」
ガッと何かが足に当たった感触と、次いで感じた浮遊感。けれど浮遊感はほんの一瞬で、それはすぐに体への衝撃に変わった。
倒れこんだ体は肩で地面を擦りながら転がり、遅れて痛みが全身を襲う。
咄嗟に瞑っていた目を開けると、ほんのりピンク色が乗った白い体毛のあちこちが水たまりのせいで黒く汚れていた。
痛みに痺れる腕で体を起こし、立ち上がろうと足を引く。
けれど、それは何かに阻まれほとんど動かすことができなかった。
ヒュッとか細い悲鳴が喉奥で鳴り、こわばった体を無理矢理動かして足元を見ると、そこには自分の足をしっかりと掴んだ黒い手があった。
「嘘だろ……っ、離せよ!クソッ、離せっ!!」
黒い手から引き抜こうと滅茶苦茶に動かしても右足は全く抜けない。それならばと左足で勢いよく黒い水の手を蹴るが、左足は水を貫通するだけで結局その手は離れることはなかった。
「クソッ、クソクソクソッ!!……ヒッ」
足を掴んでいた手にばかり集中していた。
気がつけば、目の前にはずっとエンジェルを追いかけ続けていたいくつもの腕が迫っていた。
もし、この腕に捕まったら。
「うわああああああっ!!」
身を縮こませ、自分を守ろうと全ての腕で構えるが、そんなことは奴らにとってはなんの抵抗にもならなかった。
腕、足、腰、首、と全身を少しずつ掴まれ、最後に一際大きな手がエンジェルの頭を飲みこもうと迫る。
喉が潰れるほどの絶叫ごと、エンジェルは黒く淀んだ泥水に飲み込まれた。
***
「……ハッ!」
目を開けると視界には見慣れた天井が広がっていた。見られた景色、慣れ親しんだ香り。そこは赤黒い空が広がる妙な空間ではなく、いつも寝ている寝室のベッドの上だった。
「ゆ、夢……?」
エンジェルは小さく震える体を起こし、辺りを見渡した。
ベッド脇のオシャレなサイドテーブル。お気に入りのカバーで包んだふわふわのダウン。壁際のクローゼットは大きく、隣にあるハンガーラックには明日着ようと思っていた服がかかっている。
全てが全て日常の風景で、エンジェルはフゥゥと大きく息を吐きだす。
「良かった……」
あれが夢だと分かっても、エンジェルの心臓はまだドクドクと強く脈を打っていた。上腕で顔を覆い項垂れながら、もう一度深く息を吐く。
それを何度も繰り返していると、次第に脈も落ち着いてきた。夢と現実の境が明確に体に染み込み、頭が冴えてくる。
すると、ダウンで温まっていたはずの体がぶるりと震えた。急に寒気を覚えたエンジェルは、ふと隣に目をやり、動きを止める。
「ヴァル?」
寝る前には確かに隣で寝ていたヴァルが、そこにはいなかった。空っぽのシーツは冷たくて、ここから離れてからそれなりの時間が経っているのが分かる。
手のひらに感じた冷たさがそのままエンジェルの体に染み込み、またもやエンジェルはぶるりと身震いをする。
これでは寝るに寝られない。
エンジェルはベッドから下り、寝室から直接リビングに繋がるドアに手をかけた。
「……ヴァル」
「あ?なんだよ」
しかして、そこにヴァルはいた。暗い室内で唯一の光源であるパソコンの明かりで、ヴァルの輪郭がぼんやりと照らしだされている。
振り返らず目の前のパソコンに集中しているヴァルの後ろ姿にホッと息を吐き出したエンジェルはぺたぺたと床を歩き、ヴァルが座っているソファとは別の、テーブルを囲むように配置された右隣のソファに腰を下ろした。
「ちょっとだけ、ここに居ても良い?」
「勝手にしろ。邪魔はするなよ」
「うん」
そしてエンジェルは下ろしていた足をソファの上で折りたたみ、四つの腕で抱え込む。
明るく照らされたヴァルの横顔を見ているうちに、少しずつ心臓も落ち着いてきた。抱え込んだ足の上に顎を乗せ、赤く光る瞳をうっとりと眺める。
カタカタとキーボードを叩く音とマウスを動かす音が心地いい。普段デスクワークはほとんどしないヴァルのこの姿を見られたのは、あの悪夢のおかげかと思えば幾分か心が楽になった。
話しかけようものなら怒られてしまうが、今はただヴァルの近くに居られるだけで充分だった。
少しずつ体温が戻ってきたといっても温かくなるまでにはまだ遠く、エンジェルは肌の上を滑っていった寒気に顔を伏せながら小さくくしゃみをした。
そして下部の腕はそのままに、上腕を足から離して冷えた体を摩る。それほど温かくはないはずなのに、手のひらの温度さえ今のエンジェルは温かく感じてしまう。
それでも寝室でひとりぼっちでいるよりもここは随分と温かい。あともう少しだけ体温が戻ってきたらヴァルの邪魔にならないように部屋に戻ろう。
そう考えていると、視界の端で何かが動いた。
「……え?」
顔を上げると、そこには一本の腕があった。夢で見た黒いドロドロとした腕ではない、暗闇のせいで紺色に近い細く長い腕。
「いいの?」
「……」
返ってくる言葉はなかったが、こちらに伸びている腕が引っ込むことはなかった。
エンジェルはブワリを毛を逆立たせながらぎゅっと口を引き結び、ソファから立ち上がる。
そして伸ばされたヴァルの手に自分の手を重ね、緩く握りしめた。
「え……わあっ!?」
握り返してきた手はそのままエンジェルを引き寄せ、エンジェルは勢いあまりヴァルの膝に倒れこむ。けれどヴァルはそれに対して何も言わず、パソコンに集中したままだった。
エンジェルは戸惑いながらも、膝の上で体勢を整える。
ヴァルに横抱きをされているような体勢で体を預け、足をソファの上に伸ばすと、ヴァルはパソコンをいじっているはそのままに下部の手でエンジェルの体を抱きしめた。
「う~~~~」
ぎゅうっと胸の奥の締め付けられ、エンジェルはたまらず四本の腕でヴァルに抱きつく。すると今度は広がったヴァルの翅が二人をすっぽりと包んこんだ。
ぴったりとくっついた体温が、匂いが、エンジェルの心を解きほぐしていく。
「あったかい……」
幸せな温もりが指先まで染み渡り、エンジェルの瞼は一気に重たくなった。
「ねぇ、ヴァル」
「なんだよ」
「このまま、寝ちゃっても良い?」
もう持ち上げていることすら難しく、エンジェルは目を閉じる。
「……あぁ」
ぎゅうっと抱きしめる腕の力を強めると、腰を抱いたヴァルの手が優しく宥めてくる。
「後で一緒にベッドに連れて行ってくれる?」
「あぁ。……いいから、さっさと寝ちまえ」
「ふふっ」
そのぶっきらぼうな物言いに、自然と口元に笑みが浮かぶ。
「ありがとう。……おやすみ、ヴァル」
その答えを聞くよりも早く、エンジェルの意識は眠りに誘う温かさに抱かれ、眠りに落ちていった。