ぼんやりとした頭、そしてぼんやりとした視界が最初に認識したのは、空間を彩るピンク色だった。
壁に設置している蜘蛛の巣をモチーフにした照明からゆっくりと天井を見上げ、そこから枕に埋もれるように壁とは反対へと顔を向けると、照明がついたままのドレッサーが目に入った。
部屋を満たすピンク色を邪魔しない程度に淡く光を放つ照明に照らされた小瓶たちはどれも見覚えがあるが、いまいちハッキリと思い出せない。
エンジェルはそのままぼんやりとドレッサーの上に転がっているいくつもの小瓶や櫛、そして玩具を見つめていた。
「……」
何かが頭の片隅に引っかかる。けれど靄がかかったように上手く働かない頭には何も浮かんでこなかった。
時間ばかりが無為に流れていく。
そのうえ謎の倦怠感がエンジェルの体を重く包みこみ、もはや目を開けておくことすら億劫になってしまった。
「……」
エンジェルは瞼を持ち上げることを諦め、深く息を吐きながら仰向けに体勢を戻した。
視界が暗闇に閉じ込められると、幾分か体が楽になる。
このままもう一度寝てしまおうと再び息を吐き出すと、何かが物凄い勢いで腹の上に落ちてきた。
「ブッ!ピギーッ!!」
「うえっ!?っ、な、なにっ!?」
甲高い何かの鳴き声と共にぶつかってきた物体にエンジェルが慌てて目を開けると、そこには一匹の小さな子豚が偽胸のふわふわを押しつぶすように乗っていた。
「ブッ、ブウ!ブヒッ!ブーッ!!」
「ん、え?ファットナゲッツ!?あれっ?えっ、なんで!?」
愛らしいつぶらな瞳。ちょこんと乗った小さな二本の角。そして特徴的な模様。
それは紛れもなくエンジェルが可愛がっているペットのファットナゲッツだった。
そこで一気に意識が覚醒したエンジェルは、ファットナゲッツを抱きしめるように上体を起こし、周りを見渡した。
「俺の、部屋……」
壁、天井、ベッド、ドレッサー、クローゼット。
見覚えがあるどころではない、ここはエンジェルのホテルでの自室だった。
エンジェルは自分が置かれている状況が掴めず、キョロキョロと部屋中に視線を走らせる。
すると、突然部屋のドアが開き、よく知った声が聞こえてきた。
「ようやく起きたか」
「ハ、ハスク!?」
そこから現れたのは、ホテルのバーテンダーであるハスクだった。
となると、やはりここはエンジェルの自室で間違いないだろう。
更に混乱が加速するエンジェルをよそに、ファットナゲッツはエンジェルの腕の中から抜け出し、ハスクの方へと走って行ってしまった。
「フゴ、フゴッ」
「ほらよ」
部屋に入ってきた時には気づかなかったが、ハスクの手にはこれまた見慣れたボウルがあった。
野菜や果物が山のように乗ったそれを床に置くと、ファットナゲッツはそれを勢いよく食べ始める。
エンジェルはそんなファットナゲッツの姿に、ほっと顔を緩めた。
「ナゲッツにご飯持って来てくれたんだ。ありがとう」
「ホテルの全員で順番に持って来てたんだ。後で他の奴らにも声かけてやってくれ」
「うん……」
するとハスクは、そのまま帰るかと思いきやエンジェルのすぐ側までやってきて声をかけてきた。
「体の調子はどうだ?」
「えっ……、まだちょっとダルいかなって感じ」
「……そうか」
「……」
沈黙が痛い。いつもは何とも思わないそれが、今は気になって仕方がなかった。
エンジェルは重ねた手をもぞもぞと動かし、言葉を探す。
けれど何も思い浮かばない。まだこの状況が飲みこめていないからだ。
いや、思い浮かばなかったからこそ、エンジェルは思い切って頭によぎった疑問を口にした。
「なぁ、俺って自分でここに帰って来たの?」
「いや……」
エンジェルの最後の記憶はスタジオだ。そこからどうやって帰って来たのか、全く覚えていない。
それにファットナゲッツの世話を順番でやっていたという言葉にも引っかかりを覚える。
仕事の関係上、突然数日間部屋を空ける事態も発生するため、ファットナゲッツのご飯は自動給餌器で管理している。
水も十分の量が残っていたはずだった。
それなのにホテルの面々が順番で世話をしていたとなると、それでは追いつけないほどの日数が経っていたことになる。
「今日って何日?」
エンジェルはベッドに座ったままハスクを見上げ、返ってくる言葉を待った。
それに対してハスクは、ハァと大きくため息を吐き、口を開く。
「お前が帰って来たのは二日前。で、仕事に出かけたのはそれから更に三日前だ」
そのハスクの言葉を信じるならば、エンジェルはいつものように仕事に出かけてからもう五日も経っていることになる。
「五日も……」
「二日前にヴァレンティノがお前を連れてホテルまでやって来た。それからお前はそれから二日間眠りっぱなしだったって訳だ」
「えっ!ヴァルが!?俺を、ホテルまで連れてきたぁ!?」
二日間眠りっぱなしだったという話も驚きだが、それ以上にヴァレンティノがエンジェルをホテルまで送り届けたという話の方が信じられなかった。
何故。何のために。本当に?
ハスクが言ったことは到底信じられるものではないが、ハスクがそんな嘘を言うわけがないというのは十分に分かっている。
ならばやはりそれは真実なのだろう。
あまりのことにエンジェルが頭を抱えると、失くしていたはずの記憶が朧気ながら蘇ってきた。
身を焦がす、耐え難いほどの劣情。かぐわしい花の香りは脳を焼き、ヴァレンティノのことしか考えられなくなった。
捻じ込まれた舌から流しこまれた唾液は簡単にエンジェルを酩酊させ、簡単に理性を失わせた。
脳裏に浮かぶ一瞬、一瞬の記憶全てにヴァレンティの姿がある。
そして、首から感じる甘く痺れる痛みも、思い出した。
「ねぇ、ハスク……」
「なんだ?」
「俺の首ってさ、どうなってる……?」
「っ、それは……」
言葉を詰まらせるハスクに、あれは夢ではなく現実だと思い出す。
記憶が蘇るにつれて、ジクジクとうなじに熱が溜まってくる。
それに合わせて体の奥にボゥと小さな火が点り、エンジェルはぶるりと身を震わせた。
「そ、っか。うん。そっか」
「エンジェル……」
「うん、大丈夫。いずれこうなるって分かってたからさ。それが今だったってだけの話」
「……」
エンジェルは頭を抱えていた手を後ろに撫でつけるように動かし、火照ったうなじを両手で押さえながら顔を上げる。
すると横に立っているハスクの顔が目に入り、それがあまりにも渋くて思わず吹き出してしまった。
「ハハッ、すっごい顔!」
「お前なぁ!俺は真面目に心配して」
「うん。分かってる。……ありがと」
「……分かってるなら、良い」
「うん」
これは、遅かれ早かれ自分に待ち受けていた運命の結果だ。逃げられない。逃げられるわけがない。
どんなに嘆こうと、エンジェルはこれからこの体で生きていくしかないのだ。
再び二人の間に沈黙が流れ始めた時、それまでご飯に夢中になっていたファットナゲッツがエンジェルの元へと戻って来た。
「ブヒッ!、ブブッ!」
「いっぱい食べたねぇ~。美味しかった?」
「ブウッ!フゴッ、ピギィ!!」
あれだけ山盛りになっていた野菜と果物は、欠片一つ残らず全てファットナゲッツに食べつくされていた。
それを見たエンジェルは愛おしそうにファットナゲッツの頭を撫でる。
「お前が寝てる間、そいつはほとんど飯を喰ってなかったんだ。お前が起きて安心したんだろうな」
「ファットナゲッツ……ごめんね、心配かけたね」
「ブゥ」
嬉しそうに撫でるエンジェルの手に頭を擦りつけるファットナゲッツに、エンジェルはたまらずその体を抱きしめる。
するとペロペロと小さな舌がエンジェルの顔を舐めてきた。
「ナゲッツ……」
腕の中に感じる柔らかな匂いと感触に、エンジェルの瞼が再び重たくなる。
「お前も腹が減ったなら飯を持ってくるがどうする?」
「あー、ちょっと眠くなってきたからもうひと眠りしてくるよ。起きたら皆のところに顔を出すから」
「分かった。お前が起きたことは伝えておく」
「うん。ありがとう」
そしてハスクは踵を返し、部屋を出ていった。
エンジェルはその後ろ姿を見送り、ドアを閉まったのを見届け、バタリとベッドに倒れこんだ。
腕の中にいるファットナゲッツも眠いのか、既に目を閉じて寝る体勢をとっている。
「……」
その頭を一撫でし、エンジェルは息を吐き出すと共に目を閉じた。
ジクン、ジクンと脈打つ痛みがうなじから全身へと広がっていく。
魂だけでなく、指の先までもが何かに縛られている感覚がする。
本来ならば辛く悲しいことのはずなのに、その感覚にどうしようもないほどの喜びを感じてしまい、エンジェルは唇を引き結んで奥歯を強く噛んだ。