死よ、汝来たりなば…
… ゴォォン…
鐘の響きが、アルカードを目覚めに誘う。その音には聞き覚えがある気がした。
(礼拝堂の鐘か)
悪魔城の鐘楼には巨大な鐘がいくつも備わっている。闇の血を継ぐ身に祈る神などないが、音色に馴染みがない訳ではなかった。
だが城に鐘つきはいない。
時を刻む時計塔は別にあり、母の死を境に、あの場所にもはや祈りは必要なくなった。
残ったのはただ憎悪と恐怖だ。
ゴォン…
忌むべき故郷がまだここにあると言わんばかり、鐘の音は断続的に響いてくる。
(──これは弔鐘だ)
時を知らせる音でないのなら、誰かが葬られたのだ。
まるで墓の中から己の弔いを聞いているようで、闇から抜け出すために目を開く。
辺りの光景は一変していた。
『アルカード……』
「母上?!」
目の前には、磔にされた母。
敵意を向ける群衆。
救おうとして何もできない自分。
アルカードを見つめながら、母が悲しみの表情で口を開く。
『人間を………憎みなさい。そして殺しなさい』
「?!」
この光景に覚えがあった。
母の死の間際のことではない。
その光景を模した、明らかにおかしい言葉を口走る母と青年姿の自分。
「…これは現実ではない…そして、夢でも…ない?」
過去の記憶にしては齟齬があり、夢にしては自意識がありすぎる。
アルカードは意識を己に集中させる。
──先程まで、本の中にいたはずだった。
歴史書である魔導書、グリモア・オブ・ソウル(GoS)の中に。便宜上「本の中」と表現するが、魔導書を土台にした空間魔法のようなものだ。
本の中に転送されたものは記述の内容に従うため、アルカードは有角幻也の姿を剥がれ、本来の姿で投影される。だからこの姿でここにいる訳だ。
1797年の悪魔城──
二度と覚めないはずの眠りから目覚め、二度目に父を葬った──
「そう、ここは…」
本の記述に従い、隔離された空間で忌まわしき歴史が再現される場所。
だがそれはあくまで人に語り継がれた内容で、アルカードの記憶とは齟齬も存在した。
城の構造、敵、能力の変化など細かな例を上げれば数はあるが、大きな違いは、再現された1797年の中に城主たるリヒター・ベルモンドがいないことだ。
いやいないという表現は誤りか。
エルゴスは、シャノアのように表では抹消された歴史も正しく綴っていたはずだ。城主や暗黒神官の記述は存在してもその戦いに辿り着いていないだけであり、それは、リヒターのことがなかったことになったという意味ではない。
本の中といえど、歴史を変えられるのは記述の改変だけなのだ。
もし改変なしでリヒターと戦うなら、アルカードは再び彼を救うことができるだろう。
(本の記述が概ね正しいなら、あの時の悪魔城で、この光景が示すのは当然…)
吸血鬼が休み、眠るための棺に仕掛けられた罠。
夢魔がアルカードの精神を取り込み、蝕もうとする世界に飲み込まれたことがある。それは事実だ。
だがそこから脱出したという事実もある。
それにも関わらずわざわざ当時に限りなく近い状況を再現した。そんなことをするのは、できるのは。
「………デスの仕業か」
そもそもGoSとはデスの画策した呪法の道具だ。セワードとして長く研究と管理に携わっていた奴が、ルーシーやヘルミーナも知らない仕掛けを施している可能性は十分に考えられた。
歴史の事実という条件を満たした者を、別個に作られた空間へ送りこむ──GoSの仕組みそのものだ。
「ちっ」
貴公子たる姿には似合わぬ舌打ちが出る。
デスはすでに正体を表し姿を晦ましている。置土産にまんまと引っかかったというところだろう。
『アルカード…人間を……殺…しなさい』
母の幻影はフィルム映像のように呟き続けている。
(これがサキュバスの精神世界を再現したものなら、本体を消せば脱出できるが…)
磔にされた母の姿を睨みつける。過去では奴が夢魔の変化だった。
『そして、 憎…なさ い』
ゴォン…、と再び遠くから鐘の音が響く。
すると音の波紋に揺らぐ水面のように、波打って歪んだ空間が蜃気楼のように消えていく。
「何だ?」
人形劇のような母の姿が消え、次は篝火に照らされた石造りの空間が浮かび上がった。
見覚えがある。
高台の中央には、石の玉座で脚を組みながらこちらを眺める男の姿が。
「リヒター…!」
長い髪の下で酷薄な笑みを浮かべ、リヒターが闘技場の上からアルカードを見下ろしている。これも過去の再現か。
『……開け、… の 門 、我が… を …』
旧友と同じ血の匂いをさせた男は、記憶どおりならミノタウロスとウェアウルフをけしかけてくるはずだ。アルカードは剣を握り身構える。
だが、リヒターが命令し終える前に、闘技場ごと全てがかき消えた。
「……どういうことだ?」
…ゴォ…ン、ゴォォン、…
戸惑う間にも、鐘の音とともに、次々と脈絡のない時代や風景が映し出されていく。
巨大なスクリーンで入れ代わり立ち代わり記録映像を見せられているようだ。そこはかとなく覚えがあるのに、借りてきたような非現実味もある。
母の姿といいリヒターの姿といい、アルカードの記憶を探られているようで不快だ。
やがて、ひとつの風景で空間の遷移は定まった。
夜。遠く崖の上に聳え立つ城のシルエット。周りを囲む黒々とした木々。月明かりの届かぬ闇、闇、闇。
古めかしくなつかしい場所だ。
警戒は緩めずにいると、周囲の影から湧き出るように姿を現すものがいる。アルカードの目でも完全に姿を表すまでそれが何なのか判別できなかった。
──だが知っている。
それは、またしてもアルカードが知る姿をしていたから。
「………ラルフ」
離れた位置からは輪郭程度しか識別できないが、ラルフ・ベルモンドが武器をこちらに向けて構えているのがわかる。
そして、地を蹴ると同時に鞭が風を切る音が届く。
驚きながらもアルカードは迎え撃った。
「はっ!」
ばぢっ!と派手な音を立てて一撃を弾き返し、追撃を躱して距離をとる。
幻影ではない。
敵とみなされている。
ではこれは何か。瞬時に脳裏に浮かんだのは、ラルフ、サイファ、グラント──かつての仲間の姿をしたゾンビと戦った記憶。
しかし、動く死体にしては動きが軽快すぎるし、戦う場所も違っている。
(ドッペルゲンガー?)
…いや違う。死者がゾンビとして受肉されるものなら、ドッペルゲンガーは生者の姿を模す。この場合ならアルカードの姿で現れるはずだ。
(あるいはこの空間と同様、書物の記述をなぞった過去のラルフの再現…?)
思えばここは15世紀のトランシルヴァニアに似ている。だが、それはできないはずなのだ。ラルフを再現するための情報は不足していたのだから。
それとも、奴ならできた?
そうでないとすれば一体──
考え事をする間にも距離を詰められ、アルカードの剣とラルフの斧が至近距離で打ち合う。
「──!」
膂力の差より獲物の重量と勢いが勝ち、アルカードが押されながら離れる。その一瞬の打ち合いで確認した。
(顔に傷がある)
つまり、このラルフは少なくとも悪魔城で初めて出会った時のアルカードとの戦いを再現したものではない。
ますますわからなくなってくる。
幻影でもなく、姿を真似る悪魔とも違うのなら。最も近いのは…ヘルミーナの力で鞭の記憶から呼び起こされ機械的に戦っていた時のラルフだ。
だが、やはりおかしい。
頭よりも肌でアルカードは感じた。
ラルフの姿を再現したものだとして、これには敵意がある。殺意がある。
目前のアルカードを獲物と定め、狩りたいという欲望がある。
そして、昔アルカードと共に戦った時は見せたことのない技も使う。
(わからない)
知らずアルカードは焦り始めていた。
「──ラルフ!」
迫りくる狩人に向け、アルカードは声を張り上げる。
応答はなく、翻った手元から放たれた数本のナイフがアルカードの影を掠めた。
「ラルフか?!分からないか?聞こえていないのか?!」
攻撃を躱しながらできるだけ呼び掛けた。じわじわと増す疑念がますますアルカードに声を張り上げさせる。
…これが、再召喚された本物のラルフである可能性は?
何らかの罠で精神を操られているのだとしたら?
そう疑念を抱くほど、この状態は、『アルカードが仲間である記憶を持たないラルフ』と表現するのがしっくりくるのだ。
「……っ…!」
答えを出しきれないアルカードの剣は完全に守りに入り、脚は退却の方向へ地を蹴る。
だが『ラルフ』はそれを許してくれる相手ではない。
アルカードが後退した分だけ間を詰め、間隙なく攻撃を仕掛けてくる。
(まずい)
これでは霧、狼、蝙蝠、いずれにも変身する余裕がない。斧がかする衝撃、聖水の飛沫が肌を焼く熱さがいっそう焦燥を煽る。
夢の中で殺されれば精神が死ぬが、ここではどうなるだろう。
悪夢を模したこの空間でなら、覚めない夢に永劫に囚われるのだろうか。
かつてアルカードがサキュバスを断罪したように──敵であるラルフとの殺し合いを、永遠に。
(嫌だ)
想像するだけで、徐々にアルカードの目が血走り、噛み締めた牙が唇を破って血を滲ませる。
恐怖だ。
悪夢の中に永劫に囚われることも恐ろしいが、アルカードが真に恐れていることは、戦いに死ねば本当の吸血鬼になってしまうことだ。
母の遺志を護ってきた自我は失われ、父と同じように魂の安寧すら奪われる。
死にたくない。
寿命による死が訪れることのない身には、自らを失うことが何よりも恐ろしい。
(嫌だ…!)
怯懦が全身を強張らせる。
初めて父に挑んだ時でもこれほど怯えることはなかった。ラルフに背を預けることで、どれだけ支えられていたのか今更ながら痛感する。
その『ラルフ』に刃を向けられているのだ。
このままやり合えばいずれ──
追い詰められるアルカードは木々を背に背水の陣というところまで後退し、すんでのところで屈んだ頭上を鞭の一撃が過ぎ去る。
ぎりぎりで『ラルフ』の横をすり抜け、同時に振り向いたところで視線がかち合った。
感情の揺らぎのあとは、アルカードの瞳にだけ浮かんでから沈んでいった。
「………、すまない、ラルフ」
アルカードは覚悟と共に改めて剣を構えた。
このまま何もせず殺されるわけにはいかない。
このラルフが『本体』なのか。それとも『本物』なのか。これを倒せば醒める夢なのか。なにひとつ確証はない。
だがいかな理由があろうと、必要なら手に掛けなければならない。
生き延びるために。
『ラルフ』から相変わらず何も応えはなく、狩人は獲物を狩るために地を蹴った。
アルカードは再度迎え撃つ。
「はああっ!」
正面から突撃する、と見せて、鞭の攻撃が届く直前でアルカードの姿は霧と化す。
現れたのは側面。
『ラルフ』は素早い身のこなしで追撃を避け、鞭を引き付けながら実像めがけて蹴りを放つ。
だがアルカードの姿はまたも残像と消えた。
母の形見の剣に助けられ、まさに目にも止まらぬ速さでアルカードは背後に移動している。
肉を貫く音と、思うよりは軽い手応え。
渾身の一撃が、『ラルフ』の胸を背から貫き通した。
正面から見れば、かつてドラキュラから受けた傷と同じ場所だ。
「ぐ…ふ…、ッ」
『ラルフ』は悔しげに唸り、それ以上抗う力はない様子で崩れ落ちる。
アルカードが見下ろす先で、傷から流れ出たものは血ではなかった。
…なにか黒く淀んだ霧のようなもの。
「……ッ、は」
体中の力が抜けそうになった。
書内で形を与えられた魔力と同じだ。これは本物のラルフではない。
だが倒しても空間に何の変化もないところを見ると、敵の本体でもないようだ。
流れ出た黒い霧は徐々に塊となり、『ラルフ』の姿は目の前で崩れていった。
偽物だったとはいえ、本物と紛うような友の姿を手に掛けたことはあまりにも胸糞が悪い。
憤りを抑えようとアルカードは深く息を吸い、慎重に吐く。
そして、気を抜いている暇などないことを悟る。
闇の奥から再び『ラルフ』が現れたのだ。
外表を取り繕った、獲物への欲望だけで突き動かされる意思なき化物が。
「…貴様ら…!!」
激しい怒りがアルカードの魔力を波立たせる。
友殺しを何度も強要されることは、いかに偽物といえど、自分を、友を弄ばれる怒りは抑えがたい。
アルカードは再び剣を構える。
(偽物とわかれば容赦などいらない。戦わねば殺される──)
いや、もはやアルカードはただこいつらを排除したかった。
許さない。全て壊してやりたい。二度とその姿を表さないように。
血の色をした魔力と本気の殺意をもって、アルカードは『ラルフ』に襲い掛かった。
霧と汚泥が迸る。
『ラルフ』の傷から噴き出すそれは、よく見れば魔力の淀みのような、黒い残存思念のようなものだった。
斬り捨てても次が沸いてくる。
斬っても怒りは治まるどころか増すばかりだ。
「がぁぁああッ!!!」
アルカードは吼えながら戦っていた。
慣れれば、欲望のまま襲いかかってくる単調な攻撃を力で捻り潰すことは難しくない。
全て殺し尽くす。
激昂で朱に染まった視界でアルカードは敵を見、吼え、殺意を振るう。
どさ、と何体目かの『ラルフ』が地に倒れた。
飛び散った黒い残滓の向こうにまた同じ姿を認め、殺意にぎらつく目がそれを捉える。
「いい加減にしろ…!」
怒りに任せてアルカードが飛びかかると、意外にも直情的な剣の一撃は危なげなく防がれた。
「!」
弾かれた剣はそのまま跳ね上げ、左手側から横薙ぎの一閃に繋ぐ。
相手は受けずに剣の範囲外へ跳びのいた。
「………ード、?!」
耳に届いても、脳には届かない声。
アルカードが距離を詰め、ガギン、と再び武器が打ち合って離れる。
狙うのは薙ぎではなく突きだ。
相手の武器をかいくぐって心臓を一突きしようとするも、うまくいかない。
「くそっ、正気じゃないのか…!」
断続的な金属と風切り音が呟きをかき消す。
アルカードの攻撃を見定めるように戦っていた相手が、守りからやや攻勢に転じる。
鞭が高速で翻ると、不意を付かれたアルカードの剣が弾き飛ばされた。
「っがぁ!!」
そのことで余計頭に血が上り、アルカードはそのまま拳で殴りかかる。半吸血鬼の膂力をもってすれば型にもなっていないそれは十分な武器だ。
「おいアルカード!アルカードだろ!!」
ラルフが攻撃をいなしながら声を張り上げている。
(その顔で、姿で、喋るな!)
力任せに殴りかかるアルカードに対し、ラルフは鞭の柄での牽制や、斧やナイフを瞬時に切り替えて攻撃を捌いている。その技術は驚くほど高い。
時折殴りかかる拳の方が血を滲ませるが、痛みも声もアルカードには届いていなかった。
思考と視界を埋め尽くすのは身を焦がす赫怒。
「アルカード!!」
戦いから引き剥がさなければ声は届かない。
そう悟ったラルフは焦り、やむなく決断する。
「ち…っくしょうが!」
強く毒づき、ラルフは左手のクロスをあらぬ方へ放り出した。
そして投擲するもののなくなった手でアルカードの一撃を受け止める。
当然、無事でいられるはずがない。
「ぅぐぁぁぁぁっ!」
「!」
衝撃に次ぐ苦鳴と引き換えに、アルカードの拳を握りこむ形で攻撃は止められていた。
「……………」
ようやく、アルカードの朱に染まった視界が焦点を定めていく。
歯を食いしばりながらラルフは声を絞り出した。
「……っ落ち着け、アルカード!」
「………ラルフ…?」
獰猛な手から力が抜け、体中を沸かす血も潮が引くように落ち着いていく。
狩るのではなく、こちらを見て話をしている。
本物のラルフなのか。
「お前なのか…?」
「……ああ、お前もちゃんとアルカードだな。よかった」
ふ、と息を吐いてへたり込んだラルフから慌てて手を離し、共に地面に膝をつく。
「…どうしてだ?」
「何が?」
アルカードからすれば、散々偽物のラルフと戦っていたところにいきなり本物が現れた理由が分からない。
「戦ってる声が聞こえたからな…目の前で消えたお前を探していた」
「消えた?」
「お前が奇妙な棺に飲み込まれたから、慌てて追いかけたんだよ。覚えてないのか?なんだあれは、どういう仕掛けなんだ?」
痛みを堪える呼吸の合間でラルフは状況を尋ねてくる。
記憶は曖昧だが、夢魔の棺のことだろう。
それとわかる禍々しさにも関わらずアルカードが抵抗する様子もなかったのが不思議だったらしい。
そこから推測するにやはり。
「…恐らく、一種の転送装置だ。歴史の記述を利用することで、効果は限定的と思われるが…」
「歴史というのは?」
「以前の悪魔城で、棺を媒介に夢魔に取り込まれたことがある。だから本の中の俺にはそれと同じ強制力が働く」
アルカードは努めて感情を抑え、顔を伏せたまま、これまでの情報を整理する。
「…だがこの空間には夢魔本体がいない。棺の罠はこの空間に転送するための引き金に過ぎないのだろう。本の中ではあるのだろうが、他とは勝手が違う感じがする」
話の間、ざわざわと闇の隅で蠢く気配はまだ残るが、それらはアルカードとラルフにはもう近寄ってこない。
本物のラルフをアルカードが認識し、姿を模すことができなくなったから。
…つまり、ラルフの姿をとり現れたあれらは、夢魔の『思念』といえる。魔力とともにここに閉じ込められ、夢魔の本能──獲物への欲だけが形を取り、意思なきまま心を覗いてつけこもうとするもの。倒すべき本体がいないのもむべなるかな。
「そいつは、転移というより、落とし穴って感じだな」
ラルフの直感は鋭い。罠に落ちるアルカードに巻き込まれたというわけだ。
ぐ、と込み上げる感情をアルカードはかろうじて飲み込み、言葉を吐き続ける。
「…恐らくはデスによる罠。俺の過去をつぶさに知り、こんな仕掛けを施せるのは奴しかいない。
だが致死を目的としているとは思えない。本の中といえど、空間や悪魔を形作るためには『外』と繋げておかねばならないはず。だがここは空間も内包される魔力も不安定で、そのために出口への道が見つけにくくなっている。つまりは時間稼ぎのために用意された…」
「アルカード」
ラルフが耐えかねて口を挟んだ。
「なあお前…本当にアルカードか?」
「……」
アルカードはずっと俯いたまま黙って拳を握りしめている。覗き込まれると、こらえようがなく身が竦む。
「どうして俺を見ない?」
「…、…っ…」
問いへの答えを発しようとしても、喉がつかえて出てこなかった。
ラルフの顔を見られない。
まともに見られるはずがない──今しがた、本気で殺そうとしたのだから。
いたたまれないアルカードの態度に予想はついていたといわんばかり、ラルフはさらに問い掛ける。
「…俺が来るまでに何があったかは知らんが、大方、惑わされてたんだろ?」
「ち、がう」
(俺は自分の意思でラルフを殺すつもりだった。怒りに任せて殺し尽くしてやりたかった)
最初こそ迷ったとはいえ、本物かどうか分からぬまま手を下したし、最後は感情に任せて襲い掛かった。
本物のラルフに気付くことができなかった。
仲間、などと、友、などと。どの面を下げてお前の前にいられるというのか。
アルカードの豊かな金髪は持ち主の瞳を守るように伏せた顔を覆っている。
「いいから、こっち見ろ」
「ぅ、」
伸びてくる手にアルカードは抵抗するが、自分のせいで負傷したラルフを突き離すことができない。ラルフは痛みをこらえつつ、無事な手で髪をかきあげるようにアルカードの顔を覗き込む。
──血の涙が流れていた。
金の瞳を覆う赤は瞳から溢れだし、流れ落ちた血が噛み締めた犬歯まで染めてもの凄まじい見た目になっているが、伝わってくるのは後悔と悲しみの感情。
「…俺は、俺は、本気で…お前を殺そうとしていたんだ。全てが偽物だと決めつけて…いいや、偽物でも本物でも、構わないと…!殺したいと…!!」
わななく唇で、止まらない涙と共にアルカードは慟哭する。
『あなたはこちら側の住人なのだと、いつになったらご理解いただけますかな──』
いつかのデスの言葉がアルカードの脳裏に蘇る。
否定はしないつもりだった。
人の世にとって自分の闇の血は呪われた不要なもので、敵意を向けられて当然の存在で。
けれど、どちらで生きるかは己が決める、己に恥じる事さえなければ己のまま生きていけると信じていた。
だがこれが本性だ。俺はやはり、一皮剥がれれば、人に牙を剥く魔のものなのだ。
「ラ、ルフ」
──化物ではなく仲間だと、初めて認めてくれたのはお前だったのに。
「…お前には、こんな、見せたく…なかっ……!」
赤い涙が次々と溢れ、アルカードの頬と白い服を染めていった。
「………もうデスをぶっ飛ばせないのだけが心残りだな」
地獄まで響きそうな怒りを声に纏いつつ、ラルフはアルカードの頭を自分の胸元に抑えつけるように抱き寄せる。
まるで子供を泣き止ませるときのそれだ。
「アルカード、あのな、俺はお前に黙って殺されたりしない。それにお前が望んで俺と戦ったんじゃないことくらいわかってる。…やたらに思い詰めるな」
平気な振りはしても、痛ましく垂れ下がった左腕が説得力を削ぐ。
身を呈してアルカードを正気に戻した代償だ。
いいから気にするな、とぶっきらぼうに言って、ラルフはよりアルカードの頭を抱え込む。
「お前は化物なんかじゃない。お前の魂は、俺が知っている」
「…………」
再三、ラルフはアルカードのために胸を痛めてくれる。出自も正体もこだわることなく──その誇り高い魂にアルカードは救われた。
(…根拠などいらない。お前がそう信じているなら、俺はその通りに生きることができる)
ラルフの言葉にはそう信じられる力がある。
「………ぅ、…っ…」
破裂した眼球内の血管は半吸血鬼の治癒力でやがて治り、涙は透明に戻っていく。それでも少しの間、ぽつ、ぽつとラルフの胸元を濡らした。
「すま…ない、すまなかった、ラルフ」
「いいんだ」
幼子のように自分の悲しみを喚き散らし、それから謝罪を口にし、ようやく身体を離す。
(お前を…殺さないで済んだ)
口にはしないまま、後悔の中で抱く安堵感がアルカードの気持ちをようやく解した。
「さて…本題だが、どうやって元の世界に戻る?」
ラルフの問に、ず、と鼻を啜ってから、アルカードは生真面目な顔を取り戻す。
「…確実なのは、外で本を開いてもらうことだろうな。だが俺たちの状況が伝わっているかもわからない以上いつになるか…」
「改めて聞くが、ここは本の中なのか?」
「俺はそう推測している。先に言ったとおり、出口は極限まで狭められているだろうがな」
殺すためではなく、容易に脱出させないための嫌がらせのような罠だ。
「そのせいでこの空間は、魔物が通常の形を取れないほどに魔力が乏しい。道を探しつつ自然崩壊でも待つか…」
「待ってられるか。離れてろ」
今度はラルフがそれとわかる苛立ちを見せたかと思うと、アルカードを強く押し退けた。
「ラルフ?」
力を溜めるラルフの周囲に、ちかちかと光を纏う聖気がゆらぎ始める。
(グランドクロスで空間ごと破壊するつもりか)
負傷していてもそのくらいできると言わんばかりの気迫にアルカードは口を噤む。
「…デスに叩き込む代わりだ」
力を開放したラルフの体が宙に浮かぶと、咆哮とともに青白い十字架の閃光が迸る。
(──…!!)
空間と視界が順に白く消し飛ぶが、苦痛はない。
弔鐘はもう聞こえず、名残を惜しむように歌が聴こえた気がした。
──〈Komm, du süße Todesstunde〉──
どさ、と放り出される衝撃と共に視界が戻ってくる。
書庫の濃い空気と硬い床の感触だ。
「ラルフ!」
すぐに飛び起きて姿を探すと、離れた場所に同じように放り出されたラルフを確認する。
「有角さん…!よかった!」
掛けられた声の方を振り向くとルーシーがいた。
よく見れば、アルカードの姿は有角に戻っている。
ああここは紛れもなく現実だ。
「俺は無事だ。だが、ラルフが…」
地面に倒れたラルフの元にはすでに複数の仲間が駆け寄っており、その手を借りてようやく立ち上がるところだった。
「…心配するな、俺も平気だ。大技で…へばっただけだ。いつものな…」
召喚が不完全なラルフは、瞬間で力を使い果たしてしまう。それは時間を置けば回復するし、負傷した左腕は現実に戻った際に修復されたらしい。ひとまず大事はないといえる。
「なあ、一体何があったんだ?」
「骨野郎の悪あがきだ」
ジョナサンの問に、心から忌々しげにラルフは吐き捨てた。
それでは詳細が分からないので、有角がごく簡潔に説明する。本の中から飛ばされた先の空間に閉じ込められたこと、出口が見付からずラルフが空間ごとふっ飛ばしたことなど、当たり障りない部分を。
「そういや結界をぶっ飛ばすって、ユリウスもやってたよな…」
それを聞いた蒼真がやや苦々しい顔で呟く。
「…そういえばそうだったな」
「ベルモンドってみんなそうなのか」
「それだけの強い力を持っているということだ」
有角はフォローしたつもりだが、高い戦闘技術に加えて力押しの精神を持っていることは否めないなと思ったりもした。
それに幾度も助けられたのだから、感謝の気持ちしかない。
「なんにせよ、お前たちが無事で良かった。急で悪いが仔細を聞かせてくれるか」
ヘルミーナが心配しつつも有角に声をかける。正しく事態の解析を試みる有能な魔術師はこの場において心強い。
「ああ。二度とないよう専門家のお前たちに対策を講じてもらいたい。まず、そちらはどんな状況だった?」
「こちらからは、1797年の記述を辿る最中、お二人の姿が突然消えたように見えました…。それで、手当たり次第に書を探していたら、これを見つけたんです」
ルーシーの手には、小包のようにカモフラージュされていたが、かなり厳重に封がされていた様子の書物があった。
「所長…いえ、デスが管理していた史書の棚の中です。開封に手間取っていたら、内側から破裂するように開きました」
千切れ飛んだ鎖を外し、ぱらりと中身を捲る。
装丁は夢魔の研究に関する本を装っているようだったが、中身は明らかに異様だった。
黒い表皮、黒い頁、全てが黒く染め抜かれた本。黒地に並ぶ白い文字のような羅列。
それは頁が進むにつれ赤く染まり、最後は完全に焼け焦げている。
内容はどれも判読できない。言葉に出せぬ呪いの感情を書き殴ったような本だ。
ラルフに破壊された影響かひどく脆くなっており、焼け落ちた炭のように、有角の手の中でぼろぼろと崩壊していった。
* * * *
「どうして夢魔の影は俺の姿をとったんだろうな」
黒い本の一件後、休んでいたラルフを有角が訪ったとき、雑談のように疑問が呈された。
「…俺と共に取り込まれたのがお前だったからだろう。あの何もない空間で、なりすませるのがお前だけだったということだ」
「ふぅん」
「……」
ラルフは気のない返事をする。納得している感じではないが、反問する根拠もないというところか。
本当に勘が鋭い。
有角の考えでも、本当の理由はおそらく違う。
(──お前が俺の悪夢だったからだ)
1797年の城でアルカードが経験した、友や仲間の姿をしたものを自らの手で斃したこと。
その時は躊躇しなかったが、後年、仲間を大切に思うようになるにつれ、傷付けることを恐れるようになった。悪魔はそういう傷を抉るのが実に得意だ。
そう。
「──ラルフ、お前の存在は人にとっても、俺にとっても希望だ」
ラルフはぎょっとして有角に顔を向ける。
「な、なんだ突然」
「突然か?知っていると思っていた」
「知るわけないだろ…俺はそんな大層なものじゃないって、きちんと皆に言っておいてくれ」
「残念だが、お前はそれほどに大層なものなんだ」
言えば言うほど苦い顔をするラルフに、有角はつい微笑む。
世辞ではなく、全部本音で本当のことだ。
シモンやルーシーに請われてラルフの話をし、二度目の時を共に過ごすにつれ、有角自身も自分の気持ちを理解し始めていた。
ラルフは、自分にとって限りなく大切な者だ。
「…人前で泣いたのも慰められたのも、母以外ではお前が初めてだ」
「俺はお前の保護者か?」
「もう俺の方がずっと年上だが」
「桁の違う話を持ち出すな。アルカード、お前、本質というか…性格は全然変わってないんだな」
「どういう意味だ?」
その反応に今度はラルフが苦笑し、有角は言葉を間違ったかと首を傾げる。いまある感情を伝えたいと思ったのだが、他にどう言えばよかったのだろう。
(ああそうか、礼を言いたかったのだ)
今回も、これまでも助けられてきたこと。
共に戦ってくれたこと、共に戦えること。
心を曝け出し、怒り、詫び、感謝を伝えたい。
(お前がいなければ俺は父を止められなかったし、力も足りず、人を滅ぼす側にすらなっていたかもしれない)
それだけ、ラルフ・C・ベルモンドが成したことは歴史的にも有角にとっても重要すぎると諦めてもらうしかない。
だから本人には重荷だとしても、感謝を。
「なあ、お前が…本当に魔物になったら、俺は殺せるのかな」
笑みの抜けた口からぽつりとラルフが呟いた。
横を向いてはいるが、明らかに有角への言葉だ。有角はまた言うべき言葉を口に出来なかった。
人類の希望たる英雄ではなく、等身大の人としての驚くべき弱音を聞いてしまっては。
「お前はできたんだ。俺だってできなくちゃな」
「夢魔の一件を言っているのか?…できた、のではなく、俺は我を失ってお前を殺しかけただけだ」
答えてから、ラルフが言いたいのはそこではないと気付く。
「…ラルフ、俺を殺したくないのか」
「当たり前だろうが」
ラルフが振り向くと、思ったよりずっと真剣な瞳がかち合った。
有角は驚きの気持ちの方が強い。
(俺が死にたくないと思っているから?いや、仲間を手に掛けたくないのは誰でもそうで…だが、俺はお前を殺そうと…)
有角は魔王の血を継ぎ、完全に人でなくなる可能性がある。もちろん死にたくはないが、もし魔と化したならば止めてほしい。
魔を狩るものに、悪魔狩人以上の適任はいない。
ラルフにそれを求めるのは酷なことなのか。
混乱する。何を答えてよいかわからない。
「…ラルフ。今回のことで、お前を殺さなくて本当に良かったと思って…」
「それは俺も同じだ。…だが、その可能性はいつでもあるんだと…あの骨野郎に言われたみたいな気分で…どうにも」
デスへの八つ当たりのようなラルフの言葉を聞き逃さないよう集中する。
「もしもなんて言いたくないが…お前が戻れなくなった時は、俺が絶対にケリをつけてやりたいと思う。だが、そんなこと絶対にしたくない。逃げ出したいとすら思う。矛盾してるよな…これじゃ」
「…ラルフ」
苦悩するラルフに、申し訳ないが有角の胸は奇妙な熱さをも覚えていた。
これが自分が信頼した男だ。
敵の息子の父殺しに胸を痛め、身を顧みず救おうとする。
そんなにも許されていることが、惜しみない愛情があまりにも力強く、あまりにも心地よくて惹かれている。
「俺はお前と生きたい。生きたかったんだよ、本当は」
ラルフは有角を見据えて言った。
「ああ、俺も今は…そう思う」
自然と胸に染み入る言葉で、驚きなく頷ける。
不思議な話だ。自分たちは一度別れ、本来ならそれで終わりだったはずなのに。
「ラルフ、お前と俺では寿命が違う。立場も役割も違う」
「そうだ。当然俺の方が先に死ぬし、お前も人から離れることを望んだよな。あの時の決断を間違いだなんて思ってはいない。…こうしてまた会えるとは思っていなかったってだけだ」
それも同じだ。
別れを経て、再び出会うことができたからこそ、同じ思いに強く駆られてしまう。
…だからこそかつてはなかった決意が必要になる。
「──アルカード。お前と生きるということは、お前を殺してやる覚悟をもつことなんだな」
「………」
──ラルフに殺されるならいいと、そう言えたなら幸せかもしれない。
だが実際にそうなってみれば、アルカードはただ己が生きるために切り捨てることを選んだ。
(闇に落ちた人を殺めたことは何度もある。リヒターとて俺は殺しかねなかった)
自分も完全に闇のものになればそうなる。
人と魔は殺すか殺されるかだ。
ラルフの側で、今のままでいられるならば。大切だから慈しみ、大切だから共にい続けることができるなら。
だが、ほとんど永遠に近い時間だろうと、いつかは終わりが来るのだろう。
「……お前の言う覚悟を、俺も持たねばならんな」
有角の言葉に、はあ、と抑えきれない苦痛の溜息をラルフが漏らした。
その肩にそっと手を添えると、包むように握り返される。
「…こんな話、もう、今だけで十分だ」
「ああ。だから、ラルフ」
「アルカード」
辛い。逃げだしたい。
怖い。死にたくない。
だが、もしもの時は──大切だからこそ
「俺がお前を、殺さなくちゃな」
「俺はお前に、殺されなくてはな」
共に生きるために死を誓い合った。
──ああ、汝、なんと厭わしき死の時よ。