コン、コン。
静かでなければ耳まで届くことはないであろう、控え目に扉を叩く音が聞こえた。ベッドから身を起こして、音がした扉へと視線を向ける。時計の針はもうじき22時を指そうとしているところだった。こんな時間に誰だろうか。特に誰かと約束はしていない。急ぎの任務ならばまず携帯に連絡が入るし、ノックだけではなく私を呼ぶ声と、要件を伝えてくるだろう。悟ならば「傑ぅ、遊ぼうぜー!!」などと言いながらガチャガチャと壊す勢いでドアノブを回すか、扉を壊そうとする勢いで叩く。毎回壊して、夜蛾先生に怒られるのだからいい加減学んで欲しい。修理依頼するついでに五条をどうにかしろ、と小言を言われる私の身にもなってくれ。硝子ももっと激しく音を立てる方で、それにこの時間じゃ見回りがいるから、女子寮から抜け出すなんて危ない真似はしていないはず。その辺、硝子は抜かりない。できれば明日は午前から任務の予定だから、対応したくないのが本音だ。
訪問者に思い当たる節がないが、扉の先に人の気配を感じて、しばし思案したのち、出迎えることにした。補助監督のどうでもいい内容や夜蛾先生だったら適当に眠いとか明日やるとでも言って追い返そう。時間を考えればまかり通るだろう。億劫な身体を動かして、扉の前まで歩を進める。
「はい、…え、なな、み…?」
ドアノブに手をかけ、扉を開けると、そこには1つ下の後輩で恋人でもある七海が、スポーツドリンクのペットボトル飲料を持って立っていた。今日は灰原と共に任務で遠出をしていたはずだ。帰りが遅くなりそうだから一泊して明日戻ってくる、と夜蛾先生から予定を聞いていたのに。思わぬ訪問者に、心が浮き立つ。
私の反応が鈍かったからか、七海は眉を八の字にして、こちらの様子を伺っている。七海だと分かっていればすぐさま扉を開けて招き入れたのに。悪い事をしてしまった。
「こんばんわ。…起こしてしまいましたか?」
「ううん、起きてたよ。折角きたんだ、中、入りなよ。」
「はい。お邪魔します。」
気分一転。七海を部屋に通し、ベッドを背もたれにして隣合ってラグの上に座る。持ってきてくれたペットボトル飲料を飲みながら今日の任務のことを聞けば、低級呪霊の集まりを祓うだけのもので、怪我もなく思ったより早く片付いたため、泊まらずに高専に戻ることになったそうだ。無事戻ってきたことに安堵しつつ、疲れているだろうに、私のところに来てくれた七海のことを思うと、自然と笑みを浮かべてしまう。灰原は戻ってくるなりご飯を食べて寝てしまったと言うし、早く片付いたと言っても、まだ入学して半年も経たない彼らには重労働だったろう。現に七海もまぶたが重そうだ。受け答えはまだはっきりしているものの、瞬きの回数が多い。眠るまいと抵抗している様子が見て取れた。
「…眠そうだね。疲れたならゆっくり休むといい。」
「いえ…、大丈夫、です。」
こてん。七海の頭が肩に乗り、そのまま私にもたれかかってくる。やはり眠いのだろうか。身体は極力動かさず、顔だけ動かして七海を見る。必然的に見下ろす体勢になっていて表情こそ見えはしないが、髪から覗く耳が赤く染まっていた。
七海から甘えてくるなんて珍しい。そう言えば、ここ最近は予定が合わずに数分会話する程度の日々が続いていた。今日も本来ならば七海は高専に戻らず、明日帰ってきて、その頃には私の方が任務で不在になるはずだった。あぁ、そうか。それで七海は疲れた身体を引き摺ってまで私に会いに来てくれたんだ。メールでの連絡はこまめに取っていたけれど、随分と寂しい思いをさせてしまっていたようだ。
恋人の可愛らしい行動に応えるべく、肩に預けられた頭に手を乗せる。そのままブロンドの髪を梳かすように手を滑らせた。風呂上がりだったんだろう、髪は乾いているが、髪に触れる度にほのかにシャンプーの香りが鼻孔につく。髪を梳かすだけでなく、耳や首筋にも指を這わせれば、七海からはくすくすと小さく笑う声が漏れだす。こんな風に2人で緩やかな時間を過ごすなんていつぶりだろう。クラスは少人数で寮生活だから顔は合わせていたけれど、恋人としての逢瀬は1週間以上前だったか。私の方が七海を気にかけてリードすべき立場であるのに、事情はあれど恋人として不甲斐なかったと猛省する。と、同時に、わざわざ夜遅くに部屋を訪ねてきてくれたことに、七海からの愛を感じて胸が暖かくなる。どうしよう、私の恋人が凄く可愛い。ノック音を聞いて、対応するのが面倒だなんて思っていた私を殴りたい。
「夏油さん…、」
過去の自分の行いに悔いていると、いつの間にか七海がこちらを向いていた。耳同様、顔を真っ赤にして、潤んだ瞳で見つめてくる。そんな顔をした七海を前にして、何も感じないほど鈍くはない。七海にここまでされたのだ。応えない方が失礼だろう。身体を七海の方に向け、両の手で七海の頬に触れる。張りのある肌に指を滑らせて感触を楽しんでいれば、七海のまだ発達仕切っていない白く華奢な腕が私の首に回り、その先を促す様に身体を密着させてくる。どこでそんなテクニックを覚えたんだろう。積極的な七海をもっと楽しみたくて、焦らすようにゆっくりと顔を近付け、鼻先同士をちょこんと当てる。
期待を裏切った私を、緑がかったヘーゼルの瞳が射抜く。これ以上は機嫌を損ねてしまいそうだ。名残惜しいが私も薄く柔らかな唇を味わいたい。あと数センチで唇が触れ合う。と、言うところで私は重大なことに気付いてしまった。
マズい!慌てて手を七海の頬から肩に回し、少々乱暴に七海を引き離した。今にもキスをする、という雰囲気だったのに、突然の私の行動に七海は唖然としている。
「その、七海ごめん!」
「…何、か、」
甘い空気が一変、七海の表情が瞬く間に曇り、剣呑な雰囲気が漂い始める。七海が嫌なんじゃない。愛想を尽かしてもいない。でも、本当に今は駄目なんだ。変に誤解を招く前に急いで口を開く。
「今日七海が帰ってこないと思ってたから、夕飯に蕎麦を食べてしまって…、本当にすまない。さっきまで忘れていた。」
理由を話せば、七海の表情は和らぎ、ほっと息を吐いた。
七海は蕎麦アレルギーだ。
そのことを知ったのは七海と付き合い始めてしばらくしてからだった。初めてキスをした日、七海は直後に目を充血させて涙を流し始めた。次第に息も荒くなり、泣くほど嫌だったのかと盛大に焦ったのは、私のトラウマになりつつある。慌てて医務室に七海を連れて行き、症状が落ち着いたのち、七海からアレルギーの症状だと聞かされたのだ。その日は昼飯に蕎麦を食べていたのが原因だった。
比較的軽度だから、と、今までも私の食事の誘い(オススメの蕎麦屋)に我慢して付いてきていた(但し、うどんや丼を頼んでいた)と聞かされた時はそれはもう凹んだ。アレルギーは舐めてはいけないものだ。その後、一悶着あった末に、私が七海とデートする日や、互いの時間が合いそうな日の数日前から蕎麦を禁止することで落ち着いたのは記憶に新しい。
しばらく七海とは予定がすれ違うから、と油断していたのが裏目に出てしまった。何故、今日に限って蕎麦なんか食べたんだ私は。今日の食堂のメニューが蕎麦で、私の好物だったからだ。頭を深々と下げて七海に詫びれば、頭を上げて欲しい、と優しく諭される。言われた通りに頭を上げると、七海は御座をかいている私の上に乗り、再び首に腕を回してくる。
「七海、…キスはできないよ。」
「分かってます。」
回された腕に力が入り、七海の方に身体が引き寄せられる。と、同時に頬に柔らかいものが当たる。
「夏油さんからはできませんけど、私からなら、できますよ。」
相当勇気が必要だったのだろう。再び顔を赤くしたのち、その顔を隠すように私の胸に押し付けてくる。なんて可愛らしいことをしてくるのだろう。今すぐ七海にキスをしたい。至る所に口付けをたくさん落としてイチャイチャしたい。が、そんなことをすれば七海が苦しんでしまう。とりあえず両腕で七海を包み込み、ぎゅうぎゅうと抱き締める。
生殺しって想像以上にきついな。もう何度目かも分からない、本気で蕎麦断ちをすべきかどうかを思案しながら、今日は腕の中の七海を目一杯甘やかすことにした。