パブロフの犬夏油と七海のデートは、無計画である。
寮住まいで衣食住を共にする身であり、高専で学びながら呪術師として任務に出向く2人にとって、予定など立てるだけ無駄なのだ。立てたところで急な任務で呼び戻される、先生が不在で授業内容が変わるのが日常茶飯事なこの界隈。未成年も休日も深夜早朝も関係なく働かされてる上に怪我や死亡率も高い、一般に認知されればブラック企業堂々の殿堂入りを果たすであろう呪術師という道を選んだ時点で、私生活など無いに等しいものだ。
特に片手で数えられる程しかいない特級に分類される夏油は多忙を極めていた。そのうちの何割かは自身の身から出た錆、五条とともにはしゃぎすぎた結果でもあるのだが。
だから自然と、七海が夏油の休みと翌日の予定に合わせて、それでいて万が一、呼び出されても高専に戻れるような範囲に出かけられそうならば行く。良くて前日、大半は当日に突然決行する。数十分だけの部屋でのつかの間逢の瀬もあれば、外泊届を出して濃厚な時間を過ごすこともある。どうなるかはその時次第。それが2人にとってのデートだった。
今日のデートは珍しく2日前から決まっていた、朝から夕方までの長時間の日帰りだ。協議の末、翌日に双方任務があるので外泊は諦めることにした。
当日に目的地を決めるような2人からすれば、2日も考える猶予がある。夏油からの、七海をエスコートしたい、という申し出を快諾した七海は何も聞かされることもなく、当日、夏油に導かれるままにあちらこちらへと連れ出された。
年相応に楽しめるショッピングモールから始まり、少々どころではなく値の張りそうなランチに、直ぐに行けそうだからこそ中々足を運ぶ機会のない観光名所巡り。景色を楽しむ場所が多く、静かに見て回ることができた。
初めての計画的な、そして計画通りに終わったデートに夏油も七海も大満足である。あとは高専に戻るだけ。最寄り駅で降りて、高専へと戻る。駅周辺はそこそこ栄えているものの、高専に近付くに連れて人の気配が薄れゆく。
「七海、もういいよね?」
高専が辛うじて視界に入るかどうか、というところで、夏油が七海に身を寄せる。ほんの少しだけ周囲を見渡してから七海が控え目に頷くと、夏油はすぐそこにある七海の手を取った。
高専という狭いコミュニティーの中で付き合っているなどと知られれば、周囲に茶化されることが目に見えている。それに、恥ずかしい。だからスキンシップは互いの部屋の中か、高専以外で人気のない場所でだけにしてもらいたい。後者が本音であろう、思春期らしい七海の可愛いお願いを、夏油は律儀に守り続けている。
生活を共にし、2人して外泊届を出すものだから付き合ってひと月と経たないうちに夏油と七海が付き合っていることは同級生達にバレていることを、七海は知らない。バレているなら一目を気にせずあれこれできるのだが、七海の意見を尊重して夏油はバレていることを伝えずにいる。誰にも知られていないと思い込んでいて、ひた隠しにしようとする七海が可愛いから、というのも理由の1つだ。
夏油に握られた手を、七海も控えめに握り返す。代謝のいい夏油の手は、終日歩き回っていたこともあって温かい。素手での近接戦もめっぽう強く、訓練と任務の賜物であろう、分厚く決して滑らかとは言い難い皮膚と骨ばった夏油の手が、七海は好きだ。触れる度に夏油のたゆまぬ努力と特級たる強さを垣間見えるからだ。己のまだ柔く、鉈でできた豆だらけの歪な手も、いつかこの人のようになるのだろうか。
繋いだ手の温もりに、はたと気付く。人の多いとこばかり巡ったため、恋人らしい触れ合いはこれが今日初めてだ。何せデートはいつできるかも分からず、時間もまばら。3時間もあれば大概、ホテルになだれ込むのが常だからだ。夏油も七海も、高専という特殊な環境にいると言えど健全な男子高校生。ましてや好きな人と共に生活を送っているのだから、その分、欲もたまるというもの。
歩みは止めず、その間も七海の手の形を確かめるように、夏油の指が滑る。帰路の途中であり、夏油はようやくできた2人きりの時間を堪能するための行動に過ぎない。寮に戻れば離すことになるこの手を、この距離を、なるべく長く続けたい。そのために、あえてバスよりも遠い電車で帰ることにしたのだから。
だが、気付いてしまった七海は違う。長時間外に私用で出かけるということは、理性を解き放ち、欲望のままに睦み合うこと。だというのに、今日はホテルにはおろか、キスすらもしていない。手を繋いだのも今が初めてで、高専の門はもうすぐそこまで迫ってきている。今もなお続く夏油の手遊びだって、今の七海にはベッドの上の愛撫を思い出させてしまって、知らず知らずのうちに腹部に熱が集まり、触れられてもいない奥が疼きだす。
「…っと、七海?」
突如、手を痛いくらい握られて夏油は声を上げる。横を歩く七海を見ると、夕焼けだけではない、耳まで真っ赤に染めてこちらを見上げていた。門の手前までこのままでいるつもりだったが、流石にダメだったか。離そうと絡めた指を解こうとすると、七海が更に力を込めてくる。上手くいっていたデートだったのに、最後の最後に七海の機嫌を損ねてしまうだなんて詰めが甘いな。原因が分からず、夏油は足を止め、七海を待つ。
「っ、あの!」
「うん。」
身構えていた夏油に、思いもよらない言葉が紡がれる。
「このあと、っ部屋、行ってもいいです、か?」
照れ隠しから、七海は夏油の答えを待たずに俯いてしまう。そこで夏油も、今日はキスの1つもしてなかったことに気付く。七海の言わんとすることを理解し、空いている手を七海の顎に添えて、顔を上げさせる。羞恥ではない、熱に浮かされ潤んだ瞳とかち合う。もし、門の側に人がいたら見られるかもしれないが、いいだろう。
ふに。キスと呼べるかも怪しい、唇を軽く押し付けるだけの行為。それでも七海の持て余す熱を煽るのには充分だった。
「続き、しに行こうか。」
離れる夏油の手。今度は追わずに七海からも解く。少し前まで名残惜しかったはずの道を、夏油と七海は足早に駆けていった。