鞍馬山神隠し事件 まただ。俺は、ぼんやりしながらグラスに口をつける観音坂さんを見つめた。このひとは、酒を呑むときつまみを食べない。大勢で呑むときも、サシで呑むときもそうだ。かつて空きっ腹のまま酒を呑むと悪酔いすると忠告したことがあるが、すみませんと苦く笑ってそれきりだった。チーズは嫌いですか。ナッツもありますよ。トマトが平気ならカプレーゼでも。この店はウイスキーに合うチョコレートを出してるんですよ。あのとき俺は必死だったろうか。それでも、僕のことは気にしないでくださいと、観音坂さんはグラスを両手で握りしめて離さなかった。意外と頑固な一面に俺は意地になりかけたが、すみませんとちいさく縮んでいく彼にそれ以上なにも言えなかった。楽しそうに笑っている彼を肴にしてこそ、俺の酒はうまくなるからだ。ショットグラスを傾けて、午睡のさなかにいるような彼が浮かぶ琥珀を飲み干す。ふと、思った。そういえば、酒の出ない食事会の席でも観音坂さんが箸を握る姿を見たことがない。彼はいつも興味がなさそうな顔で他人の話を聞いてやりながら、水を飲んでいた気がする。待てよ。彼がなにか食べているところを、俺は一度でも。考え込んでいると、おずおず名前を呼ばれて我に返った。俺の話つまらなかったですか。観音坂さんは捨て犬のようなまなざしで俺を見つめてそう言った。俺の話か。どの口が言うんだよ。俺は笑ってしまった。そんなことはありませんよ。でも、できればもっと別の話も聞かせてください。そうだな、たとえば、あなたがいつもひと前で物を食べない理由なんてどうでしょう。俺は見逃さなかった。そのとき落日の燃える凪の海に波が立った。気のせいですよ。いいえ、そんなはずはありません。どうして言いきれるんです。そんなことも分からないほど、あなたはいつも伊弉冉さんの話をするのに夢中だったのですね。俺が悪い顔で笑うと、観音坂さんは眉間に皺を寄せてグラスから手を離した。そして俺がひとりでつまんでいたカナッペをひとつ口に入れると、飲み代を置いて席を立ってしまった。・・・・・・やっちまった。
*
家に帰って吐いた。とにかく吐いた。プラスチックを飲み込んだ海鳥は、内臓に穴を空けたり、餌を消化するスペースを失って栄養失調になったりすることで、いのちを落とすのだと聞いたことがある。俺もたぶん、似たようなもんだ。やがて吐き疲れた俺には立ち上がる気力も残されていなかった。それでもなんとか、床にへたりこんだまま携帯電話の発信ボタンを押した。そこから朝までの記憶がごっそりない。目が覚めるとあたたかいベッドで横になっていて、一二三がすぐそばにいてくれた。すげぇ心配したと額にくちづけられると同時に、ぐうと腹の虫が鳴いた。食欲はないが、腹は減っているらしかった。俺は居たたまれなくなって毛布のなかでまるくなった。見えなくても一二三が笑ったのが分かった。毛布越しに俺をぽんぽん撫でると、一二三は部屋から出て行った。静まりかえった暗い毛布のなかでじっとしていると、昨夜のできごとがよみがえってきた。理由なんか俺が知りたい。いつからこんな身体になったのだろうと考えるとき、いつもまっさきに思い浮かぶことがひとつある。俺は物心つく前、家族旅行中に行方不明事件に巻き込まれたことがあるらしい。らしいと曖昧なのは、俺自身がまったく憶えていないからだ。当時の新聞記事を見せられても釈然としなかった。俺には家族と楽しく鞍馬山に登った記憶しかないのだ。それなのに俺は確信している。失われた七日間のあいだに、俺を変えるなにかがあったのだと。長い長い時間をかけて俺を変えていく、そのはじまりが。次に視界が開けたとき、一二三はちいさな土鍋を持って笑っていた。いいにおいがしてまた腹が鳴った。鍋焼きうどんだった。どうしても一二三が譲らないから、差し出された箸から一口食べた。それからもう一口、もう一口と食べた。おいしくておいしくてたまらなかった。この手の作るものだけが、物を食べておいしいと感じるあたりまえの感覚を思い出させてくれる。食べることは生きること。俺が掴まれたのは、胃袋だけではないのだ。
じゃりじゃり。なんとか箸を譲ってもらい、自力でのろのろ食べていると、麺をすする音のなかに違う音がまじって聞こえるのに気がついた。じゃりじゃり、じゃりじゃり。なんだろうと思って顔を上げると、一二三が金平糖を食べていた。昔からよく食べていたが、そのたびに指先には星がまたたいていた。一二三が触れているものはいつも、たとえどんながらくたでも美しく見える。この世のものとは思えないほどに。じゃりじゃり、じゃりじゃり。俺、ずっと昔にもこうして誰かのとなりでこの音を聞いていた気がする。そのひとは俺にも分けてくれた。たくさんくれた。じゃりじゃり、じゃりじゃり、与えられるまま食べつづけた。だから山の麓で保護されたとき、口のなかが痺れるくらい甘かった。金色の鳶がくれた、天からこぼれ落ちた実だ。もう二度と食べられないと思った。でも、それから小学生になってはじめてできた友達が、毎日のように自分のおやつからすこしずつくれたんだ。
おっ、うどんぜんぶ食えてるじゃん。がんばったなぁ、えらいえらい。俺っちの独歩はおりこうさんだ。いい子にはご褒美あげんね。ほら、あーんして。
こんなふうに、山で手を引かれた日から、今日までずっと。
俺が自分の足で戻り、なにも憶えていなかったことから、事件は誘拐ではなく遭難による行方不明として報道された。
でも、地元の山をよく知る人びとは口をそろえて別の呼びかたをしていたそうだ。
(20211113 鞍馬山神隠し事件/天狗)