(腐)爪切りと世界一かわいい恋人!(水麿) 背後で先程からずっとそわそわ動いている気配。ついほくそ笑んでしまう。自分は悪い男だろうか。
夕餉と湯浴みを終え、棚から物を取ろうとした時に指をぶつけて、右手中指の爪が少しだけ欠けた。欠けるほど伸びてしまっていたのかと少し驚いた。
水心子には恋人がいる。源清麿というずっと親友だった相手。その肩書きは今も変わらないが、恋人がひとつ追加された形だ。その彼と恋仲らしい行為に及ぶ時はいつだって爪を整えていたので、今日欠けた爪はそのまま二人が肌を重ねていない時間の長さを表していた。
ああそんなにしていなかったかな。そう思い、水心子はまあそれで片付けた。ひとまず爪を切らなければ引っかかるしまた欠けるかもしれないので、爪切りを取り出してごみ箱に向かい始めた訳だが。
その直後に部屋に戻ってきた同室の恋人の反応が面白いのだ。
『水心子、お風呂に石鹸忘れ――』
そこまで言って彼は止まった。不思議に思い振り向いた水心子に、彼ははっとした様子で顔を真っ赤に染めて、何故か一度謝り、石鹸忘れていたよここに置くねと取り繕うように笑った。
やっとピンときたのがその時だった。清麿は水心子の手元をさりげなく窺っている。手元といえば爪を切っている。爪を切る、イコール、何か。
それからは彼に背を向けて座っているけれど、見せていない自分の顔はもう盛大ににやけてしまっているのだ。だって可愛くて仕方がない。きっと彼は今、今夜抱かれるかもと意識してしまっている。久方ぶりの恋人らしい触れ合いの予感に、そわそわと、落ち着かない様子で。
ふと口が開かれる気配がした。躊躇うような間のあと、ええと、と珍しい言い淀み。
「す、いしんしは、何時に寝るのかな?」
奇妙に揺れる声。声が笑わないよう気をつけながら返す。
「何時かな。早く寝ちゃってもいいかなって思ってて」
「……早く、って、何時くらい?」
「これ切り終えたら寝ちゃおうかな。清麿まだ起きてるなら、電気はつけててくれていいから」
ちょっとした意地悪をしてみる。背後で感じる気配が、しゅんと落ち込んだ。――ああ、なんだ、ほんとに期待してくれてたんだ。
「でも、清麿が夜更かししたいなら、起きてようかな、やっぱり」
「!」
途端に明るくなる気配。もう水心子はずっとにやにやとしている状態だ。なんだこの恋人、可愛いが過ぎる。
少しだけ沈黙が落ち、部屋の中にはゆっくりと爪を挟む音が時折鳴るばかり。
どうやらやっと意図を察したようで、清麿が拗ねかけの声で呼んできた。
「……水心子、やけに時間をかけて切っていない?」
つい吹き出してしまって肩が震える。あー! と清麿が立ち上がり、肩を掴まれて振り向かされた。
鼻の頭まで真っ赤な顔で、彼は唇を震わせていた。水心子は笑いが止まらず、口元に手を当ててくつくつ笑う。
「い、いじわるさんだ! 僕が何を考えていたか、分かってわざとゆっくりしていただろう!」
「ごめん、だって、きよまろ、かわい……ふふ……っ」
「笑わないでよー!」
普段のミステリアスな空気は見る影もなく、清麿は涙目で頬を膨らませついにはそっぽを向いてしまった。ああよくない、このまま怒らせてはだめだ。
膝立ちの彼を見上げ、手を伸ばして頬に触れる。跳ねた肩を愛しく思いながら、滑らかな肌の感触に嫣然とした。
「……したくなくなっちゃった?」
清麿は顔を顰め、ずるいよと呟く。
「……僕が……水心子としたくないことが、ある訳ないじゃないか……」
腰も振り向いて、全身で彼のほうを向く。切り終えた爪のある指を彼の頬から離し、両腕を広げた。
清麿がこちらを見る。せつない瞳がまるで行為の最中のように濡れて揺れていた。かわいい、きみが、きっとこの世でいちばんかわいいよ。
「……おいで、清麿」
微笑むだけで魔法が使える。飛び込んでくる体温を抱き止めて、僕は、掴んで放さないから。
「水心子の、ばか、卑怯者、おたんこなす! ほんと、もう、君なんか、きみなんかねえ!」
「好きだろ?」
「大好きだよ!」
もう嫌だ、と茹だった顔で呟くのがあまりにも愛しくて、その耳元に『布団なしでしてもいい?』と問いかけたら、彼は身をよじって耳朶から遠ざけながら恥じ入るように頷いた。