2025-05-01
首筋に傷がある。ビクトールのやつ、思い切りかみつきやがって。明らかに人の歯型の傷を人目に晒すことは出来なくて、手持ちの中でも襟の高い服を選ぶ羽目になる。本格的に暑くなる前に消えれば良いんだが。
帰りたいと望みながらも、恐ろしくて帰れない。そんな故郷への旅路に付き合った。10年たった町は朽ちて枯れ、人っ子一人いやしない。それが事実だった。皆が生き返ることはないし、かといってまったくもって姿を変えているわけでもない。10年が10年として振りつもった景色を、ビクトールがどう思ったのか。
襟元を引っ張りながら部屋を出た。今日は一人だ。ビクトールはと言えば、何やらミューズから客人が来るとか何とかで、朝から出かけている。うれしそうな声をしていたからきっと仲のいい友人とかなんだろう。敵も多いが、同じぐらいかそれ以上に好かれている奴だ。
窓から外を見れば、真っ赤な夕焼けだった。早めに夕食に出てしまおう。ビクトールはきっと帰るのも遅いに違いない。
よく考えたら、一人で夕食をとるのは久しぶりだ。明かりが灯り始めた町には、俺と同じように夕食を求めて出てきた人たちがたくさんいた。まだ聞きなれないデュナンの言葉が耳をくすぐり、一瞬面食らってしまうデュナンの言葉で書かれたメニュー表にくらくらとする。
サウスウィンドウはにぎやかだ。時が止まったようなノースウィンドウとはまったく違う。
適当に目についた食堂の戸口をくぐった。砂漠で嗅いだ事のある、スパイスの香りが鼻をくすぐる。トランにいた時にはなかった香りに、ここが異国であることを思い知るし、自分がなぜここにいるのか分からなくなる。
ビクトールに連れてこられたからだ。
なぜ。
「いや、なぜではないな」
通された席につき、適当に注文をする。背もたれに体重を預け、伸ばした首に痛みが走った。
ビクトールが連れてきた理由はなんとなく知れている。証明が欲しかったんだろう。自分はネクロードを倒したのだと知っている人間が欲しかった。それだけだ。
姿勢を戻して首を撫でる。撫でる手から伸びる皮膚にも斑な痣があった。俺がここにいる事が信じられないみたいに、でかい手で握りしめて、力いっぱい抱き着きやがって。
「ええー、ベッドで噛みつくの?」
突然、隣で女性が声を上げた。連れの女性が眉をひそめるが、それはリアクションの大きさを咎めるものではないらしい。首筋に流した髪をかきあげてみせる。
「ほらここ。俺のもんだぁって」
「うわ、ほんとだ。何、あんた許可したの」
「うーん、拒否はしなかったかなあ。私もちょっと興奮したけどさぁ」
ベッドを共にする相手の独占欲を笑われると若干居心地が悪い。分からなくもない感情だが、実際つけた事はなかったな。なんとなく、オデッサが困るような気がしたから。
ビクトールは触れ合える事を残しておきたかったんだろうか。10年かけてネクロードを倒した。過ぎさった時間の証明がここにあることを何度でも確かめたかった。握りしめた程度じゃあ別に崩れもしないから、俺は別にかまいやしないんだが。
そばにいてほしいと望まれたから、そばに居る。どこにいたって一緒なんだから。
でもビクトールは故郷に帰った。じゃあこれでお別れなのかもしれない。友人に望まれて、また新しい人生を始めるのかもしれない。ネクロードを殺したことをきちんと飲み込めたのならば、俺の役目はもう終わりだ。
それを惜しいと思っているんだろうか。
運ばれてきた料理は、ビクトールに連れてこられなければきっと見ることもなかっただろう。
女性たちがまた笑う。首筋の傷を撫でる指先はどこか誇らしげだ。