2025-05-05
風のよく通る洞窟に私を置いていった男が帰ってきた。理由など一つだ。かの吸血鬼が生きていた。それ以外にビクトールが私を取りに来るはずがない。
写し身の術とはまったく生意気この上ない。次こそ完全に滅してやろう。とはいうもののビクトールにも手がかりはなく、カーン・マリィとかいう若造が代わりに探ってくれる手筈となった。ビクトールもそれを良しとし、私は奴の背中の上で戦争に加担する事となるらしい。
吸血鬼とは関係がない事を優先したのか。
ハイランド皇国とやらの軍を打ち破った。今は集まってくる人間を訓練したりする職務を真面目にこなしている。私を背負っていると目立ちすぎるとのたまったビクトールは、基本的に私を自室に置きっぱなしだ。
湖の真ん中に立っていた城では、そんなことはなかった。吸血鬼を滅したことをまるで信じられず、いつかまた襲ってくるんじゃないかと怯えるように私を握りしめ続けていた。
かつてとは違う。
カーンの奴に任せたのもそう。ネクロードの事だけを見るのをやめたのもそう。
「何やら変わったなビクトールのやつ」
「うわ、びっくりした」
狭い部屋にビクトールと押し込められたフリックに言えば、無礼な事にまず肩を跳ねさせた。私が話しかけることなど絶対に有り得ない、と言わんばかりのリアクションにない眉根が寄る気がした。
散ったインクを思わずこすってしまったらしく私とは違ってよくわかる形でしかめた顔はビクトールが私を手放した頃と変わらず、ずいぶんと整っていた。書き損じになってしまった紙を横へやるフリックと視線を合わせて浮かび上がってやる。
これで多少は話しやすかろう。
「ビクトールが変わったって?」
これを機に休憩でもするつもりなのか、立ち上がって戸棚を開ける背中を追いかけても特に気を遣うでもないのは今までと同じだ。
「ネクロードの奴が生きている。かつてなら、それはあやつにとって許されない事実だろう」
ポットの水が紋章の力でふつふつと湧き上がるのをフリックはぼんやりと見ながらそれでも私の言葉には頷いた。
「三年前なら、今頃ここにはいなかっただろうな」
温めもしないティーポットに、缶から直接茶葉を振り入れる。三年前、ビクトールは明確に壊れていた。ネクロードのためなら何でもやっただろう。子供を見捨てることだって、奴にとっては何一つ苦ではなかったはずだ。事実、自らが戦争に巻き込んだ子供を、あの男は見捨てたではないか。
ではなぜ今はそうではないのだ。あまつさえ、誰かに任せて自分はネクロードから一時的とは言え目を逸らすなど。
沸いた湯を注ぐ位置は高い。湯の落ちるいびつな音が狭い部屋に響いた。
「実際、ちょっとおかしかっただろう」
剣を握る手が震えていた。タイラギを見る目と遠くを見る目が揺れていた。
「まあ、悩んでるんならひとりにはならない方を選べって言うぐらいはな」
「お前が言って聞くものか」
「もう俺ぐらいしか叱り飛ばせないよ」
目を細めるフリックが誰かを偲んでいるのは分かったが、その相手がビクトールにとってどれだけ大切か私は知らない。ひっくり返し忘れていた砂時計を返した指先が、そのまま砂時計のふちを撫でた。
「俺だって死んでほしくはないからな」
ふむ。確かにそれは同感だ。面倒な男ではあるが、私の今の主人であることに変わりはない。幸福であれと願ってしまう。洞窟に縛り付けられるのは業腹だが。連れまわせばよいだろう。私以上の剣など、存在しないぞ。
私と言い、こやつといい、カーンの坊主もしかりだ。ビクトールの周りには人がいる。ずっとおっただろに、それに気づくことができなんだ不幸を、どうやらあやつは何とか解消したらしい。
めでたい事だ。
そう言ってみれば、フリックは一瞬だけ虚を突かれたように目を瞬かせたが、それでも最後には柔らかく微笑んで見せた。