布越しの君水平線がゆっくりと上下に動く。
こんなに高い目線で世界を見たのは初めてだ。
「アクタルは随分鍛えてるな」
菩提樹で懸垂をして君もやってみるといいと誘ったら私はあっという間に肩車をされていた。
アクタルはそのまま屈伸を始める。
物の見事に私を軽々と持ち上げては「兄貴は羽のように軽いなぁ」と口にするアクタルに、私は喜ぶべきか否か複雑な心境になった。
「バイクの修理工は意外と力仕事だぞ!エンストしたやつを店まで押すのを手伝ったり!タイヤを持ち上げたり!」
アクタルは私を地面へ降ろすと誇らしげに胸を張った。
「んん……アクタル。君が力持ちで親切なのはいい事なんだが、同僚からいいように扱き使われていないか?」
要らぬ心配なのは分かっているがついつい聞いてしまう。
彼の事だから見ず知らずの他人に急に金が必要だと縋られたら持ってるルピーを全て手渡してしまいそうで危うい。
――アクタルは、人を疑わなさ過ぎる。
私だってその気になれば君の善意を利用する可能性だってあるのに。
「えっ?職場の皆はいい人達だぞ?それに、おれは頼られるのが好きなんだ!兄貴もおれを頼っていいんだぞ?」
屈託なく笑うアクタルに私は罪悪感が襲った。
ああ、純朴で純粋な君に邪な考えが過ぎるなんて。
「私が、君を?」
私はアクタルを頭から爪先までまじまじと眺めた。
どう見てもアクタルは可愛い弟でしかない。
頼るというよりひたすら甘やかしてしまいたくなる不思議な魅力が彼にはある。人懐っこい笑顔や、コロコロ変わる表情、難しい言葉は素直に意味を聞いてくる実直さ。
アクタルは、頑なに閉ざしていた私の心の扉をいとも容易く開けた。いや、正確に言うと扉を飛び越えてこちら側へやって来た。そして私はそれを嫌悪感すら抱かず自然と受け入れ、子供還りのようにアクタルと過ごす充実した日々を重ねている。
使命を忘れた訳では無い。父と約束し、シータやゴーダヴァリ川へ誓った。村人全員に武器を。解放戦争を。
その為に敢えて英国側の警察になりあまつさえ同胞を白人達へ差し出した。そして私は昇進の為にゴーント族の羊飼いを追っている。いずれはアクタルとの関係は終わる――、その事実が澱のように私の心を蝕んでいった。
「なんだよぉ。言っておくけどおれは兄貴より筋肉量あるんだからな!?」
不満げに唇を尖らせるアクタルにどうしようもなく愛おしさが込み上げる。いつからだろう。君を、このまま草むらの上に組み敷いてしまいたいという衝動に駆られるようになったのは。
「ははっ、自慢か?」
「幾らおれが食べてばっかいるからってそれはねぇだろ!?ほら、触ってもいいんだぞ!此処とかガチガチだろ!」
アクタルに腕を引っ張られ真っ白なクルタシャツ越しに腰へ導かれた。服の上から触れた腰は思いの外括れがありしなやかな筋肉で覆われた肉体を布越しに感じる。
いけない事をしている気がして……私は咄嗟にアクタルの脇腹を擽った。
「隙だらけだぞ、アクタル」
「うわっ!?ひゃあっ!あっはっは!バイヤ、やめてくれよ!勘弁してくれ!」
身を捩らせて笑うアクタルに、私は心の中で小さな火種が一気に大きく燃え上がる。
燎原の炎が焔色に広がりちりちりと焼き尽くす。
――私は、ほぼ衝動に駆られるがまま、アクタルを抱き締めていた。
「バイヤ(兄貴)?」
「君は、星になって消えたりしないよな?」
アクタルの肩口へ頭を埋める。アクタルは私がいつもそうするように髪を軽く梳いてくれた。
「兄貴。おれは、ここにいるから。星だって、昼間見えなくても夜になれば空に輝くだろ?だから、大丈夫だ」
ああ、布越しの君は。
甘美なまでに安心するな。