シャングリラで口付けを唇に柔らかい感触が触れてくる。
闇からゆっくり意識が浮上し重い瞼を開けると、目の前に端正な面立ちがあった。
「んん…アンナ…?」
寝ぼけたままつい癖で『兄貴』と呼べば、おれを抱き締めたまま美丈夫が苦笑を浮かべる。
「おはよう。起こしてしまったか?」
目を覚ませばすぐ隣に愛おしい人が居る生活なんて凄く幸せでふわふわした気持ちになる。
「らーま、」
おれは舌っ足らずのまま名を読んで素肌のままの胸板に額を押し付けた。
「どうした?今日の君はいつも以上に甘えてくるな」
くすくすと笑って長い指がおれの巻き毛をくるくると梳く。
なんだかくすぐってぇ気分になる。こんな風に大事にされて大切そうな眼差しを向けられ、愛される喜びに泣きそうになる。
「いいだろ。おれはタンムルゥなんだから」
ラーマはおれの言葉に上向かせ額にキスを落とす。
そんな仕草すら様になってると感じてしまうのはきっと惚れた弱みだ。
「ベッドの中では伴侶だろ?」
掠れた甘く低い声にぞくりとする。熱の篭った眼差しにくらくらしてしまう。
いや――おれはきっと、出逢った瞬間からラーマに惹かれていた。
デリーの街で理不尽に虐げられ、マッリを救う為の手立てもなく、頼れる伝手もないおれに……手を差し伸べてくれた。
あの頃は『アクタル』だったけれど、それでも親友としてラーマと過ごした日々はキラキラした宝物で。
一度は袂を分けてしまった事もあったけれど、おれ達はまた再び絆を取り戻す事が出来た。
逢いたい気持ちが募ったのは、互いに故郷へ帰ってからだ。
手紙のやり取りだけでは満足出来ず逢瀬を繰り返すようになったのは自然の事で。
そしてある日、告白をされたんだ。
『君を愛してる』
切羽詰まった顔で言われ、おれはラーマのその表情にやっと自分も同じ気持ちなのだと自覚した。
その日の夜おれは初めてラーマと繋がった。
夜伽の経験すらねぇおれをラーマは丁寧に優しく抱いてくれた。睦み合いをしながら、おれとラーマは幾度も唇を求めた。
いつしかおれとラーマの間にあった枷もなくなり、おれとラーマはお互いを人生の伴侶に選んだ。
それでも、今でもラーマとの口付けは、ドキドキして夢見心地になる。
「そ、そう改めて言うな……照れるだろ」
きっとおれは今真っ赤に違いねぇ。夜明けの澄んだ空気の空が窓の外を彩っているこの部屋はまだ冷んやりとしているのに、頬だけが熱くて仕方ねぇ。
「ふふ、今更恥ずかしがる事か?」
少し意地悪な口調でラーマは猫のように目を細める。
普段は知的で落ち着いていて物静かな癖に、時々こんな風に悪戯好きの少年みたいになるラーマが、おれは好きだ。
「だっておれ、ラーマとこういう関係になれたのが未だに夢みてぇで」
「夢じゃないさ」
間髪入れずに畳み掛けるように答えられておれはぐっと続く言葉を飲み込む。
「――ああ」
「証明するか?」
ラーマは恭しくおれの手を取ると手の甲へと唇を落とした。
ああ、やっぱりラーマは王子様だ。
「あっ、兄貴、分かったから、もういいから」
そわそわした気分で手を引こうとしたが、思ったよりずっと強い力で抱き寄せられちまう。
「私がもっとしたいんだ。駄目か?」
窓から差し込む朝日に照らされたアンバーブラウンの瞳は、まるで宝石みてぇで。
おれはこの瞳にめっぽう弱い。
「駄目じゃない……」
弱々しく震える声で返すので精一杯だ。
ラーマは嬉しそうに唇で弧を描くとそのまま長い睫毛を伏せて頬を撫でてきた。ゆっくりと肩へ口付けられる。
羊飼いの証である刺青を、まるで神聖なもののように。
ラーマの唇はそのままおれの鎖骨、首筋を辿るように移動する。擽ったさともどかしさでおれは身を捩る。
「ふはっ!アンナ、虎みてぇだぞ!」
「そうか?君に残した所有痕を消したくないだけなんだが」上目遣いが弓矢のように射抜いてくる。
褐色の肌に赤い斑点が微かに残っていて、散々昨晩愛された記憶が甦ってくる。おれはラーマが見せる独占欲にいつしか嬉しいと感じるようになっちまった。
「ラー、マ」
口付けられた場所が火照る。じわじと全身が燃え上がっていく。
おれは、この熱になら全身燃え尽きても焦がされてもいいと思った。
「ビーム、どこに口付けて欲しい?」
ちゅ、と頬と髭の境目を吸い上げられる。
「ふぇ?」
情けない声を上げてしまい口を塞ごうとすれば。
「君は躯を繋げるよりキスの方が好きなんだろう?」
「ぅ……」
ラーマとそういう事するのはあまりにも強い快楽に溺れてしまいそうで、自分の胎内が兄貴を欲しがるように作り替えられたみてぇで、深い海に沈んでいってしまいそうで怖くなる。アンナはどんどん淫らになっていくおれにもっと乱れてもいいと唆す。でも、おれは自分の望みばかり優先してラーマを誑かしたくない。
「――ビーム」
そんな考えすらお見通しかのようにラーマはおれの耳を甘噛みしてくる。
「ひうっ!?」
柔らかく濡れた舌が耳の縁をなぞる。指先が耳の裏を辿り、耳朶を撫でてくる。
下半身が嫌でも反応しちまう。
兄貴は良く平気で涼しい顔でこんな事をしているなと布団の下を覗き込むと、ラーマの魔羅は少しだけ硬度を増していた。
「こら、余所見をするな」
目尻、鼻の頭、唇の端をわざと掠めるようにキスをされる。
おれの心は溶けきってもう赤子みたいに強請るしかない。
「唇が、いい」
ラーマは『いい子だ』と呟くように言うと啄むように口付けてきた。優しく包むような施し。触れ合う体温と体毛がこの部屋の空気を濃密なものに変えていく。
そっと離れゆく感触に物足りなさを感じて背中をぐっと引き寄せる。密着した肌の滑らかさが心地いい。
「ラーマ、もっと……」
「――ああ、君は本当に可愛いな」
ラーマの表情がふにゃりとする。ああ、兄貴はこんな顔をするんだ。それを引き出してるのがおれという事実に気持ちが高揚する。本とインクと香油の匂いの満ちたこの部屋が桃源郷にすら感じる。
「んっ、」
薄ら瞼を開こうとした瞬間、再び唇が塞がれる。啄むように吸われて、再び深く重ねられ、息をする事すら忘れそうになる。けれど、この海の中でなら、喩え肺に酸素が行き届かなくても生きていける気がする。
「ビーム、ビーム」
自らに言い聞かせるようにおれの名を兄貴は幾度も呼ぶ。
その名で呼ばれる時は残酷な言葉が続く事もあったけれど。
今ではこの真名もおれを形成するもののひとつのような気がしてくる。
「はぁっ、アンナ、」
両手でラーマの頬を包む。この燎原の焔を逃がしたくなくて。
「ビーム、まだ足りないか?」
「足りない……」
「足りないのはキスだけか?」
「う~」
――もう駄目だ、ラーマとしたくて仕方ない。
昂る熱と下半身を持て余していると。
グルルルル。虎の唸り声のような音が鳴り響く。
は、恥ずかしい。盛大に腹の音が鳴ってしまった。
「ははっ、どうやら足りないのは君の腹らしい」
ラーマはくしゃりとおれの髪を乱すと服を着直してベッドから降りる。離れてしまった体温に少しだけ寂しくなったけれど、空腹の方が耐えられねぇ。
「ま、待ってくれ、今服を着るから……」
「その間にエッグ・ブルジでも作ろう。唐辛子少なめがいいだろう?」
キッチンから浮き足立った声が聞こえてくる。
おれは半裸のままベッドから降りて背後からラーマへ抱き着いた。
「ビーム?」
「夜になったら――続き、してくれよ」
ぐりぐりと額を広くて大きな背中へ押し付ける。
こんな大胆な事言って引かれたりしねぇか不安になったけれど。
「あまり煽るな。夜まで待てなくなる」
手の甲へ掌を重ねられ、おれはするりと解くと気を逸らすように笑いかけた。
「また馬とバイクで競走しようぜ!夜なんて、あっという間だ!」
ラーマは振り返りながら軽くおれの唇を奪う。
シャングリラが見れるまで、どう過ごそうか。
おれは瞼を閉じて心の中で呟いた。