おにぎり半分こしましょう【おにぎり】
月が照らす石畳を歩く。放課後から駆り出された任務を終え、寮に向かう途中で狗巻先輩と出くわした。
「お疲れ様です」
「こんぶ。すじこ?」
「はい。現場に向かったのが遅かったので。狗巻先輩は?」
俺も任務だった、と返す彼は手ぶらで随分身軽に見える。いつもビニールの袋を下げているイメージがあるものだから。
「高菜?」
「ああ、晩飯にしようと思って」
俺の手首にぶら下がっている袋を指さした先輩が、何買ったの? と問いを続けた。
「おにぎりです」
「ツナ?」
「何だったかな……何か、そぼろのやつです……見ます?」
ビニール袋にじっと視線を遣る先輩へ、袋の口を広げて差し出すと、その顔がパッと晴れた。
「ツナマヨ!」
「へぇ、新発売なんですか」
「しゃけしゃけ。明太子」
感想教えてね、と言って袋から視線を戻した先輩が、前を向いて歩きだす。
「あげますよ」
その背中に思わず声を掛けてしまった。クルリとこちらを振り返った狗巻先輩が疑問符を浮かべている。
「これ」
話題にしていたおにぎりを掴んで、先輩へ差し出すと、彼は目を丸くした。
「おかかぁ」
「いつも飴もらってますし」
「おかか」
「食べたかったんでしょ?」
「いくら」
今度買うからいいよ、と。それから「ありがと」と言って笑う姿はやけに大人っぽく見える。そんなこと言うけれど。
「先輩、晩飯あります?」
俺と同じタイミングで帰ってきて、手ぶらなところを見ると、晩飯を調達し損ねたのではないか、と思った。俺の読みは当たったのか。先輩はバツが悪そうに目を逸らせて黙ってしまった。
「俺、あと一つ買ってますし。どうせ、スナック菓子で済ますつもりなんでしょ。体に悪いですよ」
むう、と口を噤んだ先輩が、やけっぱちに言葉を繋ぐ。
――恵の感想、聞きたかったのに
な……んだ、それ……いや、そんな言葉で煙には巻かれないぞ。
「……じゃあ、半分こしましょう。それなら、問題ないでしょ?」
「……すじこ」
「じゃあ、先輩のお菓子も分けてくださいよ」
先導するように歩を踏み出せば、先輩も渋々といった様子でついてきた。
「手洗って着替えたら、先輩の部屋に」
行っていいですか? と口に出そうしたところを、寸止めする。
「行きますね」
隣から小さなため息が聞こえてきて、それから。
「しゃけ」
呆れたような笑いを含んだ肯定が返された。
【悩み】
簡単に解決するなんて楽観的に捉えていたわけではない。だけど、何の手がかりもないまま時間だけが過ぎていくことに焦りを感じる。悪化していないだけ良しとするべきか。いや、そんなの体の内で何が起きているかは分からないのだ。気が休まらない。何かできることはないのか。俺は、どうすればいい……?
身じろぎ一つしない姉の寝姿を見守ることしかできなくて、今日も暗い淵に沈んだまま高専へ戻ってきた。日は傾きつつあるが、一人の部屋に帰る気にもなれず、学校の方へと歩を進めた。歩いて気分を晴らしたい。悩んだって現状が変わることなど無いと、気持ちにきっちりと整理をつけたい。そう思って、あてもなく歩いていた。
「高菜」
校舎の裏庭に差し掛かったところで、聞きなじみのある声に呼び止められた。
「……何してるんですか? こんな時間に」
人のことを言えた立場じゃないが、もう放課後と言うにも遅い時間である。訓練が長引いたのだとしても、こんなところに用事は無いだろうと思うのに。
しかし、先輩の手元に目を遣って合点がいった。
「ああ……水やり……」
そこに握られていたのは緑のジョウロで、先端からポツリポツリと水が垂れている。彼の隣に広がるのは小さな花壇だった。何かよく分からないが、紫のきれいな花が咲いている。
「こんぶ?」
「え……」
掛けられた言葉の意味が分からなくて先輩を見れば、紫の瞳がじっと俺の目をみつめていた。
「何が、ですか?」
「すじこ」
俺の顔を指さした狗巻先輩が視線を切って、空になったジョウロを水道へ返しに行った。戻ってくるなり、花壇の脇に腰かけ、こちらをもう一度みつめる。こっちへ来いと言われているようで、その視線に惹かれて俺も彼の隣に腰を下ろした。
――いつも難しい顔してるけど、今日は一段と酷い
先輩が改めて俺の顔を覗き込む。
――だから、何かあったんじゃないかな、と思って
図星をつかれて言葉に詰まる。他人を良く見ている人だな、と思ってはいたけれど、自分がターゲットになるとは思わなかった。
「いえ、別に……」
だけど、本当のことを話したところでどうなるわけでもないし、この人を困らせるだけだ。俺はしらを切ることに決めた。それなのに。
――俺が半分背負ってあげよう
いたずらとも言える声色と表情。でも、瞳の奥に潜んだ優しい眼差しが俺を捕えて離さない。為す術のないまま、もつれた心が解かれていく。
「……や、もう大丈夫です」
嘘ではなく、本当に。気持ちが軽くなったことに驚きが隠せない。
何だ、この人。魔法使いかよ。
【ジュース】
十月に入り、だいぶ過ごしやすい気温になってきたが、日の差すところで動き回れば汗だくにもなるもので。
「……無くなった」
空のペットボトルを見て小さな舌打ちが漏れる。まだ全然喉の渇きが癒えていない。仕方ない。自販機まで買いに行くか。そう思って立ち上がった俺の体を、何かが引き止めた。そちらへ目を遣ると、狗巻先輩が俺のジャージの裾を引いている。
「何ですか?」
「ツナ?」
そう言って差し出されたものがやたらと美味しそうに見えて、思わず手を伸ばしてしまった。
「ありがとうございます」
それは、よく冷えた炭酸飲料。先輩の飲み掛けで半分くらい残っている。
「ツナマヨ」
全部飲んでいいよ、と言われ、申し訳なさがよぎったが、買って返せばいいかと自分を納得させ、ゴクゴクと喉ごしの良いそれを飲み干した。普段用意するのは専らミネラルウォーター。炭酸飲料は甘いし、腹が膨れるので、訓練の時には避けるようにしている。しかし、乾いた体に染み渡るジュースは格別だった。
「ありがとうございます。後で」
「おー! 間接キスじゃん」
買って返します、と紡ぐ予定の言葉がパンダ先輩の野次で搔き消される。
「おかか」
呆れた顔で諫める狗巻先輩を無視して、興味の矛先が俺に向けられた。
「伏黒、いつも水しか飲まねぇし、人が口つけたものなんて飲めませ~ん、って顔してんのに」
妙な抑揚をつけ、大袈裟な身振りでこちらを揶揄うパンダ先輩を一瞥する。
「別に。喉が渇いていたので、もらっただけです。ちゃんと買って返しますんで」
「おかか、すじこ」
狗巻先輩がパンダ先輩のちょっかいを受け止めながら、気にするな、と返事をくれた。
「いえ、半分くらいもらったので。同じものでいいですか?」
問い掛けたけれど、いつの間にやらパンダ先輩とじゃれ合いが始まっており、今度は返事がもらえなかった。まぁ同じものでいいだろう。そう勝手に結論付けて俺は自販機へと足を向けた。
一人で歩きながら、たった今交わしたやり取りを反芻する。
俺は、どうして狗巻先輩が差し出したペットボトルを何の躊躇もなく受け取ってしまったのだろう。美味しそうに見えたから、にしても。パンダ先輩の指摘は概ね正しい。人の食べかけや飲み掛けには、あまり手を出したくない。それなのに。俺は、あのジュースが狗巻先輩の飲みかけだと分かっていて、受け取った。
――間接キスじゃん……
パンダ先輩の揶揄混じりの声が頭の中で再生されて、ぶるっと頭を振った。
違う。別に間接キスを狙ってとかじゃなくて。だって、何を考えずとも手が伸びたのだから。そこに邪な気持ちなんて入る余地などなくて。ただそういうことが気にならない相手ってだけだ。そうだ、そうに違いない。
あの人がいつも飲んでいるジュースのボタンを押す。
そういうことが気にならない相手って何だよ……
ガコンと落ちてきたペットボトルを取り出し、そのまま蹲ってしまった。何にせよ、俺の中で、狗巻先輩が特別な存在だ、と気づいてしまって。
【肉まん】
「狗巻先輩、コンビニ行きませんか?」
休日のおやつどき。談話室でパンダ先輩と遊んでいる先輩に、俺は声を掛けた。彼がここにいることを知っていて、出かける準備を済ませて、通りかかった。コンビニへ誘ったのは、偶然ではなく意図的だ。乗ってくるかどうかは分からなかった。先約はパンダ先輩で、俺の誘いに乗る理由はないのだから。
二人が顔を見合わせる。パンダ先輩に揶揄われるのは覚悟していた。「なんだ、デートか?」くらいのことを言われると思っていた。
「……いくら?」
「おう、行ってこいよ」
しかし。たったそれだけのやり取りの後、俺は狗巻先輩と一緒に談話室を後にすることとなった。少し不気味ではあったけれど、余計なストレスを抱かなくていいのはありがたい。財布を取りに戻った先輩を待つ間に、一人になったパンダ先輩が談話室から出てきた。彼はチラッとこちらを見遣ってから、「ごゆっくり」と手を振って自分の部屋へと消えていった。何か、勘付かれているような気がする。お土産にカルパスを買ってくるか……。
「すじこ」
パタパタと走ってくる先輩を見て眉が寄る。
「先輩、ちょっと薄着じゃないですか?」
俺は厚手のトレーナーを着ている。中にはTシャツ。それに引き換え、先輩は長袖のTシャツ一枚。もう晩秋と言ってもいい季節だ。真昼間ならまだしも、これから日は落ちていく一方。冷えるのは目に見えている。
「おかか、ツナマヨ」
体温が高いって言ったって、限度があるだろ。そう思うけれど、当の本人は全く気にする様子もなく外へ出てしまった。あんまり長くならないよう、最低限で切り上げてくるか。心の中で小さくため息をついて、俺も先輩の後を追いかけた。
「こんぶ?」
「夜用に何かつまめるもの買っておこうかな、と。ストックなくなったので」
別に今じゃなくてよかった。週が明けて、任務に出たついでにスーパーとかで調達すれば十分だった。だけど、何か口実をつけて、狗巻先輩と出掛けたかったのだ。心優しい先輩は、急な俺の誘いに嫌な顔一つ見せずに付き合ってくれた。
俺、向こう見てくる。と一言断りを入れて、先輩が隣から離脱する。その背中が棚の向こうに消えるまで見届け、菓子とカップ麺を適当にカゴに入れたら先輩の姿を追った。狭い店内で探し出すのは容易く、駄菓子のコーナーで座り込む彼に寄れば、カルパスを手に取るところだった。そうだ。パンダ先輩にお土産を買わなければと思っていたことをすっかり忘れていた。危ない。
先輩の横にしゃがんでカルパスをごそっと掴むと、先輩がくふっと笑った。「パンダに?」と聞かれたから正直に「そうです」と答えた。これだけあればパンダも喜ぶよ、と答えた先輩は柔らかい笑みを浮かべていて、胸の辺りが苦しくなった俺はそっと彼から視線を外した。
レジには一緒に並び、俺が先に会計に立った。スキャンの電子音を聞きながら、レジ横に置いてある機械に目を向ける。
「先輩、肉まん食いませんか?」
スマホを弄っていた狗巻先輩がパッと顔を上げたのが見えた。いいね、とすぐに返された答えに気が良くなる。
「ピザまん一つ」
店員の返事は、狗巻先輩が上げた驚きの声で聞こえなかった。
「別にいいでしょ、俺がピザまん食べたって」
らしくない、と詰られるのを躱しながら会計を済ませ、レジを先輩に譲る。先輩は悔しそうに唸り声を上げながらカレーまんを頼んだ。
外に出た途端、冷たい空気が容赦なく頬を刺す。袋からあつあつの中華まんを取り出して、その場で半分に割った。
「半分あげるので、先輩のも半分ください」
パチパチと目を瞬かせたこと数回、すぐに破顔した先輩は、喜んで彼のカレーまんを半分俺に分けてくれた。
らしくないでしょ。そうですよ。だって、先輩と半分こしたくて、あんたの選びそうなのを先に取ったんですから。
下心だけで選んだ*らしくない*中華まんは、思っていたよりずっと美味しかった。それは、隣で「美味しいね」と言ってくれた先輩がいたからなのだろうか。
日も暮れて冷えてきたことを考えると歩を早めるべきなんだろうけど。中華まんの温かさにかこつけて、少しゆっくり帰ることを許してほしい。
【ワイヤレスイヤホン】
狗巻先輩から誕生日プレゼントをもらった。小さな箱だったからそんな大層なものじゃないだろうと思って、礼を言って受けとった。あの人が俺の誕生日を知っているとは思わなかったし、知っていたとしてもプレゼントをもらうなんて想定外もいいところだったので驚きはしたのだが。でもそれを顔に出すと変に意識しているように見えてしまうような気がしたので、いつにも増して仏頂面だったろうと思う。
部屋に帰って、綺麗にラッピングの施された外装を丁寧に解いた。そして、中身を見て束の間固まってしまった。我に返った俺は、箱ごと抱えて狗巻先輩の部屋へ走った。
「こんぶ?」
開いた扉の先には、風呂上りなのか、部屋着で完全にくつろぎモードの狗巻先輩。ニコニコとこちらをみつめている。
「先輩、これ……もらえません」
そんな彼の表情は、唐突に投げ込んだ俺の言葉でサッと曇った。
「……ツナ?」
「あ……いえ、そうじゃなくて」
前置きも無しに言いたいことだけ言ってしまった性急さと、言葉選びの拙さに心の中で舌打ちを鳴らす。気に入らなかったとか、そうじゃなくて。
「こんな、高価なもの、もらうわけには……」
掌の中には、黒く小さな球体が二つ。独特な形をしたそれは、俺も興味を向けたことがあり、販売価格を調べたこともある。買えなくはないが、気軽に手が出る値段では無かった。だから。
「いくら」
狗巻先輩が、パッと顔を晴らして心配するな、と言った。そういうわけにはいかない。そもそも、俺が先輩からプレゼントをもらう理由もないわけで。だって、俺は彼の誕生日に何もあげていない。
「明太子」
三千円もしなかった、と。得意気に述べる狗巻先輩に、俺は何と返せばいいのだろう。思っていたより安くはある。けど、プレゼントに対してそんなことは言えなくて。でも、じゃあ、もらいます、っていうのもなんだか現金な気がする。それに、値段だけで言えば、ただの後輩にやるにはちょっと予算オーバーではないか。
「……なんで、ワイヤレスイヤホン……なんですか?」
ぐるぐると頭をめぐる考えがまとまらなくて、結局出てきたのは何の脈絡も無い不躾な言葉だった。先輩がきょとんと目を瞬かせる。それから。
「ツナ」
悪戯に目を細めて、内緒、と囁いた。そして、漫画の新刊買ってきたから読んでけば? とまるっきり話題を切り替えて、俺を迎えるために大きく扉を開け放った。
誘われるがまま何冊か漫画を読み、リセットされた空気に乗せて、プレゼントはありがたく受け取る旨を伝えた。心を込めて礼も言い直した。もらった時は外面を気にして素っ気ない態度を取ってしまった謝意も含めて。狗巻先輩はそんな俺を見てただただ喜んでくれた。
何で、あんたが喜ぶんだよ。少しくらい大きな態度見せればいいのに……
そう思う心の内は、グレープフルーツのようにどこか苦くて少しすっぱい。そっと目を伏せて、彼の視線から逃れ、おやすみなさいと部屋を後にした。
もらったイヤホンを使ってみると想像以上に使い心地がよかった。ヘッドホンに比べれば音質は落ちるけれど、携帯性は抜群である。例えば、ランニング中の利用。淡々と走るだけだったのが、好みの音楽を聴きながらとなると気分も上がる。これは手放せなくなりそうだな、との予想通り、今日もまたイヤホンをはめておきまりのランニングコースを走っている。
雑音が入らないようそこそこ大きな音で聞いていた。休日の午前中。ここには注意すべきものなど無いに等しい。だから、後ろから忍び寄る影に全然気がつかなかった。
「ツナ!」
背中をとられ耳を塞がれたかと思うと、スポンと耳からイヤホンが抜かれる。音楽の濃度が薄まり、左耳からは狗巻先輩の声が聞こえた。
「……何すか」
驚いて立ち止まったけれど、先輩は軽快に駆けていく。このまま逃げられるのも癪で、彼の背中を追いかけた。逃げる気はなかったのか、すぐに追いついた先輩の隣を並走する。
「朝から悪戯ですか?」
「おかか」
「じゃあ、何です? 俺の自主練への嫌がらせですか?」
少し嫌味を込めてそう言ったら、先輩が少し不服そうな顔を見せた。
「おかかぁ。高菜」
一緒に走ろう、と言われてしまえば、それ以上言葉も紡げなくて。辛うじて「はい」と返し、口を噤んだ。
「……ツナマヨ」
少しして、狗巻先輩が嬉しそうに言葉を落とした。いい曲だね、と。
そうだった。イヤホンを片方盗られたんだった。完全に私用で作ったリストを聞かれるのは、心の中を覗かれているようで恥ずかしい。しかし、ここで音楽を止めるのも意識しすぎな気がしてできない。
「……返してください」
ようやく繰り出した反撃は。
「おかか」
即座に否定された。そして。
――こうしたかったから、プレゼントしたんだもん
は? と。思わず足が止まる。
素知らぬ様子で先を駆けていた先輩が振り返った。そして、その場で足踏みしながら我儘な声を上げる。
――音楽途切れるから、ちゃんとついてきて!
得意気な顔で、少し嬉しそうに笑いながら。俺を待つ狗巻先輩の元へと繰り出す足は、ふわふわと雲の上を歩いているような心地だった。
【手袋】
夕暮れ時、寮の玄関で狗巻先輩に出くわした。俺は任務から帰ってきたところで、先輩はこれからどこかへ出かけるようだった。
「明太子?」
お疲れ様、と労を労われた後、コンビニに行かないかと誘われて、俺は承諾した。晩飯のアテはあったけれど。
歩を踏み出した先輩の横に並んで敷地を抜け、坂道を下る。さきほど済ませてきた任務のあらましを話しながら送る足は、下り坂だというのにそれほど速くない。ゆっくり、ゆっくり。不自然にならないギリギリの速さに、狗巻先輩もおとなしく合わせてくれる。
「ツナ?」
「ああ……少し擦りむいただけです」
狗巻先輩が俺の左手を指さして、どうした? と聞いてきた。呪霊に足元を掬われて転んだ時にできた傷なので、あまり指摘されたくなかったんだが。暗がりでも絆創膏を見分けるなんて、随分と目がいいんだな。
「こんぶ?」
そのまま有耶無耶にされると思ったのか、狗巻先輩が俺の手を取ってまじまじとみつめ始めた。思ってもいなかった行動に思考が固まる。しかし。
「……手、何でこんなに冷たいんですか……」
手を握られたことへの驚きは、その掌の冷たさが吹き飛ばしてしまった。白い指先は氷のように冷えている。これじゃまるで。
「ずっと外にいたみたいじゃないですか……」
何気なく放った一言が、狗巻先輩の顔を一瞬にして真っ赤に染めた。パッと目を逸らせたと同時に俺の手を離した先輩が足を速める。明らかに不審な態度。何だ……? 外にいたのが図星だったってことか。でもどうしてこんな俺から逃げるような態度を……
思い当たった考えは、あまりに俺に都合が良くて唇が緩みそうになる。そうと決まったわけでもないのに。でも、答え合わせをする価値はあるような気がした。
「もしかして、ずっと外にいて、誰か待ってました?」
半歩先を行く先輩の丸い頭に向かって俺なりの答えを投げかけた。
「……おかか」
消え入りそうな声で否定を返す先輩はすっかり俯いている。歩くテンポを上げて隣に並び、その顔を覗き込む。すると、先輩は分かりやすく視線と顔を逸らせた。これじゃ、おかかは嘘だと言っているようなもんなのにな。嘘が下手なのはこの人らしい。
「今日、任務で外に出てたの、俺だけなんですけど」
もし勘違いだったら……なんて躊躇う選択肢は浮かばなかった。
「……け」
ポツリと返事の欠片が聞こえてきた。かと思ったら。
「しゃけ! ツナマヨ、明太子」
吹っ切れたように狗巻先輩が声を上げた。は、と昂った気持ちの一端が漏れる。どうやら勘違いではなかったらしい。
「……夕方に体冷やすような真似しないでください。喉壊したらどうするんですか……」
毎日丁寧にケアしてるくせに。こんなことで体を張るなんて。と彼を心配する気持ちが八割。残りの二割は強かな下心が潜んでいる。
俺はポケットに突っ込んであった手袋を取り出し、彼に差し出した。俺にとっての生命線は指先なので。冬場は手放せない防寒具だ。
「貸してあげます」
こちらを見上げた狗巻先輩が首を横に振った。予想通りの答え。その反応を待っていた。
「と言っても、こっちだけです」
右手の手袋は取り上げて、自分の手にはめてしまう。
「半分こしましょう。それならいいでしょ?」
一瞬呆気にとられた顔がじわりと緩む。しゃけ、と控えめな返事と共に左の手袋が狗巻先輩に渡る。少しだぶついた左手を見届けてから、俺は。
「こっちは、ここで」
裸の左手で、狗巻先輩の右手を握りこむ。そして、制服のポケットに二つの拳をしまった。
「お、おかかッ」
狭いポケットの中で先輩の右手が抵抗をみせるが、それほど強いものではない。
「嫌なら振りほどいてください」
「おかかッ」
「そんなに強い力入れてないですよ」
ほら、と言って握りこんでいた掌をポケットの中で解放した。
「どうぞ」
「……おか、か」
駆けていく心臓の鼓動とは反対に、俺たちの歩調は遅くなっていき……ついに、足が止まってしまった。狗巻先輩の右手はまだ俺のポケットに入っている。抵抗はなくなり、おとなしくじっとしている。
「わざと、ゆっくり歩いてました」
キュッと掌を握ると、目の前の小柄な体がピクッと跳ねた。
「できるだけ、狗巻先輩と、一緒にいたかったので」
街灯に照らされて、紫水晶が温かな色を帯びる。揺れる瞳がまっすぐと俺を見つめ上げた。
「……ツナ」
俺も、と告げられると同時に、左手が力いっぱい握られた。擦り傷ごと。
「……ッ、て」
「こんぶ……」
慌てた先輩が離そうとした手を掴み直す。反射で声が出ただけだ。やっと掴めたこの手を離したくはない。
「嘘です。痛くないです」
「おかか、すじこ」
「それなら、帰ってから手当てしてください」
「…………、しゃけ」
手を繋いだまま交わす会話は密やかで、色めいた笑い声がしんと冷える夜空に吸い込まれていく。頼りない灯りに照らされた坂道を、二人でゆっくりゆっくり下っていった。
それから数日後。俺ってあの人の何なんだろう? と互いに悶々とする羽目になるのだけど、それもまた今となればいい思い出だ。
END🍙