五月の第二日曜と定められたこの日、地獄は毎年どことなく沈んだ雰囲気が漂う。
それというのも、妖怪になったことで家族と生き別れた経緯がある葉月に気を遣い、家族の話題はタブーといった暗黙の了解が存在するからだ。
葉月自身もその空気には気付いていて、そこまで気を遣わせるのは忍びないとも思っている。しかし、家族の話を振られて笑って返せるほど蟠りがとけていないのも事実。結果的に話題にしないのが安牌というのが双方の見解である。
だがどうしたことか、今年はいつにも増して葉月の表情が優れない。十三王を前にしてもあからさまに元気がないのだ。
時は一週間前に遡る。
「母の日、カーネーション……か」
机の上に上半身を投げ出して、クシャクシャになったチラシを眺める。
つるべ落としの雑貨屋で購入した茶碗の梱包材として使われていたのがこのチラシだった。
これまでならば一瞬目に止まったとしても、迷いなくクズかごへ投げ込んでいた。
だが、家族の思いを知ってから数十年、年を重ねるにつれて後悔が募っていく。たとえ共に暮らせなくても自分が生きていると伝える術はいくらでもあったはずだと、その思いがチラシを捨てるに捨てられない枷となっている。
「地上へは今日行ったばかりだし。また何ヶ月も帰れないし。いらないでしょー、こんなチラシ…」
自分自身を説得するようにブツブツと独りごちる。
特大のため息をついて机に突っ伏した瞬間。
「葉月、おるか」
「へぁっ!?」
足音に気付かなかったようで、急に名を呼ばれ素っ頓狂な声が漏れた。
「なんだ今の返事は…」
怪訝そうな顔で五官王が扉を開けた。
その手には以前葉月が地上から持ち込んだ文庫本が数冊。
「借りていた本を返しに来た。……何を見ておったのだ?」
無意識にぐしゃ、と握り締めたチラシを覗き込む。
「いえっ!なんでも!なんでもありません!そっ、それより本はどうでしたか!?」
グシャグシャと丸めてズバンとクズかごへ投げ入れた。
「……。ああ、なかなかよかった。宋帝王も気に入ったそうだ」
「それは何よりです!」
その後チラシについて言及されることもなく、簡単な感想を語り合ってその場はお開きとなった。
「母の日かぁ〜……」
五官王が去った後、チラシを捨てても結局思考は振り出しに戻るのだった。
それから今日までずっとどこか上の空で、何をするにも身が入らない。
母の日を迎えいよいよ気もそぞろな葉月に五官王が声をかけた。
「これから地上へ出る。お前も来るのだ」
「分かりました。どちらへ行かれるのですか?」
「花……いや、化陸に会いに行く」
その名を聞いた途端ぱぁっと表情が輝いた。紅潮した頬と緩みきった口元。多少の気がかりなど、もふもふを目の前にすれば飛んでいってしまうのだ。
「喜んでお供いたします!!!」
手土産を、と自室へ走ろうとする首根っこを掴み、強制的に地上へと連行していく。
「化陸さんには地獄まるっとお世話になっているではないですか。化陸さんを訪ねるなら手土産の一つや二つや三つ四つ……持って行ってもバチは当たらないと思います」
口を尖らせながらジト…と五官王を見上げる。
普段は聞き分けもよく十三王に対しても忠実なのだが、もふもふが絡むとこれである。
「そういえば、化陸さんを訪ねるなんて珍しいですね。何か特別な御用ですか?」
植物の注文なら葉月の仕事であるし、十三王が直接地上の個人と関わりを持つこと自体がそうある事ではない。
「まあ、野暮用だ」
「野暮用…」
正直深く踏み込みたい気持ちはあるが、五官王が話さないのであれば自分は聞く必要のないことなのだと引き下がった。
「化陸さ〜ん!こんにちはぁ〜!!!」
緑屋の看板と店先に立つ店主を見つけるやいなや、五官王そっちのけでブンブン手を振りながら駆けていく。
「葉月殿!久しぶりじゃの」
「はい〜♡お久しぶりです〜♡」
会いたかっただの今日も素敵な毛並みだだのと、やっと側まで来た五官王に小突かれるまでハートマークを撒き散らした。
「二人で来店とは珍しい。何か探し物かの?」
「あ、いえ。私ではなく五官王様が…」
一歩下がって場を譲ろうとしたが、大きな手が背を押しとどめた。驚き背後にある顔を見上げる。
「カーネーションはあるか」
「うむ!今日の母の日に合わせて数日前から取り扱っておるのじゃ」
こっちじゃ、と案内する声にも固まって動けずにいると、添えられたままの手がぐ…と背中を押した。
「行くぞ」
押されるがままに歩を進め、ぱっと目に飛び込んできたのはカーネーションを中心とした多種多様な花束の数々。
「お前が選べ」
「ですが……私、今更…」
胸元で拳を握り顔を背ける。自ら家族を捨てたという事実は、何十年と経った今でも心に靄を残している。これまで様子を見に行くことさえしなかったというのに、母の日だからと理由を付けて押し付ける感謝などエゴでしかない。
「渡したいと思ったのだろう。ならば己の心に従え」
五官王の手が背から離れる。それがひどく心細くて、思わず振り返った。
「二度、後悔をするな」
真っ直ぐに射抜くような視線がまた背中を押す。込み上げる熱を振り払い、花束と向き合った。
「きっと喜んでくれるじゃろう」
丁寧に包まれた一本のカーネーションを差し出して笑いかけた。受け取る葉月も、はにかみながら頷いた。
「五官王様、今日はありがとうございました」
「あれでよかったのか」
カーネーションは、リビングに飾られてあった兄から贈られたのであろう立派な花束の中に差し込んだ。
「はい。きっと母は気付きませんが、結局は私の自己満足ですから」
「…そうか」
その後は地獄大王庁へ戻るまで、夕日に照らされた雫をかき消すかのように大袈裟なほどの身振り手振りで化陸との再会の喜びを捲し立て続けた。五官王はただ黙って耳を傾けた。