自室で本を読んでいると、コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
そう返事をして扉を開けるが、廊下には誰の影もない。
不思議に思い辺りを見回すと、足元に白い何かが落ちているのを見つけた。
拾い上げてみればノートの端のような簡素なメモである。
五官王様がお呼びだ
なぜ直接言わなかったのだろうと首を傾げるが、呼ばれたのならば早急に向かわねばならない。
本を棚に戻し、駆け足で部屋を出た。
五官王の部屋に辿り着きノックをすると、中から「入れ」と声が返った。
しかしその声は葉月の記憶にあるものよりも若く、かつ冷たい雰囲気を纏っているように感じられる。
「失礼します」
客人でも来ているのだろうかと思いつつ入室するが、そこにいるのは牛頭一人である。
いつも五官王が執務を行っている机に座り、書類に鋭い視線を走らせている。
この地獄において、十三王とは牛頭や馬頭、その他の獄卒からも畏怖される存在。
それなのに五官王の席に座っているとはどうしたことだろうか。
「あの、五官王様はどちらに?」
葉月に一瞥もくれない牛頭に訪ねると、険しい光を孕んだ眼光がこちらに向けられた。
「ふざけているのか」
答えももらえずに睨まれてひどく戸惑う様子の葉月を無視して、牛頭はいくつかの用事を言いつけた。
慌てて懐からメモ帳を取り出し、抜かりが無いようにメモを取る。
そうして少しばかりのやり取りをしているうちに、目の前にいる一見牛頭のようなこの方こそが五官王なのだと理解し始めた。
(五官王様を牛頭さんだと思い込むなんて、どうかしてる……)
そう自身を窘めるも、どうも違和感が拭えない。
言葉にはできないが、何かがおかしいのだ。
用件は伝えたとばかりに再び書類に目をやる五官王。
ふと、先日一緒に行った甘味処を思い出した。
「この前ご一緒した甘味処に新商品が出たそうですよ。五官王様の都合がつけば、また行きませんか?」
笑顔で誘うが、五官王は苛立ちすら感じる表情で立ち上がった。
「俺がお前と出かけただと? 寝言は寝て言え。くだらん」
そう言って葉月の横を通り抜けて行ってしまう。
「あれ? お、おかしいな……。確かに五官王様と一緒に……」
店の名前はなんだったか。何を食べたのか。
その時の記憶を思い出そうとするが、靄がかかったように思い出せない。
隣を歩く大きな人影は、本当に五官王だっただろうか。
顔も、声も、話した内容も何も思い出せない。
それどころか、思い出そうとするほどに記憶にノイズがかかり、不鮮明になっていく。
ボロボロと記憶が崩れていくような感覚に恐怖が募る。
「待って……! 待って消えないで! この記憶は夢なんかじゃない! 五官王様は確かに……!」
世界が暗転していく──。
自室で亡者達の生前の罪を記した杓と向き合う。
うずたかく積まれたそれらに少し辟易として筆を置いた。
時刻は地上で言えば深夜。
儂ら十三王には生者のように毎日の睡眠は必要ないが、さすがに根を詰めすぎた。
首を回せばバキバキと重い音が部屋に小さく響く。
そうはいっても亡者は日々増え続け、この業務を止めるわけにもいかないのが現実だ。
活を入れ直し、再び筆を手に取った。
その数分後、パタパタと小さな足音が耳に届いた。
次第に近づいてくるその足音は、どうやらこの部屋に向かっているようだ。
「葉月はもう大分前に寝たはずだが」
就寝の挨拶をしに顔を覗かせ、去る前にお茶を淹れていったのはもう数時間前。
それに、葉月にしては騒がしい。
長い廊下を一直線に走っているのが姿を見なくても容易に分かった。
数秒後、ノックもせずに想像よりもずっと勢いよく開かれた扉に面食らう。
寝間着のまま儂を凝視している葉月。
いつもの礼儀正しさとはかけ離れた行動に正直戸惑いを覚えるが、儂は葉月の上司でもある。
礼節は正さねばと、あえて重々しい口調を選んだ。
「葉月、騒がしいぞ。もう寝たのではなかっ」
「五官王様!」
息せき切って入口に立ち尽くしているかと思えば、儂が名を呼んだ瞬間、転がるように胸元に飛び込んできた。
驚いてその顔を覗いてみれば、薄らと涙が光る。
どうやらただ事ではないらしい。
「どうした」
静かに筆を置き、儂の着物に縋り付いて頬を寄せる葉月に、今度は優しく問いかけた。
「夢を見たんです……」
その夢では、五官王は儂ではなく、これまで共に過ごしてきた思い出もどんどん朧になって消えていくのだと語った。
「容姿も声も性格も、何もかもが五官王様と違っていて。私はどこか変だと思いながら、どうしても五官王様の顔が思い出せなくて……。目が覚めて、もしも夢じゃなかったらって、怖かった……」
そう呟く手は震えている。
そっと葉月の頬に手を添え、ゆっくりと上を向かせた。
手元を照らすランタンの光に反射する涙の痕を拭い取る。
「葉月」
しっかりと確かめるようにその名を呼んだ。
「儂はここにいる。お前と過ごした記憶もちゃんとある。ただの夢だ」
コクコクと小さく頷く葉月。
「葉月、不安なら何度でも名を呼んでやる。葉月、お前を置いて消えたりなどしない」
消え入りそうな声で儂の名を呟き、深く胸元に顔を埋めた葉月をしっかりと抱きしめてやる
しばらくそうして頭を撫でていると、落ち着いたのかゆっくり体を離した。
「悪夢を見て慰めてもらうなんて、もうそんな歳じゃないのに……。ありがとうございます」
恥ずかしそうに頬を染めて笑ってみせた。
かと思えば、机の上の杓の山を見て申し訳なさげに眉を下げる。
「お仕事の邪魔をしてしまってすみません……。もう大丈夫です」
そう言って立ち去ろうとするが、儂はその裾を掴んだ。
目を丸くしてこちらを見る葉月を連れて、隣の部屋に繋がる扉を開け放つ。
書斎の隣は寝室になっていて、扉を開けているとベッドに横になりながらでも書斎が見えるのだ。
「これが片付くまでまだかかるが、眠れそうなら先に寝ていろ」
そう言って書斎へと戻ろうとする儂の背に、葉月がおずおずと問いかける。
「で、でも、いいんですか……? 五官王様のベッドで……」
「初めてでもあるまいに」
むしろ、儂と夜を共にする日はいつもこのベッドを使っている。
葉月のベッドでは儂には小さいため、必然的にそうなるのだが、とにかくもう何度も寝ておいて今更何を気にすることがあるのか。
なんでもないといった風にあしらうと、書斎の椅子に座り再び筆を執った。
「お前が自分の部屋で寝たいと言うならそれでも構わんが」
筆に墨を含ませながら、葉月の顔も見ずに呟く。
勢いに任せた余計な世話だっただろうか。
本当にもう大丈夫で、自室でゆっくり眠ろうと考えていたのなら、かえって気を遣わせてしまうだろう。
若干の後悔が顔を覗かせたが、視界の端に映る葉月は薄ら頬を染め、どうやら間違いではなかったようだと内心安堵する。
「し、失礼します……」
おずおずと布団をめくり、葉月一人では大きすぎるベッドに体を滑り込ませた。
モゾモゾと転がって、儂の姿が見えるように横になる。
シンと静かな部屋に葉月がベッドの匂いを吸い込む音が微かに響き、なんとも言えない心持ちがする。
葉月は儂の匂いが好きだと言う。
隣に立った時、体を寄せ合った時、同じベッドに潜り込んだ時。
いつもこっそり儂の匂いを嗅いでいる。
おそらく本人は気付かれていないと思っているだろうが、隠し事をするには些か素直がすぎる。
初めてそれに気付いた時は、なんとなくむずがゆいような気がしてやめろと言おうかと思った。
だが、儂の匂いであまりに幸せそうな顔をするものだから、別段減るものでもないと放任することにしたのだ。
落ち着けたのなら何よりだが、今度はじっとこちらを見詰めてくる。
杓の山に視界を塞がれ、目に入るのは煩わしい紙束ばかりだというのに、気配だけではっきりと見られていることを認識できた。
もう少し気配を消す方法を教えるか……。
三十分ほど黙っていたが、寝ようとする素振りすら感じられずに思わず口を開いた。
「儂ばかりを見て、退屈じゃないのか」
別に見ているのは構わんが、儂と違って葉月にとっては睡眠は大事なものだ。
眠れるなら早く寝るに越したことはない。
迷惑ではない、けれど早く寝ろと、どう伝えたものかと思考を巡らせた結果、ひどくぶっきらぼうな態度になってしまった気がする。
顔も上げずに平坦な口調で言葉を投げ出してしまった。
しかし言われた葉月は気にする風でもなく、
「やっぱり気付いていたんですね」
と何故か嬉しそうに頬を緩めている。
「そのうちこめかみ辺りに穴があきそうだと思っていた」
こんな冗談を言ってしまうとは、儂も大概気が緩んでいる。
しかしこんな面白みもない冗談で心底幸せそうに笑う葉月もかなりの変わり者だろう。
「気が散りますか?」
「もしそうなら、とっくの昔に寝ろと言っておる」
結局、また甘やかしてしまうのだ。
ついさっきまで寝ろと言おうとしていた口で、起きていることを肯定してしまった。
当然葉月は再び儂の横顔をひたすら眺め始める。
何がそんなに楽しいのか……。
「もし私が五官王様に穴をあけたいって言ったら、あけさせてくれますか?」
ふいに投げかけられた突拍子も無い質問に、一瞬葉月の顔を見た。
こいつは一見常識人に見えて、突然訳の分からないことを平然と言い出す。
とはいえ儂ももう慣れたもの。
すぐに書面に視線を戻し、
「断る。儂に穴をあけて泣くのはお前だ」
と淡泊に言った。
対して深く考える必要のないこの雑談は割と好きだ。
「じゃあ、私が喜ぶならあけさせてくれるんですか?」
なんだその質問は。
何故そこまで儂に穴をあけることに拘るのか。
いや、きっとそうではない。
深い意味などありはしないのだ。
少しその状況を思い浮かべてみた。
儂に穴をあけたいと懇願する葉月。
どこにあけるつもりだろうか。
まあどこであろうと構いはしない。
儂は不老不死である。
「まあ……。死なんからな」
なんだかんだと言っても、葉月に頼まれれば受け入れてしまいそうな気がした。
そんな無邪気な狂気を起こさないことを祈りはするが。
「なんだ、そんなに儂に穴をあけたいのか」
「いえ、まったく」
「だろうな」
あっけらかんとしたものだ。
こいつはこういう奴なのだと、呆れ半分。それでも儂は笑っていた。
とりとめのない会話がこれほどまでに気分を高揚させるなど、思ってもみなかった。
葉月も儂と同じ気持ちでいるのか、小さく笑う声が聞こえる。
「五官王様は私に甘いですね」
満足そうな顔をしおって。
それが図星であるから儂は否定も肯定もしなかった。
「五官王様、大好きです」
儂の目を真っ直ぐに見詰め、目尻を下げて頬を染め、心の奥底からあふれ出し、噛みしめるかのように。
筆を握る手に力がこもる。
その顔は卑怯だ。狡い。
薄明かりにぼんやりと浮かぶその顔はどこか色めかしく、内側から熱がこみ上げるのを感じた。
頭の中の大切な回路が切れてしまったのかもしれない。
仕事などしていられるものか。
依然として積み上がったままの杓を全て意識の外に放り出し、葉月の元へ衝動のままに歩を進めた。
「休憩されますか?でしたらお茶を……」
お前のせいだというのに、呑気なものだ。
脳内でよくない物質が出回っているのか、無防備な葉月に苛立ちさえ感じる。
ベッドから出ようと上半身を起こしていた葉月を押し倒せば、目を白黒とさせて見るからに戸惑っているではないか。
お前が「大好き」だなどと言ったのだ。あんな顔で、だ。
「それはナシだろう……」
「それって、どれ……?」
自分の言動のせいだなどとは微塵も思っていない。
顔を真っ赤にして視線を泳がせる葉月に深いため息が出る。
「今日はもうしまいだ。儂ももう寝る」
こいつのこういうところにペースを乱されて敵わん。
儂は今すぐにでもお前をひん剥いてやってもいいというのに、お前にその気は少しも無いのだろう。
無性に腹が立って、これ見よがしに葉月の目の前で着替えてやる。
慌てて目を逸らす様にほんの少しスッとした。
お前も少しは焦ればいい。
葉月の隣に体を納めると、心配そうな顔でこちらを見上げてくる。
その上目遣いをやめろというのに……!
これ以上好きにさせては儂の理性が耐えられん。
「もういい。もう黙れ。お前も儂も、明日は早いのだ。これ以上煽るな」
葉月を胸に抱き寄せることで、強制的に黙らせた。
相変わらずドギマギしているようだったが、しばらく抱いてやるとそのうち小さな欠伸を漏らした。
やっと寝るかと安堵したのも束の間。
「五官王様の匂いは落ち着きます……」
トロンとした瞳で、自分から儂の方へ体を寄せた。
半分寝ているのか、ふわふわとした口調で猫のように胸元に頭を擦りつけてくる。
「んふふ~、胸板ぁ……」
へにゃりと笑って、胸に頬ずりまでする始末。
全く同じ事をやり返してやろうか!
儂の気も知らずに、欲望のままに甘えてくる。
新手の修行か、これは。
何も考えるまいとひたすら暗闇を眺め、雑念をできるだけ遠くへ押しやる。
そうこうしているうちに小さな寝息が聞こえてきた。
「葉月め……。明日が休みなら抱き潰してやるところだったのだぞ……」
儂の理性に感謝するがいい。
ドッと疲れて、改めて葉月の寝顔を覗き込む。
純粋無垢とはこのことだろうと思えるほど、葉月の寝顔は穏やかで、幼子のようだとさえ思った。
胸に納まる小さな命を眺めていると、先ほどまで感じていた情欲とは全く違う、言葉にするなら、そう。庇護欲のようなものをかき立てられた。
「儂はずっとここにいる。夢だろうと、お前を泣かせてなるものか」
穏やかな朝を迎えられるよう願いを込め、額に触れるだけの接吻を。
或いは葉月に近づく全ての不幸への牽制か。
儂とて、お前を抱くこの幸福をなかったことになど、今更できないのだから。