朗報 明るく「アンニョン」と言いながら入ってきたジェヒョクは、ヒョンスと目が合うと優しげに笑んだ。
物腰や声は落ち着いているので、そこまで陽気な印象ではないのだが、生命力や諸々のパワーが強い人である。長年すれ違ったお互いの好意と信頼感を確認し合った今では、ことさらに眩しい。
「やっと退院か」
「ええ」
肺や気管の炎症が回復するまで少し時間がかかったが、幸い目立った後遺症は無く、退院日が決まった。
病室に溢れていた花もほとんど枯れてしまって、退院が決まったので、きれいに片付けた。
あれからジェヒョクとは、主にテキストメッセージでやりとりしていた。退院を知らせるとすぐに通話を求められ、誰より早く祝福された。
ジェヒョクはずっと、ヒョンスにとって人生の目標だった。追い着きたくて頑張っていたあの頃の気持ちが懐かしく胸によみがえり、それとともに、急に近くなった距離感に戸惑う。昔も決して遠くはなかったが、片想いでないとわかったら受け止め方も違ってくる。
「仕事はどうなった?」
「保険金が出るので、復帰は様子を見ていつでもいいとのことです。有給も残ってますし……すぐに面談は一度あるそうです。その後は、会社の都合に合わせて復帰のためのテストと審問かな。ウイルスの詳細がもう少しわかるまで、国外に出てはいけないというし、飛行機に乗れるのはもう少し先だと思います。僕も詳しくは知らされてなくて。あなたは――国外に移住するって話でしたよね。渡航禁止期間を過ぎたら予定通り、ハワイに?」
せっかく想いが通じたものの、お互い仕事が再開したらこんな風に頻繁には会えなくなるかもしれない。そう思っても言わずにいた。ジェヒョクは行動力のある男だが、ヒョンスとの関係にどう方向転換するのかは読めない。
娘のスミンは祖父母と暮らす選択肢もあるらしいが、父娘の仲はいい。娘優先の選択をするのが自然だと思う。たまに見えるスミンとのやりとりは賑やかなスタンプが飛び交っている。時代の変化に適応するのに年齢は関係ないのだなと思った。
「今回のことで、免疫疾患や皮膚科の専門医にたくさん会えただろ。経過観察も兼ねて、スミンは治験だか、臨床試験だかの対象になれたんだ。元大臣がうまいこと、利権の絡まないところと繋いでくれてな。バイオテロ被害者用のセラピーが学校での悩みにも対応してくれてるから、海外移住の件は一旦、保留だ。でも、病院に通いやすいところに引っ越そうかと思って。お前とも会いたいし……どの辺に越すのがいいか考えてる」
「あ……そうなんですか。ハワイなら会いに行ける範囲だし、僕が定期的に訪ねようと思ってました」
ヒョンスとの関係を深めたい気持ちはあるが、仕事や家族の状況によってはどうなるかわからないとは言っていた。
「あまりお互い期待し過ぎるのもと思って、いろいろ言うのが遅くなってごめんな。俺は欲張りだから、全部いいところに収まるようにするつもりではいたよ。時間がかかった間に、こっちで仕事するあてもいくつかできて――お前が嫌でなければ、戻ろうかと」
「僕がって――え?」
「オフィス・ラブはもう懲り懲りか?」
「うちの会社に戻って来るんですか」
探るような眼差しで見つめられたが、嫌なわけがない。ジェヒョクはヒョンスの反応に、ほっとした顔で笑んだ。ヒョンスの予想を遥かに上回る幸運な展開だ。
人の目はもう気にならない。今回のことで全てがふっ切れた。
「テロ対策チームにスカウトされた。それから、バイオテロ被害者対応チームには、ヒジンが入るそうだ。彼女はCAを辞めるつもりだったようだが、再考するにもちょうどいいって」
「なるほど」
スミンが懐いていたから、ヒョンスの部屋だけでなくヒジンたちの見舞いもしていたのだろう。自分は向こうから言われないことは質問しない方だから、ほとんど何も知らない。ヒョンスはジンソクの血液からの感染の可能性もあったため、他の被害者とも隔離されていた。
国、警察、会社の人間が聴取のために出入りする関係で、四人用の部屋に一人で入院するかたちになった。ジェヒョクも同様にスミンと二人で、四人用の部屋で過ごしたそうだ。
事件の最中、操縦していたのはほとんど自分だった。ジンソクと直接話した人間は少なかったから、同じ話を何度もした。
「まだ返事はしてないよ。俺だけ盛り上がって浮かれ過ぎかもしれないと、珍しく自重した」
「そうなれば、僕も嬉しいです」
ぎこちなさは無いが、思った以上に自分との関係を真剣に考えてくれているのだとわかり、嬉しさを噛みしめる。
「判断を急ぐとまた失敗するかもな。話は進めてもらうが、何が起こるかはまだわからないから」
「行動力と決断力があるのは、あなたの強みです」
ヒョンスの憧れでもある。
「ありがとう。直接会って話したいなと思って来たが――今日は予定があって、すぐ帰らないと。退院日に来てもいい?差し支えなければ自宅まで送るよ。それか、飯でもどうだ?外でも、うちでもいいが」
「送迎はありがたいです」
遠慮が裏目に出やすいヒョンスのことを見越して、ジェヒョクはむしろ先回りして自分の要望を多めに言ってきているのだろう。
一緒に働いていた頃も、悩んだり落ち込んでいる時はよくこんな風に声をかけてくれた。腹減ってないか?カラオケでも行くか?飲んで愚痴るか?俺も愚痴なら山ほどあるぞ。それとも、演習に付き合おうか?あの頃から変わっていない。
弱みを見せたくなくて、素直に甘えられたのは数回だったが、もっと早くに甘えていれば良かった。
そう思っていたのに、未だにその癖が抜けていない。
「飯は今度がいいか?スミンは元妻も双方の両親も頼れるから、泊まり前提でデートもできるぞ。お前のことだから留守でも大丈夫なように出てきてるだろうし、戻ってからの動きも抜かりないだろうけど」
「急いで口説く必要は無いですよ。もう」
年上とはいえ大人同士でそんなに差は無いと思っていたが、若い後輩を見ていると、自分もジェヒョクにはこう見えていたのだとわかる時がある。そういう隙間のようなものを、努力で埋めようとしてくれている。
時折、追い着こうと思っていたのがおこがましいような気になり、それでも、あの頃よりはジェヒョクに近付けたと思える。
「俺は付き合ってからも口説き続けるタイプだし、面倒見が良すぎてウザがられる」
「もう、付き合ってるんでしょうか、僕たち。僕と恋人になっていいんですか?」
見舞いに来てもらっているだけで、まだこれといって恋人らしいことはしていない。自分は片想いだと思って、勝手にデートのような気分で話していたけれど。
もう十年以上の付き合いだ。親密だった頃の感覚が戻ってきているから、うまくいくとは信じているが――
「まだなら、今からよろしく。ほらやっぱり、俺の方が浮かれてるし、気が早いんだよな」
指切りの形で手を出され、ドキドキしながら応える。
「いえ、僕が――はっきり言葉で確認したかっただけです。改めて、よろしくお願いします」
「お前のそういう真面目なところ、好きだよ」
ジェヒョクはそう言って爽やかに笑った。
「僕もあなたの快活なところは好きです」
「快活ねぇ。それはお前が正直ないい奴だから、俺もそういられるだけだ。あだ名はいつも『覇王』とか『帝王』だからな。『魔王』だったか?『カリスマモンスター』みたいなのもあったな」
存在感があり、兄貴肌で人望が厚いから、組織に居るとどうしてもカリスマっぽくなる。その自覚があるからこそ、力の使い方には気を使っているはずだ。
「僕は一生呼ばれない感じのあだ名ですね」
ヒョンスに付けられるあだ名は大体、悪口だ。図体の割に度胸が無いとか、大人しいのを馬鹿にされる類の。
「お前も『王子』感はあるよ。『御曹司』とか――今なら、『救世主』かな」
「ふふ」
育ちが良さそうで無害な感じだろうか。自分の持つ要素の中でも一番いいところをまとめてくれている。
「まあ、未だに俺を『機長』と呼んでくれる人もいるな」
「あなたの存在は大きかったですから」
「お前と飛ぶのは一番、好きだった。嘘じゃないぞ」
「――僕もです」
昔を懐かしむように目を細めて、ジェヒョクは少し黙った。
「南の島で自家用機でも買えたら、いつかまた、そうできるかもな」
「ええ……そうですね」
この先、辛い経験も、悲しみや後悔も、決して二人の中からは消えないだろう。だからこそ、忘れてしまってはいけないことを、確認し合える相手だ。
まっすぐ見つめ合ったところで、ジェヒョクは目線を遊ばせて、上目遣いになる。
「恋人なら、キスとかしたくならない?」
「駄目です」
「駄目ですってなんだよ。したいか、したくないかだ。ハグは?」
「ハグはちょっと――シャワー室が狭すぎて――あまりきちんとシャワーを浴びられていないので」
臭くはないと思うが、何というか、今日は万全ではない。
「あそこは俺でも狭かった。風呂付きの病室は介護できるように広いらしいが、お前は健康優良児だからな」
「入院中の身で健康優良児は無いですよ。僕は海外で暮らしていた先輩と違って、そういう文化にあまり親しみが無いので」
「嘘をつくなよ。国際線の男が」
「挨拶のそれとは違うでしょ」
確かに、挨拶程度なら慣れてはいるが、韓国人同士では相当親しくないとしない。
ジェヒョクは気さくな兄貴肌だし、恋人でなくとも、親しければ肩や腰くらいなら気軽に触るだろう。
「嫌か」
「嫌ではないです。でもハグしたら、そのままキスする気ですよね」
拗ねた顔にそう問うと、ジェヒョクは悪びれず、いたずらっ子みたいな顔で笑った。
「バレたか。お前は怒る時もツッコミも正しくてまっすぐ的を射てるから、何にも反論できないなぁ」
ヒョンスがたまに怒って毒を吐くと、ジェヒョクは面白そうに『お前が怒るんなら、相当の悪事だ』そう言って対処を手伝ってくれた。
「あなたのそういう姿を誰にも見せたくないんで、ここでは駄目です」
素敵な恋人を自慢したい気持ちより、独り占めしたい気持ちや盗られる心配の方が強い。今回だってたまたま、ジェヒョクがフリーのタイミングと合っただけだ。フリーでいることが珍しいくらい、人と繋がることに積極的だし、そう思われるぐらい魅力的だ。
「ヒョンス、幸い今なら誰も見てない」
確かに、病室も廊下も静かだ。
「ハグとキスだけで済みますか?」
「さぁ、してみないと」
歴代の恋人とも仲の良い様子はよく見たが、そこまで大っぴらに見せつけるタイプでは無かったはずだ。
「なんで今日はそんなに食い下がるんですか」
「色気を小出しにしておかないと、退院の日までに爆発しそうなんだよ。カーテンもあるし、ノックぐらいしてくれるって。見られたって別にすぐ退院するんだし。誰か来たら俺だけ出て、ヒョンスは寝てると言えばいい」
「僕は――楽しみは後に取っておきたいです」
ハグとキスだけで済まないのは自分かもしれないからだ。
「明日、人生が終わったらどうする」
低い声でそう呟いたジェヒョクに、普段見せない弱さを見た気がして、心が揺れた。
「あぁ……あなたがいつも急なのは、それが信念だからですか」
「生きてるうちにお前に触りたい」
時間は止まらないが、人生はふとした瞬間にあっけなく終わる。それを目の当たりにしてきたから、彼は常に自分の望みを叶えるために行動し続けるのだ。
「今日は、手を握るくらいで勘弁してください」
そう言って手を差し出す。
「ん」
穏やかに笑んだのとは裏腹に、ジェヒョクは素早くヒョンスの首を捉え、中腰で上半身を抱き寄せた。
「っあ、ハグは駄目ですって」
慌ててそう文句を言いながら、ジェヒョクからする爽やかないい匂いと、その体温で脱力してしまった。
ベッドでなかったら腰が抜けていたかもしれない。
「迎えに来るから」
そう低く囁かれ、耳たぶの近くに軽く口付けられる。挨拶の範囲で妥協してくれたのだろうが、充分過ぎるくらいの色気だ。
「……はい」
しょせん王子だ。覇王には敵わない。
「じゃあ、後で電話する」
ヒョンスがぼうっとしている間に、ジェヒョクは時計を確認するとそう言って素早く病室を去った。予定が詰まっていたのに、短い隙を見付けて顔を出してくれたのだろう。だからこそ性急だったのだ。
低い声と、耳元に触れた唇の感触や微かな音がぐるぐると思考を乱す。
――明日、人生が終わったらどうする
自分が無力だと思い知らされコクピットで絶望していたのを、もう忘れたのか。
そう言われたような気がして、ぎくりとした。神に祈ることさえ諦めて、ぼんやり熱に身を任せようとする度、ジェヒョクの声に励まされた。辛くても生きろと、奮い立たされた。
俺は正しかった。お前も正しいことをした。無力でもその正しさを誇りに思って生き抜けと、そう言ってくれた。
――上手く忘れることができてたら、パニック障害になんてならない
誰より勇敢に死に立ち向かえる人でも、不安でたまらないのだ。自分が正しいと信じるからこそ、人を喪う痛みに耐えられないのだ。脅威に奪われるものの大きさを正しく把握しているから、誰よりも怖いのだ。
――生きてるうちにお前に触りたい
妻の遺体は損傷が激しく、焼け焦げた瓦礫と癒着しており、ヒョンスが確認する間もなく荼毘に付された。
コクピットでヒョンスが息絶えていたら、ジェヒョクは冷たくなった身体に触れて、泣いてくれていただろうか。
切実で自分の望みに忠実で、人間らしくあろうと全力で命を燃やしているから、あの人は眩しくて熱いのだ。
静かな病室で独り、涙に溺れそうになる。
泣けるのは、生きているからだ。
彼が強引に触れたのは、僕が、まだそれを実感していないと知っていたからだ。
抱き締めたジェヒョクの身体が、ヒョンスの身体を覆っていたうっすらとした不安と緊張を解き、やっと心臓がヒョンスらしく動き始めた。
ヒョンスがまた抜け殻のように生きないよう、見守ってくれようとしているのだ。
あの人、本当に僕を愛してくれているんだ。
「本当に――一生、敵わないな」
自分も彼を好きで良かったと心の底から思って、ヒョンスはそのまま、涙が枯れるまで泣き続けることにした。