家路「サンウォンさんのお父さんは、どんな人です?」
信号待ちでそう問われ、助手席のギョンフンと目を合わせる。
「多分……俺と似てるはずだ。不器用だったから」
人と物の区別がつかないのか――母には時折、そう泣かれていた。
すれ違いはうかがえたが、母の方が父を捨てられないような印象だった。お互い愛情を持って接しているのはわかった。母の方が想いは強く、それが伝わらないのが苦しかったのだろう。
自分は父とそこまでの衝突はなく、声をあらげて怒られた思い出もない。ただ、父が母にしていたのと似たことを、気付けば自分は、娘にしてしまっていた。
「――不器用?」
目を細めたギョンフンに自分の言葉を繰り返され、少し喉元が苦しくなる。
いつも通り、内心を読めない顔だ。
発作は軽くなりつつあるものの、パニック障害以外も併発していたから、簡単にすっきり治りはしない。
過呼吸や眩暈、フラッシュバック。要因があり過ぎて理由のわからない気だるさはもう一生、晴れないのではないかとすら思う。
信号が変わり、正面に視線を移動する。
「不器用だと――自分で言ってしまうのは逃げだな」
不器用ぶることで、改善する努力を諦める意図が、少なからずある。
そう認めたら少しだけ楽になった。
ギョンフンの前では、気取ったり格好つける必要を感じない。弱みを指摘され諭されることはあれど、それは攻撃ではないからだ。ふざけた男なのに、そういう人間の弱さや狡さには詳しくて、対処法も心得ている。不要に惨めな気持ちにさせられることもないし、ギョンフンも変な奴だから、あまり感じの良くない自分を隠さずにいられる。
ふてぶてしくて、胡散臭くて、人を丸め込もうとする強引さには困惑せざるを得ないが、不思議な間口の広さを感じる笑みだ。無駄に素材が良いのが更に、怪しさを増す原因なのだろうか。
仮に人を化かす何かが頑張って人間の振りをしているのであれば、社会性や配慮に欠けた図々しさが絶妙に、妖しさを隠せていない。
退魔師と知れば全てに合点がいく。その得体の知れなさ自体が、ある意味一番、魅力的なのかもしれない。
サンウォンも、精神科にかかっているくらいだから、自分の弱さに向き合おうという気持ちだけはある。
できているかどうかとは別だし、専門家が薬で折り合いをつけられる以外のこととは、自分自身で闘うしかないのはわかっている。独りで闘うより、必要な逃げ場と、逃げても引き戻してくれる存在が必要で頼った。結果、薬に逃げるようなかたちになってしまったのも、自分で自分の救い方がわからなかっただけだ。それがわかるまで、もしくはわかってはいても認められなかったことを認められる、機会と方法を与え探し見守るのが、あの医者の役割だ。
病んだのは明確にあの事故のせいだが、病が悪化したのは概ね、自分のせいだろう。
悪霊と同調したのは条件がそろって起こった偶然で、全ての不幸が悪霊のせいだったわけでもない。
問題を解決する方法を知っていながら、したくないことに邪魔されてそうしなかったことが、どんどん自分を不幸に追い込み、それが悪意に変わっていくのを止められなかった。
悪霊にとってだけでなく自分にとってはギョンフンが一番、効いてしまったわけだ。
「本来なら、逃げるのも正解でしょう。自分が死んでしまわないためにはね。でもアジョシの立場だと、それで状況が良くなることはほとんどなかった。イナちゃんを遠ざけても近付いても、違うストレスの板挟みになっていましたからね。僕が来て良かったですね」
まともなことを言っているように思えたが、最後は自分の手柄にされてしまった。
「実際、感謝はしてるけど……自分だけの手柄にされてもな」
ギョンフンはこちら側の眉と口角を上げて、流し目でこちらを見た。
「あなたが僕を必要とすることは、一目見てすぐにわかりました。ニュースを見て急いで駆け付けて良かった。さすがは僕です」
更に自慢げになった彼に、また呆れる。
内心とはいえ前言撤回したくなり、自嘲する笑いが鼻に抜け、片頬に出てしまった。
冗談として笑ったと思われたのか、ギョンフンは満足げな猫のような顔になる。
「おじさんは、何屋さんですか」
ずっと様子をうかがっていたイナがそう言って、ギョンフンの方に乗り出した。
「イナャ、あんまりこの男に構うな」
「何屋さん――かな?ねぇアジョシ、拝み屋って、あんまりいい言葉じゃないですかね。便利なんだけど」
首を傾げたギョンフンは、とぼけた顔で考えている。
「ホ室長、しっかりな」
サンウォンがわざとぶっきらぼうにそう茶化すと、ギョンフンは一瞬へらっと笑ってから、イナと目を合わせた。
「……えーと、イナちゃん。僕はギョンフンと申します。退魔師といって、人が悪いものと揉めないように、お互いあるべき場所に落ち着かせる仕事をしています」
子ども向け過ぎず、まあまあわかりやすい説明ではある。イナは大人の自分本位な嘘に敏感だし、人形遊びに興じる感性と想像力はある。
「悪いものって……お化けとか?」
イナはクローゼットに呼ばれた時のことを覚えていないものの、かわいそうなお化けの出てくる夢をよく見ていたという。
「お化けそのものって言うより、お化けを悪いことのために動かす力とか、弱くてずるい心の動きのことだね。悪いことがしたいわけじゃなくて、悲しみから自分を守るために、間違ったやり方をして、自分も人も傷付けてしまうこともある。どうしたらいいかわからなくて、困っているだけのこともね」
意外にも、子どもの扱いは自分よりギョンフンの方が上手いように見える。子どもだと甘く見ながら大人扱いし、娘の子どもらしさを抑え込もうした自分と違って、できるだけ対等な関係を築こうとしているようだ。もしくは、多くの大人にとって時に邪魔になる『自分が大人である』という意識が、サンウォンよりずっと無害なかたちに落ち着いているのだろう。
「うちにお化けが出そうなの?」
イナが真剣な顔つきになったので、サンウォンは「余計なことを言うな」という顔で、ギョンフンをちらりと睨んだ。
「このおじさんはすぐ帰るよ。父さんと前の家について少し、話したいことがあるだけだ」
「そりゃないよぉアジョシ~。僕は結構あなたのために身体を張ったから、ボロボロだったでしょ?その間、稼ぎはゼロだったんですからね」
アジョシと呼んでもいいと自分で言ったが、年を聞いたら二つ三つしか違わなかった。四十を過ぎた子持ちの男を今からヒョンやらオッパと呼ばせるのも微妙だろうから、訂正するのも面倒だ。
『ホ室長』と呼べとかいうふざけたノリに付き合うのも、ツッコミを入れるのも、病気のことを考え過ぎずに済む。イナとはお互い一緒にいたいが、二人きりという状況に向き合い過ぎる環境を選んだのは悪手だった。たまにこの男とくだらないやり取りをするのは、いい気分転換ではあるだろう。
「治療費は払ったろ」
「助かりました」
――アジョシ、病院の治療費を立て替えてください。手持ちがさびしくて
ギョンフンは事件で消耗した身体を休めるため数日入院していた。退院日にそう呼び出され、イナを迎えに来る前に病院で拾ってきた。
いくらでも払うとは言ったが、肝心の請求書は冗談としか思えない金額で、とても払えない。
それでも実際、命懸けの仕事だったのは理解しているし、ギョンフンの緊張感のない顔を見てホッとした自分もいた。自分の不安定な波長と、イナのストレスのもとである緊張感や不安によって、また変な悪霊と同調してしまってはたまらない。
ギョンフン自身も悪霊の一種なんじゃないだろうな?と疑ったところで、今度はイナと目が合った。
「ねえ、お化けは出るの?出ないの?」
「出ないよ――ギョンフンと父さんが話をつけたから」
そうであってほしい。自分の病状も徐々に良くはなっている。
「出てもまた、僕がなんとかします。アジョシが忙しい間は、イナちゃんのボディガードをしてもいいですよ。住み込みも可です」
ギョンフンは自分がやり手だと売り込んできた時と同じ調子でそう笑った。どこまで本気なのかと訝しんでいた頃が懐かしい。この男は常に本気で、ふざけて見えるが静かに慌てているのだ。
「おじさん、住むところがないの?」
「……無いのか?」
「お?もしかして、無いことにすればお宅に転がり込める感じですか?」
「転がり込む?」
一瞬でも心配してしまった自分が呪わしい。
「いや、住むところはありますよ。車が。家は無いですけどね」
「車で寝起きしてるのか?荷物はあれだけ?」
「荷物は母の使っていた古い蔵にも――あと、退魔師の組合で管理してる宿泊所があるんです。まあ、自分の車よりくつろげるってことはないですけど――あ、わかった。そういうことか」
何かに気付いて納得したという顔で、ギョンフンはうふふふと笑った。
家が無い割には不潔でないと思ったら、組合があるのか。
「何が」
「アジョシが建築士なのはここに繋がっていたんですね~!報酬の代わりに、僕の蔵をアジョシ持ちでリフォームしてくださいよ。建つまでの間、衣食住も世話してくれるとちょうどいいんじゃないかな?大きな仕事は休んで、少しは暇ができるんでしょうし」
この野郎。と思ったが、あれだけ霊体験をしてしまうと、そういう縁もあるのかもしれないと思う。少なくともギョンフンでなく、死んでなお息子を動かし、イナとサンウォンを救ってくれたギョンフンの母親の力は信じてもいい気がしてしまう。
「イナと過ごすための暇だし、俺の専門は――」
そう言いかけて、何の魔が差したのか、言い淀んだ。実のところ、サンウォンは事件のせいで元々怪しかった信頼関係が完全に壊れ、個人事業主になってしまった。仕事として請け負うよりも、ギョンフンの蔵をリフォームする費用を経費として計上してしまえば、言い訳の利く、いい税金対策になるのではないか?
「別に、僕が寝泊まりできるスペースができさえすればいいですよ。衣食住って言っても、お宅のガレージを借りられるだけでいいし」
金銭も欲しいが、まずは心身の健康を優先したいということか。
交渉する立場なのに妙にえらそうなのはあの時と同じで、ギョンフンはご機嫌だ。
「……蔵はどこにある?土地は自分の持ち物か?」
うまくすれば、資材やサンプルもその蔵に置けるのではないか。
仕事に逃げていたのは、建物づくりが唯一、精神を健やかに保てるからだ。悪くない。
「土地は代々のやつです。そう広くはないですが、狭くもないです。地下室と一階しかない。人が住むのも想定されていないんで、ガスと水道なんかを整備してもらって、増築とかしてもらえると助かるかなぁ――アジョシの家からそう遠くないですよ。ここからなら通り道かな。僕も仕事が無ければ手伝いますし、うん。いい話ですね」
また変な立場でものを言い始めたが、慣れてきた。
正攻法で頑張ったのに何も報われなかった時に、突破口をくれた男というのが効いている。イナの将来は安定させたいが、自分にはもう失う物もないのだから、どうせ足掻くなら成り行きに任せてしまいたい。失敗したところで、ギョンフンの持ち物だ。
「風水とかそういうのに沿わなくていいのか?」
「あれ。そういうのも、やってくれるんです?」
験担ぎにこだわる人間は、金払いがいい。霊感商法や詐欺ではなく、ギョンフンはその道で本物なのはわかっているのだから――うまくそのノウハウが活かせれば、お互い今後の商売も運が向くのではないだろうか。
「ホ室長、君にしては悪くない提案だ」
「僕が間違っていたことなんてありました?」
自己肯定感というのはありのままの自分を受け入れて認めることであり、自画自賛のことではないのだが、ギョンフンはどっちも同時に強い。
「肝心な時にソファで寝こけてただろ」
「あれは――悪霊のせいです」
「うるさいな。通り道にあるって?どこだ。目的地を入れてくれ」
カーナビを操作するよう言うと、ギョンフンはちょっと困った顔で黙った。
「ああ、すみません。さっきの角を右でした」
「ったく、通り道って言ったろ」
舌打ちして、引き返す道に進路を変更する。
「パパ楽しそう」
そう言ってイナが、バックミラー越しに少し笑った。