紛い物の楽園ソファに腰掛けてダラダラと雑誌を読む大男。アダムは雑誌を広げたまま胸元に下ろすとボソリと口を開いた
「花が見たい」
唐突すぎるその言葉は、地獄の王をぽかんと間抜け面にさせた。なぜなら普段アダムはそんなことを言うような男では無いからだ。東方にある諺の花より団子、まさにそれ。植物を愛でるよりも食への執着が強い。まぁそれも生前満足に食べることの出来ない環境で暮らしていたからだろうが、それでも風情というのは殆ど感じられない男である。
「今花が見たいと言ったのか?」
「そうだが」
「お、お前が??」
「なんっだよ悪いか!?」
ルシファーの反応にイラつきアダムが声を張り上げる。まるでお前が花に興味があるのかとでもいうようなルシファーの反応が心外であったのだ
「私はアダムだぞ?エデンでは沢山の植物に囲まれていたし人間であった時もイブと共に花を愛でたし天国でも部下達に花を貰ったりしていたんだ!」
こんなにも長い間植物が身近にないことなんて無かった。地獄には美しい植物などは全然ないのだ。あっても毒々しい色をしていたりこちらを攻撃してくる植物など。そもそも罪人たちのせいでボロボロになり真っ当な植物など咲きはしない。
そりゃ育てたりなんだりは出来ないが人並みに植物を愛でる気持ちは持っているし美しいと思う。
「あ、あーーうん、そうか、そうだよなあ」
ルシファーはエデンのあの頃にアダムが動物に触れるように植物に触れるのを思い出した。確かに、人よりも先に彼の周りを埋めたのは植物。次に動物だ。人間界は言わずもがな緑が多い。エデンと同じように実のなる木や花があった。天国も同様、少し歩けば美しい花が咲き誇る場所にたどり着く。それら全て美しく輝かしい程生命を感じさせるものばかり。地獄のような毒々しいものは他を見ない。
「…分かってるさ、地獄に私の求める花はない。だからいかにも困ってますって顔やめろ」
「うん、いや、あ〜…」
「…?なんだよ歯切れ悪いな」
実はルシファーにはアダムに隠していたことがある。いやまぁそりゃもう言ってない事はそれなりにあるのだがこれに関しては本当に隠していたことでありアダムにとっても知らない方がいいのではと考えていたが故の隠し事である。だがしかしアダムの今回の要望に一番答えられるのもそれだけだったのだ。なのでそれを明かすか明かすまいか、悩んでいるがゆえの歯切れの悪さ。正直ルシファーにとってもあまり良い思いの場所では無いのである
「…よし、少し待っていろ」
「あ?ちょ、おい?」
一つ大きく息をつくと覚悟を決めたかのようにルシファーはそう言って部屋から出ていった。アダムは右手を彷徨わせルシファーの背を見送った。ぱちぱちと瞬きをしてから首を傾げると案外早くルシファーは戻ってきた。
「アダム、ほら」
「うぉっ……これ、花?」
「…一応な。ただ、本物によく似た紛い物だが」
ルシファーが差し出してきたのは一輪の白い花。ブバルディアと名付けられた可愛らしい地獄には決して咲かない花だった。
アダムがおず、と受け取るとふわりと花特有の甘い香りが鼻腔を擽る。紛い物と言うにはあまりにも世紀に満ちているそれは正しくアダムが求めていた植物であった
「これ、一体どこから…」
「あー…知りたいか?」
「そりゃあ、こんなに綺麗な花が咲いてる場所があるなら知りたいさ」
暇つぶしにもなる、とアダムが素直に肯定する。くっと眉間に皺を寄せて煮え切らない態度のルシファーはうろ、と目を彷徨わせる。アダムはそんなルシファーを見て首を傾げてから、受け取った花を視界に入れて花弁を摩る。
以前花にやけに詳しい部下が熱弁していたが、花には様々な意味があるらしい。それぞれに花言葉があり、贈り物に相応しいものと相応しくないもの。用途によって花言葉の意味が変わるものがあるのだと。とはいえアダムも全ての花の名前を覚えている訳では無い。しかしなんの偶然か、ルシファーの持ってきたこの花は花の形が十字架に見えるとかで印象に残っていた花だった。ブバルディアという、"夢"や"空想"と言った花言葉を持つ美しい花。エデンの記憶の中にも咲いていたものだ。そんなことを考えてからもう一度ルシファーに目をやればバチッと目が合う。教えてくれないのかと首を傾げながら見つめれば、観念したようにため息を着いて口を開いた
「見ても後悔しないのなら、着いてくるといい」
そう言ってまたルシファーは部屋を出た。アダムは雑誌を机に置いてから、追うようにして部屋を出る。前を歩くルシファーは何も話すことなく少し鬱々とした雰囲気を漂わせながら前を歩いている。その姿になんとなく気まずくなりながらも後を着いて行くとルシファーが足を止める。そこには何も無くただの壁があるだけ。思わず眉間に力を入れると、ルシファーがパチリと指を鳴らし壁に触れた。するとそこに大きな扉が出現しアダムは目を見開き、口をぽかんと開けて驚く。
「…開けるぞ」
「あ、おう…」
心の準備をしろよとばかりに声を掛けられ呆けた顔を戻してこく、と頷く。ルシファーが扉をぐっと引けば開いていく扉の隙間から眩しいほどの光が漏れ出て、アダムは思わずギュッと目を細める。そして段々と慣れた目を開けば、そこに広がる光景に思わず息を飲んだ
「……ここは…」
「…」
そこには空と大地が広がっていた
青々とした植物が生き生きと生い茂り、美しい花々が爛々とその身を揺らしている。木々は実のあるものは思わず手に取ってしまいそうな程艶々と輝いていた。空では鳥が飛び回り楽しそうにちちちと鳴いている。そしてなにより、アダムにはこの光景に見覚えがあった
「…堕ちてすぐの事だ。どうしても私はあの美しい場所を忘れられなくて、偽物でもいいからとリリスの反対を押し切ってここを作った」
ルシファーが視線を下に向けたまま暗い表情で語り出す。アダムは目の前の光景から目を離さないまま耳を傾ける。
「けれど、直ぐに後悔した。リリスの言う通り虚しいだけだった。紛い物は所詮紛い物だった。」
リリスもアダムも居ない、動植物のみの空間はただの庭園のようなものだ。どれだけ似せて作っても2人がいなければそこはなんの意味もない空間でしかないのだ。それが酷く虚しくて悲しくて、鬱を加速させる一因になるだけだった。けれどルシファーはこの場所を残した。目につかないよう封印するだけで、壊そうと思えば壊せたのにそのままにした
「壊せなかった、どうしても」
あの頃の記憶まで壊してしまう気がした。
そこまで聞いて、アダムが目を伏せる。するとふいに奥の方から一頭の馬がこちらに歩み寄ってくる。紛い物とは思えないまるで本物のようなそれは、アダムの顔に頭を擦り寄せた。
アダムは驚いたものの懐かしい感覚に笑みを浮かべて馬を撫でる。嬉しそうにブルルっと鳴いて尻尾を揺らす姿に、これが紛い物だなんてどうでもいい気がした
ルシファーはそんな光景を目の前にして、気がつけばポロリと瞳から涙が零れていた。
「…え、は!?ちょ、なんで泣いてる!?」
「わからない、…なぜ私は泣いているんだ?」
驚いたアダムが馬を撫でていた手を止めてルシファーの方に向いて涙を拭ってやる。その間もポロポロと涙はこぼれ落ちていく。ルシファーは涙を拭いながら困惑の表情を浮かべるアダムを見て思考した
ーただ、美しかったのだ。姿はあの頃よりも随分と変わってしまったが、それでも馬を優しげに撫でるその姿があまりにも懐かしくて…美しかった。あんなにこの場所を作ったことを後悔していたのに、ただそれだけ、たったそれだけで救われた気持ちになってしまった。ここに足りなかったものを見つけた気がして、気がつけば涙が流れていた。
ルシファーはそっと頬を包んでいるアダムの手に自分の手を重ねる。
「アダム」
「なんだ?」
「…アダム、アダム」
「だから…、なんだよ」
きゅっと手を握られて切なげに名前を呼ばれる。目を伏せてアダムの手に頬を擦り寄せるルシファーに大人しくされるがままになる。まるで求められているかのように感じた
やがてルシファーが目を開いて、涙でうるっとした瞳でアダムを見つめる。
「ここに、お前が居てくれることが嬉しいんだ…」
やっとこの場所を好きになれる、そう笑った。
きっと足りないものはこれだった。アダムというひとつのピースが嵌ったことでここはルシファーの求めたあの頃のエデンとして完成された。
「なぁルシファー」
「…ん?」
「ここ、私にくれよ」
ぱちぱちと目を瞬かせる。きょとんとしたルシファーをアダムは真っ直ぐ見つめてから、紛い物のエデンへと目を向ける。それをつられるようにルシファーもそちらを見た
「私がここに居て、それでお前がここを好きになれるなら。私が居なきゃまた封印しちまうんだろ?」
「…それは、そうだな…」
「それは勿体ない。ここにある生命は、紛い物と呼ぶには綺麗すぎる」
アダムがルシファーの頬から手を離し、エデンの奥へと進む。まるでアダムの存在を歓迎するかのように花がサラサラと揺れている。
「私がここにいれば、私ごとここを愛してくれるだろ」
吹くはずのない風がアダムの服を、髪を揺らす。吸い寄せられるようにアダムの元へ行き、その美しい顏を引き寄せる。抵抗もなく顔が近付いて、口が合わさった
「…ここに居てくれ、アダム。私の傍に」
「……おう、仕方ないから居てやるよ」
満足そうに笑うアダムに、もう一度キスをした。
*ブバルディア*
花言葉
「夢」「夢想」【幸福な愛】【愛の誠実】