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    ichijyoWT

    新参でリハビリ中のおたく
    カラミやヘキにはワンクッションおいてます
    こちらにはR18などない
    @ichijyoWT

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    ichijyoWT

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    海の犬辻企画(一天四海)さまにと書きました、デートしたり海に行ったりキャッキャしたりする友人・先輩後輩・チームメイト・相棒以上恋人未満な犬辻です。
    ※「スノーケリング」じゃなくて「シュノーケリング」を採用しました🦐

    #犬辻
    tsuji

    「ちょっと、いいものあげる」

     風呂上がりに自室に向かって歩いている途中、下の姉から不機嫌そうに呼び止められて押し付けられたのは二枚組の水族館のチケットだった。
    「なにこれ珍しいね。どうしたの?」
     聞けば、新しくできた彼氏くんの都合がつかなくなったとかで行き場を失ってしまったらしい。
     友達と行けば?と言おうとして、これはきっと藪蛇なのだろうなと悟り、口を噤む。長姉にも次姉にもそれなりに可愛がってもらっている自覚はあるが、姉という絶対強者の前で弟は無力な存在だ。一番スマートなやり過ごし方を即座に頭の中で計算する。チケットを素直に受け取り「ありがとね」とお礼を言うと、姉は少しだけ笑顔を見せてくれた。
     内心ほっとしながらこちらもへらっとした笑顔で応じたが、おれへの用が済んだ姉のドアの閉め方には淑やかさの欠片もなく、やはり相当苛立っていることがありありと分かって震え上がる。おれはまだ見ぬ彼氏くんに頑張れ……と心の中で合掌しながらエールを送った。

     自室のベッドの上に寝転がり、この曰く付きの水族館チケットはどうしたものかと思案する。
     有効期限まではまだ少し余裕があるみたいだから人に譲ってもいい。たとえばひゃみちゃんに「烏丸くんと行ってきなよ」と渡して恋のキューピッド役を買って出てみてもいいんじゃないかと一瞬考えたけれど、これを入手した経緯を考えると微妙な距離感の男女二人に譲渡するのは些か縁起が悪い気がした。ましてやひゃみちゃんはおれにとっては可愛い後輩で頼りにしているオペレーターでもあるので、彼女の恋路は普通に応援してあげたい。
     うーんと考えて、ここはおれが使うのが一番丸く収まるなと思った。ただ、おれの場合はひゃみちゃんとちょーっと事情が違うからな〜……。
     水族館のチケットと睨めっこする。
     おれは現在、ある後輩に対してよく分からない混ぜこぜの感情を抱き、持て余している。自分が末っ子だからか下ができたような愉しさとか、自分を見つめてくれる嬉しさとか、ある種の独占欲とか庇護欲とか一緒にいて感じる居心地の良さとか、そういうのは自覚としてあって。
     多分世間ではこれらを含めて今の状態を恋っていうんだろうなと思ってはいるけど、おれ自身はあまりピンときていない。認めてしまえばそこからは進むにしても諦めるにしてもきっと簡単だと自分でも思うのに、おれの中の理性的で意固地な部分が「まだ分かんないじゃん」と主張する。こういう特別感は初めてだから混乱しているだけかもしれないだろ、と。
     それに、おれが恋と情を勘違いして突き進んでしまったら。傷つくのはおれよりもきっと相手のほうだ。この感情の正体が恋にしろ錯覚にしろ、相手が可愛い後輩である事実は揺るがないし変わらない。おれの勝手に巻き込んでしまう以上、無駄に傷つけてしまうことは絶対に避けたかった。
    「う〜ん……ん?」
     ふと閃く。じゃあこれはデートの予行演習だと思えばいいのでは?好きかもしれない相手との、今後を占う予行演習。
     おれがその後輩を可愛がっているのは自他共に認めるところだし周知の事実だけど、それはあくまで先輩の立場としてであって、こういった複雑な想いを抱いているのはきっと本人をはじめ誰にも悟らせてはいないはず。
     始まる始まらない以前の関係だし、別に先輩が後輩を誘って遊びに出かけるのも世間じゃきっと普通のこと。じゃあ縁起も何も、失うものは特にないじゃんね。
     そこまで考えると気持ちが急に軽くなった。そういうことであれば誘う相手は一択で、おれは早速連絡を入れることにした。


    ◇◇◇


    「それは災難でしたね」
     さすがにおれの悶々とした気持ちは伏せつつ、事情を話した上で水族館デートに応じてくれたのは、おれを密かに悩ませ続けている相手で一つ下の後輩。
     よくよく考えるとおれの後輩──辻ちゃんに、年上権限を振りかざしてしまい、ついにおれも姉と似てきたか……と自己嫌悪に陥りかけたけど「俺は構いませんよ」と穏やかに受け入れてもらったので救われたような気持ちになった。いや、割と本当に。

     土日や祝日だと人が多そうなので平日の非番の日に待ち合わせて辻ちゃんと放課後水族館デートをすることになり、当日に昇降口で待っていると、あの優等生の辻ちゃんが小走りでやってきた。たしかに結構タイトなスケジュールだけど、まだ間に合うからそんなに焦らなくていいのに。
    「すみません、HRが長引いて……」
    「全然いいよ、そんなことよくあるし。それより辻ちゃん廊下なんて走るんだ?レアなもん見た」
    「……それは、犬飼先輩を、待たせてると、思ったので」
     少しだけ息が上がって、うっすらと汗ばんで、頬を赤くして。
     どうやら辻ちゃんは教室から走ってきたようだ。時間もまだ少しは余裕があるしおれも全く気にしていないのに、なんか健気だ。忠犬みたいな姿勢に思わずきゅんとする。
    「ハンカチいる?」
    「……ありがとうございます」
     タオルハンカチを差し出すと辻ちゃんは更に頬を赤らめながら汗を抑える。「洗って返します」という申し出にいいよいいよ気にしないで、と返したけれど、辻ちゃんが納得していないようだったのでハンカチの処遇は辻ちゃんに任せて好きなようにさせた。

     目的地の水族館は電車を乗り継いで最短でも30分くらいかかる場所だった。そして更にそこから移動することを考えれば、移動時間は片道だけで50分ほど。距離としても結構あったし、考えてみれば辻ちゃんと一緒に三門市から出たことなんてなかったなあとぼんやり考える。
    「水族館なんて久しぶりです」
    「おれも。最後に行ったのは家族とだったかな、もう何年も行ってないや」
    「…………」
    「なに?辻ちゃん」
    「いえ」
     到着してから閉館時間までのことを考えると明らかに移動に費やす時間の方が長くて悪かったなあと思ったけれど、辻ちゃんは思いのほか機嫌が良かった。
     任務のときのしっかりとした真面目で優秀な剣士である彼とは違って、今は穏やかにおれの話に耳を傾けては時折笑う素直な後輩の顔をしている。オフの辻ちゃんは意外とのんびりしていて癒やし系だ。誘う相手を間違えなくてよかった、と、辻ちゃんを見ながらほっとした。


    ◇◇◇


     水族館に着いたのは本当に入場時間ギリギリで、広い館内を残り30分程度で回りきらなくてはいけなかった。
     全部をゆっくり見られなくて申し訳ないなあと思っていたら、辻ちゃんの方から「見たいところだけ見て回りましょう」と提案された。ごめんね、と謝ると、俺も遅刻したのですみません、と同じように謝られる。
    「元々タダで頂いたものですし、『宿題』を残して帰る方がまた来れると思います」
     辻ちゃんがそう言ってくれたので、じゃあまた今度改めてゆっくり来ようねと約束をする。辻ちゃんは「はい」と快く返事してくれた。
     そのやりとりで心にゆとりが生まれ、二人で普通に楽しめるくらいには落ち着いて館内をまわることができた。
     閉館時間が近いせいか立地のわりには人も比較的少ないし、涼しいし静かだし、なかなか気に入った。水族館がデートスポットとして人気なのも分かる気がする。
    「わ……」
     辻ちゃんが小さく声を上げる。同じところを見ると、可愛らしい小さなクラゲがいた。水槽の底には花びらを閉じ込めたビー玉が敷き詰められていて、水槽全体がライトに照らされている。水中をふよふよと漂うだけのクラゲもこうして見るとなんだか優雅で、水の妖精のように見えた。
    「へぇ、こういう魅せ方もあるんだ」
    「なんだか可愛らしいですね」
    「そうだね」
     おれも素直に感心するけど辻ちゃんはそれ以上に感動していたようで、辻ちゃんのほうこそかわいいなあと思う。
     辻ちゃんはたまに感性や言動が見た目より幼かったり少年らしくなる時がある。そんな一面が垣間見られるとき、あー気を許してくれてるのかな?と気分がアガるし、辻ちゃんは相当しっかりしてるけどおれより年下なんだよねと再認識できて心が和む。
     クラゲより辻ちゃんのリアクションを見ての笑顔だったけど、おれがニコリと笑ったものだから、クラゲに心奪われていた辻ちゃんも自分への同意だと受け取ったのか更に屈託のない笑みを浮かべた。その顔は高校生とか後輩とかいうよりも上の兄弟に認められた弟のそれに近い印象で、辻ちゃんのお兄さんてすっごい羨ましい立場だなと顔も名前も知らない辻家の長兄に思いを馳せた。

     時間のこともあるのでクラゲの展示から離れて歩いて行くと、水族館の目玉の一つらしいトンネル水槽が見えてきて、二人でそこを通る。まばらにいた来場者も他の所を見ているのか姿は見えなくて、まるで貸切状態だった。顔を横に向ければいろんな色をした無数の魚が泳いでいて、想像していたよりもずっと迫力がある。天井を見上げると悠々と泳ぐエイやウミガメのお腹が見える。他にも魚や海の生き物を珍しい角度で観察できるのが面白く、トンネルのコンセプトとアイディア、そして何よりもその存在感に圧倒されてしまった。
    「海の中を歩いてるみたいですね」
     ぽつりと零した辻ちゃんのほうを見ると、水槽を見上げるその横顔は相変わらず鼻筋の通った端正な小さい顔で。
     ただ、その瞳はいつもとは少し違っていた。
     彼の眼は基本的に葡萄を煮詰めたような深くて濃い紫、あるいは烏の羽根のような艷やかな黒。そんな眼をしているのに、今の辻ちゃんの瞳にはキラキラと幾つもの星が散っていた。
    「……うん……」
     少し遅れて、ようやくそれだけ返す。
     普段から気軽に辻ちゃんてかわいいね、美人だね、キレイだね、って本人を前に口に出したり出さなかったりするけど、今この瞬間の辻ちゃんにはすぐに言葉では表せないような美しさがあった。手を伸ばしても届かないような気がするくらい、どこか現実的じゃないような……おれの経験で喩えるなら、美術館に飾られた絵画を見ているような感覚に近かった。
     絶対に忘れたくないと思ったし、ああ辻ちゃんてこういう目をするんだ、と、なんだか胸や頬があたたかくなって鼓動が早くなる。
     少なくとも今この瞬間に、煌めく瞳で海の世界を夢中で見つめている辻ちゃんを知るのはおれだけ。その事実が誇らしく思えた。おれに魔法が使えるなら今この瞬間に時間を停めてどっかに切り取っておきたいくらいだけど、根がしっかり者の辻ちゃんは輝く瞳で水槽を見渡しながらもちゃんと出口に向かって歩いている。ままならないなあ、と苦笑いして、辻ちゃんの邪魔にならないように後ろをゆっくりと歩いた。

     トンネルを抜けるとなかなかいい時間だった。あとは適当に展示を見ながら出口を目指せばちょうどいいくらい。
     色鮮やかな熱帯魚をざっくりと見ながら、ふと、前に鋼くんが話してくれた鈴鳴支部で起きた来馬先輩のアクアリウムの悲劇を思い出した。でもこれ内容的に辻ちゃんに言うとしょっぱい顔するだろうな〜と出掛かった言葉を飲み込んで胸に留めておく。おれの様子に気づいた辻ちゃんが「どうかしましたか?」ときょとんとした顔で尋ねてきて、なんでもないよと笑ってみせた。
     辻ちゃんは小首を傾げたあとにまた水槽に視線を戻して熱帯魚をきょろきょろと観察しはじめ、持てる時間の範囲で楽しんでいた。辻ちゃんもこの水族館が気に入ったらしい。やっぱりどう考えても滞在時間が短すぎたので、今度来るときは早めに来てもっとゆっくり見せてあげようと心に決めた。

     閉館時間までは残り少なかったけど、出口付近にショップが入っていたのでお土産を買うために二人でふらりと立ち寄ってみる。
     そんなに気の利いたものじゃないかもしれないけど、メタリックな青色のシャープペンシルを2つ手に取った。とりあえずは今日の遠出記念ということで。
     おれからのプレゼントに畏まって困っている辻ちゃんの姿は知らぬ存ぜぬでレジの方へ向かう。お揃いのこのペンがあればいつだって今日の辻ちゃんを思い出せる気がした。それだけでもおれにとっては重要アイテムだ。
    「……ん?あ。ねえねえ辻ちゃん、ついでにあれも買ってあげようか」
     レジの傍にある回転ラックに『しんちゃん』とプリントされた水族館の名前入りのタオルハンカチがあったので指差すと、辻ちゃんが小さく吹き出して「懐かしい」とか「すみちゃんとお揃いなら」なんて言うのでおれもなんだか面白くなってきて、結局『しんちゃん』『すみちゃん』のタオルも併せて購入したのだった。


    ◇◇◇


    「お疲れさまー」
     水族館を出て、駅まで送ってくれるという帰りの無料送迎バスを待つ。バスが来るまでにもう少し時間があったので近くの自販機に寄った。
     辻ちゃんにスポーツドリンクのペットボトルとお土産を渡すと辻ちゃんはありがとうございますと素直に受け取ってくれて、お土産はカバンに、ペットボトルはそのまま蓋を開けて口をつけた。おれもそれに倣って買ってきたドリンクで喉を潤す。
    「楽しかったです」
    「そりゃよかった。『宿題』も残してきたし、また来ようね」
    「はい、ぜひ」
     館内での様子からも伝わってはいたけれど、辻ちゃんは本当に楽しんでくれたようでこっちまで明るい気分になる。
     次第に送迎バスの姿が見えてきて目の前ので止まった。二人で乗り込み、一番後ろの広い座席に座る。
    「辻ちゃんはさ、海とか結構好きだったりするの?」
     想像以上に辻ちゃんが楽しんでくれたことと、さっきの──トンネルの水槽を歩きながら魚たちを見上げていた表情が忘れられなくて、それとなく尋ねてみた。
     辻ちゃんはえっ、という顔をしてから手を顎に当ててうーんと考え始めた。推理中の探偵みたいだ。そんなに難しく考えなくていいよと言うと、じゃあ……とゆっくりと口を開く。
    「好きかどうかは……分からないです、あんまり考えたことなかったので。でも海自体は嫌いじゃないです。綺麗だと思いますし。最後に行ったのは臨海学校ですけど」
    「……ん?」
     へえーそうなんだと言おうとして、答えてくれた辻ちゃんの言い回しがおれの中でなんだか引っかかる。
    「臨海学校って中1で行ったやつ?結構前じゃん、今まで夏休みに行ったりしなかったの?」
    「はい。どうも得意じゃなくて……」
     おれもわざわざ友達と海に行ったりはしないけど、家族旅行で海辺に近いホテルに泊まったりそこでマリンスポーツをしたりということはあった。東さんみたいに釣りが好きなら海にも行くこともあるだろうし、観光や潮干狩りで行くこともあるだろうし。辻ちゃんがカナヅチという話も聞いたことがなく、この数年間海に全く縁がなかったというのは少し不思議な気がした。
    「……あ!あ〜。なるほどね」
     そこまで考えて、ある一つの可能性がおれの頭の中にポップしてくる。
    「海っていえば水着の女の子がいるかもしれないもんね。そりゃあ辻ちゃんは避けそうだ」
    「………………」
     どうやらおれの指摘は図星みたいだった。真っ赤になって静かに汗をかく辻ちゃんに分かりやすいな〜と苦笑する。
    「じゃあ今度おれと海に行こうよ。人が少ないとこ探すから」
    「えっ」
     驚いた声をあげた辻ちゃんは、これまた珍しく夜道で見かける猫みたいにくりくりとした目でこちらを見つめてきた。
    「せっかく嫌いじゃないのに行けないのは勿体ないと思って。島とかどう?そんなとこまで来てわざわざ声かけてくるような女の子もいないと思うし」
     でもそうなると今日より移動時間が長めになるなあ、と考えながらぶつぶつ呟くと、辻ちゃんは「俺はそれでも大丈夫です」と、はにかみながらも答えてくれた。
    「俺よりも犬飼先輩の方が大丈夫ですか?」
    「う。大丈夫、推薦はよっぽどのことがないと落ちないし補講もないはずだから」
    「えっ?いや、学校の話じゃなくて。俺と海に行くの……」
     辻ちゃんは言葉にこそしなかったけど、自分と一緒に海に行くのはつまらないんじゃないかと心配しているようだった。
     別に海辺での出会いが欲しいわけでもないし、気合いを入れて本気でレジャーを楽しみたいわけでもない。おれが辻ちゃんと海に行ってみたいから口にしただけなのに、何を不安に思うことがあるんだろうと笑ってみせた。
    「そりゃいいに決まってるでしょ、そうじゃなきゃ誘わないよ」
     思わず外国人のリアクションみたいに肩を竦めると、辻ちゃんはほっとしたように小さく微笑む。
    「親子連れで混まれてもやだよね。小中学生が夏休みに入る前に行きたいなあ」
    「そうなると結構行けそうな日が限られてきますね」
    「わかった。じゃあ今日帰ったら速攻調べる。そんで連絡するからね」
     マジだからね!と念を押すと、辻ちゃんはくすくすと笑いながら「楽しみに待ってます」と答えてくれた。
     それからは水着をどうするだとか持ち物をどう揃えるだとか、そんなことを話しながら帰る。最初は控えめに頷くばかりだった辻ちゃんも、話しているうちに段々のってきて楽しそうに会話に参加してくれるようになったのが嬉しかった。

     帰宅するなり早速パソコンを立ち上げて同時にスマホを弄りながら、ふと、おれって意外と単純なのかも?なんて思ったりした。結局例の『予行演習』は大成功だったし、気付けば嬉々として次の約束まで取り付けてしまって、今もそのテンションで次の行き先を探してる。
     ……そしてなによりも。今回はさすがに認めざるを得ないでしょ。
     理性的で意固地な自分に「もういいよね?」と尋ねると、小さく白旗をあげている。
    『楽しみに待ってます』
     その一言でこんなにもやる気になる自分に驚くけど、それだって別に悪くないよな、なんて思う。
     おれの高校最後の夏。どうやら辻ちゃんと海に行くのが一番のイベントになりそうだ。


    ◆◆◆


    「行ってきまーす」
     誰も聞いていない挨拶には当然家族の誰も応えることはなく、静寂を背にそっと玄関の扉を閉めて鍵をかけて出た。
     この季節は朝でもだいぶ暑いし明るくて、遠足前の小学生よろしくあまり寝付けなかったけれど眠気も空の青に溶かされていくような気がする。今日は天気予報によるとずっと晴れだし、なかなか良い日なんじゃないかと思う。
     非番の日に辻ちゃんと遠出するのは2回目だ。それも前回の水族館よりさらに遠い場所で、移動時間も倍以上。家を出る時間は登校時間よりも余裕で早かったけれど、それでも普段から夜間防衛任務や急な召集をこなしているため、幸いお互いに早起きも早出もそこまで苦ではない。
     ボーダーに入隊してからは自分でもフットワークがだいぶ軽くなったなと思う。そして何より今日という日がずっと楽しみで、待ち合わせの駅に向かう足が自然と速くなっていく。

    ──カランコロン、かんかんからんからん。

     肩から提げたカバンからぶつかりあう軽い音が響いたので思わず苦笑した。恐らくこの音の正体はおれに水族館のチケットをくれた次姉から借りた新品や使いかけの入り混じった日焼け止めクリームのボトルだ。
     よいこらせっとカバンを持ち直して改めて待ち合わせ場所へ向かう。

     辻ちゃんと連絡を取り合って海へ行く日程を決めた日。
     一応家族内の情報共有として水族館に行った後輩と海に行ってくるよ、とチケットをくれた方の姉に告げた。「女の子?」と聞かれたので「いや、男だけど」と答えると「例の『辻ちゃん』か〜」と相手の名前も言ってないのに当てられてしまい、意外と弟の交友関係を覚えてるもんなんだなと少しばかり驚いた。姉を見直した直後に「あんた意外と女っ気ないよね」とも言われて、ほっといてくれと思いつつ笑顔で躱しておく。
     それから適当に近況を雑談しあって、件の水族館デートがポシャった彼氏くんとは別の日の夜に高級フレンチを食べに行く約束で手を打ったとの情報を得た。そこはおれでも名前を耳にしたことがあるような店で、関係のないおれが冷や汗をかきそうになる。どちらが提案したかは知らないけれど、もしかすると未来の兄になるかもしれない相手に先日と同様、心の中でそっと手を合わせた。
     次のデートを取り付けて、しかもそれをおれに惚気けられたことで姉はかなり上機嫌だった。気が強くて遠慮がないながらも面倒見の良さが美点でもある姉に当日はどうするのかと聞かれ、早朝に出かけて遅くなっても夜には帰宅する予定であることを追加で告げると露骨に渋い顔をされた。

    『別にそんな無理して1日で済まさなくても。普通に午前中のあいだに出かけて泊りがけで遊びに行けばいいじゃない』

     ……ふとそのとき発されたアドバイスが脳内再生されたので、それを払うようにブンブンと頭を横に振る。
     もっともだとは思ったし正直それは真っ先に考たけれど、辻ちゃんと二人きりで外泊するっていうのは次姉が考えているよりもずーっとずーっとハードルが高い。というよりも、今は色んな意味でおれがやばい。「一応まだ高校生だしね」と言っておいたけど、自由に、そして眩しいくらい自分に素直に好きな相手とデートを取り付けられる姉を少し羨ましく思った。
     結局次姉はそれ以上は特に言及してこないで、海に遊びに行くのならと何パターンも所持している日焼け止めやクレンジングを快く貸してくれた。結構嵩張るけれどきっと役に立つだろうと確信めいたものがあって、その点では素直に姉に感謝する。

    「犬飼先輩」
     待ち合わせ時間前だというのに約束の場所には既に辻ちゃんが到着していて、こちらに気付き小さく手を振ってくれた。それだけで心が弾んで足どりが更に軽くなる。ほんと、笑っちゃうくらい礼儀正しい後輩だ。
     からんからんと控えめにボトルがぶつかり合う音を聞きながら、おれは辻ちゃんのほうへ駆けて行った。


    ◇◇◇


     電車に乗って高速船にも乗って、姉の言うとおり泊りがけならもっとゆっくりできるのになあと残念に思う。それでも辻ちゃんは文句や愚痴の一つも言わないで口元を綻ばせながら景色を眺めたりおれの話し相手になってくれた。話すときも沈黙も心地良い時間に感じられて、改めて一緒にいても苦にならない子だなあと心がじんわりあたたかくなる。
    「……あ。犬飼先輩、あれじゃないですか?」
    「ん〜?」
     辻ちゃんが指差したほうを見ると、たしかに島の形がはっきりと見えてきた。
     そこからはかなり早くて、あっという間に島に到着した。
     潮風の匂いと青く澄んだ海水、目の前に広がる島と港のどこか懐かしさを感じさせる景色を前に大きく伸びをする。
    「長かったねえ」
    「そうですね。でも俺ジェット船なんて乗ったの初めてでした」
    「おれもおれも。乗ってると気づかなかったけど外から見てると派手な動きするんだね、あれ。すごい速いし」
     おれたちを運んでくれた船が水飛沫をあげながら次の島を目指して去っていく。
    「ここに来ないと乗ることもなかったと思います」
     来てよかった、というニュアンスで辻ちゃんが言うものだから、なんとなく照れてしまう。潮風に曝される髪の毛を押さえて「行こう」と海水浴の方へ足を向けた。辻ちゃんもついてきて肩を並べて一緒に歩く。

     ここまでが長旅だったので目的地くらいは近場でもいいかなと思い、港から歩いて5分くらいの海水浴場を目指して道路に沿って足を動かした。
     次第に開けた駐車場のような場所に出て、まっすぐ歩いて石の階段を降りると、そこからは視界いっぱいに遠浅で透明度の高い入り江の景色が広がった。
    「わあ……」
     思わず感嘆の声が漏れる。
     三門市から近いとは決して言えないけれど、こんなに澄んだターコイズブルーの海がそう遠くない場所にあると分かって心が揺さぶられた。
     ポストカードの写真にありそう。それくらい絵になった。
    「すごいですね……」
     辻ちゃんもまたおれと同じように感動していたらしく、口が小さく開いている。
    「辻ちゃん、口、口。ぽかんになってる」
    「…………」
     おれに指摘されて辻ちゃんはきゅ、と唇を結ぶ。その仕草があまりに素直なのでついつい笑ってしまう。
    「あー……ホントすごいね。圧倒される感じ。それに今はプライベートビーチ状態だし」
    「他にも島の人や船にいた人がいると思ったんですけどね」
    「釣りやハイキングに分かれたのかな?海水浴場もここだけじゃないしね。温泉も宿もあったし、意外とおれたちみたいな客は少ないのかも」
     島自体は狭いけれどなかなか楽しめそうな場所で、ホームページを見るかぎり島の良さを満喫してまわるには1泊……いや2泊くらいしても良さそうではあった。そっか、と納得する辻ちゃんの手を引いて砂浜へ向かう。砂浜では互いに持ってきたレジャーシートやポップアップテントを広げて重しの代わりとしてカバンを置いた。
    「人が来ないうちに着替えよっか」
    「はい」
     そうは言っても互いに事前に打ち合わせて下に水着を着てきたから、あとは服を脱いで海水浴グッズを準備するだけ。
     足踏み式のエアーポンプや浮き輪を取り出したり、シュノーケルを出したりマスクを出したり……フィンはどうしても荷物になるので持参しなかった。マリンシューズ、ラッシュガード、あとは一応マリングローブをシートの上に広げていく。慌ただしく物も多く、まるで蚤の市の開店準備状態だ。
    「……涼しい。海ってこんなでしたっけ」
     荷物を広げるおれの横で、辻ちゃんが浮き輪にしゅこしゅこと空気を入れながら呟く。その姿は客観的に見れば間違いなくイケメンなんだけど、おれからはどことなくシュールに見えてしまう。頑張って忙しなく足を上下させてるのがなんだか妙にかわいいし。そしてその様子を観察するおれに気付いて不思議そうに小首を傾げるもんだから更におかしくなるんだけど、答えないのも失礼だなとネットで調べてきた知識を披露する。
    「この島は常春の島って言われてるんだって。なんとなく空気が優しいよね」
     海に近い場所にしては風も空気も柔らかいし涼しいので、辻ちゃんの言ったとおりイメージよりもずっと過ごしやすそう。まだ午前中とはいえ太陽も高い場所にある。三門市じゃ冷房をつけなきゃやってられないような時間帯でも楽勝だ。
    「そうなんですか。みかんが穫れる三門市とは色々違うんでしょうね」
    「ああそっか、みかん……」
     三門市は基本的に温暖な気候の土地なのでみかんがよく穫れる。その話を聞いて弓場さんのところの帯島ちゃんがパッと思い浮かんだ。彼女のトレードマークの健康的な小麦色の肌は、たしか実家のみかん農家を手伝っているうちに焼けたって話だ。ボーイッシュな彼女には日焼けした肌も似合っているけれど、目の前の後輩はどうだろう。なんだか想像がつかない。
    「浮き輪できましたよ……どうしたんですか?」
     さっきよりもじぃっと見つめるおれに気づいた辻ちゃんは少し驚いたらしく、明らかにビクッとしたリアクションをとった。
    「ん。ごめんごめん、辻ちゃん日焼け止め塗ってきたかなーと思って」
    「あ、そうでしたか。一応は塗りましたけど」
    「塗ったやつ持ってたりする?」
    「ありますよ」
     おれの話に納得したらしい辻ちゃんは「これです」とカバンから日焼け止めクリームを取り出して見せてくれた。目の前に出された容器を確認すると、なんとなく予想していた通り日常生活用の日焼け止めクリームだった。
    「辻ちゃんは男らしいなあ」
    「?はあ……」
     思わず苦笑すると、なんで笑われたか分からない辻ちゃんが納得していないような顔をしている。
    「普段使いならそれでもいいけど、こうやって外で遊ぶときは今度からSPF50+、PA++++、ウォータープルーフって書いてあるやつを選ぶといいよ。とりあえず数が大きそうなやつ。そうだなあ……あとは辻ちゃんには乳液タイプがいいと思う」
    「???」
     おれの怒涛の解説に辻ちゃんは何を言ってるかよく分かりませんという顔を隠しもしない。
     しっかり者の辻ちゃんのこんな顔を見られるという点では姉二人による教育的指導、というより刷り込みに感謝しかなかった。
    「海水浴には心許ないやつだよってこと。ほらほら。塗り直してあげる」
     座って、と促して辻ちゃんの腰を降ろさせる。おれは辻ちゃんの正面に陣取り、持参した日焼け止めクリームを片手に気合を入れた。
    「目ぇ瞑ってね」
     おれが言うと辻ちゃんは素直に瞳を閉じて──あ。これってキス待ち顔っていうんだよね。辻ちゃんてキスするときはこんな顔するんだ。
     ……なんて邪念が湧いてきたけどパッパッとすぐに振り払い、顔のポイントにちょんちょんと日焼け止めをのせていく。
     ムラにならないよう気をつけながら、なるべく少ない力で伸ばしてあげた。辻ちゃんは大人しく、おれにされるがまま。
     失礼するよーと言って額を出すと、普段は隠れている形の良い生え際が現れた。日焼け止めクリームを辻ちゃんの顔の隅々まで伸ばしながら、相変わらずパーツも配置も絶妙な和風美人だなあと溜息を吐きそうになるのを堪える。瞼の上や耳までちゃんとクリームを伸ばしたし、これで辻ちゃんを紫外線から守ってあげられるはずだ。
    「はい、もう瞼は開いていいよー。次、身体はこっちね」
     顔に塗ったのとは違う比較的量の入ったタイプの日焼け止めクリームを取り出して、こちらは使う前にシャカシャカと振る。かたかたとステンレスのボールが揺れる小気味良い音がした。
    「使い分けるんですか?」
     辻ちゃんが大変そうだと言わんばかりの表情で尋ねてくる。
     生活態度は真面目そのもの、身だしなみにも気をつけているわりに、辻ちゃんは自分へのケアを疎かにしがちだ。たとえばリップクリームというものを辻ちゃんに教えたのは前の前の冬のおれだし、手が冷えて乾燥するというから見兼ねて保湿成分入りの温感クリームをプレゼントしてあげたのは前の冬のおれ。女の子みたいに自分磨きする必要はないと思うけど、自身に関心が低そうな辻ちゃんを見ていると前からついつい世話を焼きたくなってしまう。辻ちゃんも辻ちゃんでおれを撥ねつけたりはしないから、それがなんだか嬉しくて余計に構ってしまうのだった。
    「そうそう。全身くまなくお高いやつ使わなくても良いと思うんだよね。着け心地が違うとは思うんだけど、そういうのよりとにかく塗りまくった方がいいんじゃないかっていう」
    「はあ、そういうものなんですね」
     姉の受け売りだけど。
     遠慮なくぶちゅぶちゅと掌にクリームをのせて辻ちゃんの背中に塗りたくる。
     辻ちゃんって細いけど、ちゃんと男の背中してるんだなあなんて思いながら日焼け止めを伸ばしていく。うなじも二の腕もウエストだって細いし締まっている……というより実際は無駄な肉が殆ど無い状態なんだけど、かといって骨も目立たず筋肉も目立たず。脂も水分量も少なめだけどサラッとした肌は、キメの細かいほうだと思う。肌のトラブルは見たところ無さそうだけど、これも持って生まれた才能なのにねえ。本人の自覚皆無なのが勿体ないなーと苦笑する。
    「辻ちゃんそのへん無頓着だよね。たしかに毎回こんなにケアしなくてもいいとは思うけどさ。今日はラッシュガードもあるし」
    「ん……そういうの犬飼先輩しか俺に言わないので……」
     意識することもないんです、と、辻ちゃんはどこか居心地悪そうに言う。おれだって別にこうやって他人に干渉することは滅多にない。辻ちゃんだから構いたくなるだけだ。
    「そうなんだ。せっかくキレイな身体してるのに赤くなったりシミになったりしたら可哀想だと思うんだけどなー。ま、おれのエゴだよ」
    「うーん……?」
    「おれが辻ちゃんと同じクラスなら体育の前だって毎回日焼け止め塗ってあげられるのにね」
     どうせしてないんでしょー、と言いながらおれも日焼け止めを塗り直すことにする。取り出したのは日焼け止めスプレーで、手に直接噴射してからちょいちょいと取って顔や首に伸ばす。
     それを見た辻ちゃんは呆然といった感じで瞬きも忘れたのか口を半開きにしてフリーズした。
    「あら。辻ちゃん今すごい間抜けな顔してる」
    「……犬飼先輩、俺に色々言ってたわりには今かなり大雑把に見えましたけど」
    「辻ちゃんに先輩風吹かせられる機会だったんで。せっかくだから吹かせてみました」
    「えぇ……」
     ピースサインをしながら笑顔を向けると辻ちゃんは眉間にシワを寄せて解せないという顔を隠しもしない。少なくとも今のは二宮さん相手には絶対しない顔だなと思ってふきだしてしまった。
    「でも基本は丁寧に塗ってきたつもりだから」
    「はいはい。塗り直すなら今度は俺が手伝いますよ」
    「ほんと?ありがと辻ちゃん。じゃあ背中、軽く塗ってくれるとありがたいな」
     はい、と返事をする辻ちゃんの口調がいつもよりどこか投げやりで苦笑する。ごめんごめん、と笑うと、辻ちゃんも仕方がないなあというようにつられて笑ってから背後に回った。
    「じゃあ失礼します」
     さっきおれが辻ちゃんにしてあげたように、今度は辻ちゃんが日焼け止めクリームを掌に取り出して優しく繊細な手つきで広げてくれる。
    「あ」
    「なあに?」
    「犬飼先輩ここ。ほくろがあるんですね」
    「え?そうなの?知らなかった」
     トントンと指先で軽く背中を突かれる。たしかに自分では確認しにくい位置だ。
    「そういえば辻ちゃんもあったよ、ほくろ。肩甲骨の下のあたりと腰にちっちゃいのが」
    「へぇ。俺も知りませんでした。自分じゃ気づかないものですね」
     ねー、と同意する。辻ちゃんは塗り直しを再開して両手で日焼け止めを伸ばしていく。背中を往復する掌の感触や温かみを感じながら、ちょっと首を捻って振り返る。
    「ねえ辻ちゃん」
    「なんですか?」
    「自分でも知らないほくろの位置知られるのって、な〜んかやらしくない?」
    「……知りません。そんなものですかね」
     辻ちゃんはどこか突っぱねるような口調で言ったけど、動揺したのか一瞬手の動きが止まったし、何よりほんのり赤くなって唇を少しだけキュッと結んだのを見逃さなかった。
     こんなやりとりで辻ちゃんが照れちゃうのはオクテだから?ウブだから?少しは自惚れてみてもいいのかなあ?自然とニヤける顔を元の位置に戻して、今は辻ちゃんが後ろにいてくれてよかったと思った。
     少しして「塗りました」という報告の声がして、背中から辻ちゃんの手のひらの感触がなくなった。ようやく準備完了だ。

    「さて前哨戦おわり。海だよ辻ちゃん」
     海に入る前に軽く身体を動かしてから必要な荷物を持ち、打ち寄せる小さな波に近寄っていく。
     砂浜は白くて細かい砂がいっぱいなのに海に近づけば近づくほど砂利が増えて足裏の感触が変わってくる。気をつけてね、と辻ちゃんに一応注意だけして足首を海水に浸からせた。おれとしてもすごく久しぶりの感覚だ。何回かその場でバシャバシャと足踏みしてもそこまで濁らないのが不思議なかんじ。
    「うわあ冷たい。透明だー」
    「ひゃ……わあ……」
     辻ちゃんは浮き輪を持って足首が冷える感覚を楽しんでいる。あまりの透明度に川みたいですね、と言いながらきょろきょろと辺りを見渡していた。
    「もう少し行ってみよ。腰の高さくらいまで」
     ゆっくりと海の中を歩くと、遠浅なので思った以上に距離がありそうだった。結構歩いたなという位置でもまだ膝上くらいの水位で、既に小魚を沢山見かける。それらは明るく鮮烈な色だったり鈍い色だったりで、このへんも水族館の水槽の中みたいだなあと思う。
     辻ちゃん辻ちゃん、と声をかけると、既に辻ちゃんは魚を見つけていてそれらに夢中らしく、歩くのが疎かになっている。視線がいろんな場所を彷徨っていた。
    「……あっ、はい」
    「はは。いいよいいよ。魚がいたから辻ちゃん呼んだだけ、もう見つけてたんだね」
    「はい。これ、沖のほうまで行くともっといるんですかね」
    「行ってみよっか」
     はい、と手を差し伸べて先輩らしくエスコートする。すると辻ちゃんはどこか気恥ずかしそうに、でもおれの手を取ろうとじゃばじゃばと歩いてきた。
    「…………が……るの、分かる気がします……」
    「え?ごめん、なに?」
     水の中を移動する音や風の音で辻ちゃんの小さな声を拾いきれない。いつもより少し大きめの声で聞き返しても首を横に振られただけだった。そんなに大したことじゃなかったのかな、なにを言ったんだろう。もう一度尋ねても辻ちゃんははぐらかして教えてはくれなかった。その代わり手を繋いだ瞬間の辻ちゃんの柔らかな笑顔と頬にさした薄い朱色が確認できてどきりとした。

    「遠くまで来ましたね。やっと深くなってきた」
    「それでもまだ行けそうだけどね。たしかあの岩の出っ張りまでは行けたと思う、そこから先は遊泳禁止」
    「そうなんですね。まだ浅そうなのに」
    「入り江の外だからね、潮の流れが変わったり沖に流されやすくなるのかな。たしか遊泳禁止区域のすぐ向こうに珊瑚なんかがあるみたい。見れないの勿体ないよね」
     辻ちゃんが「珊瑚ってあの珊瑚ですか?」と聞いてくるのでそう、珊瑚、あるらしいよと返すと「はー……」と感心したように長い息を吐いた。
    「なんか沖縄みたいですね。行ったことないですけど」
    「辻ちゃん沖縄行ったことないんだ?」
    「はい。犬飼先輩はあるんですか?」
    「いいや、おれもない」
     行ってみたいね、と言うと、そうですねと返される。そういえば辻ちゃんは水族館でも熱帯魚のコーナーをきょろきょろと観察してたなと思い出し、沖縄ね、と参考程度に心に留めておく。
    「犬飼先輩は修学旅行先北海道でしたっけ」
    「ああ、そうそう。辻ちゃんよく覚えてたね」
    「……お土産のバターサンドとじゃがポックルが美味しかったので……」
     辻ちゃんが少しだけ恥ずかしそうに言って、二宮隊の皆にお土産を渡したときの反応が鮮明に蘇ってくる。
    「たしかに辻ちゃんはすぐに食べてくれてた!買ってきた甲斐あるなと思ったもん」
    「だって、両方初めて食べたんですよ」
    「あはは。じゃあ辻ちゃんも行き先は北海道にすればいいよ」
     うちの学校の修学旅行先は生徒によるアンケートで上位になった場所から各班で行き先を決める。人気なのは沖縄、京都、北海道あたり。そして辻ちゃんが言ったとおり、おれは北海道に行ったのだった。
    「たしかなるべく普段の休みには行けないとこにしたくて、沖縄と迷ったけど北海道にしといたんだよね。辻ちゃんも沖縄には行かないでしょ?」
    「もちろんです」
     たしか修学旅行は10月の終わり頃だったから沖縄組は海やプールで遊んでいたはずだ。せっかくの修学旅行で水着や薄着の女子を気にしながら動くなんてストレスだもんね。そこまで言わなくても食い気味に肯定してきた辻ちゃんに思わず笑ってしまう。
    「……先輩と同じクラスじゃなくても、同じ学年なら一緒に北海道行けたんですね」
    「え?」
    「さっき犬飼先輩が俺と同じクラスだったら体育の前に日焼け止め塗ってくれるって言ってたから、なんとなくそんなことを考えて……」
    「ああ。うん、そう。そうだね。そしたら一緒に北海道行けたなあ」
     そう言われて少し考える。辻ちゃんと同級生だったら、おれたちの関係はどうだったんだろう。今みたいに後輩の手を引く先輩、先輩を支えたりついて来てくれる後輩って形にはならない。きっと先輩って立場だからできたことが沢山あって、同級生じゃないからできないことも沢山あって。限りなく友人に近いけど一応は年上として敬われてるっぽい今の状態だからこそ上手くいってる部分もかなりあるんだろうし。
     頭では分かっているつもりだけど、つい無い物ねだりしてしまう。一緒に並んでいろんなことやって、それでまた辻ちゃんのことを違う角度から見られたらどんなふうだっただろう、見てみなかったな、と。
    「どっちかがあと一年ズレて生まれてたら、それはそれで楽しかったかもね」
    「そうですね……でも、俺はなんだかんだで今のままがいいかな」
    「どうして?」
    「俺は引っ張ってもらうほうが性に合ってる気がするので」
     次男ですし、と言う辻ちゃんに何か深いワケでもあるのかと少し期待したおれは脱力する。おれに対しては意外とちゃっかりしている部分を見せる後輩に自然と笑みが溢れて、「おれだって長男とはいえ末っ子なんですけどお」と返すと「そうでした」なんて、あくまでもマイペースな態度で。辻ちゃんってたまにこんなだからまたほっとけないんだよなあ、なんて。我ながら末期的なことを思う。おれってなんだかんだで案外尽くすタイプなのかもしれない。

     堪らなくなっていたところで、ふと海の中を移動中の何かが視界に入る。んん?と目を凝らしてもよく分からない。
    「……あ。辻ちゃん、なんかいるここ」
    「え?はい、いますね色々」
     たしかに海の中ではおれたちの存在に構わず魚たちが普段の営みを続けているみたいだけど、そうじゃなくて。
    「ごめん。ちょっと潜ってくるね」
    「あ、犬飼先輩……」
     本当ならもう少し丁寧に話すべきだけど今あの生き物を見失ったら探すのも難しそうなので、会話を素早く切り上げてシュノーケルとシュノーケリングマスクを手早くセットしてから海に潜る。
    「!」
     海の中は空のように青く澄んでいて、遠くまでクリアに見えた。それこそ水槽の中の世界みたいだ。
     おれが見つけた謎の生物は半分海の色に馴染んでいたけれど、注意してじっと見つめるとだんだん輪郭が分かってくる。
     ──ああ、こいつだったのかあ。
     ぷは、と海面から顔を上げると辻ちゃんは会話を切り上げていきなり海に潜ったおれにいまだ唖然としていた。それに敢えて気づかないふりをして辻ちゃんに観察結果を報告する。
    「エビだった!ここの海、エビまでいるんだね。すごい」
    「え?……へぇ、すごいですね。北海道の話をしてたから出てきたのかな」
     辻ちゃんののんびりしたコメントに少し和むけど、おれもさすがに少しばかり興奮している。透き通っていて分かりにくかったけどあれは確かにエビで、海の中で生きている状態のものは初めて見た。
    「捕まえて食べたらおいしいのかな」
    「辻ちゃん発想が食いしん坊になってる。お昼しに行く?」
    「いえ、もう少し大丈夫です」
     過ごしやすいままではあるけど、ここに来たときよりも太陽が更に高くなって陽射しも強くなってきた。切り上げてもちょうど良さそうな時間だ。
    「犬飼先輩、潜ってきても大丈夫ですよ」
    「んー……おれはなんか、咄嗟にアレ何だろう?って思って、辻ちゃんに教えてあげたかったから。辻ちゃんこそ潜ったり泳がなくていいの?」
    「今も十分楽しいですよ」
     えい、と、持ってきた浮き輪に体重を預ける辻ちゃん。ぷかぷか浮く辻ちゃんはなんだかいつもより幼くて普段のクールな印象とは程遠い。本人が本当にそれでいいなら無理強いはできないけれど、せっかくここまで来たんだから普段できない遊びではしゃぐ姿が見たくなる。
    「顔浸けるだけでもどう?アクアリウムの世界に入ったみたいだったよ」
    「そんなに。じゃあ、少しだけ……」
     辻ちゃんもシュノーケルとマスクを装着して立ち泳ぎになりながらお願いします、と浮輪を託してきた。
     はいはい、と浮き輪を受け取って手を振ると辻ちゃんが顔を浸け、少ししてから海に潜る。
    「……!!」
     ざば、と出てきた辻ちゃんがシュノーケルを外して口をぱくぱくする。まるでさっきのおれ自身を見ているようだけど、酸素を肺に送りながら感動を伝えてくれようとする一生懸命な様子が微笑ましい。
    「あはは、見てよかったでしょ」
    「はい」
    「辻ちゃんこそもっと見てきていいよ。おれはここにいるから」
     魚と泳いできなよ、と言うと、辻ちゃんはハイと返事をしてそのへんを泳いで回った。ふと岸を見ると他の海水浴客がやって来たみたいだったので、寂しいなあという気持ちも湧いてきたけど誰もいないあいだに久しぶりの海を二人じめできて楽しめたので良かったなと改めて思う。
     辻ちゃんが海面から顔を出してぷは、と息をしたあたりでやって来た海水浴客たちの姿に気づく。どうやら露出こそは少ないけど何人かは女の子が混じっているようで、「……あ」と言って固まってしまった。
    「いい時間だし上がろっか」
     お昼にしよ、と声をかけて一旦お開きにする。辻ちゃんは心なしか少しだけしょんぼりしながらおれのほうへやってきた。
    「はいはい。辻ちゃん、よかったらここどうぞ」
     辻ちゃんが顔を上げなくても逸れずについて来られるよう、おれの羽織ったラッシュガードの裾を持たせてあげる。ありがとうございます、と、キュッと控えめに裾を引っ張る姿は小動物のようだった。女の子が視界に入らないようにおれの影に隠れながら移動する様子に相変わらず大変だなあと思うけど、こういうとき頼りにされてるなあという実感となんとも言えない優越感が湧いてきて、少しだけ擽ったかった。

     なんとか女の子をあまり視界に入れずに浜辺に戻ることに成功した辻ちゃんとランチにする。お弁当を買うか水着でそのまま入れる店に食べに行くか悩んで、とりあえずどちらにせよ移動することにした。
     浜辺には海水浴客用のシャワーがひっそりと設置してあったのでそこで軽く身体を流して拭いて、貴重品を持ってぺたぺたと島を歩く。
    「あー楽しかった」
    「そうですね、びっくりしました。海ってあんなふうに遊べるんですね」
     知らなかったな、とうっとりと呟く辻ちゃんに今日という日が成功したんだなと確信する。長めの移動距離と時間さえ考えなければ、前回も今回もなかなか良かったんじゃないだろうか。
    「そういえば俺も見ましたよ、エビ」
    「ほんと?なんか海の中ではあんなふうに生きてるんだと思うと面白いよねえ。今度はダイビングとかしてみる?いきなり本格的すぎるかなあ」
    「犬飼先輩ダイビングに興味があるんですか?」
     それもいいですね、と肯定してくる辻ちゃんに、んん?となる。
    「え?いや、まあ……おれがっていうか、辻ちゃんに海の中を歩かせてあげたいと思って」
    「俺に?」
     辻ちゃんはきょとんとしている。ついさっきまであんなに嬉しそうにはしゃいでたのにナチュラルに思考から自分を排除して、この子ときたら。……まあ、それを言ったらおれがしてることや思うことは辻ちゃんに少しでも楽しんでほしいからなわけなんだけど、独りよがりもいけないよなあ。どこから説明すれば分かりやすいかなあと思って、とりあえず一番最初から話してみる。
    「水族館行った日にね、辻ちゃん結構楽しんでくれてたでしょ。水槽とか魚とかじっと見てたし。それでトンネルを歩きながら感動してた辻ちゃんがさ……あー……」
     口に出してしまった、と思った。ここは別にカットでも良かったのに。普段あんまやらないポカをよりによってここでやらかすとは。
     思わず足を止めた。辻ちゃんも足を止めて不思議そうな顔をして見つめてくる。 
    「俺が何ですか?」
    「……これって言わなきゃダメなやつ?」
    「そのほうが嬉しいです」
     はぐらかそうとしたけど、気になりますし、と辻ちゃんが少しだけ圧をかけてくる。
     これは変に取り繕わないのがいいパターンかな?頭をがしがしと掻いて「あー……」とか「う〜」と少し唸ったあと、じっとこちらに視線を送り続けてくる後輩に観念して素直に話すことにした。
    「あのとき辻ちゃんが……めちゃくちゃキレイで、こっちまで感動したっていうか……だから海に一緒に行けたらな〜と思ったりして……」
     おれとしては勇気のいる告白だったんだけど、肝心の辻ちゃんは目をぱちくりさせているだけ。何も言わないし動かない。
    「〜〜〜はっず……」
     おれにとっては珍しく取り繕う余裕もない完全アドリブのマジ告白だった。顔があっつい。居た堪れなくなって口元を覆う。せめて何かリアクションが欲しいところではある。この際、不気味がっても笑い飛ばして冗談扱いにしてくれてもいいから。
     するとようやく辻ちゃんが「は……」と息を吸ったか吐いたか分からないような音を出して言った。
    「……だから、俺にそんなふうに言ってくれるの、犬飼先輩くらいですよ」
     いつも思うんですけどキレイってなんですか。
     そう言って辻ちゃんははにかんだ笑顔をこちらに向ける。水族館のときとは違うけど、やっぱり人の心をきゅっと掴むような、あるいはスッと入って焼き付けてくるような笑顔だ。
     みんなが言わないのはそんな顔する辻ちゃんを見たことないからじゃないの?そう返そうとして、やめた。誰も気づいてない辻ちゃんなら、辻ちゃんすらも知らない辻ちゃんなら。おれだけが知っていればいい。
    「でも、そうですね……犬飼先輩さえよければ、先輩ともっと色んな海に行ってみたくなりました」
     もちろんまたこの島でもいいんですけど、と、辻ちゃんがそう言いながら道の先を指差し、再び歩き始める。おれもそれにつられて店のほうを目指しながら足を動かした。
    「……日帰りの距離じゃなくても?」
    「いいですね、楽しそう」
     話しながら辻ちゃんが少し俯く。どうしたんだろうと盗み見ると、辻ちゃんの表情までは読み取れなかったけど隠しきれない耳の先は真っ赤で、どんな顔をしてるかなんて見ないでも分かった。ああ、その顔も見せてよと思うのに、言えない距離感がもどかしい。
    「じゃあ、それもおれの『宿題』にしていい?絶対叶えるから」
    「そうですね、水族館含めて『宿題』にしましょう」
    「指切りしよ辻ちゃん」
     立ち止まって、小指を立てた手を差し出す。辻ちゃんがえっ、と反射的に顔を上げて、困惑したように八の字にした眉毛や頬に残る赤みを確認できた。それを見ておれもまた血液が頬に集まってきそうだ。
     はい、と、更に手を伸ばして小指を立てると辻ちゃんもおずおずと手を伸ばしてくる。
    「指切りってすごく久しぶりにします」
    「おれも。10年ぶりくらい?」
     ──小指を絡めて指切りげんまん、嘘ついたら針千本のます、指きった。
     指切りするために絡めあった辻ちゃんの細くて長い小指がゆっくりと離れていく。それが勿体ないような気がしたせいか、煩いくらいの心臓の音が、早くなる脈が、何か言え、伝えてしまえと急かしている。それらの命令に従っておれは口をあけた。
    「あー……あとさぁ辻ちゃん」
    「はい」
     本当は情けないくらい口の中はカラッカラで、鼓動だって早い上に爆音で、でもせめて声だけは余裕ぶって。
    「おれもようやく腹括ったんで、覚悟しといてね」
    「えっ」
     何が?どういう意味ですか?と訝しむ辻ちゃんに、なるべく悪いようにはしないと誓いを立てる。
     でもね。たとえ時間が掛かっても、いつか絶対にオトすから。
     ようやく自覚した恋に対して諦めるなんて選択肢を捨てたおれは、決意を新たに気合いを入れ直した。


    《終》
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    ichijyoWT

    DONE海の犬辻企画(一天四海)さまにと書きました、デートしたり海に行ったりキャッキャしたりする友人・先輩後輩・チームメイト・相棒以上恋人未満な犬辻です。
    ※「スノーケリング」じゃなくて「シュノーケリング」を採用しました🦐
    「ちょっと、いいものあげる」

     風呂上がりに自室に向かって歩いている途中、下の姉から不機嫌そうに呼び止められて押し付けられたのは二枚組の水族館のチケットだった。
    「なにこれ珍しいね。どうしたの?」
     聞けば、新しくできた彼氏くんの都合がつかなくなったとかで行き場を失ってしまったらしい。
     友達と行けば?と言おうとして、これはきっと藪蛇なのだろうなと悟り、口を噤む。長姉にも次姉にもそれなりに可愛がってもらっている自覚はあるが、姉という絶対強者の前で弟は無力な存在だ。一番スマートなやり過ごし方を即座に頭の中で計算する。チケットを素直に受け取り「ありがとね」とお礼を言うと、姉は少しだけ笑顔を見せてくれた。
     内心ほっとしながらこちらもへらっとした笑顔で応じたが、おれへの用が済んだ姉のドアの閉め方には淑やかさの欠片もなく、やはり相当苛立っていることがありありと分かって震え上がる。おれはまだ見ぬ彼氏くんに頑張れ……と心の中で合掌しながらエールを送った。
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