喫茶ツキシマ 4ただ
あなたと居たいのです
何も無い
平穏な日々を
変わらない
ありきたりな毎日を
穏やかに
望むのは
それだけ
ただ
それだけなのです
***
『一緒に、暮らしませんか』と、月島が漸くそう言ってくれたのは、私が『喫茶ツキシマ』の二階で過ごすのが殆ど当たり前のようになってからのことだった。
実際、ほぼ住んでいるようなモノだったから、そうした話をするのも今更なのだろうと思っていた。だから、此方から何を確かめることもせずにいたのだけれども、改めてそう言われてみると、妙に身構えてしまって『いいのか?』などと、随分と意地の悪い物言いをしてしまった。声にしたその言葉で、自分が月島からの言葉が無いことに拗ねていたのだとも気付かされたが、つまらない言い方をして月島を酷く恐縮させてしまったことは後で大いに反省した。
ともあれ、折角思いついたのだからと、申し出を受けて早々にマンションを引き払う準備に取り掛かったのだが、これが上手く行かなかった。
自分で片付けてみて、その本の多さに驚いた。ひとり暮らしには随分広い部屋を借りてはいたけれど、それにしても、こんなにも本ばかり置いていただろうかと自分で自分に呆れたくらいだ。作品の為に集めた資料も多いが、其れよりも何よりも、月島を探し求めて集めた資料の方が圧倒的に多い。いっそ何処かの歴史資料館にでも寄贈すればと思う程の量だ。よくも集めたモノだと我ながら感心する。
片付けようと努めてはみたモノの、結局、資料の大半を捨てる決断が出来ず、段ボールに詰めただけになった。マンションは、当面の間、私の仕事場兼資料置き場として、そのままにすることになった。
『締め切り前には、集中できる場所があった方が良いかもしれませんしね』と、月島はそう言って笑ってくれたが、月島の申し出に水を差すようで、申し訳ないような気にもなった。すまない。と、声になりかけたひと言は、どうにか呑み込んで『そうだな』の言葉を返したけれど、取り繕った笑みは、酷く曖昧なモノになっていたろうと思う。
段ボールの山になった資料たちは、月島が無事に見つかり、私の隣に居てくれるようになった今となっては、処分してしまってもいいものなのかもしれない。だが、月島が見つかるまでは、それらが私の拠り所だった。自分が『記憶』だと感じているものが、唯の思い込みや妄想では無く、確かな『記憶』で、明治の頃の私の隣には、常に『月島基』という男が居た。その男が、生涯離れずに居てくれた。その事実を示してくれるのは、綻びて朽ちかけた紙束の資料たちだけだったのだ。それが、それらが、私には、どれ程の救いであったか。
其れを思うと、どうしても、簡単に手放すことなど出来る筈も無かった。古びた紙束や、角の擦り切れた本たちは、例えもう開くことが無くとも、私には特別なものに違いないのだ。その集めた資料たちや、資料を集めた時間が、無駄にならずに済んで良かった。とも、思う。
山のような資料を読み漁っていた頃には、未だ月島の手掛かりすら見付けられていなかった。先の見えなかったあの頃を思えば、今のような毎日は夢のようだ。
勿論、夢では無いことは承知しているのだけれど、時々、夢を見ているのではないかと思うこともある。今の生活は自分の過ぎた願望が見せる、長く、幸せな夢で、目が覚めると、私はひとり、部屋の中で紙束に囲まれているのではないかと。そうして、『あぁ、やっぱり夢だったか。なんて幸せで、なんて残酷な夢だ。』と、絶望してしまうのではないかと。そんな風に思うことが未だにある。だから、毎朝目覚める度、隣に月島が居るのを確かめてはホッとするのだ。
大抵は月島が先に起きていて、私が目覚めるのを待っていてくれる。稀に、月島が未だ目を閉じたままでいる事もあるけれど、寝顔を覗き込むと、月島は直ぐに目を覚ましてしまうから、私はゆっくりと月島の寝顔を見たことが無い。それも、幸せな事なのだろうと日々思う。
月島は、私を大事にしてくれている。大切に扱ってくれている。兄とは違うが、過保護すぎる所は、時折、兄を思わせる。それに何より、昔の…明治の頃の月島を想い出させる。
戦後、部下たちの弔いをしながら、二人で静かに暮らしていたあの頃の月島を想い出させるのだ。
『これで漸く、思う様あなたを甘やかせます』
そう言って、月島は皺の増えた顔を一層くしゃくしゃにして笑ったものだ。それは、戦中には、終ぞ見たことの無い笑顔だった。月島が、私にそうした笑顔を見せてくれることは、驚きもしたが、嬉しくもあった。私は、月島の特別なのだと、そう、思い、四頃媚を噛み締めたことを覚えている。
私を甘やかせると言った月島には、其れまでも、随分甘やかされていたと思っていたし、周囲もそう見ていたと思うのだが、月島には足りなかったものらしい。
立場も肩書も何もなくなって、やっと一人の男になれたのだから。残りの人生は好きなだけ甘えたらいいのだと、月島はそう言って終生私に仕えてくれた。甘えさせてくれた。
明治の昔には、互いに、好きだとも、愛しているとも言わなかったが、思えばあれは、月島の精一杯の告白だったのかもしれない。そうだと知れたところで今更だし、当の月島にその記憶は無いのだから、確かめようも無いのだけれど。
月島の記憶は、相変わらずだ。私のことは思い出してくれたが、明治の記憶の大半は曖昧で、尾形や宇佐美など、店に出入りしている者達の事は明治に縁のあった者だと理解しているが、細かな事は思い出せないらしい。中には、鶴見さんやヴァシリのように、明治の頃に面識があっても、そうであったことさえ思い出せない者もあるという。不思議な話だ。だが、そもそも、記憶がある事自体が妙な話なのだろうし、私自身、明治の頃の記憶として確かなのは月島に関することばかりだ。覚えていなくてはいけないモノだけを覚えているということだろうかとも考えるが、答えは定かでは無い。
もしも、何も覚えていなければ。何も、思い出さずに居たならば。私は、どんな人生を送っていただろうか。モノを書くようになって、結果として作家になったのも、月島を探す為だ。月島に私を見付けてほしくて、月島を見付けたくて、其れだけだった。月島のことを思い出さなければ、私は作家になどならなかったかも知れない。何処で何をして暮らすのか、今では想像もつかないけれども。
子供の頃に続けていた剣道をずっと続けて、その道へ行ったろうか。学生の頃に誘われたサッカーや野球を続けたろうか。此れと言った趣味も持たず、ぼんやりと過ごして、なんとなく父や兄が勧める会社に勤めていただろうか。
それとも、反抗心を持って、父や兄が嫌がりそうな仕事を敢えて選んだろうか。そんな風に生きた私は、今の私とは違っているかも知れないが、それでも、私は月島に出逢えただろうか。出逢えたとして、如何なっていただろう。
月島は、例え明治のことを思い出さなくても、私を好きになったと言ってくれた。それは、私も同じだ。同じだった。月島が私を思い出しても、思い出さなくても、私は、また『月島基』を好きになっていた。始めは、記憶の中の月島を重ねていたが、気付いたら、今を生きる月島に惹かれていた。だからきっと、私も、何の記憶も持たず生きてきたとしても、何処かで月島に出逢えていたら、きっとまた、月島を好きになっただろうと思う。どんな人生になったかはまるで解らないけれど、それだけは確かだろうと、そう、思う。
結局、私には、月島しか居ないのだ。そういうことなのだろうと、近頃、そう思うようになった。今更かも知れないが。
このまま、月島と穏やかに暮らしていけたら。互いを思い合って、大切にして、何気ない日々を、ただ穏やかに過ごして行けたら、どれだけいいだろう。
明治の昔と違って、今は随分と生きやすくなった。男二人で暮らしていても、然程、世間の目を気にしなくていい。勿論それは、この町の人たちの理解があってこそだ。
いくら時代が進んだからといって、何の課題も無いわけでは無い。私と月島は、きっと、随分と恵まれている方で、これが世間的にはまだまだレアなケースだということも理解している。本当に、幸せなことだ。
それを理解しているから、この、今の幸せを、穏やかな生活を壊したく無くて、逃げ続けていることがあることも、ちゃんと、解っている。いずれ、早い内に、そのことと向き合わなければいけないことも、解っている。そのつもりだけれど、言い出せずに居るのは私に意気地が無いからかも知れない。明治の頃の自分が聞いたら憤怒しそうな様ではあるが、今は令和だ。多少、軟弱になったとて許されたい。
そんなことを思っていた矢先だった。
マンションから『喫茶ツキシマ』の二階に運び込んだ荷物を整理していたその日の午前、スマートフォンが震えて着信を報せた。私のスマートフォンが鳴るのは珍しい。まともな人付き合いもしてこなかったものだから、そもそも連絡先を報せている人も限られているし、大抵の場合、連絡はメールで来るものだから、着信など滅多にないのだ。
相手は菊田さんか、鶴見さん、或は有古…用件は、原稿の依頼か、督促か、何れかだろうと予測して着信画面を見たものだから、そこに示されていた名前に息が止まるかと思った。
『悪かね、仕事中やったか?』
慌てて画面をタップした先から聞こえてきたのは、兄・平之丞の声だった。
「んにゃ、…そいより、何かあったと!?電話なんて…」
いつもはメールを寄越す兄からの急な着信に嫌な予感しかしなくてそう問い掛けると、兄の笑う声が聞こえた。
『何でんなか。偶には声が聞きとうなっただけじゃ。』
たまがらせて悪かったな。とすまなそうに続けた兄の声にホッとして「そんなら、よか」と気の抜けた声が漏れた。
『正月は、ゆっくい過ごせたか?』
「…うん。」
『何も、変わりはなかか?』
「なかよ。元気にしちょい。兄さぁは?変わりなか?」
『あぁ。相変わらずじゃ。』
言葉通り、兄の声音は常と変わらないもので、だから、私は油断していた。
「じゃあ、忙しゅうしちょるんやな」
『まぁ、それなりにな。近頃は出張も増えた。』
「出張…」
『あぁ、そいでな、今度、そっちへ行っことになった。』
そっち、とは、何処だと聞くのは野暮な話だ。
『ちでに、顔を見け行ってんよかか?』
聞かなくても兄の言っていることは理解は出来た。
『あまり、時間はとれんが、一緒に飯でも食えたや…』
出来たのに、出来たから、頭が真っ白になってしまった。
『何より、音の顔が見て』
しばらく会えていないだろう?と言われたらその通りだ。
『出来れば、音の、パートナーにも、挨拶させてほしか。』
兄は、冷静だった。とても落ち着いて、冷静に、淡々とその一言を口にした。私に反論の余地など無いのだと思われたが、驚きと、焦りのあまり黙ったままでいる私に兄は、少しの間をおいて『嫌か?』と苦笑交じりにそう問い掛けた。
「…そんな、ことは…」
『無理強いはしよごたなか』
兄の声は、優しかった。
『音が嫌じゃち言なら、またにすっど。』
いつも通りの、昔と変わらない、弟思いの優しい兄の声に、私は知らず「嫌じゃない」と口にしていた。嫌なわけでは無い。驚いただけで。心の準備が出来ていなかっただけで。いつかは、いずれは、月島のことを、兄にもちゃんと紹介しなくてはいけない。そのことは解っているつもりだった。
『ほんのこて、よかか?』
兄の問いかけに「うん」と答えながら、解った『つもり』でしかなかったのだと思い知らされる。
『そう、構ゆっことは無か。挨拶だけじゃっで。』
取り繕ったような、兄のその声には、どう答えていいか解らなかった。
『よろしゅう、伝えちょいてくれ』
立ち寄れそうな日時が決まったらまた連絡するからと告げた兄に、どう答えたか。記憶は定かでは無い。通話を終えてからも、暫く呆然とスマートフォンを握りしめていた。いつかは、そんな日が来ることも解っていたし、なるべく早く、そうしなければと思っていた筈だのに、いざ兄に月島を紹介するとなると、如何していいか解らなかった。
兄が、来てしまう。
月島のことも、引っ越したことも、何も話していないというのに、兄が来てしまう。私のパートナーに、月島に、挨拶をしに来てしまう。
その事実で頭がいっぱいになって、ひとりで堪えられなくなった私は階段を駆け下りて月島の居る店に急いだ。
「月島…」
昔からいつもそうだ。困ったり、焦ったりすると、その都度、月島に縋ってしまう。
「っ月島…っ…っ」
「!?如何しました!?」
二階から駆け下りてきた私を見た月島は、当然に驚いた顔を見せたが、取り乱したまま兄のことを説明する私の話を落ち着いて聞いてくれた。ように思う。
取り乱したまま、一通り話し終わってから、店のカウンターに尾形が居ることに気付いたけれども、それを気にしている余裕はなかった。月島と、兄のことだけで、精一杯だった。
***
その日は、いつもよりほんの少しだけ早く店を閉めた。
ちょうど客が途切れたこともあるが、何より、鯉登さんのことが気懸りだったからだ。
いつもは午後の大半の時間を店で過ごす鯉登さんは、今日は昼前にお兄さんから電話があったと報せに降りてきて以来、一度も店に顔を出さなかった。
朝に晩にと店に顔を出す門倉さんなどはそれに気付いて「鯉登さんはどうした?風邪でもひかせたのか?」と心配してくれたりもしたが、事態は、風邪よりよっぽど深刻かもしれなかった。
灯りを落し、店を閉めてから二階へ上がると、鯉登さんはぼんやりとリビングのソファに座っていた。辛うじて部屋の灯りは点いていたが、心ここにあらずと言ったところか。
「少しは、落ち着きましたか?」
声を掛けると、鯉登さんはハッとして顔を上げ、俺がいることに気付くと慌てた様子で壁際の時計を見た。
「もう、こんな時間だったか…」
呆然としたその声に、少しも落ち着いてなどいなかったのだろうと察しはついた。昼間、お兄さんから突然の電話を受け、店に駆け下りてきた鯉登さんは随分取り乱していた。
話をして、二階に戻る時には少しは落ち着いたようには見えたのだけれど、ひとりでずっと彼是考えていたのだろう。
「すまない。すぐに、夕飯の支度を…」
「いいんですよ。それより、少し、話しをしましょう。」
立ち上がりかける鯉登さんの手を取ってそう告げると、鯉登さんは困惑した顔を見せたが「ね。」と、念押しをすると、小さく「うん」と答えて脱力したようにソファに沈み込んだ。
「なにか、温かいモノを用意します」
言い置いて、キッチンに向かうと直ぐに「月島」と呼ぶ声が背中を追い掛けてきた。
「未だ、何も、話せていないんだ」
振返らない内に続いて聞こえてきたのは、切実な声だった。誰に、何を、話せていないというのかは、聞くまでも無いことだ。キッチンに立って、視線だけで答えると、鯉登さんは、ふ、と息を吐いた。
「子供の頃から、ずっと探していた人がいたことは話した。」
言葉を選んで、訥々と話す鯉登さんの声を聞きながら、電気ケトルに水を入れてスイッチを押し、棚にストックしてある自宅用の紅茶や珈琲の中から缶をひとつ選んだ。
「暮れに、その人を見付けて、今は、一緒に居るのだと、兄には、そう話してある。けど…」
あっと言う間に沸騰した湯を空のティーポットに注いで、先ずはティーポットを温める。
「話しているのは、それだけで…その…月島、の、ことは、
きちんと、話せていないんだ…」
ある程度ポットが温まったら、中の湯をティーカップに移し、空になったポットに茶葉を入れ、ゆっくりと湯を注いでいくと、ポットの中に琥珀色が拡がった。
「…その、月島が、私より、歳上だとか…」
茶葉を蒸らす間、カップを温めていた湯を捨てて、カップの底に小さな砂糖の欠片をふたつ置き、少し迷ってから、もうひとつ欠片を足した。其れを溶かすように蒸らし終わった紅茶を注いでいくと、欠片はほろほろと崩れていく。
「…月島が、…同性、だとか…何も…」
欠片がキレイに解けきったカップを鯉登さんの目の前に差出すと、鯉登さんはゆっくりと顔を上げた。
「紅茶にしました。温まりますよ。」
笑ってそう告げると、鯉登さんはぎこちなく笑って「あいがと」とカップを受取った。湯気の立ち昇るカップの中身を覗く鯉登さんのその顔には、不安が色濃く滲んでいる。
予期せず、お兄さんと会うことになったことも、そのお兄さんに何も話せていなかったことも、そんなに、気負わなくてもいいのに、とは、言えなかった。その代りに、自分の話をした。「俺も、何も話せていません」と。
言いながら、鯉登さんの隣では無く、目の前の床に座ると、鯉登さんはカップを両手で包んだまま、じっと俺の方を見詰めてきた。口許はキュッと閉ざされていたが、真直ぐに俺を見詰めてくるその眼は物言いたげだ。
「恋人がいることも、それが、鯉登さんだということも」
自分の口から、両親に報せたわけではない。
「俺が何か言う前に、商店街の連中が両親に鯉登さんのことをそれとなく話しているようですけれど…俺も、ちゃんとは話せていないんです。」
お互い様です。そう言うと、鯉登さんは、ほんの少しだけホッとしたような顔をして「そうか」と呟き「そうだったか…お互い様か」と零して漸くカップに口をつけた。
「甘い…」
一口飲み下した鯉登さんは、ポツリとそう零すと、不思議そうな顔をしてカップを覗き込んだ。
「…月島、コレ…」
「わかりましたか?」
「…生姜か?」
正解です。と答えると、鯉登さんはやっと笑顔を見せてくれた。紅茶に溶かしたのは生姜糖といわれるものだ。その名の通り、生姜をすりおろしたものを砂糖と合わせて飴のように仕上げてある。そのまま口に含んでも良いが、ジンジャーシロップと同じように、飲み物に溶かせば甘みと生姜の風味が活きる。苦手だという人もいるが、粒の数で甘さも辛みも調節できて、冬には身体を温めることもできる。母から教わったものだが、冬場に風邪をひきかけると、これを湯に溶かして身体を温めたりもした。今日のような寒い日には、ちょうどいいだろう。
「辛くないですか?」
「平気だ。美味しい。」
口元を綻ばせてそう答える鯉登さんは、いつもの鯉登さんの顔に戻っているように見えた。余程、お兄さんのことが気懸りだったのだろう。気持ちは、解らなくはない。
昔より、随分世の中の理解が進んだとはいえ、同性の恋人を家族に紹介するというのは、そう簡単な話では無い。
俺にとってもそうだ。商店街の人達が親父に話をしていると解った時には心臓が止まるかと思った。予想外に親父から理解のある言葉が聞こえた時には、心底ホッとしたものだ。それでも、いざ鯉登さんを両親に引き合わせるとなると、其れなりに緊張するだろう。しないわけがない。鯉登さんを傷つけるような言葉を、両親や田舎の連中が不用意に口にするのではないかと考えるだけでゾッとする。勿論、そんなことをさせるつもりはないが、意図せずとも、傷つけてしまうことが無いとは限らない。俺が何より恐れているのはその事態だ。もしもの時は、両親と縁を切ることだって厭わないつもりでいるけれども、出来ればそれは避けたいし、鯉登さんにだって、そんな選択はさせたくはない。
「鯉登さん」
静かに名を呼ぶと、鯉登さんの頬に僅かに緊張が走ったのが解る。
「お兄さん、俺に挨拶したいって、そう仰ってるんですよね。」
「…あぁ。そう、言っていた。」
「不安、ですか?」
直球過ぎるだろうかと思ったけれど、その方が良い気がして、敢えて真直ぐにそう問いかけると、鯉登さんは黙り込んでしまった。けれども、きつく結ばれた口許や、揺れながら此方を伺って来るその瞳は、何より雄弁だ。
「…ですよね。」
答えない鯉登さんに代わってそう声にすると、鯉登さんは一度視線を落としたが「でも、大丈夫ですよ」と続けると、俯いていた顔を上向かせた。
「大丈夫になるよう、頑張ります」
言いながら、何をどうしたら『大丈夫』なんだろうかと我ながら思う。思うけれども。
「ちゃんと、お兄さんに認めて貰えるよう、頑張りますから」
これ以上、鯉登さんを不安にさせたく無くて、言葉は自然と口に出た。
「きっと、大丈夫です」
自分に言い聞かせるように言葉を繰返すと、鯉登さんは泣き出しそうな顔をして「月島」と俺の名を呼んだ。これ以上話したら、きっと泣き出してしまうだろう。そんな予感がしたから、わざと言葉を遮るように「そうだ」と大きく声を上げた。「引っ越したことは、伝えたんですか?」と。
「…言ってない」
質問に気が削がれた鯉登さんは、眼を瞬かせて呆然とそう零した。涙の気配は無くなったようだが、別な不安は生んでしまったらしいのは計算外だったが。
「それは、伝えないとマンションを訪ねて来られるのでは?」
「連絡なしには来ないと思うが…」
「待ち合わせは、決めたんですか?」
「未だだ…いつ来られるかも、まだはっきりしてないから…」
「それなら、いっそ、うちに来てもらいませんか?」
「うちに!?」
「…店だったら、待ち合わせでも、不自然じゃないかな…と」
思い切ったことを言っている自覚はあった。けれども、それでも構わないと思っていたのも事実だ。
「…ダメ、ですかね?」
窺うように問い掛けると、鯉登さんは泣笑いのような顔をしてゆるく首を横に振ってみせた。
「ダメなわけないだろう」
そう言って「あいがと」と続けた鯉登さんに「掃除、しなきゃですね」と返すと、「そうだな」と答えてくれた鯉登さんのお腹がぐぅ、と小さく鳴る音が聞こえた。
「もしかして、朝から食べてないんですか?」
昼に声を掛けた時はお兄さんの事があったからか『要らない』と言って食事の用意を断られた。そのままだとしたら、鯉登さんは俺と朝食を一緒に食べてから、何も食べていなかったことになる。
「どうも、食べる気にならなくて…」
食事を抜くのは原稿に集中している時にも間々ある事だが、身体のことを思えば褒められたものでは無い。
「直ぐに、何か作ります」
恥かしそうに俯く鯉登さんにそう告げて立ち上がると、鯉登さんは慌てて立ち上がり「私が作る」と俺を引留めた。
遠慮がちに俺の腕を取って「夕飯くらい、作らせてほしい」と漏らす鯉登さんがいじらしい。
「じゃぁ、今日は、一緒に作りましょう。」
妥協案として。そう提案すると、鯉登さんはホッとしたように笑ってみせた。
自宅のキッチンは、男二人だと少し手狭に感じる。それでも、店の厨房よりは幾分広いから、二人で並んで作業をしても、不自由を感じる程ではない。一般の家より多少広く作ってあるのは両親の拘りだっただろうか。
冷蔵庫から鶏肉、葱、油揚げを取り出し、それらを切るのは鯉登さんに任せることにした。
「どう切ればいい?」
「鶏肉は一口大に、葱は3センチ幅くらいで…油揚げは柵になるように、適当でいいですよ」
適当。と復唱する鯉登さんの声を聞きながら、小鍋に水をはり鰹節を煮立たせて出汁を作る。ひと煮立ちしたら出し殻になった鰹節を掬い上げて、塩を一つまみと、醤油と味醂で味を調える。
出汁が整ったら鯉登さんが切ってくれた具材を鍋の中に入れていく。肉を入れ、煮立たせたら、一度灰汁を掬ってから葱と油揚げを入れ、火を通していく。
冷凍庫から冷凍うどんを取出し、解凍している間に思いついて「煮込みにしますか?」と鯉登さんに問い掛けると「いいな」と答えた鯉登さんは「卵も入れよう」と続けて冷蔵庫を開け、中から卵をふたつ取出した。
出汁の中に解凍したうどんと、冷蔵庫から取出した卵を割り入れて煮込めば鰹出汁の煮込みうどんの完成だ。
「いただきます」と、声を揃えて夕飯の食卓を囲むのも当たり前になってきた。けれども、決して「当たり前」にあることではないのだと噛みしめながら箸をとる。
急いで作った出汁は、急いだ割にはよく出来ていて、鯉登さんが切った具材は、少し不格好な所も味になっていた。
「美味いな」
「美味いですね」
そう言い合って、うどんを啜ったその晩、それきり、お兄さんの話はしなかった。
話しはしなくても、俺も、鯉登さんもその事で。頭はいっぱいだった。
***
「落ち着かれました?」
翌日、店に来た尾形は私の顔を見るなり、そう言った。
一瞬身構えたが、此処にいるのは明治の頃の尾形ではない。聞こえたひと言は厭味では無く、気遣いの言葉だろう。と、そう受け取れたが、どうやら、私は甘かったらしい。
「…見苦しいところを見せたな」
素直にそう返したら、尾形は途端にへらりと笑ってみせた。
「いえいえ。珍しいモノが見られて面白かったですよ。」
憎らしい物言いに、尾形はやはり尾形だったと思い知らされた。睨んだ所で意味はない。それでも、と厭味の一つでも返してやろうと開きかけた口を閉じさせたのは「尾形」と釘を刺すように低く響いた月島の声だった。途端に尾形が肩を竦めたあたり、釘は的確に刺さったのだろう。
「冗談ですよ。」
言いながらいつものカウンターに腰を下ろした尾形は、これもいつも通り「ミックスジュース」と注文を口にしながら「でも、良い機会じゃないですか。」と話を続けた。
「いずれ挨拶には行くつもりだったんでしょう?鹿児島まで行く手間も省けたし、これでマスターも胎が括れるじゃないですか?」
ねぇ、マスター。と、月島を呼ぶ尾形の口の端は愉快そうに上がっている。
「他人事だと思って面白がっているだろう?」
恨めしく漏れたその声に、尾形はすぐさま「そんなことはありませんよ。」と反論して「心外だ」とまで言って除けた。
「俺はお二人を応援しているんですよ」
ご存知でしょう?と言われて振り返ってみれば、それは、その通りなのだ。信じ難い事ではあるが、真実、今世の尾形は私と月島のことを認めてくれている。そればかりか、月島は、尾形のお蔭で過去を思い出した経緯があるのだから、反論のしようがない。
面白がっているのも事実だろうと詰め寄りたい所だが、上手くはぐらかされるのが関の山だろう。諦めに溜息を吐くと尾形は満足そうに笑ってみせた。本当に憎らしい男だ。
「来週でしたっけ?お兄さんが来られるの。」
「そうだ」
「店はどうするんです?」
聞こえた其の問いには月島が答えた。
「その日は、休もうかと思っている」
その言葉に驚いて「休むのか?」と声を上げると、月島は「えぇ」と答えながらカウンターにミックスジュースを置いて此方へ視線を寄越した。
「定休日には合わないでしょうから、折角来て頂くなら、ちゃんと話す時間を取った方がいいと思って。」
月島の言うのは尤もに思えて「そうか」と納得しかかったのだが、私が答えるより先に尾形が口を開いた。
「店、開けたらどうです?」
グラスに刺したストローでミックスジュースをかき混ぜながら、尾形はそう呟いた。
「特別な事をしなくても、普段通りの様子見てもらったらいいじゃないですか」
「普段通り…」
「その方が、お兄さんも安心するんじゃないですか?」
揶揄うでもなく、ごく当たり前を言うように。そう言って、ストローを食む尾形に「そうだろうか」と短く問うと、尾形は視線だけを投げて寄越しながら、ズズッと音を立ててミックスジュースを一口飲み下し「うん。美味い。」と独り言のように呟いてから徐に此方に向き直った。
「そうだと思いますよ。」と。零れたそのひと言が、問いの答えらしかった。随分と簡素な答えだ。
「お前も、弟さんの普段の様子を見ると落ち着くのか?」
そう言うからには、そうなのだろうかと浮かんだ疑問を口にすると、見る間に尾形の顔が曇った。
「何故ここで勇作さんの名前が出て来るんです」
尾形の弟・勇作さんの話になるといつもこうだ。
「お前にも兄弟がいるのだから、そうなのかと思っただけだ」
あからさまにしかめっ面をしながら、それでも尾形は「それはそうでしょう」とぶっきら棒にそう答えた。
「平穏無事に暮らしているなら、それが一番でしょう」
ボソリと零された一言は本音なのだろう。
「一度連れてきてくれたらいいのに」
「!?勇作さんをですか!?」
「他に誰かいるか?」
当然のことを聞いたら、尾形は益々険しい顔をしてみせて「勇作さんは昔のことなんて覚えていませんよ。」と吐き捨てるように言ってのけた。連れてくる気はないらしい。
「勇作さんに会ってみたいのに」
「会ったって何も覚えちゃいませんって。勇作さんは親父の跡継ぎで、忙しくしてるんだから、わざわざ…って、何、人の顔じろじろみてるんです?」
「弟を大事にしているんだな、と思ってな」
にこりと笑ってそう言ってやると、尾形は苦虫を噛み潰したような顔をしてそっぽを向き、派手な音を立ててミックスジュースを啜り始めた。拗ねた子供のようなその仕草に、思わず月島と顔を見合わせて笑ってしまう。
「兄弟仲が良いのはいいことではないか」
「アンタが言います?」
グラスの中身を空にしてからそう零した尾形は拗ねた顔をしたままだったが「私だから言うんだ」と告げると片眉を上げて「そうですか」と唇を尖らせた。
「そう拗ねるな。」
「拗ねちゃいませんよ」
明らかに拗ねた声でそう言われても、益々笑ってしまいそうになる。
「そうだ。いつものお礼に何か奢ってやるぞ。何がイイ?」
解りやすい機嫌とりでは却って機嫌を損ねるかと思ったが、尾形は暫し沈黙してから「…チョコレートパフェ」と小さく呟いた。
「パフェ!?」
「いけませんか?」
「いいや。驚いただけだ」
素直にそう告げると「前にアンタが食べてたのが美味そうだったんで」と尾形はそう言ってカウンターに肘をついた。
よく見ているものだと思って妙な感心をしていると「鯉登さんも食べます?」と月島の声が聞こえて来て、私はそれに「もちろん」を答えた。
喫茶ツキシマのチョコレートパフェに派手さはない。昔ながらのスタンダードなチョコレートパフェだ。
縁の拡がったタイプの底の深いグラスにたっぷりとチョコレートソースを垂らし、砕いたナッツとコーンフレークを底に散らばせてバニラアイスをひと掬い。その上にチョコレートアイスを重ね、更にバニラアイスを乗せる。グラスの淵近くまでアイスを積み上げたらフルーツカクテルと、ベリーのソースを垂らし、その上に一際大きな丸いチョコレートアイスを乗せてナッツを散らす。飾り切りを施したバナナを添えてグラスの縁をホイップで彩り、仕上げにチョコソースをかければチョコレートパフェの出来あがりだ。
流行とは程遠いこのパフェは、月島が作る物の中でも気に入っているメニューの一つでもあるのだが、尾形は頼んだことが無かったらしい。
「気になっていたなら頼めば良かったのに」
「いい歳したおっさんがおいそれとは頼めんでしょう?」
至って真面目にそう言われてみれば、そうかもしれない。所で尾形は今幾つなのだろう。そう思う内に、カウンターにチョコレートパフェが二つ並べられた。
パフェを目の前にした尾形が『いい歳したおっさん』と自らを称しながら、パフェにスマートフォンのカメラを向けているのはいいのか?と問いたいが、その写真も勇作さんに送っているのかも知れないと思えば余計な事を言うのは止めにした。尾形も、尾形なりに今の暮らしと過去に折合をつけて生きているのだ。
「マスター珈琲…って、え?何で二人揃ってパフェ食べてるの!?」
パフェを食べ始めたところで賑やかに店のドアを開けたのは宇佐美だった。
「何?なんで?百之助、一口ちょうだい?」
言いながらそこが指定席のようになっている尾形の隣に宇佐美が腰を下ろすと、尾形は「やんねーよ。」とグラスを抱えて宇佐美に背を向けた。本当に子供みたいだ。
「百之助のケチ!いいよ、自分で頼むから!マスター!僕にもパフェください!」
元気よく声を上げる宇佐美を見ていたら、悩んでいることがほんの少し馬鹿らしく思えた。
考えなくていい訳ではないけれど、考えすぎたところでどうしようもないではないかと。ふと、そんな風に思った。
***
「店、開けようかと思うんです。」
閉店後のカウンターでそう告げると、鯉登さんは少し間をおいて「尾形も、そうしたらどうかと言っていたな」と静かに呟いた。
悔しいが、尾形の言うのが、尤もだと思ったのだ。店を閉めて、きちんと話をする時間を持ちたい気持ちも勿論ある。けれども、いつも通りの、普段の姿を見て貰う方が良いようにも思えた。特別に場を設けて取り繕っても、無駄に緊張し過ぎて、取り返しのつかない失敗をしないとも限らない。それならば、いつも通りの様子を見て貰った方が良い気がして。
「きちんと、挨拶をしたいとも思うんです。でも、どうも、そういうのだと、失敗するような気がして…」
正直にそう話すと、鯉登さんは小さく笑って「私も、いつも通りの方がいいと思う」と答えてくれた。
「尾形に言われたのは癪だが、畏まった場は私も苦手だ。普段通りの方が、きっと話もしやすいだろう…」
落ち着いてそう話す鯉登さんの様子にホッとして息を吐くと、鯉登さんはまた小さく笑って「お互い、緊張し過ぎだな」と零した。確かにその通りだ。まだ少し日はあると言うのに。鯉登さんのお兄さんが来るというだけで、昨日から二人揃って落ち着かないままでいる。初めての挨拶でそうなるのもしようがないのだけど、それにしも、だ。
「やっぱり、いつも通りでいましょう。今でさえこうなんですから、キチンと席を設けたりしたら、話せるものも話せなくなりそうです。」
情けない話だと思うが、そう零したら、鯉登さんも「そうだな」と同意してくれた。
「店に来てもらうなら…なにか…うちのメニューに、お兄さんが気に入りそうなものはありますか?」
「気に入りそうなもの?」
店に呼ぶのなら、うちのメニューを食べてみて貰いたくはある。気に入って貰えるかは解らないけれど、自分の仕事を理解してもらうには、それが一番手っ取り早い気がして。
「なにか、お兄さんの好物とか…」
「好き嫌いの無い人だからなぁ…」
「そうですか…」
好物でもあれば、其れを切欠にお兄さんとお近付きになれるかとも考えたが、好き嫌いが無いでは取り付く島もない。では、一体何を出したらいいだろう?考える間に「あ」と漏れ聞こえた声に顔を上げると、鯉登さんは「カレー」とその単語だけを声にした。
「カレー?が、好物なんですか?」
「兄では無くて、父のだがな。」
肩透かしのようなその返事に思わず苦笑いが漏れた。
「はっきり聞いたことは無いが、多分、そうだと思う。」
「多分?」
「実家では毎週金曜日はカレーだったんだ。父の希望でな。」
「!毎週、ですか?」
驚きのあまり大きくなった声にも鯉登さんは驚く様子も無く「そうだ。そうだった。今でもそうだと思う。」と実家の様子を思い浮かべながら話しているようだった。
明後日の方向を見る鯉登さんの眼には、実家で、お兄さんやご両親と過ごした日々が映っているのだろう。未だ俺と出逢う前の鯉登さんが、どんな風に過ごして居たか、まだまだ知らない事ばかりだ。
「…よっぽど、なんですね」
「そうだな。当たり前のように思っていたが、毎週決まってそうするなんて、よっぽどなんだろうな。」
「御実家のカレーは、どんなカレーなんです?」
興味本位でそう訊ねると、鯉登さんは「どんな…って」と、考える仕草をして、思い出そうとしているようだった。
「普通の…ジャガイモやニンジンのごろごろ入ったカレーだったと思うが…暫く、食べていないからな…」
ここ数年、御実家からは足が遠のいているという話は聞いている。言葉通り、記憶はもう朧なのかもしれない。
「食べてみたいです」
それでも、敢えてそう口にすると、鯉登さんは「え」と小さく漏らして俺を見た。
「鯉登家のカレー、食べてみたいです」
繰返すと、鯉登さんは困ったような顔をして、それから笑って「わかった」と答えてくれた。
「今度、かかどんに材料を聞いておく」
「約束ですよ」
そう答えて笑いあったら、タイミングを合わせたように俺の腹が鳴った。
「取り敢えず、今日は、うちのカレー食べます?」
「うん」と答えた鯉登さんは笑っていた。
「月島のカレーも好きだ」
そう言ってくれる鯉登さんに出しているのは、通常、店で出しているモノよりは少し甘めに作っているモノなのだけれど、それは言わないままでいることにした。鯉登さんが特別な事は、俺だけが解っていればいいのだから、それでいい。
喫茶ツキシマのカレーは、大量の玉ねぎ、ニンジン、りんごなどをすりおろしたペーストと、数種類のスパイスを合わせて煮込んだオリジナルのものだ。辛めに作ってあるが、辛いのが得意では無い客には、ミルクを加えて味を調節する。甘めの味付けが好みの鯉登さんに出す時は、ミルクの他にごく少量の蜂蜜を混ぜて味を調える。こうすると、辛みの角が取れて味が丸くなるのだ。
今日の調整も上手くいっていたのか、鯉登さんはスプーンを口に運ぶと、美味そうに目を細めていた。其れを確かめてから自分もスプーンを手に取る。俺には少し甘く感じるけれど、我ながら、悪くない出来だと思えた。
「引越の事、未だ、知らせてないんですよね?」
「…うん」
食事の合間に、何気なく問い掛けたら、鯉登さんの顔がほんの少し曇ったように見えた。
「一緒に住んでるって言ったら、俺、殴られますかね?」
わざと軽く告げたつもりの言葉は、思いの外重く受け取られてしまったようで、鯉登さんはがたりと音を立てて席を立った。
「っそんなこと…っ」
「殴られても、ひきませんよ」
させない。か、あり得ない。か。鯉登さんの口を吐きかけたのは何方の言葉だったか。それが声になる前に言葉を遮ると、鯉登さんは目を見開いて俺を見た。
「解って貰えなくても、解って貰えるまで、ひきません」
あなたが好きなので。
今更のようにそう告げたら、鯉登さんはストンと、椅子に座り直して「わかっちょ」と呟いた。
「オイも、月島が好っじゃ」と消え入りそうな声が聞こえて、如何しても、如何したって、この人だけは護りたいと思った。護ろう、と、思った。
***
翌日は、朝から雪のちらつく寒さだった。
それにもかかわらず、菊田さんは嫌な顔一つ見せずに、打合せの約束をした時間通りに店を訪ねてくれた。
「すいません。こんな寒さになるなんて…」
日を改めれば良かったと告げると、菊田さんはそれでも笑って「俺が来たかったんだからいいんだよ」と言ってマフラーを解きながら、カウンターにアイリッシュ珈琲を頼んだ。
程なくして月島が運んできた耐熱ガラス製の中身の見えるカップには、濃い琥珀色の上に真白なクリームがたっぷりと湛えられていた。見たことの無いメニューが珍しくて、ついカップを覗き込むと「呑んだことないか?」と菊田さんの声が聞こえてきた。
「ない、です。」
「鯉登さんには、出したことないですね」
私の声に応えたのは月島だ。顔を上げると、未だテーブルの傍に居た月島は「珈琲と言っても、カクテルですから」と笑ってみせた。
アイリッシュ珈琲は、アイリッシュウィスキーと珈琲をブレンドして作るカクテルだ。喫茶ツキシマで出す時は、ウィスキーを加熱してアルコールを飛ばしたものを提供しているというが、カップに近付けば、ほのかにウィスキーが薫る。珈琲の上には保温も兼ねた七分立ての生クリームをたっぷりと注ぎ、シナモンが散らしてあった。
「飲んでみるか?」と菊田さんに薦められたが、それは遠慮してココアを頼んだ。洋酒はあまり得意ではない。
「鯉登らしいな」と菊田さんに笑われたのは、子供扱いされたような気がしたが、実際、菊田さんには甘えっぱなしなのだから、そうされても仕方ないのだ。
作家としても、月島を探すことも、菊田さんには随分と助けられた。今のマンションだって、菊田さんが手配してくれたものだ。だから、次の作品の打合せにかこつけて、今後マンションをどうするか話しておかなければと、忙しい菊田さんに来てもらったのだ。こんな天気になると解っていればと後悔しきりだが、話しをすると、私が新作に前向きなことが幸いしたのか、菊田さんはマンションのことは気にしなくていいと笑ってくれた。
「まだ一緒に住んでないのかと思って気を揉んでいたんだ。仕事場にするならそれでいい。資料が管理しきれないなら、全部は無理だろうが、一部ならうちで預かれなくも無い。」
お前の好きにしたらいいさ。そう言って笑ってくれる菊田さんに、私は、一生恩を返しきらないような気がした。
「ところで…話は、それだけかい?」
仕事の話も終わり、マンションの報告もして、其れだけと言えば、其れだけの筈だった。けれども、長い付き合いで、菊田さんには私の内面の不安など、全部お見通しなのだろう。誤魔化すことも出来たが、観念して兄のことを話した。
月島と一緒に居ることも、引っ越したことも、何も話していないことも。菊田さんの前だと、するすると話してしまう。甘え過ぎだと思うが、気付いたら一通り話してしまっていた。こんな、極めて個人的な話をして、流石に呆れられるだろうかと思ったが、菊田さんは一度も話に水を差すことなく、私の話を全て聞いた後「挨拶が出来るなら、良かったじゃないか」と、そう口にして「俺も、お兄さんに挨拶したい」とそう漏らした。
「けど、邪魔しない方がいいかな?」
取り繕うように付け足された一言に、思わず「いえ」と身を乗り出したのは無意識のことだ。
「っ出来れば来てほしいです、何なら食事も一緒に…」
「光栄な話だが、食事はまたにしよう」
前のめりになる私を落ち着かせるように、菊田さんは至って冷静に話を続けた。
「まだ、マスターとのこと、ちゃんと話せてないんだろう?」
「…はい」
「だったら、そっちが優先だ。そこに俺がいちゃ駄目だ。」
「…そう、ですね。その通りです。すいません…」
最悪のタイミングで最悪の甘えが出てしまった…
「ずっと、菊田さんを頼りにしてきたから、つい…でも、流石に、甘え過ぎですね…」
情けなさに、消えそうになる言葉をどうにか声にすると、菊田さんはふ、っと笑って「いいんだよ」と言ってくれた。
「それだけ信頼して、甘えて貰えるなんて嬉しい限りだ。」
にこりと笑ってみせるその顔には、大人の余裕が見えた。これだから、つい、甘えてしまうのだ。
「マスターにも…鶴見さんにも嫉妬されそうだけどな。」
笑み共に聞こえた言葉に、驚かなかったと言ったら嘘だ。嫉妬される、という言葉ではない。聞こえたその名前に、だ。
「鶴見さんと、繋がりが?」
久しぶりに耳にしたその名前に、思わず声を上げると、菊田さんは「同業だからね。」と事も無げにそう話した。
「ライバル社だから、親しいって程ではないけれど、文学賞の授賞式なんかで会えば話はするよ。」
「…そう、なんですね」
「意外か?」
「…少し」
本音を言えば、少しどころでは無いのだけれど。
「ライバルだからって、いがみ合っているわけじゃないさ」
ライバルも居なければ、業界が盛り上がらないからな。と笑う菊田さんの言葉に嘘はないのだろう。言われてみれば、それもそうだ。今はもう、明治とは違うのだから。主義主張や思想が違うからと言って、いがみ合い、命を狙われるようなこともない。其れで当然なのだと思うと、心が安らいだ。
「…鶴見さんは、お元気ですか?」
鶴見さんに最後に会ったのは、此処『喫茶ツキシマ』で、移籍の話を断ったあの時だ。その後、電話では何度か話したし、メールのやり取りはあったが、顔は見ていない。
「相変わらずだ。お前さんの活躍を、随分と喜んでいらっしゃったよ。」
聞えたその言葉に、ドッと心臓が跳ねた。
「『才能のある作家なのだから、大事に育ててやってくれ。あの子の好きにやらせてやってくれ』って、釘を刺された。」
「あの子…」
「鶴見さんにとっても、お前さんは特別な作家って証だな。」
笑う菊田さんに、どうにか笑い返しながら、泣きそうな気分になっていた。
「勿論、俺にとっても大事な作家だ。今更、鶴見さんのところへ戻るなんて言わないでくれよ?」
茶化すように言ってくれたのは、わざとなんだろう。
「そんなこと、しませんよ」
どうにか、そう声にしたら、菊田さんは「そうかい」と零して「例えそうなっても、お前さんの面倒は見続けるからな」と笑ってくれた。「俺は案外しつこいぞ」と続いた言葉に「知ってます」と返すのが精一杯だった。鶴見さんが、私を今でも認めて下さっている。その事実を聞けたことで、胸がいっぱいだった。
スケジュールを開けておく約束をして菊田さんが帰っていくと、珍しく月島がカウンターを出てテーブル席までやってきた。
「髄分、楽しそうでしたね」
声も、その顔も、常のモノとはまるで違っていて、なんて解りやすい男だと感心する。
「妬くか?」
「妬きますよ」
間髪入れずに憮然と返された言葉に思わず「嬉しいな」と零したら、怪訝そうな顔をされてしまった。
「でも、心配するようなことはないからな?」
「あったら困ります」
「困るだけか?」
「怒りますよ?」
聞こえた声は一段低かった。どうやら少し図に乗り過ぎたらしい。鶴見さんの話を聞いて、浮かれていたのだろう。
「怒るな。やましい事など或る筈ないだろうが。」
告げたら、月島は直ぐに「すいません」としおらしい返事を寄越した。カッとなりやすい質ではあるが、直ぐに平静を取り戻すこともできる。器用なのか、不器用なのか、よく解らない男だとも思う。けれども、解らないくらいでいいのだ。他人のことを、解った気になる事ほど恐ろしいことは無い。解らないままだから、ずっと想っていられるのだから。
「菊田さんも、兄に会いたいと言っていてな」
ひとりで反省しているらしい月島にそう声を掛けると「菊田さんも?」と月島がそろりと顔を上げた。
「以前は、兄が仕事のことも菊田さんと相談してくれていたりしたからな。一度、会ったことは或る筈だが、滅多にないことだからと言うんだ」
「そうでしたか…そんな縁が…」
私の説明に納得したのか、月島は納得した顔をしてそう呟いた。
「兄も、菊田さんには会いたがると思う」
「そうでしょうね。折角、時間が合うなら…」
「うん。だから、菊田さんを口実にして、兄との待ち合わせを、この店にしようと思う。」
それなら、何の不自然もなく、兄を店に来させることが出来る。普段通りの店を、兄に見て貰う事も出来る筈だ。
「兄には、会って、直接話す。引越のことも、月島のことも、会ってから、ちゃんと、全部話すつもりだ。」
それで、いいか?と、問い掛けると、月島は真直ぐに私を見て「わかりました」と答えてくれた。
私を見詰める月島は、何の淀みも無い、真直ぐな澄んだ目をしていた。
***
「俺もまだまだだな…」
鯉登さんが二階に戻り、ひとりになった店のカウンターで思わず漏れたのはそんな一言だった。
思い出すのは先刻の鯉登さんとのやり取りと、その前の、鯉登さんと、菊田さんの姿だ。
菊田さんは、鯉登さんの担当編集者で、掲載誌の編集長で、その立場というだけでなく、鯉登さんを長く支えてきてくれた人だ。そのことは、理解している。そのつもりだったのだけれど、余りに親し気な二人の雰囲気に、解りやすく嫉妬してしまった。のみならず、其の嫉妬をあからさまにして鯉登さんに八つ当たりをするような真似をしたのだから、目も当てられない。
理解した気になって、全然理解なんて出来ていないじゃないか。籍は入れられないにしても、生涯護ると決めた人を疑うような真似をして、みっともないにも程がある。
それに比べて、菊田さんの余裕はどうだ。
帰り際、いつも通り余分な額を寄越した菊田さんは『気を悪く為さらないで下さいね』と笑っていた。笑って『あの子は、私にも大事な作家ですから』と、そう言っていた。
話に聞き耳を立てていた俺への配慮のつもりだった筈だ。 言葉には、その通りの意味しかない。其れを解っている筈だのに、カッとなって見境がなくなるのだから情けない。
こんな様では、今に鯉登さんに愛想を尽かされるのではないか。そうなってもおかしくない。ずっと俺を想って、探し続けてくれた人だとは言え、明治の頃の俺とは違うのだろうし、記憶もはっきりとしないような俺では、想っていた相手とは違ったと見放される可能性だって無くはないのだ。鯉登さんはそんな人では無いと、それも、解っているつもりだけれども、自分の嫉妬深さにうんざりする。
俺は何方かと言えば淡白な人間だと思っていたが、想う人が出来ると、こんなにも嫉妬深くなるのだと気付かされた。治そうと思えば、治る性分なのだろうか。此れは。
「なんだ?珍しく浮かねぇ顔してんなぁ」
ついにフラれたか?と、今一番言われたく無いような台詞を無遠慮に吐いてカウンターに座ったのは門倉さんだ。
「フラれちゃいませんよ」
溜息交じりに応えながら珈琲の用意を始めると、門倉さんは鼻で笑って「じゃぁ、お連れさんの身内に文句でもいわれたか?」と続けてきた。
「それは、これからです」
余計な事を言ったと思ったが、時既に遅し、だ。
「これから?なんだ?親御さんでも来なさるのか?」
興味津々で身を乗り出して来た門倉さんを誤魔化すのは無理だろう。はぐらかすことを早々に諦めて「違いますよ」と一度否定してから「来られるのはお兄さんです」と正しい情報を伝えると「本当に来るのか!?」と思いの外大きな声が店内に響いた。
「本当ですよ。」
「兄貴が来るって…大丈夫なのか!?」
大丈夫なのかとはどういうことだと問い詰めたい気分にもなったが、続いて聞こえた言葉で、詰問は止めにした。
「いや、大丈夫だな。大丈夫だろ。頑張れよ!兄貴に殴られたら、見舞いくらい持ってきてやるからな!」
俺が殴られる前提で話をする門倉さんに思わず「やっぱり、殴られますかね?」と問い掛けると、門倉さんは暫し固まって逡巡してから、すぅ、と息を吸って「殴るだろ」とそれが当然のことのように言い切った。
そうか。そういうものか。そういうものだろう。俺が鯉登さんの兄の立場なら、一度くらい殴らせろと言うに決まっている。しかも相手が俺のような嫉妬深いだけのおっさんだと解ったら、その気が無くても殴りたくなるかもしれない。
「確かに、そうですね」
半笑いでそう答えたら、門倉さんは「まぁ、一発ぐらい殴られてやりなよ」と知った風なことを口にしたものだから、つい「門倉さんも、殴られたんですか?」と問い掛けてしまった。
「…さぁな。」と、聴こえた返事は曖昧なモノだったが、なんとなく、答えは分ったような気がして、それ以上は聞かない事にした。
「胎は括っておきますよ。」と伝えて淹れたての珈琲をカウンターに置くと、門倉さんは「殴られずに済むよういのってやるよ」と言って笑ってみせた。
***
メールか、電話か、少し迷って、この時間なら、電話でも大丈夫だろうかと兄の番号を呼び出すと、思った通り、3コールで兄は電話に出てくれた。
今なら、少しの間なら話していても大丈夫だと言う兄に、手短に菊田さんのことを伝え『喫茶ツキシマ』に来てほしいと告げると、兄は何の疑問を持つ様子も無く『わかった』と答えてくれた。
『マンションの近くの喫茶店なんじゃな?』
「うん。商店街の、中にある店じゃ。」
簡単に店の外観を伝えて、後で地図を送ると伝えると、『それは助かる』と呟いた兄は、仕事の都合で、此方への到着は明々後日の午後の遅い時間になりそうだと報せてきた。
「遅い…って、何時くらいになっと?」
『一五時過ぎには行けると思うが、遅れそうなら連絡すっ』
「わかった。菊田さんにも、そう伝えておく」
『すまないな。なるべく、早く行くから』
父の稼業を継いだ忙しい兄のことだ。本当に、時間に追われてはいるのだろう。うちへ来るのも、仕事の合間を縫って、どうにか時間を作ったのだろうことは想像出来た。
「兄さぁ」
『何だ?』
「無理を、しているんじゃぁ…」
其の問いは、余計なモノだったかもしれない。それでも、つい口を吐いた言葉に、兄は電話口で『心配せんでよか』とそう言って笑った。
『夜は、時間が空っで、大丈夫だ。』
その言葉に、ホッとしたのは束の間だった。
『久しぶりに音と一緒に食事をしよごたっ』
先にも伝えられていた筈なのに、改めて言われてみると、返す言葉に詰まった。
『出来れば、音のパートナーも一緒に。三人で。』
そう言われることも、解っていた筈なのに、兄の言葉に「わかった。」とは、直ぐには答えられなくて、間をおいて、漸く返せたのは「考えちょく」のひと言だった。
『音』
控えめに私を呼ぶ兄の声は優しい。
『前にも言ったが、無理強いすっ気はなか。』
聞こえたのは、先日も告げられた、その言葉だった。
『少しも、なかでな。』
繰返し、そう告げて来る兄の優しさに泣きそうになる。
「兄さぁ…」
『何だ?』
「…あいがと」
どうにか、その一言だけを伝えると、電話口で兄は笑ったようだった。
『会えっとを、楽しみにしちょっでな』
耳に残った兄の声は、通話の切れるその時まで、ずっと、優しいままだった。
***
「俺も、一緒に、ですか?」
確かめるようにそう問い掛けると、鯉登さんはこくりと頷いて「そうだ」と告げた。
「一緒に食事をしたいと、そう言っていた。」
寝る前のひと時、リビングで一緒に過ごすその時間に、鯉登さんはお兄さんとのやり取りをゆっくりと話し始めた。
無事に、『喫茶ツキシマ』へ来て貰える約束は取り付けたけれども、挨拶だけのつもりが、お兄さんは俺も含め、三人で食事をしたいということらしい。
「うちの店で、何か、用意しましょうか」
喫茶店メニューがもてなしに相応しいかと言われれば疑問は残るが、普段、鯉登さんに食べて貰っているモノを出すのは、悪くは無いんじゃないかと思ったのだが…
「それだと、月島はずっとカウンターの中だろう?」
「作り終えたら、一緒に食べますし」
「待っている間、私一人では困る」
お兄さんなんだから、困ることはないのでは…という言葉は一旦飲み込むことにして、他の策を考えてみる。
「では、何処か、外へ食べに行きましょうか」
「何処か、いい店があるか?」
「谷垣の店はどうです?」
うちからも近いし、他では食べられない珍しい食材もある。それに何より、味は間違いない。
「…確かに美味いが、落ち着いて話は出来ないな…」
そう言われてみれば、谷垣の店には個室というモノが無い。仕切りがあるにはあるが、そう広くはない店内で話をしていれば、その内容は全て筒抜けになるだろう。込み入った話をするのに向く店では無いことは確かだ。頼めば貸し切りにしてくれなくも無いだろうが、三人ではそれも忍びない。
「…じゃあ、寿司でもとりましょうか」
「そういう手もあるか」
この案には、鯉登さんもパッと顔を輝かせたが、ひとつ、重大な問題がある。
「辺見さんが、店開けてくれたら、なんですが…」
「辺見さん?聞かない名だな?商店街の店の人か?」
此処で暮らしている筈の鯉登さんがそう言うのも無理はない。商店街の外れにある辺見さんの営む寿司屋には、滅多に暖簾の掛かることが無いのだ。
「腕のいい寿司屋なんですが、店主の納得いくモノが仕入れられた時しか店を開けてくれないんですよ。」
「じゃぁ、開いてる時は間違いなく美味いんだな?」
鯉登さんの察した通り、其れは確かにそうなのだ。そうなのだけれども…
「えぇ。それはもう。…ただ…」
「ただ…なんだ?」
「店主が、少々変わった趣味なもので、仕入れによっては、ゲテモノが出て来る時もあるんです」
何処から仕入れて来るのか、スーパーや鮮魚店では見ないような不思議な色や形をした魚を仕入れて来ることも珍しくはなく、暖簾が掛かると其れを求めて来る者もあるが、大抵の客は、博打を打つくらいの気持ちで暖簾をくぐり、七割の確率で肩を落として帰って来る。辺見さんの店は、そういう店だ。どうやって経営が成り立っているのか聞いてみたいところだが、話をする機会さえ滅多にない。
「掛けてみますか?」
「…それは、止しておこう…」
「賢明な判断だと思います」
答えながら、苦く笑ったら、鯉登さんは同じように笑って「困ったな」と呟いたあと、眠そうに目を擦って欠伸を零した。時計の針は、日付を越えるにはまだ幾らか猶予がある時刻を示していたが、鯉登さんがいつもベッドに入る時間よりは随分と早い。
「寝不足、ですか?」
「寝ているつもりなんだがな…」
その言葉の通り、鯉登さんは確かにいつも俺の隣で静かに眠ってはいる。だが、この所、気になっている事もある。
「…お兄さんのことが気懸りで、眠りが浅い、とか…」
以前は朝まで殆ど寝返りを打つことすら無かったのが、ここ数日は寝返りを打つことが多く、夜中に起き出して、ぼんやりとベッドに身を起こしている事もある。其れに気付いて起きてしまう俺も、人のことを言える状況ではないのだが。
「…そうかもしれないな…」
弱々しくそう零されてしまったら、放ってはおけなくなってしまった。
「少し、待っててください。」
言い置いて立ち上がると、鯉登さんが戸惑った様子で、俺の背中を視線で追って来たものだから「ホットミルクを作りますね」と早々に種明かしをした。
「ホットミルク?」
言いながらキッチンを覗きに来た鯉登さんの目の前で小鍋にミルクを注いでいく。沸騰しないように気を付けて、ゆっくりミルクを温めた所へ蜂蜜をひと匙だけ加えた。生姜糖でもよいのだけれど、安眠にはこの方が良い。
「熱いから気を付けて」
カップに移したミルクを差出すと、鯉登さんは「あいがと」とカップを受取って、ゆっくりとミルクに口をつけた。
「子供の頃、眠れない時にお袋が作ってくれたんです。」
ゆっくり眠れるように、と。お袋はそう言っていたが、アレは子供だましだったろうか。それでも、落ち着かない時にホットミルクを飲めば、その晩はよく眠れたような気がしたものだ。
「それ飲んだら、今日は早く寝ましょう」
静かにそう告げると、鯉登さんは「うん」と小さく答えて、はにかんだような笑顔を見せた。
「今日は、よく眠れそうだ」と、続いた言葉は穏やかで、きっとその言葉通りになるだろうと、そう思えた。
***
「鍋にすればいいじゃん!」
きっぱりと言い切った宇佐美は、其れしかないというような口ぶりだった。余りにもきっぱりと言い切るものだから、寒い季節にその選択肢はアリかもしれない。と、そう思いかけたが、其れを否定する声は直後に聞こえてきた。
「いきなり鍋ってハードル高くないか?」
疑問を呈したのは宇佐美の隣に居る尾形だ。
週に二、三度は『喫茶ツキシマ』のカウンターで並んで座っている二人は、今世では編集者とライターという関係ではあるらしいが、しょっちゅう一緒に居る所を見掛ける。見掛けはするが、仲が良いのか悪いのか、よく解らない。
何かと店に入り浸っている事の多い二人には、兄が来ることも、兄が月島との食事を望んだことも、隠すだけ無駄だと思って話したのだが、その結果が今ほどの言葉だ。
「真剣に考えているか?」
つい訝しんでそう問うてしまったが、宇佐美はすぐさま「真剣だよ!」と眉を吊り上げた。
「ここでヘマしたら折角の指輪が台無しになっちゃうじゃん!二人には幸せになって貰わないと!」
鼻息を荒くする宇佐美の横で、尾形は「幸せねぇ」と嘯いて宇佐美に睨まれていたが、どこ吹く風だ。宇佐美は尾形を一瞥して此方に向き直ると、気を取り直すように咳払いをひとつして再び話し始めた。
「今回は、お兄さん一人なんでしょう?だったら、仲良くなるにはちょうどいいんじゃない?一緒にお鍋つつけば」
「そういうものか?」
「そういうもんだって。仲良い人としか食べないでしょ?」
いとも容易く宇佐美はそう言うが、そう簡単に済む話だろうか。仲の良い者と食べるモノだと言うなら、初対面では避けるべきではないのか?と疑問は残る。
「この店に、鍋を置くのか?」
明後日を向きながらも話しは確り聞いていたのか、不思議そうに声を上げた尾形に、宇佐美は「違うよ」と否定した。
「この店、鍋って雰囲気じゃないでしょ?二階が家なんだから、家に招けばいいって話」
冗談でもなく、宇佐美は至って真面目にそう言った。
「普段の二人を見て貰いたいんでしょ?だったら、お兄さんに二人で鍋の準備してるとこも見て貰えばいいんじゃない?仲良くしてるな~って解って貰えるでしょ?」
ニコリと笑ってそう告げる宇佐美の言葉はもっともらしく聞こえたが「そんなもんかねえ」と訝る尾形の声も、解らなくはない。そう簡単にいくものだろうか。家に招くのなら、それも緊張しないとは言えないのだが。
「そういえば、百之助も鍋好きだったよね?なんだっけ?好物だって言ってた、何とかいう魚の、美味しいの」
「あんこう鍋。アンタにも食わせてやったろ」
「そうそう!あんこう鍋だ!」
聞えた会話で尾形の好物があんこう鍋だと知れたことより、その後に続いた言葉が気になった。
「一緒に鍋食べたりするのか?」
浮かんだその疑問は、私より先に月島が口にした。
「偶にはな」という尾形の言葉に、宇佐美はニコニコと笑って「仲良しなので」と付け加えたが、尾形は心底嫌そうな顔をしていた。とはいえ、本当に仲はいいんだろう。
「まぁ、確かに初対面でちょっと緊張するかもだけど、マスターだけじゃなくって鯉登くんが一緒に居るんだし、大丈夫なんじゃない?」
大丈夫。宇佐美にそう言われると、上手くいくような気がするのが不思議だ。しかし、月島は、どう思っているだろうかとカウンターの中を伺うと、月島は腕組みをして話を聞いていた。腕組みはしているが、その顔は穏やかだ。
「考えてみるよ」
そう漏らした月島は、宇佐美の案を悪くないと思っているように見えた。
「うん。二人で話して決めてね。僕のはあくまでも案だから。」
ニコリと笑う宇佐美に、明治の面影は見られない。いいや、あの頃も宇佐美は何くれと無く私や尾形の世話を焼いていた。田舎に弟妹がいると言っていたか。今もそれは変わらないようだが。宇佐美と言う男は、本来、こんな、世話焼きの男だったのかもしれない。
「ありがとう」
ポツリと零すと、宇佐美はちらと此方に視線を寄越した。
「相談出来る人も居ないから…助かる」
もう少し、言葉を選べればよかったものを、その一言だけを告げたら、それでも宇佐美は「どう致しまして」と満足そうに笑ってみせた。
「なんか、手伝いたくなっちゃうんだよね。ね?百之助。」
唐突に話を振られた尾形は素知らぬ顔をしていたが「百之助が勇作くんと何かあった時にも手伝うからね?」と宇佐美が勇作さんの名前を出した途端、ぐるりと此方を振り返った。
「あ?何でそこに勇作さんが出て来るんだよ。何かって何だ」
「何かは何かだよ。兄弟喧嘩することもあるかもしれないでしょ?」
「喧嘩なんかしねぇ」
しかめっ面をして、吐き捨てるように尾形がそう言うと、宇佐美はへらりと笑って「そっか」と呟いた。
「仲良しだもんね。喧嘩なんかしないかぁ」
にこにこ、というよりは、にやにやと笑って宇佐美がそう言うと尾形は舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。
「もう。百之助はホント素直じゃないなぁ」と、宇佐美が零した言葉には同意を示したかったが、そうすると、尾形が益々拗ねて面倒な事になりそうなものだから、聞かなかったことにした。それなのに。
「ね?そう思いません?」
そう問い掛けて来られては、私も、月島も顔を見合わせて笑うしかなかった。
尾形の機嫌は、少しも治りそうになかった。
***
「鍋という考えはなかったな」
店を片付けた後、二階に続く階段を並んで上がりながら、鯉登さんはふと思い出したようにそう口にした。
思い浮かぶのは昼間の話だ。お兄さんをもてなすのに、鍋はどうかと言った宇佐美の案は悪くないように思えたが、拗ねた尾形の機嫌をとるのには苦労させられた。が、それは別の話として…、本題は鍋だ。家に招いて、皆で鍋を囲めば、と言われたが、提案されるまで、その考えは少しも無かった。
「…鍋は、うちでもしたこと無いですね」
「好みじゃないか?」
「いいえ。昔は、よく家族で、休みの日にしていました。」
「…私とは、一度も無いな?」
言われて気付いたが、確かにそうだ。鯉登さんと、どころか、ひとりになってからは作った覚えが無い。
両親が居た頃は、店の定休日に家族で鍋を囲むこともあったが、ひとりになると、鍋を出すのも億劫になった。小鍋でひとり鍋を楽しむ人も少なくないと聞くが、態々自分の為だけに鍋を買うのも憚られて、結果、食べる機会を持たなかったというわけだ。
「俺ひとりになってからは作ってないですね。鍋は、大人数で食べるイメージで…」
「確かに。それはそうだな…」
「鍋はあるんですけどね」
「そうなのか?」
「えぇ。あるには、あるんですけど…」
そう零しながら自宅のキッチンに足を向けると、鯉登さんも後ろからついてきた。キッチンの一番奥の引き出しの中にその鍋は収まっている。
薄茶けた新聞紙に包まれた塊を取出し、テーブルの上に置くと、ごとりと鈍い音がした。経年で脆くなっている新聞紙を剥いでみれば、乾いた新聞紙の中から、どっしりとした大ぶりな土鍋が現れた。釉薬の掛かった蓋には艶もあり、ヒビ一つない立派なものだが、決定的な問題がある。
「…随分、大きいな」
鯉登さんがそう零すのも無理はない。
「でしょう?」と返すと、鯉登さんは「大きい」と繰返した。それ程に、この鍋は大きいのだ。
大昔に親父が田舎から持ってきたもので、売っているのも滅多に見ないようなサイズだ。近頃ではもっと小ぶりなモノや、ひとり用のモノが主流だと聞くが、其れとは似ても似つかない。田舎では縁戚の集まりででも使っていたようなモノなのか、家族用にしても大きすぎるくらいの代物だ。
「まぁ、お兄さんと三人なら、これで用意してもいいかもしれませんね。」
具材や出汁の量を加減すれば、鍋の大きさも然程気にならない…かもしれない。気にしないでほしい。
「…そうか。そうだな。」と、答えた鯉登さんの声には僅かばかり困惑が滲んでいた気がするけれど、明後日にはお兄さんが来るのだから、今から新しいモノを探しに行く時間は無いだろう。しげしげと鍋を眺めている鯉登さんは、やはり此れでお兄さんに鍋を用意するのは不安なのだろうかと思ったが、暫く後に聞こえた言葉は、思っていたモノとはまるで違うモノだった。
「コレ、二人で使うには、流石に大きいか?」
質問の、意図を聞くのは野暮だろう。
「今度、一緒に、もう少し小さいのを、買いに行きましょう」
告げたら、鯉登さんはパッと顔を輝かせて「うん」と答えてくれた。花が咲いたようだ、と思った。
***
『喫茶ツキシマ』は早朝七時から店を開ける。開店して暫くは誰も来ないのが常だが、大抵、一番に来る客は決まっている。それが、門倉さんだ。
その門倉さんが、今日は珍しく九時前に店に顔を出した。その手には、大きな酒瓶を持って、だ。
「今日は、注文はして無い筈だが…」
店で使う酒類はいつも門倉さんの酒屋で頼んではいるが、在庫を見て注文は定期的にしているし、配達は、大抵キラウシが運んで来ていた筈だ。何処かへの配達と間違えたろうか。そう思っての声掛けだったが、どうやら、間違いでは無いらしかった。
「注文じゃねぇよ。こいつは頼まれもんだ。」
ぶっきら棒に言いながら、門倉さんがカウンターに置いたのは店では買わないような上等な酒だった。
「兄貴さんが来るって言ってたろう?大事な席には、いい酒がいるだろうって、土方さん、と、永倉の爺さんから」
祝いだってよ。と、続けられた一言に吹き出したのは朝からカウンターに居た尾形で、珍しくこの時間に店に降りていた鯉登さんは、ぎょっとして声をはり上げた。
「土方さん!?…土方さんが、どうして、その話…」
「どうしてって…」
言い淀む門倉さんの言葉尻は、俺が引き取るしかない。
「すいません。俺です。」
頭を垂れてボソリと呟くと、鯉登さんは絶句して俺を見た。
「この前、門倉さんに話してしまって…」
申し訳ない。と、頭を下げるしかない。
「なんだ?まずかったか?」
「いえ、そんなことは…」
恐縮する門倉さんに、慌てて声を上げたのは鯉登さんだった。「すまない。ただ、吃驚して…」と続けられた言葉に、門倉さんは「悪気はねぇんだ。気を悪くしないでくれよ」と頭を掻いた。
「大丈夫だ。本当に、少し、驚いただけで。」
「驚くほどのことじゃねぇだろ。お前らのことはもう商店街の連中の大半が知ってんだし。」
欠伸交じりにそう零した尾形が言うのは尤もなのだが、お兄さんが来ることを勝手に漏らしたのは俺に違いないのだ。其れを鯉登さんに告げていなかったのだから、反省しかない。
「すいません。俺が、勝手をしたばっかりに…」
「気にしねぇでくれよ。…俺も、つい、口が滑っちまって。」
申し訳なさそうに首を下げた門倉さんは「でも、俺が言ったのは土方の爺さんだけだからな!」と取り繕った。
「とはいえ、知らねぇところで勝手に噂されんは気分のいいもんじゃねぇよな。…すまねぇ」
反省しきりの門倉さんに、鯉登さんは苦く笑って「謝らなくていい」と声を掛けた。
「何れ、解ったことだ。…それに、こんな風に励まして貰えるのは、嬉しい。」
気恥ずかしそうに、僅かに頬を染めてそう零した鯉登さんに、門倉さんはホッとしたのかへにゃりと笑って「そうか」と呟くと「嬉しいと、思ってくれるか」と、それこそ嬉しそうに笑ってみせた。
「そっとしといてやりゃいいとも思うんだが、みんな、お前さんたちのことが気になってんだよ。」
笑った顔で、門倉さんは言う。
「気になるって、勿論、いい意味でだ。見守ってるっていうか…だから、気を悪くしないでやってくれ」
そう言って頭を下げようとする門倉さんを止めていると、店のドアが開いて、滅多に見ない顔が中を覗いてきた。
「あ、いたいた。マスター、お届け物です!」
一抱えはある花束を手に、にこやかに店に入ってきたのは、商店街の角にある花屋の夏太郎という男だった。
月に一度か、二度、一緒に花屋を営んでいる亀蔵という男と二人で連立って昼時に飯を食いに来る。それ以外にも、時折、永倉さんや土方さんに声を掛けるついでに、珈琲を呑んで行くこともあるのだが、店が繁盛していて忙しいせいか、顔を見る機会はそう多くない。
「花?誰宛だ?」
「誰って、決まってるだろ。マスターと、鯉登さん宛だよ。」
はい。と差し出されたのは色彩豊かな大きな花束だった。それがあるだけで、店の中が一段明るくなるような、鮮やかな花束だ。然し、男所帯で、何の祝い事があったわけでもなく、どちらかの誕生日にかすりもしないでは、そんなものを送られる心当たりはない。誰からだかも解らないそれを困惑しながら受け取ると、花束をまとめたリボンにメッセージカードが添えられていることに気が付いた。
「カード…?」
俺と同じくカードに気付いたらしい尾形が零したその声に、鯉登さんと、何故か門倉さんも頭を寄せて手元を覗き込んで来た。言わずもがな、尾形も同様だ。早く開けという圧を感じながら花束を抱えたままカードを開くと、そこには簡潔は一言が書かれていた。
『必勝』の筆文字は、凡そ美しい花束には相応しくない。
けれども、そこに書き添えてある名前を見て、全員が納得した。並んでいたのは牛山と家永、二人の名だった。
「牛山先生の耳にも届いたんだなぁ」と、興味深げに門倉さんが呟いた後「『必勝』って」と、尾形が零したのを切欠に、笑い出したのは誰が最初だっただろうか。
「な?言ったろ?みんなお前らの事、応援してんだよ。」
ケラケラと笑いながら、門倉さんはそう言った。その言葉は、嘘ではないのだと、真実なのだと、そう思えた。
***
午後には兄が訪ねて来るというその日、菊田さんは、約束の時間より早い時間に店を訪ねてくれた。
「仕事、大丈夫なんですか?」
忙しいことは解っている。だからと訊ねた言葉に、菊田さんは「鯉登が緊張してるんじゃないかと思ってな」と笑ってから「その様子じゃ、大丈夫そうだな」と言ってくれた。
実を言えば、緊張は図星で、少しも大丈夫ではなかったのだけれど、菊田さんにそう言われて、ほんの少し、気が楽になった。菊田さんに『大丈夫』だと見えているなら、きっと、大丈夫だと、そう思えた。
兄が現れたのは、聞いていた予定通り、十五時過ぎだった。
「ご無沙汰しております」
「こちらこそ!お久しぶりです」
菊田さんを見るなり笑顔を見せた兄は、数年ぶりに顔を合わせた菊田さんと和やかに話し始めた。
カウンターの月島に何か気付いた様子もなく、菊田さんと話を続ける兄の会話の大半は、仕事に関することと、私に関することばかりだった。兄が、菊田さんに礼を言いながら、何度となく、必要以上に私を褒めるモノだから、あまり居心地のいいものでは無かったが、菊田さんは私のことも気遣いながら、終始にこやかに話を続けてくれた。
菊田さんには、本当に、このまま此処に残っていて欲しいくらいだったが、願い虚しく、後の仕事があるから、と、菊田さんは十六時過ぎには席を立った。
「名残惜しいです。これからも弟をよろしくお願いします」
頭を下げる兄に、菊田さんは恐縮しながら「何れ、また」と店を出て行った。
去り際、私にウインクを投げて寄越してくれたのは、月島にもしっかり見えていて、月島は見たことも無いほどのしかめっ面を見せていたが、お蔭で、兄に対する緊張はほんの少し解れた。ように、見えた。
菊田さんが店を出てしまえば、丁度他の客も途切れて、店の中には私と、兄と、月島の三人だけになった。
話をするのなら、今しかないのだろう。
「兄さぁ、実は…」
「マンションには、もう住んじょらんのか?」
思い切って口を開いた途端、話の出鼻を挫くように、兄は静かにそう問うてきた。
「っ…どうして、…」
「さっき、マンションの人に聞いたんじゃ。引越したんか?」
ごく当たり前の世間話のように、兄はそう訊ねてきたが、背中には嫌な汗が流れた。
「マンション、行たんか?」
「たまがらせようち思うたんじゃ」
何を探るというわけでもなく、兄は本当にサプライズを狙っただけなのだろう。昔から、時折そういうことはあった。だから、待ち合わせを確認したのだけれど、意味はなかったということか。
「こっちがたまがっことになったばっな」
にこりと笑ってみせた兄は、怒っているというわけでは無く、純粋に驚いただけのようだった。けれども…
「黙っちょっつもりじゃなくて、ちゃんと、いっきょて話そうち思うちょったで…」
「解っちょい」
途切れ途切れに言い訳がましい物言いをする私にも、兄は笑っているばかりで、どう切り出していいか解らなくなる。話さなければいけないことは沢山あるのに、うまくタイミングを計れない。苛立って、気持ちばかりが焦り始めた頃、兄の方から訊ねられた。「そいで?今は、何処に?」と。
兄は、単純に、引っ越し先を聞いたつもりだったろう。
けれども、其れを答えたら、全部、話すことになる。話さなければいけないことだ。其れを話すと決めた筈だ。
話しても、大丈夫だ。どうなっても、私には月島が居る。
すぅ、と、静かに息を吸って、バクバクと脈打つ心臓をどうにか抑え込みながら、出来る限りゆっくりと口を開いた。
「此処じゃ」
短い一言に、兄は、一拍間をおいて「此処?」と、戸惑った表情を見せた。
「そう。此処じゃ。今は、こん店の、二階に住んじょる」
静かに告げると、月島がカウンターを出て、ゆっくりと此方のテーブルに来た。
「月島…」
テーブルの真横まで来た月島を見上げて名前を呼ぶと、月島は身体の横でギュッと拳を握りしめたまま、こくりと頷いて私の傍らに立ち、兄に向って軽く頭を下げた。
兄は、困惑した表情を浮かべていた。困惑して、私と、私の隣に立つ月島を交互に見比べていた。
「…音、こんしは…」
困惑が色濃く滲んだ声は、少し、震えていたろうか。
「月島基どん。この店ん、マスター。」
答えた私の声も、震えていた。
「あたいん…パートナー…恋人じゃ…」
月島を『恋人』と、初めて、そう呼んだ。
兄は、驚きを隠さなかった。声を上げることは無かったが、その眼を大きく見開くと、信じられないモノを見るような目をして、私の隣に立つ月島を見た。射るような、その視線に、月島は負けなかった。
「月島、基です。初めまして。」
月島がそう名乗り終わるか、終わらないかのタイミングで兄は席を立った。がたん、と、派手な音を立てて椅子を跳ねさせた兄は、そのまま月島に殴りかかるか、或は、店を出ていくかに思われた。そのくらいの、勢いだった。
後から聞いてみれば、月島も同じことを思って身構えていたらしい。けれども、兄は、月島を殴ることも、店を出て行くこともしなかった。何れか、或は両方の可能性に立ち上がりかけた私を止めたのは月島だ。腰を浮かせた私を、月島は目で制して座席に戻らせた。そうして、静かに言葉を続けた。
「音之進さんと、お付き合いをさせて頂いております。」と。
心臓がバクバクと脈を打って耳に煩かった。兄が、拳を握るのが見えて、今度こそ、兄がその拳を振るうのではないかと、気が気でもなかった。だが、兄には、そんな暴力性も、攻撃性もありはしなかった。
「鯉登平之丞ち申します。音が、お世話になっちょりもす。」
立ち上がったまま、兄は、月島を真直ぐに見詰めてそう告げると、深々と頭を下げた。兄は、鯉登平之丞は、そういう男だった。
「お世話なんて、そんな…」
「して貰ってる。」
否定しようとした月島の言葉を遮り、きっぱりそう言い切ると、月島がハッとして此方を振り返った。
「鯉登さん…」
「オイは、月島が居らんと生きられん」
どうにか笑みを作って月島にそう告げると、月島は何か言いかけた口を結んで言葉を呑み込んだ。
「兄さぁ」
正面に向き直って兄を呼ぶと、兄は、見たことの無い顔で私を見ていた。戸惑っているような、怒っているような、色んな感情の綯交ぜになったその表情の奥で、兄が、何を考えているか、少しも解らない。解らないけれど、言わなければいけない。伝えなければいけない。
「理解してくれとは言わん。ただ、オイはずっと月島を探しちょった。月島以外は考えられん。考えたこともなか。」
記憶が蘇ってから、ずっとそうだった。今もそうだ。
「月島と出逢えっせぇ、やっと生きちょっ気がした。」
言葉に嘘はない。私には、月島が全てだった。月島が居なければ、私が、私で居られなかった。そうなのだと、そうだったのだと、月島と過ごすようになって、確信した。
「生きらるっ気がした。じゃっで…」
例え、理解されなくても…
「音」
不意に、言葉を遮った兄の声は、柔らかなモノだった。
「こんしが、音がずっと捜しちょったしなんじゃな?」
棘のない、柔らかなその声に「うん」と、だけ答えると、兄は「そうか」と小さく漏らした。
「間違い、なかんか?」
「オイが月島をまちごっ事なんてなか」
重ねられた問いに、間を置かずに答えると、兄は「そうか」の言葉と共に笑顔をみせた。
諦めなのか、納得なのか、その笑顔の意味が判然とせず、戸惑ったままでいると、兄は「音」と私を呼んで、此方の眼を覗き込んで来た。
「大事に、されちょっか?」
聞こえたのは、いつかも聞かれたその問いだった。
「…うん。大事に、して貰うちょい」
答えると、兄は「そうか。」と繰返し「そんなら、よか。」と言葉を続けると、脱力したように椅子に座り直した。
「そんなら、よかど…」
そう繰り返した兄は、はぁ、と大きく息を吐くと「月島どん」と、低くその名前を呼んだ。
「はい」と、即答した月島の声は固い。
握られたままの拳は、関節が白くなる程に強く握られている。月島の緊張が伝わって、息が止まりそうなる。
「…音を、よろしゅう頼ん。」
柔らかく聞こえたその声に、ふ、と、力が抜けるような気がした。
見れば、兄は椅子に座ったままではあったが、深々と頭を下げていた。月島は兄に頭をあげさせようとしながら「俺の方こそ、」と、慌てて兄に頭を下げていた。
目の前に居る兄も、月島も、ぎこちなくではあるけれど、笑いあっていた。
殴られることも、責められることも覚悟していたのに、そんなことは、少しも無かった。
私の兄は、鯉登平之丞は、そういう人だった。と、今更思い出した。暴力も、争いも好まず、他者の意思を尊重する人だった。それに何より、私を、誰よりも理解しようと努めてくれていたのは、兄だったではないか。そういう、兄だった。そんな兄を、見縊っていたのは私だったか。自分のことで手一杯で、兄という人の本質を忘れてしまうなんて、情けない。
兄はこんなにも、優しい人だったというのに。情けなくて、嬉しくて、気付いたら、勝手に涙を零していた。
「音!?」
「鯉登さん!?」
私の異変に気付いたのは、兄か、月島か、どちらが先だったろうか。
「すまん。なんでんなか。ホッとしたら、勝手に…」
止めようとしても止まりそうにない涙もそのままにそう漏らすと、月島の腕がのびてきた。
兄の目の前でも、月島は構わず私を強く抱き締めた。抱き締められたその肩越しに見た兄は、穏やかに笑っていた。
私を抱き締める月島の腕も、見詰めてくる兄の笑顔も、余りに優しい。優しくて、温かくて、涙腺が壊れてしまったみたいに、涙は後から後から溢れてきた。涙の止め方を忘れてしまった私は、泣きながら、笑っていた。
幸せだ。と、思った。
***
「さっきは、すいませんでした。」
自宅のキッチンで葉物を切りながら、しめじを小分けしている鯉登さんにそう呟くと、鯉登さんは未だほんのりと赤い目許を細めて「なんのことだ」と問い返して来た。
「その…お兄さんの目の前で…」
チラとリビングを見れば、ソファで寛いでいる鯉登さんのお兄さん…平之丞さんの姿が見える。その人が居るというのに、先刻、俺は鯉登さんを思い切り抱き締めてしまった。
平之丞さんが居ることが頭から抜けた訳では無かったのだけれど、目の前で涙を零す鯉登さんをそのままにはしておけなかった。殆ど衝動で身体が勝手に動いてしまって、気付いたら、鯉登さんを抱き締めていた。
平之丞さんの視線に気付いて焦ったり頭を下げたりしたのは、鯉登さんが落ち着いてからだったのだから、平之丞さんは結構な時間、弟が男に抱き締められているところを見せられたことになる。酷い話だ。
「…本当に、すいませんでした。」
反省しきり、なのだが、鯉登さんは怒るどころか、クスクスと笑って「よかよ」と呟いた。
「兄さぁも、笑っちょったじゃろ?」
言われてみれば、その通りではあった。寛容なお兄さんで本当に良かった、と、心から思う。
大事に可愛がっていただろう弟の恋人が、自分と歳の変わらない男で、喫茶店の店主であっても、平之丞さんは殴るどころか何を意見するでもなく、その報告を受け容れてくれた。
今も、時折穏やかに微笑んで此方の様子を見てくれているのだから、その器の大きさに感服するしかない。つまらない事で直ぐ嫉妬する俺のような男とはえらい違いだ。
「本当に、よく、認めて下さったな、と、思います。」
溜息と共にそう呟いたら、鯉登さんは口の端を上げて「そうだな」と零してから「本当に…よかった」と、静かに呟いた。はしゃぐでもなく、ポツリと漏れたひと言には、実感と、安堵が籠っているようで、その言葉の重みを感じざるをえなかった。平之丞さんに会うと解った時、『大丈夫』と繰返していたのは、誰より俺自身が不安だったからだと、今なら解る。鯉登さんを安心させたかったのも本当だが、俺自身、不安で堪らなかったのだ。
結果として、話しは良い方に転んだけれども、上手く行かなかったなら、俺は一体如何するつもりだったのだろう。それこそ、取り返しのつかない事になったのではないか。それを考えるのも今更だが、本当に良かったと、改めて思う。
「月島」
呼ばれた声に顔を上げると、鯉登さんはコンロの方を見遣って「これ、このままでいいのか?」と問いかけてきた。
物思いに耽ってうっかりするところだったが、今は料理の最中だ。気を取り直して、目の前のことに集中しなければ。
鯉登さんが示したコンロの上には、先日引っ張り出して来た土鍋が据えられており、中には昨夜の内に仕込んでおいた出汁が仕込んである。昆布を沈めてゆっくり出汁を取った所へ、酒と醤油であっさりと仕上げた出汁だ。
「もう、沸騰してますか?」
「もう少しだ。」
鯉登さんの答えを聞いて鍋の蓋を取ってみると、ふつふつと小さな泡が立っていた。
「沸騰したら、火を止めて下さい。」
「沸騰してから、だな。」
出汁は一度煮立たせてから火を止め、昆布を引き上げてから肉や魚を入れる。
「入れるのは、肉と魚だけか?」
「はい、一度火を通して、灰汁を取ってから、野菜類を入れます。野菜は、リビングに鍋を移してからにしましょう。」
説明をすると、わかった。と答えた鯉登さんは、切り分けた鶏肉と鱈の切り身を手際よく鍋の中に入れてコンロに火を点けた。煮立つまでの間に、残りの野菜を切っていく。白菜、白葱、彩の人参と春菊、椎茸に、えのき。豆腐も忘れてはいけない。切り分けた順に並べていくと、アッという間に皿の上はいっぱいになった。
「全部入るのか?」
「一度には無理でしょうね」
そんな会話をしている内に煮立った鍋の蓋を開け、浮かんだ灰汁をとり、火の通り具合を確認してから火を止める。
「鍋は、俺が運びますから、鯉登さんは皿を持ってきてください。」
商売に慣れた皮の厚い手で鍋を掴むと、鯉登さんは「キェ」と小さく悲鳴を上げたが「これくらい平気ですよ」と笑って鍋を持ち上げ、リビングのテーブルに据えたカセットコンロの上に移すと、後を追うように、鯉登さんが野菜類で山盛りになった皿を持ってきた。
「手は、平気なのか?」
「この通り」と、心配そうに手元を見る鯉登さんに掌を見せると、鯉登さんは、俺の手がいつも通りなことを確認してホッとする…のではなく「ないごて?」と不思議そうな顔をしていた。
きのこ類と、豆腐、根菜類を先に入れて一度鍋を煮立たせ、頃合いを見て、春菊や、白菜の葉の部分を加えれば、後は葉物に火が通るのを待つだけだ。
「兄さぁ、酒は?呑んでんよかか?」
鍋が煮える間に、鯉登さんがそう問い掛けると、平之丞さんは「少しくれなら」と答えた。
「ないがよか?焼酎も、酒もあっ」
「先ずは、ビールじゃな」
「わかった。グラスとってくっ」
平之丞さんの答えに鯉登さんは直ぐに立ち上がった。
「鯉登さん、俺が用意しますよ」
「大丈夫だ、月島は鍋を見ていてくれ」
言うが早いか、鯉登さんは小走りでキッチンに向かい、早速グラスを物色し始めた。
「安心しもした」
鯉登さんの様子を見ていた俺に聞こえたのは、平之丞さんのその声だった。
「音が、楽しそうで。」
穏やかに笑ってそう告げる平之丞さんに向き直り「楽しそう?でしたか?」と聞き返すと、平之丞さんは、ふはっと大きく笑って「楽しそうやったじゃ」と、そう繰り返した。
「さっき、キッチンで、月島どんと居るときも、わっぜ、楽しそうやった。」
楽しそうだった。繰返し、そう言いながら、平之丞さんは、何処か寂しそうにも見えた。
「音は、ずっと寂しそうやったんじゃ。ないをしちょっても。」
その眼に映っているのは、幼い頃の、俺と出会う前の、鯉登さんの姿だろうか。
「あげん楽しそうにしちょっ音を見ったぁ、子どんの頃以来じゃ」
「そう、ですか…」
何と答えていいか解らず、酷く曖昧な言葉を漏らした俺に、平之丞さんは柔く笑って「月島どんに、出逢えたでなんやろうね」とまで言ってくれた。
俺のお蔭、だというなら、勿体ない話だ。そうだとしたら、こんなに、嬉しいことは無い。愛しい人を、笑顔に出来たというなら、これ以上、喜ばしいことは無いではないか。
「…月島どん」
「はい」
「音を、頼んね」
静かに零された二度目のその言葉は、一度目のそれより遥かに重くて「はい」と答えて、一度、唇を噛み締めた。
「大事に、します。…一生、大事に、させて下さい。」
絞り出すように、そう告げたら、平之丞さんは笑って「それは、音に言うてやってくれ」と俺の背中を叩いた。
ばしん。と、叩かれたその手の強さを、痛みを、忘れてはいけない、と、思った。
「月島ぁ!」
呼ばれた声に顔を上げると、鯉登さんがキッチンカウンターにグラスを大量に並べて困り果てていた。
「グラス、どれがいいかわからん」
「どれでもいいですよ」
答えながら眉尻を下げている鯉登さんを迎えに行き、並べられているグラスの中から適当なものを三つ選んだ。いつもはそんなことで迷う事は無いのに、お兄さんに出すと思ったら迷ったというのだから可愛らしい話だ。
「呆れたか?」
「呆れませんよ」
寧ろ、かわいいと思っています。と、耳元に唇を寄せて囁いたら、鯉登さんは耳まで真っ赤にして「馬鹿」と小さく俺を罵った。本当に、可愛らしい人だ。笑ってしまいそうになるのを耐えて「すいません」と断ってから「グラスは、俺が運びますから、鯉登さんは、冷蔵庫からビールを出して下さい」と告げると、鯉登さんは、ふぅ、とひとつ肩で息をして「わかった」と、これには元気よく答えてくれた。
「月島どん、鍋も煮えたようじゃ」
ビールとグラスを提げてリビングに戻ると、鍋の番をしてくれていた平之丞さんが笑顔で迎えてくれた。
くつくつと音を立てている鍋の蓋を取ると、真白な湯気と一緒にふわりと出汁が薫る。
最後に入れた春菊もしんなりとして、頃合いだろう。
「食べましょうか」
声を掛けると、鯉登さんが「食べよう」と声を上げた。
ビールを開けて、平之丞さんと、鯉登さんと、俺の三人で初めて囲んだ鍋は、今まで食べたどんな鍋より美味く感じた。
***
「ほんのこて、泊っていかんの?」
どうしても帰ると言う兄を駅まで見送る道すがら、駄目押しでそう問い掛けると、兄は困った風に笑って「仕事もあっしな」と答えてから少し間をおいて此方を振り返った。
「それに、二人の邪魔はしよごたなかで」
に。と、口の端を上げてみせる兄に、どんな顔をしていいか解らなくて俯くと、愉快そうに笑う兄の声が聞こえた。揶揄われたのだと気付いて文句の一つも言ってやろうと直ぐに顔を上げたが、そこに待っていたのは、思の他真剣な顔をした兄だった。
「音。」と、呼ばれた声に「うん」と答える。
「おやっどんにも、近い内に、ちゃんと話すど」
兄は、笑っていた。笑ってはいたが、その眼は真剣で、聞こえたその言葉には、直ぐに「うん」と返せなかった。
「本当は、一緒に着て来っちゅったんじゃ」
「!?おやっどが!?」
「たまがっじゃろ?」
遠出も好まず、休みも殆ど家で過ごす父が、兄に着いて来ようとしていたというのは衝撃だった。
「じゃっで、オイと、おっかんで止めた。」
「…どうして」
「…さぁ?ないごてじゃろうな。そげんほうがよか気がして」
苦笑して、兄はそう答えたが、勘が働いたのだろうか。
或は、始めから、なんとなく察していただろうか。
思春期にも、恋人は愚か、友人らしい友人も碌に作らずにいた弟が、どんな相手を選ぶのか。薄々、解っていたのかも知れない。
「この様子じゃ、一緒に来てん、良かったかもしれんがな」
「…兄さぁ」
「おいからは、おやっどんにはないも言わん。」
きっぱりと言い切って、兄は、真直ぐに私を見た。
「わいが元気で、幸せそうやたことは伝えちょく。」
その眼に、ハッキリと私を映していた。
「月島どんのこっは、わいん口から、ちゃんと話せ。」
有無を言わせぬ兄の強い眼に「わかっちょ」と答えると、兄は頬を緩ませ「そんならよか」と笑みを見せた。
「時期を見て、鹿児島にも帰ってやってくれ。二人とも、わいん顔を見たがっちょっでな。」
言い置いて、去っていった兄は、最後まで笑顔だった。
私に甘い兄は、優しい兄のまま、私のなにもかもを許してくれた。許して、くれたのだと、その幸いを噛み締めながら、私はひとり、月島の元へ帰った。
「おかえりなさい」と、私を出迎えてくれた月島は、夜更けだと言うのに真っ暗な商店街の、店の前に立っていた。
「中で待っていれば良かっただろう?」
苦笑してそう零したら、月島は少し俯いて「どうも、落ち着かなくんて…」と言い訳した。
「本当に、帰してしまってよかったんですか?」
「うん?」
「久しぶりだったでしょう?もう少し、兄弟で話したいこともあったんじゃないかと…」
「月島は、私が兄のところへ行ってもよかったか?」
「!?いや、それは、その…」
どもる月島をもう少し揶揄おうかと思ったけれど、それよりも早く温まりたくて「冗談だ」と伝えて月島の手を引いて店の中へ入った。そのまま、階段を上がって家に戻る。
「実家に、顔を出せと言われてしまった」
階段を上りながらそう告げると「行きましょう」の声が背中に届いて「行きたいです」と言葉が重ねられた。
「鹿児島は、遠いぞ?」
「知ってますよ」
「日帰りは無理だぞ?」
「それも解ってます」
それでも、行きたいです。と、重ねて言う月島を振返ると、月島は笑っていた。その笑顔に、ホッとする。
「…うちの実家もだが、月島の実家にもいかないとな」
ポツリと零したら、月島は少し考える仕草をして「それは、温かくなってからですね」と呟いた。
「どうしてだ?寒い時季はいけないのか?」
「冬は、船が出ない事もあるんです」
「そうなのか!?」
厳しい土地だとは聞いていたが、其処までとは思っていなかった。「そうですよ」と事も無げに月島は言うが、現代でも、未だそんな状況の土地がある事に心底驚いた。
「本当に、厳しい土地なのだな」
「元は流刑地ですし」
言われてみれば、其れはそうかもしれないが。
「…でも、月島が育った島が見たい。」
どうしても。と、言葉を重ねたら、月島は「なにもありませんよ」と言いながら、何処か嬉しそうだった。
「鯉登さん」
階段を上がりきった所で呼ばれた声に振返ると、月島は思いの外真剣な顔をして此方を見ていた。
「あなたが居ないと生きられないのは、俺も同じです」
聞こえたその声に、先刻、自分が口にした言葉が蘇る。月島と出逢えて、やっと生きている気がしたのだと、月島が居るから生きられるのだと、勢いのまま、随分思い切った告白をしてしまったように思うが、どうやら、月島はそれをキチンと覚えていたらしい。
「同じですから」と、繰り返された言葉に「そうか」と笑って答えてみたけれど、夕方に壊れた涙腺は、壊れたままだったのか、また勝手に涙が零れ落ちた。
「…それは、嬉しいな…。」
震えたその声は、伸びてきた月島の腕に抱き留められた。強くて、優しい、その腕に、ずっと抱かれていたい、と、思った。
***
定休日だと言うのに、いつも通りの時間に目が覚めてしまうのは性分だからしようがない。そう思いながら、隣で眠る鯉登さんの顔を盗み見ると、昨日泣き過ぎた鯉登さんの目許は少しだけ腫れが残ってしまったようだった。
今からでも、冷やせば少しは違うだろうか。そう思い立ってそっとベッドを抜け出し、洗面台でタオルと濡らしていると、ふと、階下に人の気配がした。
どうやら、店の前が騒がしい。気がする。
定休日は解っている筈だが、商店街で何かあったろうか。気になりながら、先ずは濡らしたタオルを固く絞って、眠っている鯉登さんの眠るベッドに戻った。赤の他人の騒ぎより、恋人が優先だ。起こさないようにソッと目許にタオルを置くと、鯉登さんは静かな寝息を乱すことは無かった。
ホッと息を吐いて、瞼の腫れが引くことを祈りながら店へ降りてみる。すると、店のドアの前に、何人か人が居るのが見て解った。
灯りもつけないまま、様子を伺いにドアの方へ近付いてみると、そこに居たのはいつもの面々だと気付いた。尾形と宇佐美、それに門倉さんだ。何事かと思ってドアを開けると、三人は一斉に店の中になだれ込んで来た。
休みの早朝から何事ですかと聞く間もない。
「上手く行ったか!?」
「殴られなかったか!?」
「鯉登くん、お兄さんに連れ去られたりしてないよね!?」
三人が其々勝手に話すものだから、誰が何を聞いて来て、誰にどう返していいかも解らない。確かなのは、尾形も、宇佐美も、門倉さんも、其々が、其々なりに俺たちのことを心配してくれていたらしいということだ。
どう答えていいか散々迷って、どうにか指でOKのサインを作ってみせると、三人は一瞬動きを止めて、それから一斉に「よかった!」と声を上げた。
「あぁ、やれやれ、やっと落ち着いた」
「ねぇ、本当に鍋にしたの?問題なかった?本当に?」
「あぁ疲れた。マスター、ミックスジュース作ってくれ」
定休日だというのに押し掛けて来て勝手な事を言う三人に苦笑いしていると、余りに賑やかだったからだろう、目を覚ましてしまったらしい鯉登さんが二階から降りてきた。
鯉登さんの姿を見るなり、三人は口々に「良かったな」と笑顔をみせたが、その目許に気付くと、尾形などはあからさまに俺を白い目で見てきたが、誤解だというのも面倒で、そのままにしておいた。
その日、本来は『喫茶ツキシマ』は定休日の筈だったのだが、どういう訳だか、見知った顔が次々店に来て、結局、店を開けることにした。
予告も無く、定休日に開けていても、見知った顔も、珍しい客も、入れ替わり立ち代わり訪ねて来るのだから、今更休みだとは言えなくなったのだ。
土方さんと永倉さん、それに牛山と家永は連れ立って顔を出し、当然のように、昨日の結果報告を求められた。一番はしゃいだのは家永で、一番しんみりして孫でも取られたように言って俺に説教をしたのは永倉さんだ。
夏太郎は亀蔵と揃って飾った花を見に来て、ついでだからと珈琲を呑んで行った。食器屋の野間さんと三島さんは、偶々近くまで配達に来ていたのだと言って顔を出し、初めての鯉登さんとの対面に、妙に緊張して馬鹿丁寧な挨拶をしていた。昼過ぎに顔を見せたのは菊田さんで、忙しい筈なのに、どうしても気になって。と、有古さんと一緒に様子を見に来てくれた。菊田さんの訪問を喜ぶ鯉登さんに、また嫉妬心が沸きそうになったけれど、アレは父性に近いモノだと言い聞かせてどうにか堪えた。夕方にはエノノカまでが顔を見せ、いつになく賑やかな一日になった。
やっと客足が途切れて店を閉められたのは日が傾きかけた頃になってからのことだ。休みの筈が、いつも以上の忙しさで休む時間は少しも無かった。疲れは残ったが、不思議と、その疲れを心地よく感じることが出来たのは、昨日のことがあったからだろう。それに、今日一日、店を訪ねてくれた誰もが、皆、温かかったからだ。
「月島」
夕暮れの、静かな店の中で呼ばれた声に顔を上げると鯉登さんが、にこりと笑ってみせた。
「この町に来て、よかった。」
聞こえたのは、そんな言葉だ。
「お前がいるのが、この町でよかった。」
しみじみと零されたその言葉に「俺も、そう思います」と答えると、静かな店の中にぐぅと腹の鳴る音がした。折角のムードが台無しだ。が、忙しさでゆっくり食事をとる暇もなかったのだから、腹が減るのはしょうがない。
「腹、減りましたね。」と苦く笑うと、鯉登さんは「そうだな」と言って笑ってくれた。
「何か、作りますか?」
「谷垣の店に行かないか?インカラマッにも、兄のことを報告したい」
少し頬を赤くしてそう言う鯉登さんには勿論「いいですね」と答えた。
店を片付けて、谷垣の店を覗きに行くと、鯉登さんの姿を見付けたインカラマッが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「鯉登ニシパ!上手く行きましたか!?」
その口振りで、インカラマッも、何処かで俺達の昨日の話を聞いていたのだろうと解ったが、嫌な気持ちにはならなかったのは、インカラマッが冷やかしでもなんでもなく、本心で鯉登さんを気遣ってくれているのだと、その表情を見れば明らかだったからだ。
気遣わし気に鯉登さんの顔を見詰めるインカラマッに、鯉登さんが気恥ずかしそうに笑んで「あぁ、うまくいった」と答えると、インカラマッは途端に「よかった!」と満面の笑みを見せた。泣き出しそうなくらいの、心からの笑みだったが、その後ろでは話を聞いていたのだろう谷垣がインカラマッより先に、ひとりで勝手に泣きだしていた。インカラマッはそれに慣れているのか、然して気にする様子も無くニコニコと笑って鯉登さんの手を取ると、いそいそと奥の席に案内して「お祝いしましょう!今日は、谷垣ニシパのおごりです!」と声を弾ませていた。
インカラマッと谷垣と一緒に、微笑んでいる鯉登さんを見詰めながら、思う。
良かった。と言っても、お兄さんとの挨拶が上手く行ったというそれだけだ。それだけのことだ。
親御さんへの挨拶は済んでも居ないし、それが出来たところで、俺と鯉登さんは、世間一般の『夫婦』のようになれるわけでは無い。それでも、ただ、俺達が一緒に居る。一緒に居られる。其れを認められたという、それだけの事を、案じて、喜んでくれる人の多さに驚かされた。
同じ商店街に居る、赤の他人の、そんなことを、こんなにも心配して、上手く行ったことを身内のように喜んでくれる人がいる。それも、ひとりではなく、たくさん。
そういう人達に、囲まれて生きているのだと、生かされているのだと、今日という日に思い知った。
こんな、幸せな事があるだろうか。と。
「明日、臨時休業にしてもいいですかね」
呑んでいる最中、ポツリとそう零したら、鯉登さんは間髪入れずにきっぱり「駄目だ」と言い切った。
「みんな、待っていてくれるだろう?」そう言われてしまえば其れまでだ。
「ですね」と答えたら、鯉登さんは笑って、でも少し早く閉めよう。と言ってくれた。街の人達も大事だけれど、二人の時間も大事だからな。と、小さく零された一言に、煽った酒は甘く感じた。
明日も、明後日も、その先も。この町で生きていくのだ。
俺たちは。ふたりで。
いいや、この町の人達と、一緒に。