花に酔う 「あの鉢は、如何されました?」
行燈の薄明りの下、月島がふと問い掛けて来たその問いに鯉登は暫し口を噤んだ。というのも、月島の問うのが何であるか、直ぐには合点がいかなかったのだ。情事の後の気怠さもあってか、思考が儘ならなかったというのは言い訳になるだろうか。
「鉢とぞあったか?」と朧に問い返しさえした鯉登に、月島は呆れたような、驚いたような。何とも言えぬ顔をして「鬼灯ですよ」と溜息交じりに呟いた。言われて漸う鯉登は気が付いた。
明後日の方を向いたまま「あぁ」と短く声を漏らした鯉登は「使用人が貰って来たのだ」と呟き、ごろりと寝返りを打った。
伏せていた身体が翻ると、汗の浮いた裸の胸が顕わになる。軍服を着こんでしまえば誰の目にも触れることは無いが、曝された若い肌には情事の跡が幾つも見えた。
月島はチラとそれを眼に映して、それからゆっくり視線を逸らすと「そうですか」と静かに零した。
月島が私的に鯉登の私邸を訪ねるのは騒動以来久方ぶりのことであった。暫し職務を離れていた鯉登と共に溜まった仕事を片付けるのに苦心して、漸く得た余暇である。
『予定はあるか?』と鯉登に誘われたのは夕刻であった。いいえ。と答え、日の暮れた後に鯉登邸を訪れた月島を玄関で出迎えたのが朱色の実を膨らませた鬼灯の鉢である。
浮足立ったところに冷水を掛けられたような心地であった。
先日の騒動の記憶も未だ新しく、鬼灯を見れば苦々しい記憶がありありと蘇って来る。月島にしてみれば、己の欲深さが思い出され、同時に、あってはならぬ執着を思い知らされるようにも感じたのだ。鯉登にしても件の騒動は良い記憶では無いだろうに。何故斯様なモノを玄関になど…
「花言葉を知っているか?」
思い巡らす月島の耳に、不意に届いたのはそんな問いかけであった。声に振り返れば鯉登は仰向けに寝転がったまま、天井を見ていた視線を月島に移し「鬼灯の花言葉を知っているか?」と重ねて問うた。
「…いいえ。」と端的にそう答えると、鯉登はふと笑みを見せて「そうだろうな」と零し「私も知らなかった」と続けた。
花言葉になど興味は無い。元来、男としたものは大半がそうであろう。斯様なモノに一喜一憂するは女の領分だ。男の…ましてや己のような男には何の所縁が在るものか。だが、鯉登であれば、或はそうしたものも似合うのか知れない。
「…どんな花言葉なんです?」
問い返したのは単純な興味であった。鯉登が知り得たといい、知っているかと問うてきたその答えがなんであるか。知ったところで如何という事は無いだろう。閨の戯言の類か知れぬ。
「…知りたいか?」と問う鯉登に「えぇ」と答えた月島に、聞こえた答えは一言であった。
「…私を殺して…」と。
薄らと笑みをして。月島を見上げてそう答えた鯉登に、刹那、月島は息を呑んだが、鯉登は黙ったままの月島を見据えてゆっくりと瞬きをすると「…だそうだ。」と続けて「物騒な話だと思わんか。」と小さく笑った。
「えぇ、全く。」と月島はそう答えたが、少しも笑えはしなかった。背筋の寒くなるような気さえする。その居心地の悪さに月島は鯉登から目を逸らし、布団の脇に用意されていた浴衣を羽織ろうと手を伸ばした。その背に「月島」と声が掛かる。
「なんです?」と振返らずに問い返すと、向けた背中を鯉登の声が柔らかに撫ぜた。
「お前は、私を殺してくれるか?」と。
驚き振り返る月島に、鯉登は尚も問い掛ける。
「殺してくれ。と、請えば。お前は私を殺してくれるか?」
「…何を、馬鹿な…」
震え掛かる声を抑えて呟けば、鯉登はくすくすと笑って「もしもの話だ」と愉快気に肩を揺らした。
「もしもこの先、私が鶴見中尉殿を裏切るような事があれば、お前はその時、私を殺してくれるか?」
笑みさえ浮かべて問う子供の、何と恐ろしい事か―
「…お前なら、殺してくれるだろう?」
そうに違いあるまいと。自信たっぷりに子供は笑う。
「尤も、私が鶴見中尉殿を裏切る事などないがな。」
うふふ。と笑ってみせる子供は余りに無邪気で、無防備で、月島は泣きたいような、叫び出したいような衝動に襲われた。
けれども泣きも叫びも出来ず、唯々拳を強く握って「馬鹿を言わんで下さい。」とそう絞り出すのがやっとであった。
えぇ。えぇ。殺しましょう。お望みのその通り。私が殺して差し上げましょう。もしものその時が来たならば。貴方の命を奪うのは。私以外に居りません。他の誰に譲れましょう。けれどもどうか。どうか叶うなら。もしものその日が来ませんように。貴方をこの手にかける日が。どうかどうか来ませんように。
祈りと焦燥を呑み込んで、呆れを装って溜息をひとつ。其処に怒気が孕むのは何故か―幼い子供は気付く気配も無い。
月島は苛立ちを誤魔化すように鯉登に圧し掛かると、何の了解も取らずにその首元に顔を埋めた。
「っ…おい、…」
「もう十分ですか?」
抗議のように上がった声に耳元でぼそりと呟くと、鯉登の肩がひくりと跳ねた。
「…好きにしろ…」
大人みたように嘯く鯉登に、月島はきつく目を閉じ「好きにします」と低く零して期待に淡く色付き始めた耳元をべろりと舐め上げた。「月島、つきしま…」と繰返し、己の名を呼ぶ鯉登を掻き抱いて、月島はひとり祈った。どうか、どうか。この子を殺さずに済むように。と。独りきりで、唯、祈った。