Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    fujimura_k

    @fujimura_k

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 11

    fujimura_k

    ☆quiet follow

    2023年12月発行『喫茶ツキシマ・総集編』(文字数制限につき1~3部分まで)
    月鯉転生現パロ。記憶なしで転生し、喫茶店マスターの月島と記憶ありで転生し、作家の鯉登の物語。現在1~3+番外編を含む総集編と、続編の4発行済み。6月に続きが出ます。

    #月鯉
    Tsukishima/Koito
    #やぶこい

    喫茶ツキシマ 総集編(1~3)まだ
    間に合うでしょうか

    私は

    また
    生きていけるでしょうか

    あなたと

    共に


    ***

    『佐渡へ、帰ろうと思うんだ。』
     俺を呼び出した親父が最初に告げたのはその一言だった。
    『いい加減歳だし、田舎の爺さんと婆さんの墓も親戚にまかせっぱなしだからな。そろそろ、ちゃんとしてやらなきゃと思ってな。』
     続いた親父の言葉は尤もに思えた。そうなれば、長年、商店街の片隅で細々と営業を続けてきた喫茶店は畳むことになるだろう。それを寂しく思ったが、止めることはしなかった。そして俺は、その後その事を少しだけ後悔した。店を畳むと決めた両親が『常連さんに申し訳ないから、お前が店を継いでくれないか?』と言い出したからだ。今から十年程前の事だ。
     当時、建築会社で営業職に就いていた俺は、寝耳に水のその話をまるきり冗談だと思っていた。
     冗談だと思っていたから『好きにしろよ』と答えてしまったら、本当に店を継ぐことになってしまった。
     あれよという間に田舎へ引き上げる段取りと、店を引継ぐ俺への指導を始めた両親は半年も待たずに俺を残して佐渡の田舎へ帰って行った。
    『米や野菜は送ってやるからな』の言葉は確かに今も守られているが、墓守をしてのんびり暮らすと言っていた筈の両親は、結局、佐渡の田舎町で喫茶店をしているのだから解せない。全く解せない。
     だからと言って引継いだ店を放り出す訳にもいかず、律儀にも両親から引き継いだ店を守るしかないのだと腹をくくった。そうして、十年だ。気付けば喫茶店のマスターも板についてきた。ように思う。

     『喫茶ツキシマ』は田舎の島暮らしにうんざりした(と昔は言っていた)両親が、俺が小学生の頃に島から出て構えた小さな喫茶店だ。今時のカフェとは似ても似つかない、昭和の香り漂う純喫茶というやつだ。
     繁華街からは少し離れた、郊外の小さな町の少しばかり寂れた商店街の中に在る。カウンターが4席。4人掛けのボックス席が2つと、店の奥には二人掛けの席がひとつある。
     店の看板メニューは特大のアイスクリームを乗せたクリームソーダと、厚焼き玉子の玉子サンド。鉄板で出すナポリタンも人気メニューの一つで、近頃はそれらを目当てに休日に遠方から訪ねて来てはやたらと写真を撮って帰る一見客の姿がちらほら見られるようになった。
     一度、何かの雑誌に紹介されたこともあるのだが、何せそうした事に興味が無いので、何の雑誌だかも覚えていない。
     その話をすると常連さんたちは決まって口を揃えて『勿体ない』と言ったが、その後には必ず『まぁ、この店は今のままがいいんだけど』と笑う所までみんな同じ反応を見せるのだから面白い。いや、ありがたい話だ。
     そんな風に言ってくれる常連さんたちというのは、大半はこの町に住む人たちだ。商店街で商売をしている仲間や、勤め人から主婦まで。見知った顔ばかり。うちの店は、その常連さんたちでもっているようなものだ。
     小さなこの町で、二十年以上両親が続けて来た店だけあって、元から馴染み客というものが居たのだが、俺の代になれば、そうした人たちは続けては来てくれないだろうと思っていた。そうした人たちは皆、両親と他愛ない世間話をすることも店を訪れる楽しみの一つにしているようだったからだ。
    喫茶店とはそういう場所だ。赤の他人と、なんてことない話をして息抜きをする、日常と非日常の間にあるような、そんな場所だ。勿論、上等な珈琲や、静謐な雰囲気を売りにする店もある。けれどもうちの店は『喫茶ツキシマ』は田舎町の商店街に在る、雑多な店なのだ。何か売りがあるとするならば、気取ったところが一切ないのが唯一の売りだろう。
    話したければ話せばいいし、静かに過ごしたければ珈琲を飲んで帰ればいい。ボックス席でうとうととうたた寝をしている人が居ることもある。けれども他の客の誰も、其れを気にするような事が無い。
    それが、うちの店の良さだと言える。俺は、そう思っている。恐らくは、常連さんたちの大半も、そう思ってくれているのではないだろうか。
     両親と違って愛想よく客と話をするのが然程得意でない俺では店を継ぐことに不安もあった。俺だけでなく、常連さんたちも不安だったろうと今なら思う。馴染の店の雰囲気が変わってしまうのではないかと、きっと気を揉んだ筈だ。強く意識したわけではないが、店を引継ぐ時、出来る限り、両親から引き継いだそのままにしようとは努めた。自分も、子供の頃から親しんだ店だ。思い入れが無いわけがない。無理でも、難しくても、どうにか、昔の儘の『喫茶ツキシマ』を保ちたい。そう思ったからか、喫茶店育ちに加えて営業職で培ったバイタリティーで店はどうにかなっている。と、思う。
     俺の努力というよりは、大らかな常連さんたちに助けられてどうにかなっている。という方が正しいのかもしれないが。
     常連の一人である門倉さんは商店街で酒屋を経営しているが、ほぼ毎日店に来る。多い日は日に三度店に顔を出すこともあるくらいだ。そうした時は大抵、店番に痺れをきらしたキラウシが迎えに来て門倉さんを引き摺って帰るのだけれど、二人で揃ってランチを食べに来ることもある。
     朝一に無駄に元気よくモーニングを食べに来るのは、商店街の中程に在る個人経営のパチンコ屋の店員だという白石という男だ。大抵は呑気に珈琲を飲んでいるが、時々、パチンコ屋の常連だというヤクザと見紛う派手な風体の夫婦に絡まれては慌てて店を飛び出したりしている。
     整骨院をしている家永さんは月に数度顔を見せにくるが、決まって町外れで道場経営をしている牛山さんの話をして、帰りには牛山さんに差入をするのだと言ってサンドイッチをテイクアウトして帰る。牛山さんと連れ立ってきて一緒にパフェを食べていたりすることもあって、商店街の連中は二人がいつ籍を入れるのかとやきもきしているらしい。
     牛山さんとも交流の深いという土方さんという紳士は、永倉さんという爺さんと連れ立ち、決まって週に一度店に来る。
    ボックス席で長話をして帰って行くのだが、爺さんたちが居る間、入れ替わり立ち代わり、年寄りから若者まで色んな人が爺さんたちが居るのを見付けては店に立ち寄っていくのが面白い。だから爺さん達が来た日の店はとても賑やかだ。二人とも、余程町の人たちに慕われているのだろう。
     近所で呑み屋をやっている谷垣は、よく奥さんや子供を連れてランチに来たりするが、昼過ぎに奥さんに内緒だと言ってひとりでこっそりチョコレートパフェを食べにくることがある。もちろん、奥さんにはとうにばれているし、谷垣が帰った後に店を訪ねて来る奥さんには『私が居ると遠慮しちゃうみたいだから、また来たら、お腹いっぱい食べさせてあげてくださいね。』などと言われている始末で、お幸せそうで何よりだ。
     昼過ぎから夕方くらいにふらりと現れるのは尾形という男だ。小一年ほど前にこの近所に越してきたと言って、以来ほぼ毎日店に来るようになった。妙に人馴れしていて軽口を叩くこともあるが、大抵はいつ来ても退屈そうにカウンターの端に座って、ぼうっと商店街を眺めながら数時間を過ごして帰って行く。一体何で飯を喰っているのだかは知らないが、妙な男だ。
     こうしてみると常連客の平均年齢が随分高い事になりそうだが、何処の商店街も喫茶店もそんなものかも知れない。
     少し草臥れかけた街の雰囲気と同じように、緩やかに、店も客も順に歳を重ねて、段々と色褪せていく。
     長い夕暮れにずっと留まっているような、そんな雰囲気だ。
    この町も、この店も、俺自身も。
    このまま、静かにゆっくりと、夜が訪れるのを待つのだろう。
    そんな風に思っていた。

     そんな中、その人はある日突然現れた。
     眩しい程の鮮やかな色彩で、俺の目に飛び込んで来たのだ。
     梅雨が上がったばかりの、夏の走りの暑い日だった。
    昼過ぎに、丁度客の切れた時間帯に店のドアを開けたその人は、狭い店内をぐるりと見渡すと、奥の二人掛けの席に腰を下ろした。
    『おすすめは、なんですか?』
     お冷を差出した俺にそう聞いてきたその人に、俺は少し考えてから何故だか『クリームソーダですかね?』と答えた。
     その日があまりに暑かったから。というだけではない。
    『喫茶ツキシマ』のクリームソーダは、親の代からの名物メニューのひとつでもあるからだ。
    けれども、だとしても、何処から如何見ても立派な成人男性であるその人に、それを勧めるのは如何なのか。
    言った傍からそう思ったが、その人は少し驚いて、それからにこりと笑って『じゃぁ、お勧めのクリームソーダをください。』と言ってくれた。
     翡翠色のメロンソーダの上にまん丸に形作ったアイスクリーム。真っ赤なチェリーをひとつ飾ったクリームソーダをその人はキレイに平らげて『ごちそうさま』と帰って行った。
     空になったグラスを片付けながら、気持ちいいお客さんだったな。と思った事を覚えている。
     また来てくれたら良いけれど、きっと一見さんだろう。と、そんな事を思った。なにせその人くらいキレイな人を、この辺りではあまり見たことが無かったからだ。
    そうだ。キレイな人だ。と思ったのだ。
    見た目でも声でも、男性だとは解っていたのに、だ。
     その人が何か目立ったことをしたわけでもない、けれども、不思議と目で追ってしまうような、そういう人だった。
     モデルか役者の玉子とか。そんな類の人かもしれないな。とぼんやり思っている内に「月島!きてやったぞ!」と賑やかに店の扉を開いたのは近所に住むエノノカだった。
     旅行代理店をしている両親と祖父母と一緒によく店にくる子供だが、高校に上がると仲良くなったというアシリパさんという女の子と一緒に店に来るようになった。幼馴染のチカパシ君と一緒に来ることもあるが、年頃になれば女の子どうしの方がいいようだ。
     注文されたパフェをテーブルに持って行くと、珍しくエノノカが俺の顔をじっと見て「マスター、何かいいことでもあった?」と確かそんな事を言っていた。
    特に何もない。いつも通りだと答えたが、エノノカはその答えに少しも納得しなかった。絶対何かあった筈だと、随分しつこかった。
     結局その日、エノノカはエノノカの親父さんに頼まれたと言う杉元(国道沿いのガソリンスタンドの店員をしている)が迎えに来るまで、折に触れてはあれやこれやと此方を探ってきたのだが、その時の俺は、嘘偽りなく、本当に『いつも通り』だと思っていた。
     その日、特別な事が起こったとは、少しも思っていなかった。

     特別だったかもしれない。と、思うようになったのは、ここ最近になってからのことだ。我ながら、気付くのが随分と遅い。遅すぎる。とは、思う。
     特別かも知れなかったその日の昼下がりに突然現れたキレイな人は、其れから暫くして再び店を訪ねて来た。
     驚いた。また来てくれるとは、微塵も思っていなかった。白昼夢でも見ているか。と、そんな事を思ったくらいだ。
     いらっしゃいませ。の言葉にぺこりと頭を下げたその人は、最初の時と同じように、一人きりでふらりと現れ、奥の二人掛けの席に座って、同じようにクリームソーダを頼んだ。
     暫く窓の外を見てぼんやりと時間を過ごし、そうしてそのまま帰って行った。帰り際『ごちそうさま』と言ってくれた笑顔に、やっぱりキレイな人だな。と、思ったりした。
     三度目の訪問は未だ午前の内だった。前の二度と変わらず、何の迷いもなく二人掛けに座ったその人は、今度は、クリームソーダではなく、アイスカフェオレを頼み、ランチ営業が始まるまでの時間、静かに本を読んでいた。
     うちの店を気に入ってくれたのかも知れない。
     そんな風に思う内、その人が店に来る頻度が月に一度から、週に一度になり、気付けば、顔を見ない日の方が少ないくらいになっていた。もう、常連だと言っていいだろう。ただ、常連と言っても他の連中とは違って、その人は、店の誰とも、店主である俺とも会話をする訳でもなく、いつもの二人掛けの席で、一人静かに時間を過ごしている。
    だから誰も、その人の名前を知らないままだ。
     門倉さんの所のキラウシに言わせると、月島さんとこには似合わない美人。だそうだ。男に『美人』はねぇだろう。とは門倉さんの言葉だが、キラウシはそれでも美人は美人だろう。と譲らなかった。うちに似合わないという余計な一言が気になるが、確かに『美人』と言われても納得のいくキレイなその人は、決まって奥の二人掛けの席に座る。気付けばそこが、その人の定位置になっていた。
     人を連れて来るようなことは無く、その人が店に来るときは決まって一人だ。午前中から、午後遅くまで居る時もあれば、午後に来て夕方まで過ごすこともあるし、朝に一度カフェオレを飲みに来てから、夕方再びふらりと現れることもある。
     持参した本を黙々と読んでいることもあれば、PCを持ち込んで延々と何かを打ち込んでいることもある。
     長い時間店に居る時は、凡そ二時間置きに何かしらの注文をしてくれるのは店としてはありがたい話だが、暇な店なのだから、そんな事は気にしなくてもいいのに。とも思う。
    本人に伝えたことは無いのだが、その人が窓際の奥の席に居てくれれば、それだけでフラフラと店に入ってきてしまったのだろう一見客というのも少なくないのだ。今では店員でもなんでもない、客であるその人目当てらしい客が一定数いるのだから、それだけで十分過ぎる。寧ろ此方がお礼をしなければいけないくらいだ。
    とは言え、そんな事をお客様に伝えるわけにもいかず。せめてと時折サービスだと言って熱心にPCに向き合っているその人にデザートを届けたりするようになった。
    その人が頼むのは、カフェオレやココアにクリームソーダ。ランチを食べて行くこともあるが、其れよりはホットケーキやプリンなどデザートの類を頼むことが多い。あまり珈琲は得意では無いのか、ブラックで飲むのは見たことが無い。カフェオレにも砂糖やシロップを使っている。
    甘いモノが好きなのだろう。と、勝手に判断して、気を遣わせ過ぎないように小皿にアイスを乗せてみたり。貰いもののクッキーをカフェオレに添えてみたり。
    そうすると、その人は決まって少し驚いて、躊躇いながらも『すいません』と口にする。そうして『ありがとうございます』と嬉しそうに出したものを食べてくれる。
    その人と会話をするのはその時くらいだ。それ以上の会話は無い。その人が何処から来て、何をしている人なのかは少しも知らない。大半の客がそうであるように、その人も、その中のひとりに過ぎないのだ。
    ただ、一見さんとは違って、この頃では、ほんの少し店に馴染んでくれている。それだけの事だ。
    そんな風に思っていた。
    その筈だった。

    ***

    その日の午後、いつもその人が座るその席には、その人ではない、この辺りでは見ない顔の男が座っていた。

    髪を後ろに撫でつけ、口髭を蓄えた紳士は、しんと冷えた眼をしていた。初めて見る顔だった。
    その紳士は一人で店に入って来ると、チラと時計を見遣ってから奥の二人掛けの席に真直ぐに進んでいった。
    壁を背にするか、入口に背を向けるか。紳士は少し考えるような仕草をして暫く席の横に立ったままでいたが、やがてゆっくりと入口に背を向けて腰を下ろした。
    紳士が落ち着くのを見計らってお冷をテーブルに置き、注文を伺うと、紳士は落ち着いた声で「もう直ぐ、連れが来ますので。」と答えた。
    うちのような店で待ち合わせなど珍しい。
    店のドアが開いたのは、そう思った矢先だった。
    店の入り口を振り返ると、奥の席を見詰めるその人の姿が在った。タイミングが悪い事も或るものだ。と、いつもの席が埋まってしまっていることを詫びようかと思ったが、その必要は無いのだとすぐに解った。
    「もう、御着きでしたか。」
    その人は、先程の紳士の背中を見付けると、小さく息を吐いて静かにそう呟いた。
    「久しぶりだね。元気にしていたかい?」
    声に振り返った紳士は穏やかな声でそう問いかけていたけれど、紳士の向かい側の席に腰を下ろしたその人は、随分と堅い表情をしていた。
    珈琲を二つ。と頼んだのは紳士の方だ。
    貴方の目の前に居る貴方の知り合いらしいその人は、珈琲はあまり得意ではない筈ですが。等と思いながらも、向かい側に座るその人が何も言わないものだから、注文をそのまま受けるしかない。
    釈然としないままカウンターに戻り、サイフォンで珈琲を淹れて二人のテーブルに運ぶ。カップの脇に添えたクッキーは、珈琲が苦手な筈のその人へのせめてもの気遣いのつもりだった。
     二人がどういう関係で、一体何を話しているのか。客の詮索などするものではないと思いながら、どうしても、気になってしまう。
     けれども、聞き耳を立てているわけにもいかず、店を開けているからには入れ代わり立ち代わりお客様が店を訪れる。
    こんな時に限って、常連さんたちが次々と切れ目なく来てはカウンターを賑わせて行くモノだから、奥の席の様子が気になるのに、少しも様子を覗うことさえ出来なかった。
     やっと紳士が席を立つ頃には、夕暮れに差し掛かっていた。
     随分長い時間、静かに話を続けていたようだったが、一体何をそんなに話し込んでいたというのだろう。
     気になって耳をそばだてていると、聞こえてきたのは紳士の声だった。
    「コイト」と呼ばれ、紳士の向かい側に座るその人が顔を上げた。
    物言いたげなその人が、けれども何も言わずにいると、紳士がテーブルに置かれていたその人の手に自分の手をそっと重ねた。
    「…待っているよ。」
    手を重ねたまま、そう告げた紳士はゆっくりと手を離すと伝票を手に取って此方を振り返った。
    「ごちそうさま。」と伝票より随分多い額を置いて紳士はにこやかに笑って帰っていったが、胡散臭いその紳士より、俺は残されたその人の事が気になって仕方なかった。
    紳士の立ち去った後のテーブルを見遣れば、空になった紳士のコーヒーカップとは対照的に、その人の目の前のカップは手つかずのままのように見えた。一口くらいは口をつけただろうか。並々と注がれたままの琥珀色は、すっかり冷めて色を濃くしていた。
    呆然と、疲れ切った様子で椅子に凭れて居るその人が、今にも泣きそうに見えて、何故だか腹立たしいような、悔しいような気持ちになった。
    そうして何故か、気付いたらクリームソーダを作っていた。
    何故そんな事をしたのか、今でも解らない。
    それでもその時は、そうせずには居られなかったのだろう。
    ただでさえお客様に『多い』と言われるアイスを、いつも以上に山盛りにして作ったそれを、ぼんやりと座ったままでいるその人の前に差出すと、焦点の定まっていなかったその人の眼が、パッと色を取り戻して、弾かれたように顔を上げた。
    「よかったら、どうぞ。」
    こういう時に気の利いた台詞の一つでも言えたら良いのだろうけれど、そんな事が出来る俺では無いものだから、其れを言うのが精一杯だった。
    押しつけがましいと思われるだろうか。そっとしておくべきだったか。そんな事を思ったが、その人は暫く呆然とクリームソーダを眺め、それから俺の方を向き直ると「あいがと」と柔らかく微笑んでくれた。
    後で解ったことだが、それは、鹿児島の方言らしい。
    聴き慣れない言葉に面食らったが、兎に角、その人が笑ってくれたのが、喜んでくれたのが、嬉しかった。嬉しくて、ホッとした。
    けれども、ホッとしたのも束の間で、笑ってくれたその人はクリームソーダのアイス食べながら、ぼろぼろと泣き出してしまった。
    気の利いた台詞さえ持たない俺に、泣きながらアイスを食べる人にかけるべき適切な言葉なんて浮かぶはずも無かった。
    俺はただ、驚き、戸惑いながら、その人が泣きながら黙々とアイスを食べ、ソーダを飲み干すのを見守ることしか出来なかった。
    やがてグラスを空にすると、その人はふぅ、と大きく息を吐いて、涙に濡れた目許を手の甲で乱暴に拭うと「ごちそうさまでした。」と席を立った。
    「…大丈夫ですか?」などと、如何して聞いてしまったのだろう。余計な事を言ってしまったと焦る俺に、その人は赤くなった目を細めて「なんでんなか。」と笑ってみせた。
    無理に作った笑顔だと、鈍い俺でも解るくらい、ぎこちない、少しもなんでもなくない笑顔だった。
    ***

    図らずも泣き顔を見てしまったその日以来、俺はその人の事が、気になり始めた。
    気になり始めたどころか、どうにも、気になって仕方ない。
     それだと言うのに、あの日からもう三日ばかりその人の姿を見ていないのだから、尚更気になってしまう。
     俺が余計なことを言ったものだから、店に来づらくさせてしまっただろうか。それとも『待っている』と言っていた、あの胡散臭い紳士の所へ行ってしまったのだろうか。
    あんな男の所へ行って大丈夫なのか?
    「その様子じゃぁ、今日も来てないんですねぇ」
    カウンターの一番端の席に座ってそう言ってきたのは常連の一人である尾形だった。
    何のことだと問い掛けると、尾形は鼻で嗤って「またまた」と嘯き「マスターがいつも見ている窓際のあの子の事ですよ。」と宣った。
    誰の事を言っているかは明白だった。
    「『子』って歳じゃないだろ。」などと答えてしまったのが迂闊だった。
    「ほら、やっぱり。」と呟いた尾形のにやけ顔といったら無い。
    「誰の事だか解ってらっしゃる。」
    くつくつと笑う尾形に溜息と一緒に「常連さんだからな。毎日来ていた人が姿を見せなければ、気になるのは当然だろ」と返すと「常連だから、ねぇ」と、なおにやけているのだから憎らしい。
    「俺が来なくなっても気にします?」
    「…常連だからな。」
    お望みだろう答えを返してやると、尾形はけたけたと笑って「嘘でも嬉しいねぇ」とミックスジュースの注がれたグラスをストローでかき混ぜた。
    「まぁ、でも、心配することは無いんじゃないですかね。」
    何の論拠があってそれを言っているんだと、尾形に聞くより先に店のドアが開いた。
     いらっしゃいませ。と顔を上げた先に居たのは、その人だった。噂もしてみるものだという事だろうか。
     三日ぶりに店に現れたその人は、少し気恥ずかしそうな顔をしてぺこりと頭を下げると、いつも通りに奥の二人掛けの席に腰を下ろした。
    「この前は、ありがとうございました。」
    「っ…いえ、そんな…」
    「お恥かしい所をお見せして…すいませんでした。」
    「気にしないで下さい!また、こうして来て頂けたら…俺は、それで…」
     俯きかけるその人に慌てて声を掛けると、その人は小さく笑ってみせた。この前とは違う、無理に作ったものでは無い、ごく自然なその笑顔にホッとする。
    「ありがとうございます。」
    「今日は、何になさいます?」
    「あ…じゃぁ、カフェオレを、お願いします。」
     注文を受けてカウンターに戻ると、一層酷いにやけ面をして待ち構えていた尾形と眼が合った。
    「…なんだよ?」
    「いいえ。別に?」
    「言いたいことがあるならはっきり言え。」
    「また来てくれて良かったですね?」
    どんな厭味が飛び出してくるかと思ったら、一拍置いて尾形が漏らしたのはそんな一言だった。
    「お邪魔でしょうから俺は帰りまーす。」
    その一言は余計だが、尾形の言う通りだ。
    あの人が、また来てくれて良かった。
    本当に良かった。と、そう思った。

    ***

    その日から、『コイト』と呼ばれていたその人は、また毎日店に通って来るようになった。
    尤も、未だに其れがその人の名前だと言う確証はない。
    俺とその人は喫茶店のマスターと常連客。それだけで在ることに何ら変わりはない。名乗り合うような仲では無い。
    けれども、ほんの少しだけ変わったことがある。
    以前は注文以外の話などすることは無かったが、時折、世間話をするようになった。
    注文や会計の際に、ほんの一言二言。なんてことはない会話を交わして、帰り際『ごちそうさまでした。また明日。』とその人は帰って行く。
    「この店に居る時が一番落ち着くんです。」
    そう言って微笑んでくれるその人の来店を、気付けば毎日の愉しみにしている自分が居た。
    相手は常連客で、いくらキレイだとは言え同じ男だ。
    毎日顔を合わせて、ほんの少しの会話を楽しむ。友人とも違うその距離感が心地よい。けれども、ふと、その距離にもどかしさのようなものを感じてしまうのは、何故だろうか。
    他のどの常連客にもそんな事を感じたことは無い。
    これに似た感情を、俺は知っている気がするが…。知らない、気付かないふりをして、俺は唯、毎日、その人が店に来るのを待ち続けて居た。
    そんな日々が、どれくらい続いただろうか。
    或る日、尾形が珍しく本を片手に店に現れた。
    いつも通り、カウンターの隅の席に座ってミックスジュースを啜りながら持ってきた本をパラパラと捲っていた尾形は、ぱたりとその本を閉じると唐突に口を開いた。
    「読んだことあります?」
    閉じたその本を掲げて問うてくる尾形に溜息をひとつ。
    「俺が小説なんか読むと思うか?」
    「思わないから持ってきたんですよ。」
    「…イイ根性してるなお前。」
    「お褒めに預り光栄です。」
    別に少しも褒めてない。というのを言ったところで不毛な会話が続くだけだろう。
    「気が向いたら読んでみてくださいよ。」
    そう言って、尾形がずい、と差し出してきたその本は小説のようだった。
    「お前の好みか?」
    「まさか。俺はノンフィクション専門だ。」
    渡された本を手に取り、タイトルを眼にした瞬間、見覚えのあるそれに思い出さなくてもいい事を思い出した。
    「…これ、映画にもなってた…」
    思い出して、しまった。
    「ご存知で?」
    「…まぁ、な。」
    意外そうに声を漏らした尾形に適当な返事をして手にした本をカウンターに戻すと、尾形はちらとソレを見てから「じゃぁ、試しに…」と本を押し戻して、しつこく読むことを勧めて来た。
    「趣味じゃない。」
    そう答えたのは嘘では無い。
    その小説は、確か恋愛小説の筈だ。おっさんの俺が好んで読む類のモノでは無い。そもそも男向けの作品だとも思えなかった。
    新人作家のデビュー作が異例のヒットだと話題になったのは七年程前だったか。俺は漸く店を独りで切り盛りするのに慣れた頃で、その作品のことも店の情店の誰かから最初に聞いた筈だ。発売直後にその作品を買って、随分気に入っていたのは幼馴染のちよだ。
    故郷の佐渡を離れてからも交流が続いていた唯一の幼馴染は、小さな頃から何をするのも一緒で、大学進学でちよが島を出てからも、何かと交流を続けていた。俺が仕事を止めて店を継いでも其れは変わらなかった。
    恋人だとか、そんな関係では決してなかった。
    俺はちよを、妹のように思っていたし、ちよも、兄だか、弟のように俺を思っていた筈だ。其れだけだった。
    本が好きだったちよが、この本を抱えて興奮気味に訪ねて来た時のことは、よく覚えている。
    『作者は年齢も性別も非公表なんだけど、きっと素敵な女性だと思うの。本当に素敵な作品なのよ?基ちゃんも読んでみて!この本なら、基ちゃんもきっと気に入ると思うの!』
    ちよは、目をキラキラと輝かせてそんな風に言っていた。
    勿論、俺は本なんて読まなかった。作り物の話に、そんな風に夢を見ているちよをかわいいとは思ったが、其れだけだ。俺には縁のない話だと、そう思った。尤も、例え興味の持てる内容であったとしても、当時の俺は店のことで手いっぱいで、本を読み、感想を語るような心の余裕は無かったと思う。
    恋愛ものなんて趣味じゃない。男の読むものじゃない。と、余裕のなさの滲んだそんな言葉を漏らした俺に『そうね。基ちゃんは、恋愛なんて興味ないモノね。』とちよは笑っていた。寂しそうに、笑っていた。
    もしもあの時、ちよが勧める通りにその本を読んでいたら、何かが違っていただろうか。
    その小説が映画化するという話が聞こえてきた時に『映画も絶対に見たい』と言っていたちよは、今度は俺に映画を勧めることもなく、俺の知らない男と、俺が知らない内に映画を観に行って、あっと言う間にその男の所へ嫁いでいった。
    『こっちにきた時にはきっとお店に寄るから!』
    そう言っていたちよは、嫁いで以来、この店に来たことは無い。恐らく、もう、来ることは無いだろう。
    唯の幼馴染であった筈のちよとのその思い出を、忘れていたわけでは無い。思い出さないようにしていただけだ。
    俺が何の自覚もしないまま、ちよを幼馴染以上に思っていたことも含め、全部。思い出さないようにしていただけだ。

    「まぁそう言わずに読んでみてあげてくださいよ。」
    しつこく食い下がる尾形に「趣味じゃないと言っているだろ。」と繰返したが、尾形はそれでも本を俺に押付けてきた。
    「アンタなら、きっと気に入ると思いますよ。」
    『基ちゃんも読んでみて!この本なら、基ちゃんもきっと気に入ると思うの!』
    尾形の言葉に、ちよの声が重なって、気付けばカウンターにはその本が残されていた。

    ***

    店を片付けて帰った自室のテーブルの上には、尾形に押付けられたその本がぽつねんと置かれていた。
    まるきり押し付けられたようなものだが、これも何かの機会なのかも知れない。あまり乗り気はしないが、と漸く本を手に取ったのは、寝る用意が整ってからだった。
    恋愛ものだとは聞いていたが、どんな作品かは知らないのだ。そもそも何の興味も無かったのだから。知る筈も無い。
    パラパラとページを捲ってみると、そう読みにくい作品ではなさそうだ。純愛小説という類になるのだろうか。
    作品の舞台は雪国だった。真冬の雪国で出逢った男女が、成行きで旅を共にしていく中で互いに心を通わせていく。その過程が、淡々と、静かに綴られている。
    矢張り、こんな話は趣味じゃない。そう思いながら、不思議とページを捲る手を止めようとは思わなかった。
    ページを捲りながら、いつも本を読んでいるあの人は、この本を読んだことがあるだろうか。読んだとして、どんな感想を持っただろうか。ふと、そんな事を考えてしまった。
    「…何を考えているんだ、俺は…」
    自分にうんざりしてため息を吐き、本を閉じた。閉じてから、それでも未だその人の事を考えている自分に、本当にうんざりした。
    きっと、こんな風に思うのはちよの事を思い出した所為だ。
    きっとそうだ。そうに決まっている。それだけだ。
    ***

    いつも通り店に来て、真剣にPCに向き合っていたその人の元を男が訪ねて来たのは、其れから暫くの事だ。
    未だ午前中で、ランチには間のある時間の事だった。
    店のドアが開いて、大柄な男が入って来ると「いらっしゃいませ」という俺の声に気付いて、奥の席に居たその人が顔を上げた。
    「菊田さん…っ」
    声を上げたのはその人で、呼ばれたのは、たった今、店に入ってきたその男らしかった。体格のイイ、色気のある男だった。
    「久しぶりだな、鯉登。」
     低温の柔らかな声で男に呼ばれると、その人は呆然とした様子で声を漏らした。
    「どうして、ここに…?」
    「家より、この店を訪ねた方が会えると聞いてな。」
     男の訪問に驚いた様子で立ち上がったその人は、この前の紳士に見せていたような堅い表情はせず、落ち着いた…というよりは、嬉しそうにさえ見える表情をみせた。
    「邪魔をして悪かったな。」
    「…いえ、そんな…」
     菊田と呼ばれた男は、当然のようにその人の真向かいに座り、注文を取りに来た俺に「珈琲を」と告げた一拍後に「それと、フルーツパフェをひとつ。」と付け加えた。
    「好きだろう?」問い掛けられた、男の目の前に座るその人は、その言葉に驚いたらしく「…はい。」と答えながらはにかんだ笑顔を見せていた。
    見たことの無い、顔だった。とても、愛らしい笑顔だった。それに、どうしてだか、酷く胸がざわついた。
    「少々お待ちください。」と言い残してカウンターの裏に戻り、注文通り、珈琲とフルーツパフェの用意を始める。
    カウンターの隅では今日もミックスジュースを啜っている尾形が物言いたげに此方を見ていたが、其れには気付かないふりをした。
     喫茶ツキシマのフルーツパフェは季節ごとに旬のフルーツを使う。
    コストを考えると生のフルーツを使うのは非効率だが、折角商店街に鮮度のイイ果物を扱う果物屋があるのだからと、親の代から受け継いだ店の看板メニューの一つでもある。
    今日のフルーツは桃だ。『未だ出始めだけれど、珍しく良いモノが入ったから』という果物屋の親父の薦めで数個だけ仕入れてみたものだけれど、香りだけでその見立てに間違いは無かったのだと十分に解った。
     丁寧に皮を剥いて、アイスとたっぷりのクリームに合わせて行く。アイスもクリームも、甘さを抑えたミルク感の強いまろやかなモノを使うのは果物の甘さを引き立てるためだ。店を引継いだ当初は苦労したパフェ作りだが、今ではすっかり手馴れて手早く体裁を整えられるようになった。
     カウンターの内側を覗き込んで「美味そ…」と呟いた尾形に柵に切った桃を数切れ小皿に乗せて出してやってから、奥のテーブルに珈琲とパフェを届けに行く。
    『コイト』と呼ばれたその人は、先日とは打って変わって穏やかな表情をして菊田と呼んだ男と向き合っていた。
    「ごゆっくりどうぞ」の言葉を残してテーブルを離れると、背後で二人が和やかに話し始める。
     小声で話す二人の会話はカウンターには届かない。けれども、その人が、コイトさんが、会話を楽しんでいるのは遠目にもよく解った。
     カウンターの尾形はと言えば、桃を出してやった所為か知らないがいつも余計な事を口にするくせに、やけに大人しく座ってスマホを弄っていた。桃を乗せていた皿はとっくに空になっていた。

    「ごちそうさまでした。」
     菊田と呼ばれた男が伝票を手にカウンターに声を掛けてきたのは昼前の事だった。
    ランチ営業の準備の手を止めてレジ横に立つと、伝票よりは随分と多い額を差出して「お釣りは結構ですから。鯉登に…奥の席のあの子に、何か食べさせてやって下さい。」と笑みを見せた男は、止める間も無く店を出ていった。金を余分に置いて帰るのはこの前の紳士と同じだが、印象は随分違う。胡散臭いには違いないが、一体、どういう仕事をしているんだと思っていると、奥の席に座ったままだったコイトさんが、急に立ち上がった。どうやら、自分の伝票も無くなっている事に今頃気付いたようだ。慌てて店を出た男の後を追って走り出した。
    「直ぐに戻りますっ」
     そう言い残して店を飛び出して行ったコイトさんと入れ違いに、見ない顔が飛び込んで来た。
    「あぁ、もう!やっと見つけた!百之助!連絡くらいちゃんとしてよね!」
    ぎゃんぎゃんと口喧しく声を上げながら店に入ってきた色白の坊主頭の男がわき目もふらずに真直ぐ向かって行った先に居るのは尾形だった。
    さっきまで呑気そうにしていた尾形は男に気付くと「げ」と小さく呟いて、しかめっ面をしてカウンターの隅の席に縮こまり、殺気立った様子で尾形に迫って来る男から目を逸らして足元を見ていた。
    「ねぇ!締め切り明後日なんだけど!?解ってる!?」
    聞いているこっちまで委縮しそうな程ヒステリックなその声に、尾形はうんざりした様子で溜息を吐いた。
    「明日には出せるから待ってろよ…」
    「そう言ってその通りになったこと一度も無いよね?」
    「今度は大丈夫だよ。もう出来てんだ。少しくらい待てよ。」
    「だったらLINEに既読くらいつけてよね!」
    頭から湯気でも上りそうな様子の男にそっとお冷を差出すと、男は尾形の隣の席に座ってお冷を一息に煽った。
    「全く、本当に手が掛かるんだからっ!もういい大人なんだから、ちゃんと連絡くらい出来るでしょ!?あ、マスター、アイスコーヒー下さい!」
    尾形に対するその物言いがまるで子供に対する其れのようで、思わず笑ってしまいそうになる。
    注文通りに男にアイスコーヒーを差出すと、男は思い出したように名刺を取出してカウンターを滑らせた。
    「百之助がいつもお世話になってます。」
    にこやかにそう言った男の差し出した名刺には『週刊SPARK編集部』の文字と一緒に『宇佐美時重』という名前が並んでいた。
    「尾形、お前、ライターだったんだな。」
    「今更?」
    声を漏らした尾形は少し呆れた様子だった。
    「もしかして、こないだの小説…」
    「違いますよ!冗談じゃない。前にも言ったでしょ?俺はノンフィクション専門だって。あんな純愛ものなんて書こうとも思いませんよ。」
    頬杖をついて答えた尾形の声に、そう言えば、そんな事を言っていたなと思い出す。だったら何だってあんなものを俺に薦めて来たんだろう。
    「そういやさっきそこで新鋭社の菊田編集長見掛けたんだけど、まさか百之助、小説書こうとしてないよね?」
    アイスコーヒーを一口飲んで、思い出したようにそう零したのは宇佐美さんだった。
    「は!?」
    「僕が小説書いてみればってずっと言ってるのに全然書こうとしないけど、ねぇ、まさかもう書いてたりする?」
    「んなわけねーだろ。」
    「勧誘受けたりしてないよね?菊田さん、誑しで有名なんだから!あの人に作家だのライターだの引き抜かれたの一度や二度じゃないんだからね!?ねぇ、本当に誘われたりなんかしてないよね!?百之助が小説書くんなら、絶対うちで出してもらわなきゃ困るよっ!?」
    「うけてねぇし、書かねぇよっ!」
    「マスター、百之助本当に勧誘受けてなかったですか?」
    うんざりした様子で答える尾形を他所に、瞳孔開きっ放しで鼻息を荒くする宇佐美さんにひいてしまう。
    「…何のことだか…」
    「さっき万札置いてったおっさん。あれが菊田編集長。」
    困惑する俺にそう答えたのは尾形だった。菊田。そうだった。あの人も『菊田さん』と呼んでいた。
    「あぁ、それなら、こいつには…一切…」
    あれが、菊田編集長。
    宇佐美さんはさっき、彼を、なんと評していた?
    誑し、とか、言ってなかったか?
    「よかったぁ!普通にお客さんで来てたんだね~」
    「…さぁなぁ…」
    ホッとした様子で声を漏らした宇佐美さんに、尾形はまた余計な事を言った。
    「何!?やっぱり勧誘受けたの!?」
    途端に宇佐美さんの顔色が変わる。
    「俺じゃねぇよ。」
    「じゃあ誰!?マスター?」
    「違いますよ。」
    苦笑してそう答えると、さっき出て行ったコイトさんが、出て行った時と同じように慌てた様子で戻ってきた。そのままバタバタと奥のテーブルに広げていた荷物を片付け、再びドアの所に戻って来る。
    「今日は、お帰りですか?」
     声を掛けると、コイトさんは「バタバタと、すいません。」と零し真直ぐに俺を見た。
    「明日、また来ます。」
    「…はい。お待ちしてます。」
     答えた俺に、コイトさんは嬉しそうに笑って「じゃぁ」と店を出て行った。
    「なに、あのカワイイ子…。」
     コイトさんの出て行ったあと、ぼそりと零したのは宇佐美さんだった。
    「手ぇ出したらマスターに殺されますよ?」
    「え?なに?どういうこと?ワクワクしちゃうっ」
    「だから、マスターに殺されますって。」
    「尾形何か言ったか?」
    「腹減ったなぁって言っただけです。」
     尾形のその言葉は全くの嘘だと解りきっていたが、何を問い詰める間も無くランチ営業の時間になり、質問どころではなくなってしまった。
    気になることが幾つかあった筈だが、忙しさに気にせずに居られたのは幸いだったかもしれない。
    「また来ますね!マスター!」
     ランチ営業が終わる頃に、尾形を引き摺りながら帰って行った宇佐美さんとは、なんだかこれからも付き合いが続くような気がした。なんとなく。
     
     ***

    店を閉めた後、眠る前に尾形に借りたままの小説を読むのがこの所の日課になっていた。
     慣れた人なら一晩で読めるようなものなのだろうが、普段から小説など読まない人間には一冊読み切るのには相当な時間が掛かる。それでも、随分読み進めた方だ。
     気付けば半分以上読み終わり、物語は終盤に差し掛かっていた。

     物語の序盤、若く奔放な女に振り回されていた男は、物語が進むにつれ、女の抱える苦しみや弱さ。内面の葛藤を知り、女に惹かれていった。
    女は旅の最中、勝手な自分を叱ってくれる男を信頼し、頼るようになっていった。そうして、男と寄り添う内、過去を捨てきれず、柵に囚われながら息苦しく生きる男に寄り添いたいと考え始める。
    けれども男は、女のその健気に気付くと、自ら女の元を離れようと決意し、女をひとり宿に残して街を出る。女はそれに気付いて、男を追い、離れて行こうとする男を引き留めた。

    『未だ遅くない。あなたはやり直せる。』
    明け方の無人駅で男の手を取り、そう告げた女は、真直ぐに男を見詰めて、ただ、男の返事を待つ。

    その下りがやけに胸に残った。
     これ以上読み進めるのは、今は止しておこう。
    残り僅かになってきた本に、栞を挟んでそっと閉じた。

     その晩、夢を見た。
     夢の中で、小説の中の男と自分が重なっている。
     俺は、知らない男と、知らない街へ、にこやかに旅立つちよを呆然と見送っていた。薄暗い街に一人ぽつねんと立ち尽くす俺を、何処からか呼ぶ誰かの声が聞こえて来る。
     何処から、誰が呼ぶのか解らないまま、暗い街を歩いていくと、辺りはどんどん暗さを増して、足元が見えなくなる。
    過去ばかりがはるか遠くで色鮮やかにあるような気がして、振り返ろうとするけれど、やがて過去の輝きさえ見えなくなっていく。
    このまま俺は、暗い、夜の街を一人で歩いていくのだろうか。独りきりで、いるのだろうか。
    重たい足を引き摺って歩き続けていると、不意に声が聞こえてきた。
    『未だ遅くない。』
     漸くはっきりと聞こえたその声に顔を上げると、その先に光が見えた。
    『やり直せるはずだ。』
    光の先に居たのは、その人だった。
    『また明日。』と笑って帰って行った、その人だった。
    『私と、一緒に生きてくれ。』
    真直ぐに俺を見詰めてそう告げたコイトさんは、泣き出しそうな笑顔をしていた。
    『俺は………』
    その先に、何と答えただろうか。
    つい今まで目の前にあったコイトさんの姿は掻き消えて、目に映るのは見慣れた寝室の天上だった。

    『私と、一緒に…』と、聞こえた声が耳に蘇る。
    「…何を言う気だったんだ…俺は…」
     思わず零れたその言葉に、ベッドの上でひとり深く溜息を吐いた。

    ***

     翌日『また明日』と言ったその通りに、コイトさんは店に来てくれた。
     午後の早い時間に来たコイトさんは、いつも通り、奥の二人掛けに座って、珍しくアイスココアを頼んだ。ココアは寒い時季にはコイトさんの定番のひとつだが、この時季にアイスを頼むのは珍しい。とはいえ、ご要望にはお応えするのが客商売だ。
     先ずは、純度の高いココアパウダーを丁寧にミルクに溶かしていく。甘いのが好みなその人の為にたっぷりとシロップを加え、ほんの少し蜂蜜を足す。隠し味に、塩をほんの一つまみ。氷を満たしたグラスに注いで、仕上げにホイップクリームを落とし、真白なそれにココアパウダーをふりかける。これなら、コイトさんの好みに合うだろう。
    「ありがとう。」
     いつもと変わらない笑顔でそう言ってくれるコイトさんに、ふと、夢の中の姿が重なる。
     気の所為かも知れないとも考えてみたが、コイトさんを目の前にすると、やはりあれは、夢に見たのはコイトさんだったろうかと改めて思う。
    唯の客である筈のこの人が、夢の中のような台詞を言う筈がないのに。そんな事は解りきっているというのに。
    俺は、何を期待しているのだろう。
    昨日までと何も変わらない筈なのに、何かが少し変わったような気がして、少し落ち着かない。
     それでも、いつも通り。いつも通りだ。
    何も、変わっていやしない。
    何も、変わってなどいないんだ。

    ***

    それから、特別何が起こるような事はなかった。
    コイトさんはいつも通りに店に来て、この所、ずっとPCに向かって何かを打ち込んでいる。
    何かの資料なのか、大量の本を抱えて来ることもある。論文でも書いているのだろうか。コイトさんが何をしているのかは解らないが、熱心な様子をただ見守るしかない。そんな日々が続いていた。
    他の常連たちは相変わらずで、酒屋の門倉さんは、最近尾形によく集られるようになったが、懲りずにほぼ毎日尾形の相手をしているし、二日に一回はキラウシに引き摺られて帰って行く。
    家永さんは男性なのだと、つい先日初めて聞いて絶句したが、商店街では周知の事実らしかった。その上で、家永さんと牛山先生の結婚を待ち構えている商店街の人々を、何故だか嬉しく思ってしまった。
    白石はしょっちゅう負けた客に追われているし、爺さんたちが店に来ると、一時的に店がえらく繁盛する。
    何も変わらない。至って平和だ。
    日常は何も変わらないというのに、俺だけはほんの少しだけ変わってしまった。のかも、知れない。
    この所、毎晩、夢を見るのだ。
    内容はよく覚えていない。けれども、ある一点だけは、明確に覚えている。目覚める度に、あぁ、また今日も夢に見てしまった。と思ってしまう。
    夢に見るのは、コイトさんだ。
    俺は毎夜、コイトさんを夢に見るようになっていた。
    いつも店に来るときの私服姿が大半だが、時折、着物姿であったり、軍服のようなモノを着た姿を見ることもある。
    勿論、コイトさんの着物姿や、軍服姿など見たことは無い。それなのに、何故か、夢に見る度『知っている』ような気がするのだ。妙な感覚だと、毎朝のように思う。
    妙な事は、其れだけでは無い。
    コイトさんは、夢の中で俺を呼ぶのだ。
    『月島』と、親しげに。
    如何して俺の名前を知っているのだろう。と思って、店の名前だからそうだと思っていても納得は出来ると思い直しはしたが、そうだとしてもコイトさんに、そんな風に呼ばれた事など無い。
    その筈だのに、夢の中でそう呼ばれる度に何とも形容のし難い気持ちになる。
    懐かしいような、苦しいような、愛おしい、ような。
    叫び出したいような。
    駆け寄って、抱き締めてしまいたいような。
    そんな衝動に駆られさえして、其れが何故だか、解らない。
    少しも、解らない。

    解ってはいけない。
    解っては、いけないのだ。

    ***

    その日、いつもは本やPCを手に店に来ているコイトさんは珍しく手ぶらだった。
    「人と待ち合わせをしているから。」
    少し緊張した面持ちでそう言ったコイトさんの言葉に、ほんの少し嫌な予感がした。
    前にもコイトさんがこんな表情を見せたことがある。
    待ち合わせの相手は、あの男ではないのだろうか。
    余計な詮索だと思いつつ、ふとそんな事を考えていたら、思った通りにその男が店に現れた。
    いつだか、コイトさんを『待っている』と言った紳士。その人だ。確か鶴見と呼ばれていたか。一四時ちょうどに店に現れた男は、店の奥にコイトさんの姿を見付けると、にこりと笑って鯉登さんの真向かいの席に腰を下ろした。
    「待たせてしまったね。」
    「いいえ。私も、今、来たところですから。」
    「…それなら、良かった。」
    小さく笑みを零し、珈琲を二つ。と注文した男に頷いて、いつかと同じように珈琲を二つテーブルに置くと、向き合った二人は静かに話し始めた。
    その日はいつになく客足が少なく、いつもカウンターにいる尾形や門倉さんの姿も無く、客は鯉登さんと、その男だけだった。
    静かな店の中に、聞かずとも、二人の会話が聞こえて来る。
    「…気持ちは、変わらないかい?」
     最初に口を開いたのは、鶴見という男の方だった。
    「…はい。」
     静かに。けれどもきっぱりと答えたコイトさんに、男が息を呑むのが解った。
    「…そうか。……………そう、か。」
     漏れ聞こえたのは男の落胆の濃く滲んだ、苦い呟きだった。
    「…はい。」
    「鯉登、私は…」
    「好きな人が、居ます。」
    男の声を遮った鯉登さんのその一言は、凛とした響きを持っていた。真直ぐに男を見詰めるその眼は澄んでいる。
    声も無く、身を固くした男の肩が、すとん、と、落ちたのが目にも解る程だった。
    「好きな、人が、居るんです。」
    繰返された言葉にも、男の声は無い。
    「その人の傍に、居たいんです…。」
    落ちた沈黙に、店の前を通り過ぎていくバイクの音が虚しく響く。
    「…………そう、か。……そうか。」
    長い沈黙の跡、やっとと言った様子でそう零した男に、鯉登さんは、ほんの少し顔を伏せた。
    「…すいません。鶴見さん、私は…」
    「いいや。謝るようなことじゃない。」
    男の声に、棘は無かった。
    「…謝らないでくれ。」
     その言葉にコイトさんが顔を上げると、男はホッとしたように息を吐いて、冷めた珈琲に口をつけた。
    「…寧ろ、嬉しいよ。」
     珈琲を飲み下してそう呟いた男の声は、慈愛に満ちたもののようにさえ聞こえた。
     「鯉登…」と男に呼ばれると、コイトさんは瞬きをして男を見詰め返した。男はその眼を、どう受け止めただろうか。
    「…自分の気持ちを、大切にな。」
    「…ありがとう、ございます。」
     男の言葉に一瞬声を詰まらせたコイトさんは、噛み締めるようにそう呟くと、寂しそうに笑ってみせた。
     前に来た時と同じように、伝票を掴んで一人でカウンターに来た男は、これも前と同じように、伝票の額より遥かに多い金額を当然といった様子で差出してくる。
    「こんなに、頂けません。」
     流石にそう何度もは貰い過ぎだとレジを開けようとすると、男は笑って「いいからいいから」と俺を制した。
    「これからも、あの子に…鯉登に、よくしてやっておくれ。」
     にこりと笑ってそう告げた男が何を言ったのか、一瞬、解らなかった。
    「…え?」
     あの子というのは、コイトさんのことで。良くしてやってくれというのは、一体…
    「それじゃあ。」
     戸惑う内に、男はそう言い置いて俺に背を向け、鯉登さんを振り返った。
    「元気で。」
    その一言を残して男はひとり店の外へ出て行った。ドアを閉じた先で、男が此方を振り返ることは無かった。
    男が居なくなり、しん、と静まり返った店の奥を見遣ると、窓の向こうに去って行った男の後を見詰めるコイトさんの姿が目に映った。
     その時のコイトさんの見せた表情を、何と表現すればいいだろう。
     寂しそうで、けれども、何処か安心しているようで。
    コイトさんにそんな顔をさせるあの男に、嫉妬にも似た何かが沸いてきそうになる。
    あの男にだけではない。
    コイトさんはあの男に『好きな人がいる。』と言っていた。『その人の傍に居たい』のだと。
    それは、先日コイトさんを訪ねて来ていた、菊田という男の事だろうか。
    冷静に考えれば、其処は女性を想定すべきだろう。けれども、何故だか、コイトさんの言う相手というのは、同性ではないかと思えたのだ。
    菊田という男は上背のある、体格のイイ、色気のある男だった。宇佐美さんは『誑し』だと言っていたが、本当の所は解らない。菊田という男の前に居たコイトさんは、確かに楽しそうにしていた。其れは事実だ。
    誑し込まれているだけだとは、思いたく無い。そうではないと、思いたい。そうだとしても、俺には何の関係も無い事の筈だのに、何故だかそんな風に思ってしまった。
     一人、奥の席に静かに座っているコイトさんは、いつかと同じように手付かずの珈琲を前にして呆然と座っている。
    其処に、いつものような、菊田という男の前で見せていたような、笑顔や和やかさは欠片もない。
    幾らか憔悴したその様子を、見ては居られなかった。
    コイトさんの好きなモノを…ふと、そう思い立ってカウンターの裏に戻り、パフェ用のグラスを手に取ってはみたものの、何かが違うような気がしてグラスを棚に戻した。
    パフェ用のモノとは別の、シンプルなグラスを取出して、中に幾つか氷を落とす。その上にメロンシロップを滑らせて、炭酸水を注げば翡翠色のメロンソーダが出来上がる。
    冷蔵庫から取出したアイスをディッシャーですくって丸く形作り、ソーダの上に座らせて、シロップ漬けの真っ赤なチェリーを一粒飾り付ける。
    出来上がったのは、コイトさんが初めて店に来たその日にも飲んでくれたクリームソーダだ。
    「よかったら、どうぞ。」
    ぼんやりと座ったままでいるコイトさんの前に翡翠色のグラスを置くと、コイトさんは、いつかと同じようにハッと顔を上げて、嬉しそうに笑ってくれた。
    「…あいがと。」
    いつかも聞いたその言葉を、嬉しく思った。

    クリームソーダをキレイに飲み干したコイトさんは、いつかのように泣き出すことはなく「また明日」と笑って帰って行った。

    ***

    ずっとPCに向かっていたコイトさんは、鶴見という男を見送って以来、本を読むばかりになった。
    時々、ノートを取出しては何かを書きつけていたりはするが、ここ暫くはPCも持ってきていない。
    取り組んでいた何かに一区切りついたということだろうか。其れを聞くような事はしないが、前よりほんの少しだけ打ち解けたコイトさんは、変わらず毎日店に来ては他愛ない話をするようになった。
    コイトさんとの会話は、住んでいるマンションの近くに野良猫が遊びに来たとか、公園の花がきれいだったとか。本当に、他愛のない話ばかりだ。
    いつも本を手にしているのに、不思議と本の話はしなかった。本には、何か特別なこだわりがあるのかも知れない。
    気にならないと言えば嘘だが、客が話さない事は無理に聞き出そうとしたりしない。というのは客商売の大事なルールだ。いつかその内、コイトさんの気が向いたら、本の話をすることがあるかもしれない。その日を待っていればいい。そんな風に、考えていた。
     コイトさんが本の事を口にしたのは、男との一件があってから一週間程経った頃だった。
    「…その本…」
     ポツリと零したコイトさんの視線の先には、尾形から押し付けられた小説があった。
    ようやく読み終わって、尾形に返してやろうとカウンターの隅に置いていたのを、コイトさんが眼に留めたのだ。
    「ご存知、ですか?」
     そう問いかけてから、話題になった作品を知っているかと尋ねるのは失礼だったかと思いもしたが、コイトさんは小さく笑って「えぇ。映画にもなりましたよね。」と答えた。
    「恥ずかしながら、最近になってやっと読んだんです。」
    「最近…何か、切欠が?」
    「人に薦められて。…ほら、いつもカウンターに居る…尾形という男なんですが。彼に…。」
     言い訳染みた説明に、何を言っているんだと自分でも思うが、コイトさんは穏やかに笑って「そうでしたか」と呟くと、不意に、真直ぐに俺を見詰めて来た。
     黒目の大きい、アーモンドの澄んだ瞳に、自分が映っているのが解る。
    「その本、お好きですか?」
     向けられた問いが、視線が、言外に何かを問いかけているようで、知らず答えに詰まってしまった。けれども、真直ぐなその瞳に応えたくて、言葉を選びながら慎重に答えた。
    「…嫌いでは、ありません。…ですが、俺には、最後が寂しく思えて…」

     本の中で、長く旅を続け、その過程で関係を深めていった二人は、お互いの想いを知りながら最後に別々の道を選んだ。
     別れは、少しも悲劇的なモノでは無いように描かれていた。
     女は自分の痛みと向き合い、前を歩いていくと決め、男は、過去と柵から解放されて自分の道を歩み始める。
    其々が其々で自分の道を選んだ、希望を持った別れなのだろう。けれども、そうだとしても、想い合う二人が、そうと知りながら別々の道を選んでしまうことが、何とも遣る瀬無かった。
    その感想を素直に伝えると、話を一頻り聞いたコイトさんは「映画版では、エンディングが違うのをご存知ですか?」と、そんな事を口にした。
    映画というのは、ちよが楽しみにしていたアレの事だ。当然、見ているわけはない。
    いいえ。と短く答えると、コイトさんは「そうですか」と零して言葉を続けた。
    「あの映画は、原作者が脚本協力をしていて、最後を書き換えているんです。」
    「最後を?…どんな風に?」
    「気になったら、一度、映画も見てみて下さい。」
    問いには答えず、そう言い残してコイトさんは店を出た。
    「もし、映画を見られたら、映画の感想も聞かせて下さいね。」
    帰り際、振り返ってそう微笑んだコイトさんは、また明日。とは、言わなかった。

    ***

    店を閉めた後、ネットで検索してみると映画は直ぐに見つかった。昔なら、レンタルを探しに走るところだろうが、ネットを繋げばオンラインで直ぐに見られるのだから便利な世の中になったものだとしみじみ思う。その上、タイトルを検索すれば上映当時の評判も勝手に目に飛び込んでくるのだが、それは、良し悪しかも知れない。
    再生を始めると、何処かでみたような俳優たちが、情感たっぷりに小説の世界を演じていた。
    眠くなるかと思ったが、存外、見られたもので、日本の映画も馬鹿にしたものでは無いなと妙な感心をしてしまった。そうして迎えた映画の最後は、確かに小説と違っていた。
    二人は一度、別々の道を選ぶことを決断し、互いに背を向けて歩き始める。此処までは原作通りだ。しかし、その先が違っていた。
    名残を絶つように足早にその場を去りかけた男だったが、歩みを進める内に女と過ごした日々を思い出し、徐々に、歩く速度が落ち始める。
    『未だ遅くない。』
    そう言った女の声を、顔を思い出し、男はついに脚を止め、女の方を振り返る。
    遠く、小さくなっていく女の背中に、男は堪らず走り出す。
    男に背を向け、ひとり歩いていた女は泣いていた。流れる涙もそのままに、懸命に前を向いていた女は後ろから聞こえてきた自分を呼ぶ男の声に気付き、立ち止まる。
    女が振り返ることを躊躇う内に、女に追いついた男が女の手を取り、女はやっと振り返る。
    『俺と、一緒に生きてくれ。』
    男が女に告げ、女の晴れやかな笑顔で映画は終わった。
    小説版とは異なるそのエンディングには映画の公開当時、賛否両論あったらしい。
     ちよは、あの男とこの映画を見て、この映画のように…と考えただろうか。
     コイトさんは、この小説を、映画を、どう見て、どう思っただろうか。
     コイトさんが、一緒に生きたい。と、思う誰かは、コイトさんが好きだと言うその人は、どんな人だろうか。本当に、あの菊田という男なのだろうか。
     いっそ、全部聞いてしまえたら…

     つまらない考えに囚われながら眠ったその晩、夢を見た。
     真っ暗な中を、走っていた。
     足元には水が溜まっていて、少しぬかるんでいる。下手をするとぬかるみに脚を取られて転びそうになる。
     何処を目指しているのかも、何の為に走っているのかも解らず、それでも、ただ、前へ進むしかないのだと、そうするしかないのだと、ただ只管に前へ向かって走っていた。
     走り続けたその先に、遥か彼方に光が見えた。
    淡く小さなその光が、段々と近付いて来る。
    小さく、今にも消えそうだった光は、次第に強く輝きを増し、俺の行く先を照らし始めた。
     その光を、手に入れなければ。
    その光を、護らなければ。
    気付けば、その一心で、がむしゃらに走っていた。
    走って、走って、辿り着いたその先で、待っていてくれたのは、やはりその人だった。

    『月島。』と、柔らかに俺を呼ぶその人だった。
    『一体、いつまで私を待たせる気だ。』
     寂し気に微笑むその人に、声を張り上げる。
    『鯉登少尉殿、………』

     目覚めたその瞬間に飛び起きた。
     見慣れた天井も、住み慣れた自宅も、何一つ変わってはいないのに、世界がまるで違うものに見える。
    「…鯉登、少尉殿…」
     確かめるようにその名を口に乗せてみる。
    そうして、深く、息を吐く。
    如何して、俺は…。
    如何して、今になって…。
    『月島』と呼ぶその声が直ぐ傍で聞こえたような気がした。

    ***

    連絡を取りたいのに、連絡先を知らないというのは、こんなにもどかしいモノだろうか。

    いつもより早くに店を開けてはみたが、何の告知も無くそんな事をしたところで急に客が来るわけでも無い。いつもの面子がいつものように、順に顔を出しては帰って行く。
    ごく当たり前の平和な一日が唯始まって過ぎていくばかりだ。そしてそんな日に限って、肝心のその人は…鯉登さんは姿を現さない。
    いつもなら午前中に来なくても、午後の早い時間には店に来る筈だのに、どういう訳だか、時計の針が一四時を示す時間になっても未だ姿を見せなかった。
    悶々とした気持ちを抱え、鯉登さんが来るのを待っていると、現れたのは鯉登さん…ではなく、尾形だった。
    「おや?随分お疲れのようで。」
    「そうか?いつも通りだが…」
     この男に余計な事は話さない方が賢明だろう。
    昨日と変わらずカウンターの隅に座る尾形に、いつも通りにミックスジュースを作ってやっていると、尾形は思い出したように口を開いた。
    「そういえば、この前の本、読みました?」
    「尾形、あの本…」
    「同じ作家の、新作が出たようですよ。」
    そう言って尾形が差し出してきたのは、今日発売されたばかりだという文芸誌だった。
    「読んでみればいいんじゃないですか?」
    退屈そうに欠伸をする尾形にミックスジュースを出してやって、代わりに文芸誌を手に取った。出版社は、菊田さんの居る新鋭社だ。
    寡作な売れっ子作家の新作だと、表紙にまで大層な煽り文が書かれているその作品は、読み切りの掌編だった。此れならば、直ぐに読めるかも知れない。チラと尾形を見遣ると、尾形は視線だけを寄越して俺にそれをすぐに読むように示してきた。幸い、店に他の客はいない。
    路面側の照明を一旦落として、店の入り口に臨時休業の札を掛ける。
    カウンターの、尾形とは反対側の端の一席に腰を下ろし、深呼吸をしてから本を開いた。
    それは、喫茶店を舞台にした恋愛ものだった。
    恋愛、と、言えるだろうか。その判断が、俺には難しい。
    単的に言えば、喫茶店の店主に恋をする少女の物語だが、少女の成長の物語のようにも見えた。

    田舎町の喫茶店に足繁く通う少女は、喫茶店の店主に淡い恋心を抱いていた。少女は店主目当てで店に通っていたが、喫茶店に集う様々な人々と交流を持つようになる。
    心地良い田舎町にずっと居たい、恋しい店主の居る喫茶店にずっと通っていたいと願っていた少女は、人々との繋がりを通して、やがて外の世界へと目を向けるようになった。
    物語の最後は、作家を目指すと決めた少女が店主に想いを告げぬまま、いつかその初恋を本にするのだと胸に秘めて町を出て行く所で終わっていた。

    「ね?読んでみて良かったでしょ?」
    本から顔を上げた俺に向かって、尾形はストローを咥えたまま、へらりと笑ってそう言った。
    「尾形、お前、記憶が…」
    「さっき少尉殿をお見掛けしましたよ。」
    「は!?」
    「大きなボストンバックを持って、随分深刻な顔をして。たしか…駅の方に向かっておられましたよ。」
    「それを早く言えっ!!!」
     叫んで店を飛び出した背中に「店番はお任せ下さーい」と間延びした呑気な声が聞こえたが、其れに言い返している時間が惜しかった。
     商店街から駅までは然程遠くない。
     けれども、尾形が店に来る前に駅に向かっている鯉登さんを見掛けたというのなら、もう駅には着いているだろう。
     昨日、鯉登さんは帰り際に『また明日』とは言わなかった。
     大きなボストンバッグを持っていたという尾形の話が本当なら、鯉登さんは、この町を出て行くつもりなのだろうか。
     如何して…何故…と、思う内に、夢の中で聞いたその言葉が耳に蘇る。
    『一体、いつまで私を待たせる気だ。』
     寂し気に微笑んでいた、その顔が瞼に浮かぶ。

     俺は、間に合わなかったろうか。

     絶望しかかったその刹那、辿り着いた駅に漸く鯉登さんの姿を見付けた。けれども、其の隣にはぴったりと寄り添う菊田さんの姿が在った。並ぶ二人の姿を見たその瞬間、ぐらりと視界が揺れて眩暈がした。
     けれども、怯むわけにはいかないのだ。
    「っ鯉登少尉殿…っ!」
     叫ぶようにそう呼びかけると、響いたその声に鯉登さんが驚いた顔をして振り返った。
     振り返ったのは鯉登さんだけでは無い。辺りに響くような大声を上げてしまったから、鯉登さんの隣に居る菊田さんは勿論、駅に居合わせた人達も何事が始まったかと此方を見ている。だが、そんなことを気にしている場合ではない。
    「っ遅くなって、すいません…っ」
    鯉登さんに駆け寄り、訴える。
    「俺は、未だ、間に合いますか…」
    菊田さんの傍を離れ、ゆっくりと此方へ歩み寄ってきた鯉登さんの、その眼を真直ぐに見詰めると、いつだかと同じように、その眼に自分が映るのが見えた。
    「今度も…今生も、あなたと共に生きたいです…っ」
    今更かも知れなくても、間に合わなかったのだとしても、如何しても、伝えたかった。
    「貴方に、俺と一緒に、生きてほしい…」
    伝えなければいけなかった。どうしても。
    「俺と、一緒に生きてくれ。」
    みっともないくらい必死のその訴えに、鯉登さんは瞬きをひとつして、ゆったりと笑ってみせた。
    「待ち兼ねたぞ、月島。」
    笑いながら、泣いていた。
    「もう、会えんかち、思うちょった…」
    泣き笑いで、そんな事を口にした少尉殿を、鯉登さんを、抱き締めずには居られなかった。
    駅前だろうと、人の眼があろうと、そんな事はどうだってよかった。
    「…待たせて、すいません…」
     抱きしめた腕の中で、そう呟くと応えるように鯉登さんの腕が俺の背中に回って、ぎゅう、とシャツを掴むのが解った。
     
     遠くから、パラパラと、誰かが拍手する音が聞こえていた。


    ***

    「尾形お前、いつから解っていた?」
    「いつからだと思います?」
     へらりと笑ってミックスジュースを啜っているこの男にそれを聞くだけ野暮だった。
    「いいじゃないですか。今更。いつからだって問題ないでしょう?晴れて少尉殿とお幸せになれたんですから。」
    「お前、何が目的だ?」
    「別に。目的なんてありませんよ。少尉殿を見付けたのだって、その先で軍曹殿を見付けたのだって、偶然です。」
     
     尾形が言うにはこうだ。
     今生、尾形には明治の記憶があった。
    最初から記憶があったのではく、成人し、ルポライターとして記事を書き始めた頃、取材先で訪れた北海道で或る日唐突に思い出したという。
    思い出したからといって、尾形の生活の何が変わったわけでも無かった。思い出せた記憶は断片的で、酷く曖昧なモノばかりで、解ったところで今の生活に何の支障をきたすこともない。
    強いて言うなら、自分の担当編集者が、あの宇佐美だと気付いてしまったことは残念だったと、尾形は笑った。
    鯉登さんの事を知ったのは、本当に偶々なのだと言う。
    尾形が読むようにと寄越した小説は、鯉登さんの書いたものだった。
    年齢も、性別も、本名も。一切を伏せて突然文壇に現れたその作家に、尾形は興味を持った。
    件の作家の担当編集者は『小説・ほくと』の鶴見編集長だと聞いて、其れを足掛かりに探り始めると、一年ほど前に情報を掴んだ。新作の発表はどうやら新鋭社の菊田さんが口説き落として掲載を取り付けているらしい。と、そんな話だった。
    覚えのある名前に胸騒ぎを覚えたが、ルポライターの血が騒いでしょうがなかった。気懸りはあるが、先ずはその正体を掴んでやろうと、躍起になって作家の正体を暴こうとしたらしい。
    『女だと思って探っていたら、その正体が少尉殿だったと解った時の俺の気持ちがアンタに解りますか?』
    心底げんなりした様子でそう零した尾形だったが、その後には『まぁ、証拠固めをしようと越してきたら、こうして軍曹殿にも、他の面々にも会えたから、良かったのかも知れませんけどね。』と笑っていた。
    言われて振り返ってみれば、知らぬ間に、日常のそこかしこに、古い記憶の中に見知った面々の姿が見える。
    街で、店で、見掛ける誰にも記憶のある様子は無い。
    遥か昔を覚えているのは、思い出してしまったのは、どうやら尾形と俺と、鯉登さんだけのようだ。
    だが、それでいいんだろう。昔の記憶など、あったところでプラスになるとは限らない。
    俺の場合、思い出してギリギリ間に合ったようなものだが、だが、もし。もしも、何も思い出さなかったとしても、と、思う。
    俺はきっと、鯉登さんを好きになっただろう。
    現に、記憶が戻る以前から、鯉登さんに惹かれていた。
    何を話さなくとも、名前さえ知らなくとも。鯉登さんに惹かれていた。其れは、真実だ。

    そしてきっと、俺は来世でも、その先も、記憶があろうと無かろうと、鯉登さんに出逢い、惹かれるのだ。

    きっと、そうに違いない。

    ***

    その日、鯉登さんが店を訪ねて来たのは夕方の遅い時間だった。
    「今日は、随分と遅かったんですね?」
    問い掛けると、鯉登さんはくすりと笑って「なんで遅くに来たか、解らんか?」と問い返してきた。
    何かあったか?と考えてみても、此れといって思い当たる節が無い。けれども、鯉登さんは何を咎めるでもなく「まぁいい」と言ってカウンターの一席に腰を下ろした。

    俺が記憶を取り戻して以来、鯉登さんは俺と二人きりだとカウンターに座るようになった。
    昼間、他の客がいる間はいつもの奥の席が定位置だけれども、早朝、店を開ける前や、もう直ぐ閉店というこの時間に訪ねて来る時は、決まってカウンターに座る。
    そうして、俺が記憶を取り戻すまでの日々を、何処で如何していただとか、そんな話を少しずつ、少しずつしているのだ。
    鯉登さんが記憶を取り戻したのは八歳の時だという。
    随分と長い間、俺を探して、漸く見つけたのが去年の今頃だったと聞いたのは、ごく最近になってからだ。
    そうだ。丁度、去年の今頃だった。
    「…一年、経ちましたか?」
    ふと思い立ってそう呟くと、鯉登さんは目を丸くして、それからふはっと笑ってみせた。
    「なんだ。気付いたのか?」
    うふふ。と笑うその顔を見ればわかる。多分これは、正解なんだろう。

    梅雨が上がったばかりの、夏の走りの暑い日だった。昼過ぎの、丁度客の切れた時間帯に店のドアを開けたその人は、鯉登さんは、狭い店内をぐるりと見渡すと、奥の二人掛けの席に座った。
    『おすすめは、なんですか?』
    問いかけて来たその顔を、今でも鮮明に思い出せる。
    あの日、店に来たエノノカは、しきりに俺に何かいいことがあった筈だと言っていた。子供の勘というものは恐ろしい。それともあれば、アイヌの勘なのだろうか。
    確かにあの日、エノノカの言う通り、俺は幸いに恵まれていた。そうなのだろう。そうだったのだと今なら解る。

    「クリームソーダ、作りましょうか。」
     問い掛けると、鯉登さんは「うん」と答えた。
     慣れた手順でグラスを用意する。氷を落したグラスにメロンシロップを注ぐと、グラスの中で氷がパキパキと音を立てる。甘いのが好きな鯉登さん用にシロップは少し多めに。その上から炭酸水を足してマドラーで混ぜ合わせれば翡翠色のメロンソーダが出来あがる。その上に丸く掬ったバニラアイスを乗せて、真っ赤なチェリーを飾り付ければ出来上がりだ。
     手を動かしている間、鯉登さんはずっと俺の手元を見る。何が楽しいのかと聞いてみると、鯉登さんは照れ臭そうに笑っていた。
    「マジックみたいで、見ていて楽しんだ」
     見られるのは嫌か?と重ねられた言葉には、そんなことはない。と答えた。嫌ではないが、ほんの少しこそばゆいような。そんな気がする。
     出来上がったクリームソーダを差出すと、鯉登さんは「あいがと」と零して、嬉しそうにスプーンを手に取った。
     スプーンで掬ったアイスが鯉登さんの口に運ばれる。ぱくりとスプーンを咥えると、鯉登さんは満足そうに目を細めて「甘い」と小さく呟いた。
    「鯉登さん」
     ニコニコと上機嫌にスプーンを口許に運び続けるその人の名を呼ぶと、鯉登さんは「なんだ?」と此方へ視線を寄越した。
    「今日、泊って、いきますよね?」
    少し詰ったその言葉に、鯉登さんは一瞬固まって、それから少し頬を赤くして俯いた。唐突が、過ぎただろうか。初めてのことではないが、誘った回数は未だ数えるほどだ。焦り過ぎただろうか。返事の無い事が恐ろしくて二の句が継げないでいると、鯉登さんが漸く口を開いた。
    「それは、そういう、意味か?」
    聞えた言葉に息を呑む。けれども、今更だ。
    「…そう、です。」
     正直にそう答えたら、鯉登さんは真直ぐに俺を見た。
    「いいのか?」と。真直ぐに俺を見て、そう呟いた。
    「いいのか…って、いいに、決まってます」
     予想もしなかった言葉に、焦りと喜びで喰い気味にそう答えたら、鯉登さんは気恥ずかしそうに笑ってみせた。

     再び巡り合えて、一年。
     俺が記憶を取り戻して、未だ幾らも日は経っていない。
     聞きたいことも、話したいこともたくさんある。
     埋めるべき時間は幾らも或る。この先がどれだけ長くても、一分でも、一秒でも長く、一緒に居たいと思う。
    愛しいその人に、触れたい、とも、思う。思わないわけがない。
    「鯉登さん」
     名前を呼ぶと、鯉登さんが顔を上げて俺を見た。真直ぐに見詰めてくるその瞳に、俺の姿が映っている。少し緊張した、強張った顔だ。けれどもそう悪い顔では無いと思う。
    「…あなたに、触れたいです」
     告げると、鯉登さんは、ふ、と息を吐いて椅子を降りると、店のドアにCLOSEの札を掛けた。
    「よかよ。」と答えた鯉登さんは、外から差し込む光に包まれて、輝いて見えた。
    あぁ、この人が、俺の光だ。この人だけが、光だった。
    今更、そんな事を思った。



    *********





    もう
    会えないかと思っていた

    けれど

    また
    会えるのだと信じていた

    お前と

    必ず


    ***

    もう諦めかけていた。いいや、諦めていた。と言ってもいいくらいだ。
    今生では、月島には会えないのだ。と。

    記憶が戻ったのは八歳の時だった。
    良く晴れた土曜日だった。当時大学生だった兄は、夏休みで鹿児島の実家に帰って来ていた。昼間は未だ暑い九月のその日、私を連れて海に遊びに来ていた兄は事故に遭った。大した事故では無い。頭部を怪我して、派手に流血はしたが、命の心配をするようなものではなかった。けれども、波打ち際に倒れ伏す兄の姿に私は過去を…いいや、前世と呼ばれるのだろう記憶を思い出し、半狂乱になった。
    細かな事は覚えていない。その日の記憶は酷くあやふやで、記憶に靄が掛かっているようだ。はっきりと思い出せるのは、うんざりするほどに青々とした空と、波打ち際に倒れた兄の姿。それだけだ。
    気が付けば私は病室のベッドに居た。倒れていたのは兄の筈だのに、とうの兄は額と頬にガーゼを当てられて、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。訳が分からずぼんやりと兄を見詰める私に気が付くと、兄は苦しくなるくらい私を強く抱き締め、声を上げて泣いた。
    兄が泣くのを見たのはそれが初めてで、それ以来見たことがない。どうして兄がそんなに泣くのかと、私は唯々不思議でならなかった。
    後で聞いた話では、私は兄が運ばれた病院で手当てを受けている内に高熱を出して倒れたらしい。それから丸三日、目を覚まさなかったというのだから、兄の動揺も解らなくはない。
    兄は倒れて出血しはしたものの、傷そのものは然程深いモノではなく、直にガーゼも取れ、傷跡も残らないだろうという見立てを受けていた。父母が止めても頑として聞かず、私が目覚めるまでずっと病院に泊まり込んでいたらしい。
    兄は酷く私を心配したが、私はと言えば前世の記憶を得て、二十一歳の兄が健康無事である現実を複雑な気持ちで見ていた。
    戦艦松島が業火に巻かれたその日が過ぎるまで、兄が無事に居てくれるかと気が気では無かった。
    今このタイミングで私が記憶を取り戻したのは、兄の前世と関係があるのではないかと思ったからだ。だとすれば、因縁のその日までは何も安心が出来ないのではないかと構えていた。構えたところで八歳の身では何が出来る訳でも無い。例え前世の記憶が蘇ったど言っても、熱で頭がおかしくなったと病院に放り込まれるか、自室に閉じ込められるのが関の山だ。私はただ祈ることしか出来なかった。
    せめて、と、兄が実家にいる間、兄の傍を離れずに居た。もう海に近付いてくれるなと、兄に訴えながらその九月を過ごしたことを覚えている。
    結果として、兄は今も健康無事に生きている。
    八歳のあの時以来、元々過保護気味だった兄は、一層私に対して過保護になった。中学受験を勧めてきたのも兄だ。鹿児島の田舎に置いておくより、都心の学校へ通わせた方がいい。面倒は自分が見る。兄はそう言って両親を説得し、私を兄のマンションに住まわせた。
    丁度父の北海道転勤も重なり、両親としても都合が良かったのかも知れない。私にとってもそうだった。
    学生の身で、鹿児島の地に居ては人を探そうにも手立ては限られている。兄の居る東京へ出られるのは純粋にありがたかった。両親と一緒に北海道でも良かったのかもしれないが、何を探すにも調べるにも、情報の集まりやすい所に居られる方が良いように思えた。東京であれば、明治の頃の軍の記録も彼方此方に残っているだろうと考えたからだ。蘇った記憶は断片的で、確かめたいことも、調べたいことも山ほどあった。
    其れに何より、如何しても会いたい男が居た。
    前世で、自分がこと切れるその時まで、自分の傍らに居た男。私の右腕。その男。
    月島基に、会いたかった。
     会えないだなんて、少しも思わなかった。
     人の多い所へ出て行けば、何れ何処かで月島に合える筈だと、私は何の疑いも無く思っていた。
     今考えれば、随分と御目出度い話ではある。人の多い都会に出たからといって、そう簡単に会えるようなものでもない。すれ違う人の数は増えるのだから、見落とす可能性だってあるやしれない。考えれば解りそうなものだが、当時の私にはそんな考えは微塵も浮かばなかった。
    焦り始めたのは、兄の元で暮らし始めて半年を過ぎた頃だったろうか。
    毎日驚くほど多くの人とすれ違うというのに、何処にも、少しも、月島の気配を感じることが出来ないのだ。似た人さえ見付けられず、ただ日は過ぎていくばかりで私は途方に暮れた。
    夏休みには両親の居る北海道に渡り、折角来たのだからと両親に強請って記憶にある限り月島と縁のあった場所を巡ったが、其処でもやはり何の手掛かりも得られなかった。
     月島は一体何処に居るのかと、其ればかり考えていた。どうにか月島に行きつく手立てはないかと、暇さえあれば図書館で当時の資料を漁り、多くの人が流れゆく雑踏を何時間も見続けることもあった。流れる人混みのその中に、月島が紛れていないかと、居ればきっと見付けられると信じていた。
    一度、兄に頼み込んで月島の郷里である佐渡へ連れて行って貰ったこともある。
    明治の頃には、何度連れて行ってくれと言っても月島は決してそれに応えてくれることは無かった。良い思い出のある場所では無いからと言われてしまっては、終いには私も何も言えなくなって、結局、新潟に赴任している間にも佐渡へ渡ることは無かった。
    初めて訪れた佐渡は穏やかな街で、明治の頃の空気を僅かながら残してくれているような気がした。この島の何処で、どのように月島が過ごしたか私は知らない。けれども確かにこの島で暮らしていただろう月島を想って数日を佐渡で過ごした。けれども、結局、月島に繋がるモノは何も見つからなかった。
     どうしたら、月島を見付けられるのか、いよいよ解らなくなりかけていた。月島は私を探してはいないだろうか。いいや、きっとあの男なら私を探している筈だ。そうに違いない。
    月島に、明治の記憶があるのなら。
     だが、もし、明治の記憶が無かったら。
     何も思い出さず、現代をそのままに生きているのだとしたら。私のことなど思い出す筈もなく、当たり前に今の日常を過ごしているのかも知れない。或は、月島が今、この時代には居ないという可能性もあるだろうか。
     後者の可能性を考えて私はゾッとした。私がここにいるというのに、月島が居ないというのが受け容れ難かったのだ。
    私がここに居るからには、月島が居ない筈がない。そう信じていた。そうであって欲しいと願っていた。
     見つからないのであれば、見付けて貰えば良いのではないか。記憶が無いというのなら、記憶を呼び覚ます何かがあればいいのではないか。そう思い始めたのはいつだったか。
     如何すれば月島が私を見付けられるだろう。何のきっかけがあれば前世を、私を、思い出してくれるだろう。
    考えた末に、私は物語を書き始めた。そんな事を思い付いたのは、月島の手掛かり欲しさに本ばかり読んでいたせいだろうか。
    月島も晩年はよく本を読んでいた。若い頃は読めなかったし、読もうとも思わなかったから。と、そんな事を口にしながら、丸眼鏡をかけて小難しそうな露西亜語の本を開いていたことを覚えている。
    月島は今も本を読んでいるだろうか。だとしたら、本を作れば、月島の目に留まるだろうか。
    私と月島の事をモチーフにして物語を書けば、前世を、私を、思い出してくれるだろうか。
    そうして、私を見付けてくれるだろうか。
    祈るような気持ちで一作目を書き上げたが、私はそこではたと気がついた。作品を書いただけで本になるものではない。当然の話である。
    それでもそこに考えが至らなかったのは、自分が子供だったのか、いよいよ月島の事しか考えていなかったせいか。どのみち、今考えれば馬鹿げたことをしたモノだと思う。当時の私には書いたものを如何すれば本にすることが出来るのかという考えが無かった。
    迷った挙句、目に留まった文芸誌に書き上げた原稿を送り付けた。
    全く、子供のすることは突拍子も無い。昔から月島にはよく叱られていたが、今にして思えばよく叱ってくれたと有難く思うくらいだ。
    当然に中学生の書いたようなモノなど相手にされる筈が無かったが、私は運が良かったのだろう。
    その時私が原稿を送り付けたのは『小説・ほくと』という文芸誌で、半年ほどして原稿の束と菓子折りを手に編集者が私を訪ねて来た。そしてその編集者というのは、懐かしいその人…鶴見中尉殿だった。
    いいや、中尉殿ではない。その頃の肩書で言えば鶴見篤四郎副編集長だった。思いもかけない人の、思いもかけない訪問と再会に私は驚いて腰を抜かした。玄関先でへたり込んでしまって鶴見さんを随分驚かせたものだ。
    急に訪ねて申し訳なかったと詫びる鶴見さんには、明治の記憶など無いのだとその口振りですぐに解った。
    鶴見さんは一編集者として私の作品を眼に留め、会いに来たのだと言って下さった。粗削りだがよく書けていると、作品を褒めて下さって、作家としてデビューさせたいと、それまでのサポートを申し出てくれたのだ。
    鶴見さんの申出に、私は知らぬ間に泣いていた。
    兄も、鶴見さんも、作家になれる道が出来かけたその事を喜んでいるのだと思ったようだったが、そうではなかった。
    鶴見さんには何の記憶も無い。それでもこうして、月島に近い人に縁が繋がったことが嬉しかったのだ。
    鶴見さんも、同席していた兄も驚いて狼狽えたが、私はただ、ただ、嬉しかった。
    作品を発表するまで凡そ1年あまり。何度も書き直しては鶴見さんの指導を受けた。何度顔を合わせても、どれだけ話をしても、鶴見中尉殿は鶴見副編集長のままで、私が自分の部下であった事など少しも思い出す気配も無かった。けれども、私と、私の作品に真摯に向き合って下さる鶴見さんは、遥か昔に初めて会ったその頃の鶴見さんのようで、時折胸が切なくなった。あなたが居なくなった後、私なりに頑張りました。月島もよく仕えてくれたのですよ。と、報せることが出来ないことを、ほんの少し、もどかしく思った。今更、そんな事を報せた所で、どうにもならないのだけれど。
    どうにか作品を完成させ、いよいよ『小説・ほくと』に掲載が決まった頃、運悪く、鶴見さんは別の部署へ移動となった。
    いつでも頼って来てほしいと、鶴見さんは引継の挨拶の時にそう言ってくれたが、私は鶴見さんとはそれでお別れなのかも知れないと、そんな事を思っていた。
    鶴見さんは私の担当を外れたが、鶴見さんの手を借りて世に出た作品は世間に受け容れられ、思わぬ注目を浴びることになった。
    本名や性別などを一切伏せて作品を発表したのが、一際注目を集めたらしい。それも全て鶴見さんの案だったのだが、世間が騒ぐ頃には鶴見さんはもう別の部署に居たのだから皮肉なモノだと思う。
    書籍化や映画化の話の対応の大半は兄に任せて、私は作品を観てくれたかも知れない月島からの連絡を待っていた。
    手紙の一つでも編集部に届かないものだろうかと待ち続けたが、何通手紙が届いても、その中に月島からの手紙を見付けることは出来なかった。
    作品は書籍にもなり、映画にもなった。メディアでも沢山取り上げられた。それでも、月島に繋がる手掛かりは何もなかった。これでは、何のために書いたのかと私は失望していた。
    世間的な成功や作品の評価など、私は少しも求めてはいなかった。ただ、月島を見付けたい。月島に見付けて欲しい。それだけだったのだ。
    此れだけ注目を集めても、何も見つからないという事は、やはり月島は居ないのかも知れない。それならば、もう作品を書く意味などない。私は、本心でそう思っていた。元から一度きりのつもりだったのだからと、何度となく熱心に次回作の話を持ってきてくれていた鶴見さんの後任の編集者には、随分と冷たく当たっていたと思う。
    月島が居ないのならば、この先を如何して生きていこう。生きて行くことの目的を失くしたような気がして、そんなことをぼんやり思っていた矢先だった。菊田さんが私の元を訪ねて来たのは。
    『新鋭社』の名刺を持って、次はうちで書かないか。焦らなくていい。いつまでも待つ。菊田さんはそう言った。
    にこやかに私に話しかける彼にも、勿論、明治の記憶など無かった。
    其れが当然なのだ。鶴見さんもそうだった。兄にも、両親にも前世の記憶など露ほども無い。斯く言う自分だって八歳で熱を出したその時までは何も思い出してはいなかったのだから、其れが当然だろう。
    けれども、こんなにも、前世に所縁のある人間が次々と現れて、月島だけが居ないという事があるだろうか。いいや、そんな筈は無い。月島はきっと居る。居る筈だ。
    そう信じて。信じ込んで。月島を見付けるまではと次の作品に取り掛かることを決めて、菊田さんに了承の返事をした。
    菊田さんは、私の返事にとても喜んでくれた。ガッツポーズと笑顔を見せて「全力でサポートするよ」と言ってくれたことを、嬉しく思った。
    その時以来、菊田さんは私の担当編集者になり、今では文芸誌『新鋭』の編集長になっている。
    作家になりたくてモノを書き始めた人間ではないから、幾つも作品を量産するようなこともなく、年に1作か二作というペースで作品を発表していたが、菊田さんはそんな私にも真摯に付き合ってくれた。
    大学卒業を機に就職も考えたが、兄も、菊田さんも執筆に集中することを勧めてくれた。アレは案に、お前には会社勤めなど向いていないと言われていたのではなかったかと思うが、其の勧めもあって、どうにか作家として生計を立てられるようにはなった。月島を想って、月島の為に書いている物語が人々に届くのを不思議に思いながら書き続けていた。
    書き続けて居られたのは、時折届く見知らぬ誰かからの手紙が、私をまた作品を書こうという気にさせてくれたからだ。
    一度、長い手紙を貰った事がある。結婚して子供を授かったばかりだという女性からの手紙だった。
    その手紙には、彼女と幼馴染の男性の話が書かれていた。幼馴染と彼女はお互い想い合っていたかも知れないのだが、長年お互いの気持ちを確かめることなく曖昧なままの距離で居たという。彼女は、曖昧さにけりをつけようと私の作品を幼馴染に勧めたらしい。
    けれども幼馴染の男は彼女の勧めを聞かなかった。彼女はそんな幼馴染に少し失望して、それ以上に、安堵したという。
    自分達はこの曖昧なままでいいのだと、そう思えたと。幼馴染と自分は此処より先に進むことは無いのだと、不思議と納得して自分の中でけりをつけることが出来た。作品の中の二人のように、別の道を進むようになったとしても、心のどこか奥底で、よき思い出としてしまうことが出来るようになった。全てをはっきりとさせなくてもいいのだと、安堵したと彼女はそう手紙に書いていた。
    彼女が幼馴染に勧めた作品は、映画にもなった私の処女作だった。その作品の中で、想い合う二人は最後に別れを選ぶ。
    当初は、共に歩む路を選ばせたのだが、鶴見さんの提案で最後を書き換えた。其れが評価されたのだが、映画化の話が来た時には、当初の構想通りに脚本を書き換えた。
    手紙を寄越した彼女は、映画での改変に驚いたが、好意的に見たという。もしも小説の最後が映画と同じだったら、自分の判断は違ったろうかと考えるけれど、今は自分の決断に満足していると、作品との出会いに感謝を綴って手紙は終わっていた。
    自分の書いたものが、例え月島に届かなくとも、何処かの誰かには何かを届けているのかと、安堵にも似た心地がした。
    全て月島の為に書いていると知れたら、読んでくれている人たちはさぞ失望するだろう。そうとは解っている。解っているけれど、其れが事実なのだからしようがない。
    月島を見付けたい。月島に見付けて欲しい。その目的が叶ったら、私はきっとモノを書くことを辞めるだろう。
    例え求めてくれる誰かが居たとしても、きっとそうなるのではないかとずっと思っていた。
    そしてここ数年は、月島を見付けることは出来ないのではないか。今生では、会えないのではないかと思い始めていた。
    そうなってしまっては、作品を書く気にもならず、根気よく次回作を待ってくれている菊田さんには申し訳なくなるばかりだった。その上『小説・ほくと』に鶴見さんが編集長として戻ってきて、再び『ほくと』で書かないかと声を掛けられては、如何していいか解らなくなった。
    書き続ける意味があるだろうか。書いたところで月島にはもう会えないのではないか。それならば、書く必要はないのではないか。一体何のために、どんな物語を書けばいいのか。
    何も解らなくなって、ふらりとマンションを出て宛も無く電車に乗った。その駅で降りたのも、なんとなく、だった。ただ、なんとなく。気が向いて、寂れた小さな駅に降りた。目的など何もある筈が無かった。
    夏の暑い日だった。
    駅前から続く古めかしい商店街は、其れなりには賑わっていた。個人経営店とチェーン店が混在する商店街をぼんやりと無目的に歩いている内に、ふと喉の渇きを覚え、コンビニにでも寄ろうかと思い掛けた所でその喫茶店が目に入った。
    『喫茶 ツキシマ』
    レトロなロゴの、昔ながらの喫茶店は店の窓の大半を蔦の絡まる草に覆われた静かな佇まいをしていた。
    「…月島…」と、思わず口にその名を乗せて自嘲した。
    そんな偶然があるものか。と思い、それでも、此れも何かの縁かも知れない。と、店の傍まで歩み寄り、窓から店の中を覗いてみた。そうして、其処に見た光景に目を疑った。
    カウンターの奥に一人グラスを磨いている男の姿が見えた。白いシャツを着たその男は、私が捜し続けいる男に違いなかった。
    月島基に、違いなかった。
    叫び出しそうになる衝動をどうにか耐えて、口許を抑えながら一度店の前を離れた。
    アレは月島だ。月島基だ。きっとそうに違いない。私が月島を間違ったりなどするものか。けれども、月島は如何だろう。記憶があるかどうかも解らない。記憶があったところで、其れが断片であったなら、私を覚えていないかも知れない。何も覚えていなくて、今を幸せに生きているなら、今更明治の話を持ちだすのは月島の為ではないかも知れない。
    あんなに会いたいと、探し続けていたというのに、いざその人を目の前にした途端、如何していいか解らなくなった。
    店に入る決心をつけるまで、用も無く商店街を何往復しただろう。人通りはそう多くは無いが、いい加減、誰かに不審がられてもおかしくないと、何往復目かに漸く決心がついた。
    『喫茶 ツキシマ』の看板を見詰め、深呼吸をひとつ。
    落ち着いて、普段、喫茶店に入るのと同じように。そう自分に言い聞かせてゆっくりと店のドアを開けると、ドアの向うには、確かに月島が居た。
    八歳で記憶を取り戻して以来、探し続けた月島が居た。前世で別れてからというなら、凡そ六十年ぶりだろうか。
    記憶の中に在る月島その儘の姿に、私は泣いてしまいそうだった。それでも、内心の動揺を気取られないよう、ぐるりと店内を見渡して店の奥に二人掛けの席を見付けると唯の通りすがりの客を装って席についた。
     『おすすめは、なんですか?』
     お冷を運んできた月島にそう問い掛けると、月島は少し考えて『クリームソーダですかね?』と答えた。
     その瞬間、月島に記憶があるのではないかと思った。
    其れは、思い過ごしで、唯の偶然だったのだけれど。
    或は、無意識化の何かが月島の其れを選ばせたのか知れないけれど。

     クリームソーダには、思い出がある。
    金塊戦争の後、中央の詰問を受けに月島と二人で東京を訪れていた時の事だ。帰りの列車を待つ間にカフェに立ち寄った。そんな悠長な事をしている場合では無かったのだけれど、偶にはいいだろう。と、子供みたような事を言って、無理に月島を連れて行った。そこで月島と一緒に飲んだのがクリームソーダだった。あの頃は、ソーダファウンテンと言ったか。名称は違ったが、確かに同じものだった。
    月島は贅沢品だと言って拒もうとしたが、無理を通して一緒に頼んだ記憶がある。月島は、こんな所で呑気にしているところを見つかったら、また何を言われるかと苦々しい顔をしていたが、存外気に入ったのか、帰りの列車では『今度は、こそこそせずに堂々と行けるようになってからにしましょう』等と言っていた。
    結局、その店にもう一度足を運ぶ機会は得られなかったのだが、若しや月島にその記憶があるのかと、期待せずには居られなかった。
    『じゃぁ、お勧めのクリームソーダをください。』
    期待を込めてそう告げると、やがて、翡翠色に真白なアイスを浮かべ、真っ赤なチェリーをひとつ飾ったクリームソーダが運ばれてきた。
    懐かしく思いながら口をつけたが、そう思うのは私だけなのだとは、何を問わずとも解ってしまった。
    店の中に居る月島は、あまりにも他人行儀で、ごく当たり前の『喫茶店のマスター』だった。
    如何という事は無い。当たり前の話ではあるが、月島に前世の記憶など露ほども無いのだ。
    明治の事も、私のことも、まるで知らない、解らないのだ。失望はしなかった。身の回りに居る、多くの人がそうであるように、月島もまた、ごく当たり前に現代に生まれ直している。それだけの事だ。
    私のように、記憶を取り戻してしまうのが稀有なだけで、何も知らない、解らないのは当然の話だ。寂しく思わなかったといえば嘘になるが、そんなものだと妙に納得した。
     初めて店を訪れたその日、月島とはそう多くの言葉を交わしたわけでは無かった。
     それでも、月島が、前世と変わらない月島だと解って、私は其れが堪らなく嬉しかった。
     会ったばかりだというのに、そんな月島を好ましく思った。月島基を、好きだと思った。記憶があろうと、無かろうと。出来る限り、月島の近くに居たい。そう思った。

     菊田さんに引っ越しの相談をしたのは月島を見付けた次の日だった。
    電話で話をするのが憚られて、会って話がしたいと言うと、菊田さんは忙しい合間を縫って会いに来てくれた。きっと、やっと書く気になったかと其れを期待して飛んで来てくれたのだろう。それが解るから申し訳ないような気がしたが、他に相談できる相手も居なかった。
     兄は近くに住んでいたが、私に甘い兄では何を相談しても私の良い様にすればいいと肯定するばかりで、少しも冷静でも公正でもないような事を言うものだから、誰か別の、冷静な人の声を聞きたかったのだ。
     環境を変えれば、また何か書けるかも知れない。とそんな事を言った覚えがある。
     その町に月島が居たから。等とは言える筈も無かった。言ったところで、其れは誰だ。どんな関係なんだと聞かれて其れを説明しても、納得させられるような説明など出来る筈も無い。ただ、ここでは無い所へ移ってみようと思う。月島の店のある、あの町辺りは如何だろうかと、其処へ移ることをどう思うかと、そんな風に問い掛けた。
     菊田さんは、急に何を言い出したかと驚いた様子だったけれど、私の話を真剣に聞いてくれた。
    「その街が、気に入ったのかい?」
     菊田さんの其の問いには、未だ一度行っただけだからよく解らない。と、答えた。
     気に入るも気に入らないも、月島が其処に居るのだから、其れだけで良いような気もしたけれど、街自体はどうだったろうか。月島の事ばかりで、正直あまり印象に残っていない。
     私が俯いたままでいると、菊田さんは少し考えて「それなら」と私の顔を上げさせた。
    「何度かその街を訪ねてみて、其処がイイと思えるなら、物件を探してみるというのはどうだ?」
     物件探しなら俺も手伝おう。菊田さんはそうとも言った。
     ニコリと微笑まれて、私は知らない内にこくりと頷いてしまっていた。
     
     それから、菊田さんの言うように、何度か町を訪ねてみた。月島の店には、立ち寄ることも、立ち寄らないこともあった。本音を言えば、毎回立ち寄って月島の顔を見たかったし、一言でも話をしたりしたかった。けれども、小さな町の喫茶店に、見慣れない一見客が度々通うのは迷惑だろうかなどとも思って、毎回立ち寄るようなことはしなかった。
     街に通い始めて気付いたことがある。
     月島の居るその街には、随分と見知った顔が多かった。明治の頃に、何処かで見たようなあの人も、その人も、街の至る所で見掛けた。
     月島の店の常連になっている者も多いようだったけれど、その誰にも明治の記憶など無いようだった。
     街の空気は穏やかで、のんびりとしている。そこだけ時代から取り残されたように時間がゆっくりと流れているようで、目新しい刺激などは欠片も無いようだった。
     都心からはそう離れてもいない筈だのに、何処かの田舎町のような雰囲気を漂わせているその街は、月島の店があることを除いても、随分と居心地の良い街だった。
     この街なら。と、思う。
     例え、この先、月島が何を思い出すことも無くとも。月島と、前世のような関係になれなくとも。
     一人きりで、ゆっくりと暮らすのも悪くない。
     時折、月島の店を訪ねて、月島の顔を見られるのなら。そうして、月島の作ってくれたものを食べられるのなら、移り住むにはやはり充分に思えた。

     相談したとおりに件の街に引っ越そうと思うと伝えると、菊田さんの動きは早かった。
    「うちの大事な作家さんだからな」と笑って、新しい住まいや引っ越しの段取りの殆どを手配してくれた。その代り、次の新作は必ず『新鋭』で出す事。と言われて、断ることなど出来る筈が無かった。
     引っ越した後に、鶴見さんに連絡をすると、相談してくれたら部屋もなにもかも用意したのにと酷く残念がられたが、そうされるような気がしたから、菊田さんを頼ったのだ。
     鶴見さんには恩もある。けれども、前世の事も考えると、近くに居て、もしも、鶴見さんを切欠に月島が記憶を取り戻したりなどしたら、私はきっと少なからずショックを受けてしまうような気がして。だから、出来るなら、あまり二人を会わせたくない気持ちもあった。
     それだと言うのに、鶴見さんの誘いを断る場所に月島の店を選んだのは、本当に矛盾している。と思う。
     鶴見さんと向き合うのに、月島に傍にいて欲しい。そんな風に思ってしまった。あまりに女々しい考えに自分で辟易してしまう。
    一度で断り切れず、二度も呼出してしまったけれど、当初危惧したような事は何も無かった。月島は鶴見さんに何の反応も示さなかった。どちらかと言えば、あまり好意的に見ていなかったような気がする。気のせいかも知れないが。
    余計な心配をしていた自分がまるきり馬鹿みたいに思えた。イイや、実際、馬鹿なんだろう。月島に関しては。

     移り住んで、月島の店に通うようになると、其処に居るだけで町の面々や、月島の暮らしぶりを知れるようになった。
    商店街の中に在る月島の店は、同じ商店街で暮らす常連客たちでもっているような店らしかった。
    朝に晩にと色んな人が店を訪ねては、月島と世間話をして帰って行く。見知った顔、知らない顔、色々だ。
    そうした常連の中には、意外な顔もあった。
    尾形百之助だ。
     曰く因縁のあるその男は、いつも府抜けた顔をしてカウンターの隅でミックスジュースを啜っていた。
     私の姿を見ても何の反応を示すことも無く、いつも退屈そうに暫くカウンターに座っていては帰って行く。私より長居してカウンターの隅で居眠りをしているような事もある。
     前世の尾形からは終ぞ想像のつかないその姿に驚いたが、明治の柵が無ければあの男の本質はそうであったかも知れないと思うと、居た堪れないような気にもなった。
    今は平和に暮らしているならそれでイイ。今生、関わり合いになるような事は無いだろう。そう思っていた。

    「少尉殿。」と、呼ばれて振り返ったのはいつだったか。月島の店を出た、その帰りのことだ。自宅へ向かう道の途中、公園に差し掛かったところで声を掛けられた。驚き、振り返ったその先に居たのは尾形だった。
     尾形は振り返った私に愉快そうに口を歪めると「やっぱりアンタでしたか」と言って笑ってみせた。
    「尾形…お前にも記憶が…?」
     問い掛けると、尾形は肩を竦めてみせて公園の中へ入って行った。後をついて行くと尾形は自動販売機の前で足を止め、缶コーヒーを二つ買うと、その内の一つを投げて寄越した。公園の入り口に程近いベンチに腰を下ろした尾形に倣って、隣のベンチに腰を下ろす。
    「軍曹殿に声はかけんので?」
     缶コーヒーの蓋を開けながら、尾形はそんな事を聞いてきた。こちらの方は見ようとせず、視線を在らぬ方に向けたままだ。咎めるでも責めるでもない、ましてや揶揄う風でも無い。至って平板な声音で其れを問う尾形の心理を計りかねて返答には随分迷った。
    「…月島に記憶は無い。だから、今のままでもイイと思っている。」
    「本心ですか?」
     迷いながら漸く返した答えに、尾形は間髪入れずにそう聞き返してきた。
    「っ貴様には、関係ないだろう。」
     カッとなって思わず吐き捨てるようにそう言うと、尾形は鼻で嗤って「そりゃそーだ。」と零した。
     笑っているその顔に、明治のような影は無い。
    「…何が目的だ?」
     いよいよ真意を測りかねてそう訊ねると、尾形は意外にも「別に。」と事も無げに答えた。
    「明治じゃあるまいし。なにも物騒なことはしませんよ。警察の世話になるのも御免ですし。」
    凡そ、尾形百之助とは思えぬ物言いだが、目の前の男は確かに尾形なのだろう。
    「記憶のある人間が珍しかったから、声を掛けてみただけです。」
    「…他に、記憶のある者を知っているか?」
    「…いいえ。誰も。」
    「…そうか。」
    私の声には、落胆のようなものが滲んだろうか。尾形はチラと此方を伺った目に哀れみのようなモノを乗せて、小さく息を吐いた。
    「アンタは、軍曹殿を探してたんでしょう?」
    「…そうだ。悪いか。」
    「いいえ。見つかって何よりでしたね。」
    そうして笑う尾形は、まるで知らない顔をしていた。
    「俺は別に記憶のある人間を探してたわけじゃない。軍曹の店に行きついたのも、アンタを見付けたのも偶々だ。」
    缶コーヒーをぐいと煽って空にした尾形は、軽くなった缶を弄びながら自嘲気味に話しを続けた。
    「俺ね、ライターなんですよ。俺の書くモノは、少尉殿の作品の載るようなご立派な文芸誌じゃなくて、安物の週刊誌に載るような記事ですけどね。」 
     自嘲気味に口の端を上げて、尾形は話を続けた。
    「正体不明の人気作家の素顔を暴いてやろうと思って。散々彼方此方探って痕跡を追っていたら、辿り着いた先が少尉殿だったってわけです。」
    驚きましたけどね。と尾形は笑っている。
    「…私のことを、記事にするのか?」
    この男の本質が、明治のあの頃と変わっていないなら、きっとそうするのだろう。伏せて欲しくば如何しろと…一体何を要求してくるかと身構えたが、その予想は見事に外れた。
    「…そのつもりでしたけど、止しておきます。」
    事も無げに言って、尾形は空き缶をゴミ箱に投げた。
    緩く放物線を描いた缶は、高い音をさせて見事にゴミ箱に吸い込まれた。
    よし。と、子供みたように嬉し気に呟く尾形の横顔に「何故だ」と問うと、尾形は笑ったまま「あの店、どうです?」と聞き返してきた。
    「どう…って…」
    「俺ね、あの店を気に入ってるんですよ。」
    ベンチから立ち上がった尾形は、伸びをして此方を振り返った。
    「気に入った場所が、騒がしくなるのは御免なんでね。」
    じゃぁ。と、去っていった尾形は言葉通り私のことを記事にすることは無かった。加えて言えば、それ以後、店で顔を合わせたとしても、尾形は素知らぬふりをし続けてくれた。
    今生では、何の曰くも無い、赤の他人なのだと。尾形は態度でそう示してくれているようで、私はそれを嬉しく思った。

    尾形が月島に私の書いた本を渡して読むように勧めていたと知ったのは、月島が記憶を取り戻し、私を迎えに来たその日から、随分後になってからの事だった。
    月島は恐らくその本を切欠に明治の記憶を取り戻したのだろう。
    尾形のお蔭で月島が記憶を取り戻したのかと思うと複雑ではあるが、尾形は特段その事を恩に着せるようなこともなく、相変わらず唯の常連として店に通い続けている。
    一度だけ、月島が席を外して店に二人だけになった時に尾形は「良かったですね」と柄にもない事を言ってきた。
    その言葉に驚いた私に、尾形は笑っていた。その時に、何と答えたかは覚えていない。ただ、尾形が笑っていたという、その事だけは覚えている。こんな風に笑う男だったのかと、そう思ったことも。今生では、尾形と笑い合える仲になれたことを、嬉しいと思ったことも。
    勿論、そんな事は月島には伝えてはいないのだけれど。
    告げたら、少しは妬いてくれたりはするものだろうか。

     そんな風に思うのは、月島が昔とは少し違うからだろう。
     『俺と、一緒に生きてくれ。』等と、随分と情熱的な事を言った月島は、その言葉とは裏腹に何もかも慎重だった。
     記憶を取り戻したその日に私を抱き締めてくれたというのに、以来、それ以上の事はしてこない。
     手は繋いだ。髪や、頬や、背中を撫でられもした。
     『鯉登さん』と私を呼ぶ月島は、服を着たまま私を抱き寄せ、抱き締めることはするけれど。其れまでだ。
     前世の、私の記憶にある月島のように私を名前や愛称で呼ぶことも無ければ、口付けを寄越すことも、肌を合わせることもしようとはしない。
     月島は、決まって私を抱き締めた後、酷く申し訳なさそうな顔をして、名残惜し気に身体を離してしまう。
    『お休みなさい。また明日。』
     そう言って、寂しそうに笑って一人で自宅に帰る私を見送るのだ。後を追って来ることも無い。
     何度か唇が触れそうになったことはある。それでも、決して触れずに離れて行ってしまう月島に、何故と聞いてしまいたいけれど、其れが出来ないままでいる。
    理由を尋ねて、答えを聞いてしまったら…その答えが、願っているものと違ってしまったら、それきり月島に触れることさえ出来なくなってしまうような気がして。どうしても、聞くことが出来ない。
    情けない。と我ながら思う。女々しいにも程がある。とも。
    こんなことを考えていると知れたら、月島は呆れるだろうか。下らないと笑うだろうか。明治の昔から何十年と共に在った筈だのに、月島の事なら少しは解っているつもりでいたのに、そんな事すらわからない。
    月島は、私に触れたいと、思ってはくれないのだろうか。前世を思い出しても、明治のあの頃のようには、戻りたいとは思わないのだろうか。若しやあの頃も、本心は違っていたというのだろうか。そんな事は無いと思いたいけれど。

    「もう少し、居ませんか?」
     月島が、そう声を掛けてきたのは明日が『喫茶 ツキシマ』の定休日というその日の夜だった。
     月島の店は夜九時まで店を開けている。とは言え、大抵は八時過ぎには客足が途絶えて九時を待たずに店を閉じるのだと言うが、その日は珍しく夕方から客足が途切れなかった。
    午後の遅くに店を訪れていた私は、途中から席を空けてほんの少し月島の手伝いをしたりもした。
     手伝いと言っても厨房に立てるわけではなし、皿洗いやテーブルの片付けをする程度だけれど。それでも、月島は甚く喜んで、感謝してくれた。
     礼を言われるほどの事はしていないと言うと、月島は「飯ぐらい食べて行ってください。」と言って、店内の照明を落とし、灯りをカウンターだけに残すと、店のドアにCLOSEの札を掛けた。
     閉店後の店に居るのは初めてだ。定休日に訪ねたことはあるけれど、こんな風に、つい今まで営業していた店の明りが落とされた所に立ち会うことは無かった。
    定休日前に店を訪ねても、大抵は明日の約束をして閉店前に店を後にしていた。
    また明日。と言いながら、出ていく背中を月島が引き留めてくれはしないかと思いながら、いつも一人で自宅までの道を寂しく歩いていた。
     今日もそうなるのだろう。そう思っていたから、単純に月島の言葉が、今この状況が嬉しくて、落ち着かなくなる。
     カウンターに戻ってきた月島は「直ぐに用意しますから」とカウンター下の冷蔵庫から幾つか食材を取出して手早く準備を進めていく。
     明治の頃にも月島はよく食事の支度をしてくれていた。軍に居た頃は飯炊きの使用人を雇っていたが、終戦間近にはそれも儘ならなくなり、退役してからは殆ど月島の世話になっていたと言ってもいいだろう。
    自分は器用だという自負があったが、どうにも食事の支度だけは不得手で月島に頼ってばかりだった。そう記憶している。料理が不得手なのは今も同じだ。昔よりはましになったが、出来るとは言い難いだろう。
     こうしてまた、現代でも月島に食べさせてもらうのかと思うと元から私はそうした運命なのだろうと思う。
     
     「お待たせしました。どうぞ。」
     ぼんやりとしている内に目の前に置かれたのはナポリタンだった。ケチャップの焦げる甘い香りが鼻先を擽る。
    『喫茶 ツキシマ』のナポリタンは鉄板に乗せられて提供される。玉ねぎ、ピーマン、マッシュルームにベーコン。材料は至ってシンプルだ。たっぷりのトマトケチャップと一緒に炒められたスパゲティは甘さと酸味が絶妙な人気メニューだ。スパゲティの下に薄焼き卵が敷かれているのは親の代からの拘りなのだと、いつだか月島がそう話していた。
    「いただきます。」と手を合わせて、カウンターに二人で並んでナポリタンを食べ始めると、月島は漸く落ち着いたのか少し気の抜けた声を漏らした。
    「今日は、本当に助かりました。」
    「さっきも言ったろう?大したことはしていない。」
    「いえ、片付けてくれるだけでも充分ですよ。」
    「…私は、お前の役に立ったか?」
    「とても。」
     月島のその言葉が唯々嬉しくて、月島の作ってくれたナポリタンが美味しくて、こんな風に、月島と一緒に居られるのなら、もうそれだけで十分に思えた。
     今世で、月島を探し続けて、もう会えないのかと諦めかけていた十数年を思えば、こうして当たり前に傍に居られるだけで充分じゃないか。例え、明治の昔のような関係に戻らなくとも…
    「…鯉登さん。」
     不意に呼ばれた声に顔を上げると、月島は空になりかけた鉄板をみつめたまま唐突に、本当に唐突に、その言葉を口にした。
    「…今日、泊って、いきませんか?」と。
     何を言われたのか、解らなかった。
    「…帰らせたく、ないです。」
     そう言葉を重ねられて、漸く、月島が何を言っているのかを理解した。理解はしたけれど、月島の言葉が直ぐには信じられなくて、だから、応えることが出来なかった。
    「…っ…いきなり、すいません…っ」
     きっと月島は、それを拒否だと感じたのだろう。
    「昔の事を思い出したからと言って、こんな…未だ、再会して、日も浅いのに…勝手なのは解っています。あなたの負担になることも、解っています…焦っているわけじゃ、ないんです…けど、無理強いをしたいわけじゃなくて…その…っ」
    「月島」
     名を呼ぶと、月島はびくりと肩を跳ねさせて口を閉ざした。
    「…ずっと、我慢、していたのか?」
     そろ、と、そう問い掛けると、月島は相変わらず此方を見ないまま、随分と悲壮な顔をして黙って頷いた。
     なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。私たちは、お互いに、何の遠慮をしあっていたんだろう。前世では何十年も連れ添って居たというのに。その上、やっとまた巡り合えたというのに。
    「月島」と呼ぶと、呼ばれたその男は、私の愛しいその男は、そろりと顔を上げて此方を見た。
    「…よかよ。」
    月島のそんな顔を見るのは、いつ以来だろうか。
    不安と欲の綯交ぜになった、少しも余裕のない男の顔だ。
    「…よか。」
    笑って繰り返すと、月島の深い碧の瞳がぐらぐらと揺れる。
    「今生は、もう、そうは思うてくれんのかと思うちょった。」
    半分笑って、半分泣きそうになってそう零したら、次の瞬間には月島に抱き締められていた。
    ぎゅう、と、抱き締めて来るその熱さが懐かしい。知っているその熱と、腕の強さに、月島だ。と今更のように思う。今、私は、月島基に求められているのだと思うと、それだけであまりにも幸せで、幸せ過ぎて、くらくらと眩暈がした。
    「鯉登さん」と呼ばれた声に視線をやると、少し身体を離して月島がそっと頬に触れてきた。
    明治のあの頃程ではないが、月島の手は指の太い、ごつごつとした、仕事をしている男の手だ。
    少し乾いたその手が、壊れ物でも扱うように触れて来るのが好きだった。
    そうしていながら、段々と夢中になって、何の遠慮も無くきつく私の腕や腰を掴むようになるのも好きだった。
    記憶にある仕草をなぞるように、月島の手が頬を撫ぜ、髪を弄って来る。耳裏を堅い指先でなぞられてぴくりと震えると、月島はふと息を漏らした。其れに誘われるようにゆっくりと目を閉じると、唇に熱が重なった。
    啄ばむような口付けの後に、月島の舌が唇を舐めた。薄く口を開くといまほど唇を舐めた其の舌が、口中に押入って来る。この身体では初めてのその感覚につい怖気づいてしまったんだろう。無意識に逃げそうになった身体は月島に確りと抱き寄せられて、口中の舌は絡め取られた。
    あぁ、そうだった。と思い出す。月島は、そうだった。
    普段は仏頂面をして朴念仁を装っていながら、いざその時になると昼間とはまるで違う獰猛な獣のような雄の顔をするのだ。
    「っん…っ…ふ…っ…っ」
    舌を擦り合わせて、唾液を混ぜ合って、息をするのも忘れそうになる。月島の熱に、思考も何もかも溶かされそうになる。頭がぼうっとして、何も、考えられなくなる。月島のこと以外、何も。
    夢中で互いを貪っていたからだろう。自分が何処に居て、どんな体制で居たかも解らなくなっていた。
    がたん。と派手な音がして唇が離れても、如何して月島が口付けを止めてしまったのか、私は直ぐには解らなかった。
    「っ…大丈夫、ですか?」
    月島に心配そうに顔を覗き込まれて漸く事態を理解した。口付けに夢中になった私は、カウンターの椅子から落ちかけていたらしい。其れを月島が抱き留めてくれたのだ。
    「っ…大、丈夫だ。」
    恥かしくなって俯くと、月島は私を緩く抱き締めて額に口付けを寄越した。
    「…場所、変えましょう。二階が、自宅ですから。」
    静かに告げて来る月島に「うん」と短く答えると、月島は触れるだけの口付けをして私の手を引いてカウンターの裏から続く階段へと足を向けた。

     月島に手を引かれるままについて行くと、やがて上下に分れた階段が見えた。下へ向かうものは地下にあるという倉庫に繋がって居るのだろう。
    月島に従って上階に繋がる階段を上がっていくと、ドアを一枚隔てた向こうには月島が暮らしている部屋が見えた。
     店の上階が自宅だとは聞いていたけれど、家に入るのは初めてだ。月島が子供の頃は両親と三人で暮らしていたという部屋には必要最小限の家具が置かれているだけだからだろうか、殺風景で広々としてさえみえた。
     ぼうっとした頭で玄関に突っ立っていると、月島が「こっちへ。」と私を呼んだ。
     僅かの距離を進もうとするのに、頭がぼうっとするせいかまともに歩くことも出来なくてふらついていると、月島は小さく笑って私の手を引き、そのまま私を抱き上げた。
    「!?っぅ、わ…ぁっ」
    「暴れないで。力抜いて下さい。」
     驚き声を上げた私を宥めながら、月島は涼しい顔をして部屋の奥へと進んでく。女子供ではないのだから、そう軽くは無い筈なのに、軽々と抱き上げて平然としているのは明治の頃から微塵も変わらない。記憶の中の月島そのものだ。其れがどうにも嬉しくて、目の前の月島の首元に縋りついた。
    「いいこですね。」と耳元で囁かれた甘ったるい声には「子ども扱いするな」と怒るところかも知れなかったが、そんな余裕は少しも無かった。
    月島に触れていたくて、触れられたくて、ただ、其れだけだった。
    灯りの無い寝室のベッドにゆっくりと下ろされて、そのまま口付けられる。静かな部屋の中で心臓の音だけが耳に煩い。
    口付けを続けながら、月島が器用に私の服を剥いでいく。服をはいだ傍から月島の手が、その熱が、直に肌に触れ始めるともう駄目だった。月島。月島。月島。ずっと待っていた。ずっと、ずっと、お前だけを。
    「…鯉登さん…」
    名を呼ぶ声に視線を送ると、真上から見下ろしてくる月島の顔が見えた。逆光でその表情はよく見えない。けれども…
    「…辛かったら、すぐに言って下さいね?」
     聞こえた声が、触れてくる手が、唇が、あまりに優しくて泣きそうになってしまう。口を開けば、堪えきれそうになくて黙って頷いてみせると私を「鯉登さん」と呼び続けていた月島が不意に「音」と懐かしい呼び方を口にした。肌を弄りながら、熱に掠れた声で「音」「音之進」と繰返す。呼ばれるその度に背筋が泡立って、それだけで気がふれそうになる。
    「音…音之進…っ…ずっと…触れたかった…」
     強く抱き締められて耳元で囁かれると、もうどうにかなってしまいそうだった。どうにか、なってしまっていたのかもしれない。
    全てを覚えていたかったのに、何もかもが朧で不確かで、霞の向うのように感じられる。
     ただ、それでも、一つだけ確かに感じたことはある。
    月島が私の中に居る。身体の一番奥深い所に、確かに居る。それだけは、確かに感じられた。今世を生きるこの身体の奥深くに月島を受け容れて、初めて、満たされたような気持ちになった。その事だけは覚えていられた。
    やっと、今世を生きていける。
    月島に抱かれながら、そんな事を思っていた。

    眼を開いて、最初に見えたのは心配そうに此方を覗き込む月島の顔だった。寝起きの霞む視界に瞬きを繰返していると、月島がホッと息を吐いて髪を撫でて来た。
    「…大丈夫ですか?」
    泣きそうな顔でそんなことを聞いて来る月島に「うん」と答えた声は掠れていた。
    思考は未だはっきりしなくて、身体には怠さが残っている。
    「水、持ってきますね。」
    そう言ってベッドを降りた月島の裸の背中には、紅く筋になった爪痕が幾つも走っていた。昨夜、私が付けた爪痕だ。
    そうだ。私は昨夜、月島に抱かれたのだ。あの爪痕も、この身体の怠さも、夢では無い。夢では無いのだ。
    ぼんやりと空になった隣を見詰めているうちにグラスを片手に月島が戻ってきた。グラスを受取ろうと起き上りかけると、月島は其れを眼で制してグラスの水を自身の口に含むと、そのままゆっくりと覆い被さって来る。
    意図を察して口を薄く開くと、月島はそっと私の顎先を捉えて口移しで水を飲ませた。触れた唇は昨夜の名残を思わせる熱を持っている。口中に注がれた水は、ほんの少し温くて甘い。
    「っ…ん、…っ」
    二度、三度と月島はグラスの水がすっかりなくなるまで口移しを繰り返し、最後には空になったグラスを手放して優しい口付けを寄越した。
    「…無理をさせて、すいません…」
    消え入りそうな声でそう告げた月島は、また泣き出しそうな顔をしていた。そんな顔をする必要など無いのに。
    「平気じゃ。…謝ったりせんでよか。」
    「…しかし…」
    「謝るな。」
    「っ…鯉登さん、」
    「私は嬉しかった。」
    俯きかける月島の眼を真直ぐに見て繰り返す。
    「ようやく、お前と触れ合えて…嬉しかった。」
    手を伸ばして月島の頬に触れると、唇の熱が嘘みたいにその頬はひんやりとしていた。
    「…月島は、そうは思ってくれないのか?」
    問い掛けると、月島は何かに耐えるようにギュッと目を閉じて頬を撫でていた私の手に自分の手を重ねて来た。
    「…思っています。…思ってますよ。」
     重ねた手に、力を込めて月島が繰り返す。
    「…嬉しいです。…あなたと、触れあえたことも。…こうして同じ朝を迎えられたことも。…嬉しいですよ。」
    「…月島…」と名を呼ぶと、思いつめたような顔をして「はい。」と返事を寄越す男が愛おしい。
    「…腹が減った。」
     ポツリとそう零したら、月島は一瞬目を丸くして、それから、ふはっと笑ってみせた。そうした意図では無かったのだけれど、ようやく表情を崩した月島にホッとしていると、月島は重ねていた手を離してくしゃりと私の髪を撫でた。
    「直ぐに、何か作りますね。」と言う月島に何か食べたいもののリクエストはあるかと問われたが、其れには緩く首を横に振って「カフェオレが飲みたい。」と告げると、月島は笑って。「解りました。」と答えてくれた。
    「…月島。」
     再びベッドを降りて寝室を出掛かるその背中に呼び掛ける。
    「はい。」と返事をして振り返った男は、酷く優しい顔をしていた。
    明治の昔に見たような、いいや、それよりも、うんと柔らかに感じられるその顔に湧き上がった感情は何と呼ぶのが正しいんだろうか。
    「…幸せだ。凄く。」
     知らずに漏れた言葉に自身で驚くうちに、月島の声が聞こえてきた。
    「はい。俺もです。」と。
     笑う月島のその顔に思う。
     あぁ、幸せだ。と。
     きっと、これから、何度となく繰り返すのだろう朝に、私は同じ事を思うのだろう。
    月島も、きっと。






    **********







    昔は
    出来なかった事だからこそ

    なんて

    言えば
    貴方は笑うのかもしれませんが。

    それでも

    だからこそ


    ***


    鯉登さんと付き合い始めて数か月。気付けば、俺の店、喫茶ツキシマには鯉登さんが居るのが当たり前になっていた。
    客として店で過ごしていることが大半だけれど、近頃は店が忙しくなってくると、テーブルを片付けて手伝ってくれることも増えた。店を手伝ってくれる時、鯉登さんが付けるようになったギャルソンタイプのエプロンは常連の一人である土方さんからのプレゼントだ。土方さんは以前から何処かへ出掛けたといってはちょっとした土産や季節のモノをくれることはあったのだけれど、流石にちょっと驚いた。『店に立つならこうしたものがあった方がいいだろう』と言われればその通りで、有難く頂いたエプロンは鯉登さんに良く似合っていた。お蔭で鯉登さん目当ての客も増えた。売り上げとしては喜ぶべきだろうが、恋人としては複雑な所だ。尤も、そんな客はごく一部で、店に来る大半はいつもの常連たちだから日常は平和なものだ。
     鯉登さんは、二人だけの時はカウンターに腰を下ろすことも増えたが、大抵は決まって奥の二人掛けの席に居て、店に来始めた当初と同じように書き物をしていたりする。
     此れまではずっと小説を書いていたけれども、近頃は菊田さんの勧めでエッセイや書評というものを書いたりしているらしい。日常的に活字をあまり読まない俺にはどちらも縁遠いものだけれども、評判は上々らしく、鯉登さんも楽しそうに書いているのが傍目にもよく解る。小説とはまた違う難しさがあるらしいけれど、それはそれで面白い。とは鯉登さんの弁だ。なんにせよ、恋人が楽しそうに過ごしている姿を見るのは悪くない。難しい顔をされているより余程いい。
    書くモノが増えれば編集者が訪ねて来る回数も増えた。打合せには大抵菊田さんが来ているが、時々菊田さんの使いだといって有古が訪ね来るようにもなった。菊田さんと一緒に有古が初めて店に顔を出した時には驚いたが、有古にも記憶はないらしく、酷く他人行儀な挨拶をされた。図体のわりに控えめで謙虚なところは昔と変わらないらしい。
    聞けば、有古は菊田さんの所の新人編集者で、鯉登さんの作品が好きで、担当になりたくて新鋭社に入社したという。編集者としての菊田さんにも憧れていると言って、鯉登さんともすぐ打ち解けて随分と親し気に話すものだから、つい余計な心配をしそうになるのは、我ながら悪い癖だと思う。
    其れではまるで鯉登さんを信用していないみたいではないか。そんな事は或る筈がないのに。
    つまらない心配をするのは、全て俺の自信の無さだ。その所為で、鯉登さんを随分と待たせてしまった。反省しきりだが、鯉登さんが俺を愛してくれていることは解っている。そのつもりだ。愛してくれていなければ、俺のような男の所に、鯉登さんのような人が週の半分も泊っていったりはしないだろう。
    鯉登さんを初めてこの家に泊めたその日から数か月。今では、鯉登さんは週の半分はうちに泊るようになっていた。
    鯉登さんがうちで過ごすようになると、少しずつ、少しずつ、家にモノが増えて行った。
    両親が佐渡に帰ってからずっと俺一人で、生活に必要な最小限のモノしか置いていなかった家に、生活を彩るモノがひとつ、またひとつと増えて、今では元の影も無い。
    殺風景だった部屋には花瓶が置かれ、季節の花が飾られるようになった。枯らしてしまうと鯉登さんが哀しむから、花瓶の水を替えるのが日課になった。ソファとテーブルの置かれていたリビングには肌触りの良いラグが敷かれ、何年も埃を被ったままだった姿見は、キレイに手入れされて鯉登さんの姿を映すようになった。
    「…ちゃんとした家みたいだ。」
    いつだか、自宅を見渡して思わずそう零したら鯉登さんは不思議そうな顔をしていたが、そう思ったのだから仕方ない。
    鯉登さんが訪ねて来るようにならなければ、俺はずっと『ただ眠るだけ』の家にしていただろう。それで特段不都合は無かった。そう思っていた。居心地のいい、落ち着いた住環境を整えようだなんて考えは俺には一ミリも無かった。俺は鯉登さんのお蔭で、やっと人並に人間らしい生活が出来るようになったのかも知れない。
    店の定休日が木曜日で、それに合わせて水曜と木曜に鯉登さんが泊っていくのが決まりごとのようになった頃からだったろうか、自然と家の中には至る所に鯉登さんのものも増えてきた。
    石鹸しか置いていなかった風呂場にはシャンプーとトリートメントとボディソープも置いてあるし、洗面所には歯ブラシが二本並んでいる。俺には全く必要ないドライヤーも用意したし、クローゼットの中には、幾つか鯉登さんの着替えも置かれるようになった。
     段々と、生活の中に鯉登さんの色が濃くなっていく。
    其れが全く不快では無くて、寧ろ心地よく感じるのがどこか不思議な心地がしているけれど、鯉登さんはどうだろうか。
     鯉登さんがうちに泊るように、自分も鯉登さんのマンションを訪ねて泊ることがある。
     鯉登さんの部屋はシンプルでキレイに片付けられているのだけれど、兎に角、本が多い。初めて部屋を訪れた時にはその量に驚かされた。
     「此処に在るのはごく一部だ。殆ど実家に預けてある。」
     そう言われて尚驚いたのだが、小説を書く位なのだから、それが当然なのかもしれないとその時は思った。
    何度か部屋を訪ねる内、並んでいる本は鯉登さんの作品の資料になるようなモノというよりは、別な事を調べていたらしい資料の方が多いことに気が付いた。
     書籍の多くは歴史に関わるモノで、大半は明治後期から昭和初期に至るまでの歴史や軍事関連の書物なのだ。
    それらが何のために集められていたか、何を聞かなくても解る。鯉登さんはきっと、過去の事を調べていたのだろう。もしかしたら、会えない間に俺の手掛かりを探そうとしていたのかも知れない。そう考えると、胸が痛んだ。
    鯉登さんは、十年以上俺を探し続けていたという。その間、俺は何を思い出すことも無く現世を生きていた。その上、今も、前世のことを思い出したといっても、その記憶は酷く曖昧だ。思い出そうと試みても、何も浮かんで来ないのだ。
    鯉登さんが眠っている間に、幾つか本を手に取ってみたこともある。前世の鯉登さんの記述や其処に史実として残るなにを見てもその時代に自分が生きた感覚は殆ど蘇る事は無く、思い出せたのは、鯉登さんの事だけだといっても過言ではない。それ以外の全ては朧で不確かだ。覚えている顔も覚えていない顔もある。けれども、鯉登さんの事だけは、明確に思い出した。
    鯉登さんをどれだけ想っていたか、鯉登さんが、どれだけ大切だったか。其れしか思い出せないから、全てを思い出しているのだろう鯉登さんに中々触れられずに居たのは確かだ。鯉登さんを大切にしたい気持ちと、覚えているのだろう過去の自分と比べられるのではないかという後ろめたさが、俺に二の足を踏ませた。結果、そんな心配は卦ほども必要無かったし、鯉登さんを不安にさせていただけなのだから情けない話だ。
    ようやく前世と同じようになれた…いいや、それ以上の関係にこれからなればいい。どうしたら、そうなれるか、俺は未だ解ってはいないのだろうけど。鯉登さんを想う気持ちがあれば、きっと大丈夫な筈だ。そう、信じている。
     自信なんてものを殆ど持ち合わせていない俺が、そんな風に思えるのは、理解のある常連客達のお蔭かも知れない。
     駅前で派手な告白をしてしまったこともあるのだろうけど(今思い出すと恥ずかしさで死にたくなってしまうくらいだが)妙な所で察しのイイ商店街の連中は俺と鯉登さんのことを解ってくれているらしい。
     毎日店に顔を出す門倉さんは、三日に一回は『あんな別嬪さんがなんでマスターと?』と恨めし気に漏らしては『捨てられないように頑張れよ』と言うのがお約束のようになっているし、そう言った傍から迎えに来たキラウシに『余計な事言わない!』と引き摺り戻されるのも定番になっている。
    キラウシは『良かったな。』と言って『マスター最近楽しそうだし。店も明るくなった気がする。』と笑ってくれた。
    牛山と家永は相変わらずのペースで店に来ている。
    他の常連たちと違って、そう多くを話すことは無いが家永は一度だけ『マスターも隅におけませんね。』と言って笑ってみせた。そう言ってくれた家永が会計をしている間、牛山が鯉登さんを見ていたらしい事に気付いて、牛山の腕を抓りながら帰って行く姿を見送るのは悪い気がしなかった。
    土方さんと永倉さんの爺さん二人は相変わらずだが、時々鯉登さんと剣道や刀の話をするようになった。エプロンをくれたのも、親しく話をするようになったからなのだろう。剣道も刀も俺には少しも解らない話ばかりなのが面白くないのだが、鯉登さんは楽しそうにしている。
    永倉さんはしきりに『家に刀を見に来い』と鯉登さんを誘っては土方さんに『若い子を口説こうとするな』と笑われていたが、鯉登さんが根負けして近い内に永倉さんの家を訪ねる約束をしたのはつい最近のことだ。勿論だが、俺も一緒について行くし、土方さんも一緒らしい。永倉さんは、其れにほんの少し面白くなさそうな顔をしたのが気懸りだが、流石に爺さん相手に何の心配も要らないだろうと思いたい。
    インカラマッは、もしかしたら俺が思い出すより先に全部解っていたのかも知れない。何も言いはしないが鯉登さんがうちの店を手伝ってくれるようになって暫くしてから『落ち着いたらお二人でうちの店にいらして下さい。』と言ってくれた。
    『百年越しのお祝いとお礼をさせて下さいね。』と笑うインカラマッは、やはり全部解っていたのだろう。インカラマッの隣で谷垣は『妻がそう言うので、是非!』と言っていたが、此方は、聡いインカラマッと違ってきっと何も解っていないのだろう。実に、あの男らしい。
     エノノカは鯉登さんが毎日店に居るようになったのを察すると『マスター!やっぱりいい事あったんじゃん!』と得意げに笑ってみせて、一度などは鯉登さんに『マスターをよろしくお願いします!』と頭を下げに行ったりもして、鯉登さんを驚かせていた。
    鯉登さんは面食らった様子だったけれども、以来、すっかりエノノカと仲良くなって、よく奥の席で二人で内緒話をしている。内緒話だから、当然俺には内緒だ。気にはなっているが、何度聞いても鯉登さんは「内緒だ」と笑うばかりで少しも教えてくれそうにはない。

     店を訪れる誰もが、鯉登さんが其処に居るのを当たり前のように受け容れてくれているのは、多分、随分と幸せなことなのだろう。
    口には出さないだけで、内心、俺と鯉登さんの関係をよく思っていない客もいるかもしれない。尤も、そうした人は、自然と店に来なくなっているのだろうけれども。そんな事は、解っている。誰もが理解してくれるわけでは無い。明治の昔ほどではないけれど『当たり前』にはなっていない。それでも、だからこそ、鯉登さんが店に馴染んでくれているのが、常連さんたちが鯉登さんを受け容れてくれているのが、嬉しい、と思う。
     この店を、常連さんたちを、そして誰より、鯉登さんを。大事にしなければ、と思う。
     そうしていれば、いつかきっと、前世の全てを思い出さなくとも、前世より、ずっと…

    ***

    「じゃぁ、また明日な。」
    「えぇ。また明日。」
     いつものように、夕方店を出ていく鯉登さんを見送ると、カウンターの端からこれ見よがしに深いため息が聞こえてきた。
    確かめるまでも無い。わざとらしい溜息を吐いてみせたのは相変わらずそこを定位置にしている尾形だ。
    「いい加減、一緒に住んだらどうですか?」
    空になったグラスの底に残った氷をストローの先でつつきながら呆れたようにそう言う尾形に「余計なお世話だ」と至極当然の言葉を返すと、尾形はまたため息を吐いて頬杖をついて此方を見た。
    「まさか寝てない訳でもあるまいし。」
    「尾形っ」
    他に客が居なかったからだろうが、それにしてもあんまりな物言いに堪らず声を上げると尾形はしてやったりという呈でへらりと笑って妙な事を言い出した。
    「案外待っているかも知れませんよ?」
    「待っている…って、何をだ?」
    尾形が何を言うのか見当もつかなくてそう問い返すと、尾形は一層呆れたように「そりゃあ…」と言い掛けたのだが…
    「プロポーズでしょう!ここは!」
    声高にそう叫んで割って入って来たのは宇佐美だった。
    「仕事してたんじゃねーのかよ」
    「仕事してても話は聞いてます~」
    宇佐美は一度店に尾形を回収しに来て以来、時々店に来るようになっていた。雑誌社に勤めていて、今は尾形の担当編集者だという宇佐美に前世の記憶はない。なんの柵も無く現世を愉しんでいるように見える宇佐美は、ふらりと訪ねて来ては尾形が居ても居なくても珈琲を飲んで帰って行く。
    うちの店を気に入ってくれたらしく、近頃では打合せなどにも店を使うようになったし、カウンターの隅でPCを開いて何やら仕事をしていくことも増えた。
    常連客達と話をするようなことはないが、店の中で聞こえてくる話を聞くとはなしに聞いているのだろう。何も見ていない風で、周りをよく見て解っているところは前世の宇佐美と変わらないようだ。
    俺に向き直ると宇佐美はにこりと笑ってみせた。
    「あの子、ずっとマスターの事好きだったって言うんでしょう?」
    あの子。が、誰かなんて確かめるまでも無い。
    「だったら、いいんじゃない?法は整ってなくても、ずっと一緒に居たいって言ってあげたら。」
    深刻さの欠片も無く、さらりとそう言うと宇佐美はカップに残っていた珈琲を飲み干して「おかわり」と空になったカップを差出した。
    「あ、珈琲と一緒にサンドイッチも食べたいな。卵の。」
    カップを下げながら注文をメモしていると、宇佐美の隣から「いいなぁ」という尾形の声が聞こえてきた。
    「百之助はいいの?」
    「パンの気分じゃない。」
    「なにそれ」
    「カレーが食べたい。」
    「だってさ、マスター。」
    漫才のようなやり取りを聞きながらカウンターの下で準備を始めていく。
    宇佐美が注文した卵サンドには硬めに茹でたゆで卵を二つ使う。荒く刻んだ卵にたっぷりのマヨネーズと、ほんの少しだけマスタード…ではなく、和辛子を混ぜるのが親父の拘りだった。
    薄くバターを塗ったパンにレタスを一枚。その上に溢れそうになるくらいに卵を挟んで切り分ける。付け合わせにポテトフライを添えるのも親の代から変わらない。三角に切り揃えたサンドイッチの上にパセリを添えれば出来上がりだ。
    尾形が食べたいと言ったカレーは業務用の缶詰、ではなくて、たっぷりの玉ねぎと牛肉にスパイスを合わせたうちの店のオリジナルだ。
    これは、親から引き継いだものでは無くて、数少ない俺の代になってから始めたモノだ。俺なりの拘りもある。
    店を継いで間もない頃、近所の家族連れが店に来た時に、小さな子供が頼んだのがカレーだった。両親との外食にはしゃいでいたその子は当時店で出していたカレーを一口食べて『辛い』と言って殆どを残してしまった。さっきまではしゃいでいた子供はすっかり拗ねて不貞腐れてしまったものだから、親御さんは追加でパフェを注文して子供の機嫌をとっていた。どうやらパフェは気に入ったようだったけれど、親御さんには残してしまって申し訳ないと頭を下げられた。皿に残ったカレーを処分しながら、大人用に出しているモノをそのまま子供に出してしまったことを反省したものだ。
    後で親父にその話をしたら、親父が子供向けにカレーを出すときは、ミルクを加えて味を調整していたらしい。そういうことは店を引継ぐときに言ってくれ。と言っても今更だ。
    それから思いついて子供でも食べやすいように玉ねぎをたっぷり使ったオリジナルのカレーを作るようになった。大人向けにはスパイスを足して辛さを調整する。缶詰程の保存はきかないが、評判は上々だ。何せ尾形が気に入っているのだから、味はそれなりではあるんだろう。
    「お待たせしました。」
    言葉と一緒にカウンターに注文の品を並べると、無言で食べ始めようとする尾形に「ちゃんと『いただきます』して!」と親だか兄だかのような事を言う宇佐美と、宇佐美の言葉に渋々ながら従って「いただきます」と言う尾形というのを見るのにももう慣れた。
    物を作っている間は考えずに居たが、手が止まると、今ほど宇佐美に言われた言葉が耳に蘇る。
    ずっと一緒に居たい。それは、その通りだ。其れが叶うなら、どれだけいいだろうか。
    「あ、指輪とか用意しちゃう?良いお店紹介するよ?」
    サンドイッチを片手に宇佐美はやけに軽い調子でそんな事を口にした。勿論、提案は丁重にお断りした。

     宇佐美の提案を断ってはみたモノの、気になって指輪の事を調べ始めたのは店を閉めた後のことだ。
     プロポーズも、指輪も、何れは考えるべきなんだろうが、残念ながら今日という日まで俺はそんな事を考えたことが無かった。
     ただ、一緒に居られたらいいと思っていた。
     宇佐美が言っていたように、法が整っていないというのもある。だが、それがなんだというのだ。だからこそ、きちんと想いを伝えて、約束のような事をした方がいいのではないか。
     散々、鯉登さんを待たせたのだから、尚更。
     そう思ったら、直ぐに行動に移せるかは別にして、調べるべきことは調べておこうと思い付いた。思いついたは良かったが、調べれば調べる程、頭を抱えることになるとは思いもしなかった。
     なにより悩ましいのは指輪だ。その相場も悩みの種だが、指輪というモノのデザインがこんなにも多種多様だとは思わなかった。アクセサリーなんてものに興味を持ったことが無かったから、其処に表示されている相場が適切かどうかも解らない。価格はともかくとして、鯉登さんに贈るなら、一体どんな指輪がいいのか。俺には少しも解らなかった。

    「少しの間、店番をお願いしてもいいですか?」
     翌日の午後、鯉登さんにそう告げると、鯉登さんは少し驚いた顔をして、それからにこりと笑みを見せた。
    「いいぞ。買出しか?」
    「えぇ、なるべく早く戻りますから、もし誰か来たらそう伝えて貰えますか?」
     CLOSEの札を出していても常連は構わず店に来る。だからと頼んだ店番に、鯉登さんは「任せろ」と言って俺を送り出してくれた。
    「珈琲とミックスジュースくらいなら作れるから、焦って戻らなくても大丈夫だからな!」
     そう言って送り出してくれる鯉登さんの言葉に胸が痛むのは、買出しというのが嘘だからだ。厳密には嘘ではないのだけれど。半分は嘘なのだ。店だって、CLOSEの札を掛けて鍵を閉めておけばいくら常連だからといって中には入れないのだからそれで済む話だ。
     鯉登さんに留守番を頼んだのは、間違っても鯉登さんに一緒に買い出しに行くと言わせないためだった。今日だけは、今だけは、鯉登さんに留守番をしていてもらわなければ困るのだ。
    いつもは配達を頼む食器屋に態々出向くことにしたのは、その食器屋の近くにジュエリーショップが在ることを知ったからだ。昨夜指輪を調べている内に偶々知ったのだけれど、知ったからには実物を見てみたいと思ってしまった。
     店まで行ってみれば、どうにかなるだろう。そう思ったが、甘かった。
     ジュエリーショップなどと言うものに縁のない人生を送ってきた男が、店の外観からきらびやかな店の中に足を踏み入れるなど到底無理な話だった。近付くことさえ憚られたくらいだ。
     恐る恐るショーウインドーは覗いてみたが、華奢な造りの指輪はどれも鯉登さんに似合うようには思えなかった。女性が使うことを想定しているデザインなのだからそれで当然だろう。店の中に入れば、或はもっと別なデザインのモノもあるのかもしれないが、店に入れるかと言えば難しい話だ。
     睨むようにショーウインドーを見ていたせいか、窓越しに店員と眼が合って慌てて逃げるように店先を離れてしまった。とてもではないが、あんなところに指輪を買いに行くなんて俺には無理だ。
     這うようにして直ぐ近くの食器店までたどり着くと、うちの店の担当をしている野間さんにぎょっとされた。
    「月島さん、どうかされました?」
     眉根を寄せられてふとガラスに映る自分の顔を見れば、面白い程に疲れが滲んでいた。
    「やっぱり、お届けしましょうか?」
    「いや、此処まで来たんだ。貰って帰るよ。」
    答えると、野間さんは頼んでいたガラス食器を運んで来て同期だという三島さんと一緒に丁寧にそれらを包み始めた。
    「新しいメニュー増やすんですか?」
    「プリンのメニューをね。プリンが好きな人が居るから。」
    「噂の子ですか?」
    不意打ちに食器を取落しそうになると、三島さんが「おい」と野間さんを窘めるように声を掛けた。
    「すいません。こいつ、デリカシーが無くて。」
    「いや…」
    「揶揄った訳じゃありませんよ。俺は月島さんを応援してるんですから。」
    そう言うと野間さんは咳払いを一つしてチラと此方に視線を寄越した。
    「急に言ったのは悪かったですけど…応援してるんです。其れは本当です。」
    「…ありがとう、ございます。」
    「月島さん、ずっと一人で頑張ってたんだし、もっといいことあったっていいんですよ。」
    独り言のようにそう言いながら黙々と食器を包む野間さんの手は優しくて、言葉は本心なのだろうと受取れた。それは三島さんにも伝わったのか、三島さんもそれに続く様に「俺も、応援してますよ。」と小さく零した。
    泣きたいような、気恥ずかしいような気持ちになって「ありがとうございます」と返すのが精一杯だった。
    「今度、珈琲飲みに来てください。」
    帰りがけにそう声を掛けると「そこはプリン食べに来てください。でしょ?」と野間さんは笑い、三島さんはそんな野間さんの頭を叩きながら「近い内にいきます」と言った。
    本当に、俺はいい人達に囲まれている。幸せものだ。

    「遅くなってすいません。」
    食器類の詰まった段ボール箱を抱えて店に戻ると、鯉登さんは心配そうな顔をして出迎えてくれた。
    「何かあったか?疲れているようだが…」
     抱えていた段ボール箱をカウンターに置く俺の顔を覗き込みながら鯉登さんがそんな事を言うものだから苦笑いするしかない。
    「そんな事は無いですよ」と答えながら箱の中身をひとつひとつ取出す間も、鯉登さんは心配そうに此方を見ている。
    「本当に、大丈夫ですから。」
    「本当か?」
    笑って答えてみせても、まだ心配そうなのは、よっぽど俺が酷い顔をしていたんだろう。戻る前に鏡くらい見ておけばよかった。
    「えぇ。大丈夫です。それより、留守番している間、何もありませんでしたか?」
    どうにか取り繕ってそう問いかけると、鯉登さんは少し考えるような仕草をしてから口を開いた。
    「…尾形が来た。」
    「尾形が?」
    「ミックスジュースなら作れると言ったが、またにすると言って帰って行った。」
    鯉登さんは失礼だと言ってむくれていたが、恐らくそれは尾形なりの気遣いなのだろう。尾形に聞いたところで、そうだとは言わないだろうけれども。
    「なぁ、月島。今日は早めに店を閉めてゆっくり休むか?」
    「大丈夫ですよ。」
    「でも…」
    体力的な心配はない。何かの疲れがあるとするなら、急に不慣れな事を考え始めた所為だ。それだけだ。けれども、そんな風に恋人を心配させているのが申し訳ないような、嬉しいような気もして。
    「あぁ、でも、偶には早く閉めるのもいいですね。」
    そう言って、鯉登さんと目を合わせると、鯉登さんは二度瞬きをして、其れからそっと視線を逸らした。
    「…じゃぁ、今日は、泊る。」
    ポツリと零された一言に「店、もう、閉めますね。」と答えて店のドアに鍵を掛けたのは未だ夕方というのも早いくらいの時間だったけれど、偶にはそんな日があってもいいだろう。
    店のドアにCLOSEの札を掛けると、段ボールの中身の片付けもそこそこに鯉登さんの手をとった。
    「二階、上がりましょう」と告げた声に「うん」と小さく答えた鯉登さんの耳は朱色に染まっていた。

     翌日、未だ眠ったままでいる鯉登さんを2階に残して店に降りると、開店前の早い時間にも関わらず宇佐美が店の前に待っていた。
    「珍しいな。こんな時間に。」
    「取材でね。ちょっと早く出なきゃいけなくて。で、ひとつお願いがあるんだけど。」
     ろくでもない「お願い」かと身構えたが、聞いてみるといたって常識的な部類の話だった。
    「今日の取材相手が卵サンド好きな人でさー!どーしても!ここの卵サンド食べさせたくて!」
     そう言って宇佐美は卵サンドのテイクアウトを頼んだのだ。お願いという程の事は無い。とは言え、開店前の時間なのだから、恩に着られるならちょうどいい。いつもの手順でサンドイッチを作り、パックに詰めながら俺も頼みがある。と告げると、宇佐美は目を輝かせて身を乗り出してきた。大方、察しは付いているんだろう。
    「この前の、指輪の話。頼めないか?」
     どう切り出すのか正解か解らず、どうにかそう告げると、宇佐美は満面の笑みで「任せて!」と声を上げた。
    「っ静かに!上で鯉登さんが寝てるから…っ!」
     黙らせるために余計なことまで口走ったが、宇佐美はにやにやと嗤いながらも「すいません」と声を抑えた。
    「鯉登さんには、知られたくないんだ。」
    「解ってますよ。ご心配なく。」
    自信満々の宇佐美を信用していいものか疑わしいが、頼れる先は其処しかないのだ。
    「頼んだぞ。」と念押ししていると、眠そうな顔をして尾形が店に入ってきた。「おはよう」と掠れた声で言った傍から店の中に宇佐美の姿を見付けると、心底うんざりした様子で「なんでこの時間から居るんだよ」と漏らしたものだからそこからいつもの調子で言い合いが始まった。
    「それはこっちの台詞なんだけど?百之助ってこんな時間から起きられるの?僕の電話に出たこと無いよね?」
    「朝からうるせぇ。マスター、ミックスジュース。」
    「百之助、人の話聞いてる?締め切り忘れてないよね?」
    「締め切りまでまだ三日もあるじゃねぇか。焦るなよ。」
    「まだ三日もって、それでギリギリとか無しだからね?」
    「より良い記事に仕上げるために丁寧に見直してんだよ。」
    「え?本気で言ってる?そんなキャラじゃなくない?」
    「お前今日仕事早いとか言ってなかった?」
    「そうだけど!?」
    いつまでこの漫才は続くんだろう。
    「…朝から賑やかだなぁ…」
    思った矢先に呑気にそう言って店に入ってきたのは尾形より一層眠そうな顔をした門倉さんだった。
    「マスター、珈琲。」
    欠伸をしながらそう言ってカウンターに座る門倉さんに毒気を抜かれたのか、尾形は溜息を吐いて黙り、宇佐美は諦めたようにサンドイッチの入った袋を下げて店を出た。開店時間には少し早いのだけれども、どうやら今日はこのまま店を開けるしか無いらしい。そんな日もある。
     
    その日、鯉登さんが店に顔を出したのは昼前だった。ランチタイムの始まる前で、丁度客足の途切れた時間だったのは幸いだったかもしれない。
    「すまない。寝過ごした。」
    まだ眠そうな目をしてそう言う鯉登さんに「起きられましたか?」と聞いたのは、鯉登さんがこの時間まで起きて来られなかった事に心当たりしかないからだ。泊って行くことはなにも珍しくない筈だのに、指輪の事で舞い上がっていたのか、昨夜は少しばかり羽目を外してしまった。
    「辛かったら、上で休んでいても…」
    「大丈夫だ。明治の頃程ではないが、それなりには鍛えているからな。」
    苦笑しながらそう答える鯉登さんに「知ってます」と小さく漏らすと、鯉登さんはほんの少し頬を赤くして「そうだろうな」と呟いた。余計な事を口走ったと思ったが後の祭りだ。
    「っなにか、作りましょうか?お腹、空いてるでしょう?」
    誤魔化すようにそう言って冷蔵庫を開けると、鯉登さんは「っうん。そぉ、だな。任せる。」と答えてカウンターの隅に腰を下ろした。鯉登さんの耳が少し赤くなっているような気がしたけれど、見なかったことにしておこう。
    「直ぐに用意しますね。」
     冷蔵庫の中からフルーツパフェ用のフルーツを物色してキウイと黄桃、苺と一緒に生クリームとヨーグルトを取出す。フルーツを少し厚めにスライスしておいて、生クリームとヨーグルトをボウルに入れ、蜂蜜をひと匙だけ加えて混ぜ合わせていく。フルーツの甘さを引き立てる為にクリームの甘みは控えめにしておくのがポイントだ。
    サンドイッチ用に薄くスライスしたパンにクリームをたっぷりと塗った上にカットしたフルーツを並べ、フルーツが隠れるくらいにクリームを乗せパンで軽く押さえて馴染ませる。パンとクリームが馴染んだら、確りとラップをして一旦冷蔵庫に戻して休ませる。その間に飲み物の用意だ。
     何を合わせるか、と少し考えて残っていた生クリームが目に留まった。
    残りの量を確認してから、ふと思いついて中身を全て小鍋に注ぎ入れ、火にかけた。沸騰を待つ間に棚から紅茶の缶を取出しておく。
    生クリームが煮立ったところで鍋に直接茶葉を入れる。茶葉はポットで紅茶を入れる時より、気持ち余分めにたっぷりと使う。茶葉はアッサムを選んだ。火を弱火にして茶葉が開くのを待ってから鍋にミルクを注ぎ足し、沸騰する手前で火を止める。
    鍋に蓋をして蒸らしている間に冷蔵庫からサンドイッチを取出し、パンの耳を落として対角線上に切れば、断面から真白なクリームに挟まれたフルーツの彩りが鮮やかなフルーツサンドが完成する。
     断面がキレイに見えるように整えてサンドイッチを皿に並べてから鍋の蓋を取ると、ミルクと紅茶が香ばしく薫って来た。
    カフェオレでも良かったのだが、ヨーグルトを加えたクリームで作ったフルーツサンドなら紅茶の方が合うだろう。
    出来上がったフルーツサンドとミルクティーをカウンターに出すと、鯉登さんは解りやすく目を輝かせた。
    「こんなメニューがあったのか!?」
    「メニューにはありません。特別です。」
    告げると、鯉登さんは一層嬉しそうに笑って「特別」と呟いてから「いただきます。」と手を合わせた。
    初めて出すメニューだが口に合ったか如何かは顔を見ればすぐに解る。鯉登さんはフルーツサンドにかじり付くとすぐに頬を綻ばせた。どうやらお気に召したらしい。
    お客様が自分の作ったものを「美味しい」と食べてくれるのは嬉しいモノだけれども、好きな人が、恋人が、美味しそうに食事をしている姿を見るのが、こんなにも幸せなものだとは知らなかった。
    想う人と一緒に過ごす夜や、隣で目覚める朝が幸せなことも、知らなかった。鯉登さんと過ごすようになってから、知らなかったことを知らされてばかりだ。
    きっとこれからも、そんな事がいくつもいくつも見つかるんだろう。鯉登さんと一緒に居られれば。それだけで。

    宇佐美が訪ねて来たのはその日の閉店間際だった。
    鯉登さんが帰った後だったのは幸いと言ったところだろうか。宇佐美は鯉登さんが店に居ないことを確認するとカウンターの一席に腰を下ろすと、鞄からタブレットを取出し、画面を操作して幾つかのデザイン画と写真をみせてくれた。
    「なかなか尖ってるでしょ?」
     宇佐美がそう言う通り、写真の中のデザイン画はなかなかのものだった。正直、よく解らなくて戸惑う程に。
    「デザイナーは江渡貝君って子なんだけどね。一番得意なのは革製品で、服も作ったりしてる。」
     そう言いながら宇佐美が次々と見せてくれる革製品や洋服はどれもあまり見たことの無いデザインばかりだった。よく言えば個性的だが、あまりに奇抜過ぎて、これを鯉登さんに差出せるかと問われれば、難しい返事をすることになりそうだ。
    「これだと誰かと被ることは無いと思うんだよね。」
    「確かにそうかもしれないが…」
    「…やっぱりちょっと尖り過ぎてる?」
     『やっぱり』というあたり宇佐美でもそう思うということだろう。それなら答えは明白だ。
    「もう少し、落ち着いたデザインの方が…」
    「あの子には似合うかもしれないね。」
     言葉尻を捉えてそう言った宇佐美は笑っていた。
    「了解。他をあたってみるよ。心当たりは他にもあるから!」
     断りの言葉にも宇佐美は嫌な顔一つ見せなかった、そればかりか、今朝のサンドイッチを取材相手がとても喜んでくれたと此方に礼を言ってくれた。
    「いつも世話になってるマスターの役に立てるなら嬉しいからさ。目星がついたら、また連絡するね。」
     お願いします。と見送った宇佐美の背中は、提案を断られた筈だのに何処か楽しそうに見えた。気のせいか知れないが。
    ***

    その日、菊田さんが鯉登さんを訪ねて来たのは昼過ぎのことだった。
    打合せに来るときは大抵事前に連絡をしてから鯉登さんを訪ねて来る筈だが、近くまで来たからと思いついて昼過ぎに店を訪ねたのだという。
    鯉登さんより先に菊田さんに気付いた俺が声を掛けようとすると、菊田さんはそれを制して奥の席で書き物をしている鯉登さんをチラと見遣った。熱心に仕事をしているらしい鯉登さんに思うところがあったのだろう。菊田さんは何も言わずにカウンターに腰を下ろすと、静かに珈琲を注文した。
    「何か用があるんじゃ…」
    「なに、焦る話じゃない。集中しているようだし、暫く待つよ。」
    珈琲を出すついでに声を掛けると、菊田さんは薄く笑ってそう零し、再び奥の席の鯉登さんに目を向けた。視線の先を追えば、真剣な顔をしてPCに向かっている鯉登さんが見えた。こういう顔をしている時は、目の前の事に集中している時で、話しかけてもおいそれとは気付かない。
    そうなのだと気付いたのは、鯉登さんと一緒に過ごすようになってからなのだが、菊田さんは鯉登さんのこの顔を知っているんだろう。恐らく、俺より先に。
    菊田さんにも前世の記憶はない。それは重々解っている。解っているからこそ、なんの気負いも衒いもなく、菊田さんが鯉登さんという才能に惚れ込んで今日まで編集者として鯉登さんを支えてくれていたという事実に打ちのめされそうになる。恐らく菊田さんは、俺が鯉登さんと無事に再会しても、しなくても、変わらずに鯉登さんの傍に居ただろう。俺のように、鯉登さんに欲を抱くようなことも無く、ただ純粋に鯉登さんという人を護り、支えただろうと思う。そういう、仕事をしているように見えた。
    今の菊田さんの何を知っているわけでは無い。
    時折、鯉登さんを訪ねてくる編集者と、鯉登さんが入り浸っている喫茶店の店主。今の俺たちの関係は其れだけだ。
    昔の儘なのであれば、菊田さんはとっくに俺と鯉登さんの事を察しているのだろうけれど、何を口にすることも無い。
    目の前で珈琲を飲んでいても、黙ってカップを傾けるだけで互いに、何を話すことも無いのだ。
    それでもきっと、この人は、この先も鯉登さんの近くにいるのだろう。そう思えてならなかった。
    「…!?菊田さん…!?」
    奥の席から声が上がったのは唐突だった。
    顔を上げた拍子にでも気付いたのだろう。鯉登さんはカウンターに菊田さんの姿を見付けて驚いていた。
    「気付かれちまったな。そっちへ行っても?」
    「っ勿論…!」
    笑って席を立った菊田さんは空になりかけていたカップの残りを飲み干すと、おかわりを注文して、ついでにと『あの子に何か甘いモノを』と言い置いて鯉登さんの居る奥の席へ向かって行った。『あの子』とは鯉登さんの事だ。その呼び方は些か気になるが、他意は無い筈だと思いたい。
    「順調そうだな。」
    「お蔭様で。」
    「原稿じゃあないよ」
    鯉登さんに何か…と手を動かしながら聞き耳を立てていると、聞こえてきたのはそんな会話だった。
    「マスターと、上手く行っているんだろう?」
    菊田さんのその声に鯉登さんが息を詰めたのが解ったが、此方は取出したグラスを落としてしまうところだった。
    「文章が柔らかくなったと評判だよ。」
    「そう、ですか…」
    鯉登さんの返事がぎこちない。
    一体どんな顔をしているかと見に行きたいくらいだけれど、内心こちらも穏やかでは無い。何の意図をもってそんなことを…とやきもきしていると、此方の心情を察したように菊田さんはポツリと漏らした。
    「良い人に出逢えて、鯉登が幸せなら何よりだ。」
    柔らかなその声は、厭味でもなんでもないのだろう。
    心から、鯉登さんを想って漏れたのだろうその言葉に、つまらない嫉妬を抱きかけた自分が恥ずかしくなる。
    「次の作品は書けそうかい?」
    「まだ、まとまってなくて…」
    「連載もあるしな。ゆっくり待つさ。」
    「ありがとうございます…」
     穏やかな二人の会話を聞きながら、気を取り直してさっき取出したグラスを一度しまって、つい先日取り寄せたばかりのガラス食器を出してみる。低く横に拡がったタイプの器はデザート用に選んだものだ。
     キウイ、バナナ、りんごにオレンジでいいだろう。りんごとオレンジはくし形に、バナナは皮を剥いて斜めに切り、キウイは皮を剥いて薄くスライスしていく。
     器の真ん中に冷蔵庫から取出したプリンを据えて、プリンを囲むように果物を飾っていく。仕上げにホイップクリームを添えて、チェリーを飾ればプリンアラモードの完成だ。
     プリンは昨夜のうちに仕込んだ牛乳と卵をたっぷり使った喫茶ツキシマオリジナルの硬めプリンの試作品だが、出来は上々だ。
     菊田さんの珈琲と鯉登さんのプリンアラモードをテーブルに並べると、鯉登さんは初めて見るメニューに目を輝かせ、それから我に返って菊田さんに恐縮していたけれど、菊田さんは「甘いの好きだろう?」といつかも聞いたような台詞を言ってにこにこと笑っていた。
     息子というには少し若いだろうが、菊田さんはそんなような気持ちで鯉登さんを見ているのかも知れない。ふと、そんな風に思えた。

    「リベンジ!」
     カウンターに戻るといつの間に店に入って来ていたのか、宇佐美が俺を待ち構えていた。其の傍らには外国人だろうか。背の高い、くすんだ蒼い目をした男が居る。
    「依頼主がどんな人か会ってみたいって言うもんだからさ。連れて来た。」
     宇佐美がそう言って連れて来た男の顔には見覚えがある。
    見覚えはあるが、ただそれだけだ。俺に、或は鯉登さんに会いたいというくらいだから彼には前世の記憶があるのだろうかと身構えがた、その心配は全く無いようだった。
     男はヴァシリという名で、ロシア出身のデザイナー兼画家として生計を立てているらしかった。会ってみたいというのは、彼のデザイナーとしての拘りらしく、前世の話など微塵も出なかった。それよりも、喫茶店というものが珍しいのか、きょろきょろと辺りを見渡しては小さなスケッチブックに熱心に何かを書き留めていた。
     見せて貰ったスケッチには、風景や草花が描かれているものが多く、間に、それらから着想したものか幾つかのデザイン画らしきものがあった。
     ヴァシリのデザインは、控えめで、シンプルな印象のモノが多かった。先日見せて貰った江渡貝のデザインとは随分違う雰囲気のモノだ。奇をてらったところが無く、馴染みやすい。これならば、鯉登さんの指にはめても違和感が無いのではないだろうか。
    「気に入ってくれた?」
     デザイン画に見入っていると、宇佐美がそう言って満足げに口の端を吊り上げた。
    「この人に、頼めるか?」
     他をあたる考えは浮かばす、そう告げると宇佐美はにんまりと笑ってヴァシリにロシア語らしき言葉で伝え、何かしら訊ねられたようだった。宇佐美が店の奥を指し示して何事か伝えると、ヴァシリが某かを確かめてから此方を見て、それから改めて店の奥を見遣った。
    「何を聞かれたんだ?」
     気になって宇佐美に問い掛けると宇佐美は「あぁ」と零し「依頼主のパートナーは誰だっていうから、奥の席に座ってる若くてかわいい子だって伝えて確認してもらってる。」と答えた。
    宇佐美の言葉に合わせてか、暫くじっと店の奥を見据えていたヴァシリは再び此方に向き直ると、無言のままこくりと頷いてみせた。
     訳が解らず戸惑っていると、宇佐美が笑って「マスターの依頼受けてくれるってさ」と言った。
     ヴァシリから差し出された手に握手を求められているのだと気付いて慌てて手を差し出すと、思いの外、強い力で手を握られた。
    「契約成立。ってことでOKね。」
    宇佐美はそう言うと、長居して鯉登さんに勘付かれてもいけないから、と直ぐにヴァシリを連れ立って店を出た。丁度入れ違いで尾形が店を訪ねて来たのだが、擦れ違いざま、何が気になったのかヴァシリは尾形をじっと見詰めていた。一方の尾形はといえば、あからさまに尾形を見詰めているヴァシリをチラと見遣って直ぐにカウンターのいつもの席に腰を下ろした。
    「なんだ、アレ」
    「宇佐美の知り合いらしい。」
    「へぇ。知り合いねぇ。」
     興味無さそうにそう呟くと、尾形はいつも通りミックスジュースを注文してスマホを弄り始めた。
     店の外ではヴァシリが未だ名残惜し気に此方…尾形を見ているようだったが、尾形は少しも気にもしている風が無かった。

    鯉登さんとの話を終えて菊田さんが勘定を払いにカウンターに声を掛けにきたのは尾形にミックスジュースを出してやった後だった。
    最初の時からそうだったように、菊田さんは勘定書きの通りの金額を置いていった事が無い。いつも決まって余分に金を置いていく。
    「いつもすいません。ありがとうございます。」
    「うちの大事な作家が世話になっているからね。此れじゃ足りないくらいだ。」
    事も無げに菊田さんは言う。
    「これからも、大事にしてやってください。」
    じゃぁ。と言って颯爽と店を出て行く菊田さんを何の言葉も返せずにぼんやりと見送っているとカウンターの隅から濁った声が聞こえてきた。
    「『大事にしてやってください』ねぇ。」
    下手くそな声真似だ。
    「摘まみだすぞ。」
    脅し半分でそう言ったら尾形は肩を竦めてみせた。
    「つまみ出されたくないです。サンドイッチ下さい」
    「今日はパンの気分なのか?」
    「こないだ宇佐美が食ってたやつが美味そうだったから。」
    「そうかよ。」
     尾形とつまらないやり取りをしていた俺は大事な事に気付いていなかった。鯉登さんが、カウンターを見ていたことに。気付いていなかったから、宇佐美やヴァシリと俺が話していたことを鯉登さんが見ていたとは思いもしなかった。
    見慣れない男と、俺が握手を交わしていたその場面を、どう思ったか。考えもしなかった。後で聞いた話では、尾形は鯉登さんの視線に気付いていたらしいのだけれど、俺には何も言わなかった。心底、意地の悪い男だ。
    「何か言いたいことがありそうだな?」
     サンドイッチを目の前に置いてやると、尾形は此方をチラとも見ずにサンドイッチに視線を固定させたまま「別に」と小さく呟いて、ミックスジュースを一口啜った。
    「余計なことまで言うお前が黙っていると薄気味悪い。」
    「軍曹殿は俺の事なぞ気にせず少尉殿の事だけ気に掛けて下さいよ。」
    「言われなくてもなぁ…」
     売り言葉に買い言葉で言い返しそうになって、流石に大人げないと口を閉じた。
     尾形はと言えば、気にした風も無くスマホを置いておしぼりで手を拭いている。
    「…まあいい。黙って喰え。」
    「いただきます。」
     そんな所だけは丁寧にあいさつをしてみせる尾形はサンドイッチをひと切れ摘まんでかじり付くと「美味っ」と小さく声を漏らした。

    ***

    定休日の前日に鯉登さんの姿が家にあるのは最早当たり前になった。
    いつもなら灯りを落として店に鍵をかけた後にカウンターで一緒に食事をするのだが、今日は珍しく鯉登さんの姿は既に店にはない。先に二階に上がって夕飯を用意してくれているのだ。
    食事を用意するのは大抵俺の方で、鯉登さんが料理を振る舞ってくれることは滅多にない。あまり料理は得意ではないという鯉登さんだが、時々用意してくれる料理はどれも美味しくて、不得手ということはないというのだけれど本人は認める気がないらしい。
    今日は何を作ってくれているかと楽しみに家へ戻ろうとすると、不意にスマホが鳴って足を止められた。
    仕事の話なら改めようかとも思ったが、其処に表示されたヴァシリの名前を見て慌ててLINEを開いた。
    画面を見れば、其処に現れたのは指輪のデザインと思われるデザイン画だった。
    一つきりでは無く、デザイン画は複数あった。どれもシンプルで美しいデザインばかりだけれども、その中の一つがとりわけ目を惹いた。
    指輪の中央に紫の石を置き、その左右に小さな緑の石を配したあまり凹凸の無いモノだ。幾つかある中で、このデザインの指輪ならきっと鯉登さんに似合うだろう。そう思えた。
    もう少し悩んでも良かったのかも知れないが、此れと決めたら他があまり目に入らなくなってしまって、そのデザインでの指輪を作ってほしいと返信すると、直ぐに既読がついて了解の返事が返ってきた。
    ホッとしたのが半分。もう半分は、これで後には引けなくなった。という何とも言いようのない気持ちだ。
    万が一、断られたら。等と考えてしまいそうになる思考を打ち消すように頭を振って、カウンターの明りを落とすと階段の上から「月島」と呼ぶ鯉登さんの声がした。
    いつもならとっくに二階に上がっている時間にまだ戻らないから心配させてしまったのかも知れない。
    「今上がります!」
    階段の上に向かってそう声を掛けると「わかった」とどこかホッとした様子の鯉登さんの声が聞こえてきて、俺は急いで階段を駆け上がった。

    二階へ続く階段の途中から味噌の甘い香りが漂ってきて、店を開けている最中には忘れている空腹を思い出させる。
    「すいません。遅くなりました。」
    「気にするな。何か、あったか?」
    心配げなその顔と、声に、問い掛けに、ドキリとさせられるけれども平静を装って「いえ、なにも。業者から急に連絡が来たもので…」等と答える自分に驚いてしまう。言っていることは嘘ではないが、真実かと問われれば良心は傷む。
    けれども事の次第を今告げる訳にはいかないのだからと笑ってみせると、鯉登さんは「そうか」と薄く笑ってみせた。
    「っそれより、飯にしましょう。腹が減りました。」
    「そうだな!…口に、合うといいんだが…」
    誤魔化すようにあげた言葉に、鯉登さんはハッとなって顔を俯かせた。料理を振る舞ってくれる時はいつもこうだ。
    余程自信が無いのか、俺が食べ終わるまでこんな調子だ。
    テーブルにつくと、用意されていたのは具だくさんの味噌汁とおにぎりに、漬物というメニューだった。
    「さつま汁といってな、母がよく作ってくれていたんだ。」
    大きな椀に注がれた汁には具材がごろごろと入っていた。鶏肉に、椎茸、こんにゃく、ごぼう、にんじん、大根。里芋に油揚げも入っている。刻んだ青ネギが散らされた椀は彩りも豊かで、これだけで腹が満たされそうだ。味噌は麦みそを使い、隠し味に酒と黒砂糖を使うという。一口啜れば鶏と野菜の旨味と味噌の甘さが浸みわたる。
    三角に握ってあるおにぎりは、軽く塩をして食べやすい大きさにされているものだから、口の大きな俺は一口で食べられてしまいそうなくらいだ。添えられている桜島大根の味噌漬けは鯉登さんの御実家から送られて来るモノらしく、桜島大根があまり得意ではない鯉登さんもこれは食べられるというくらいで、甘い味噌の味の浸みた漬物はいくらでも米が食べられそうな代物だ。
    黙々と平らげていると、俯きがちだった鯉登さんの顔が次第に上がって期待の籠った目で俺の声を待つようになる。
    「…食べられるか?」
    「それどころか、めちゃめちゃ美味いです。」
    答えると、ホッとしたように鯉登さんは笑顔を見せて、それから漸く自分の椀に箸をつけた。
    「そうか…それなら、よかった。」
    「そんなに心配しなくても、あなたは器用なんですから、もっと自信を持たれてもいいと思いますよ。」
    「うむ。…そうかもしれないが…」
    言葉尻を濁して苦笑する鯉登さんに言わせれば、いつもこの調子なのは、前世では全く料理などせず使用人や俺に任せきりにしていたからだという。
    「でも、それは前世の話でしょう?」
    「現世でも、今まで殆ど料理なんてしてこなかったからな。」
    前世の記憶もあり、自分は料理には向いていないと現世でも殆ど料理をすることは無かったと鯉登さんは言う。確かに、現世では明治の昔とは違って自炊などせずとも頼る宛は幾らでもある。料理をせずとも困ることは無かっただろう。だが、それは今でも変わらない筈だが…
    「どうして、料理を始めてみようと思ったんです?」
    後にして思えば、馬鹿な事を聞いたものだと思う。
    「…月島と、ずっと一緒に居られるなら、今生は少しくらい覚えようと思って…前世は、任せきりだったから…」
    零した鯉登さんの耳はほんのり色付いていた。
    何のことは無い。俺がプロポーズだのなんだのと迷っている間に、この人は、鯉登さんは、俺とこの先もずっと暮らすことを考えてくれていた。そういうことではないか。何も言わずに、不得手な料理を覚えようとしてくれていたのではないか。俺の為に。この先も、俺と一緒に生きていくために。その健気さに眩暈がする。
    「…そう、でしたか…」
    「…うん。」
    「ありがとうございます。」
    「礼を言われることではないだろう?」
    戸惑ったようにそう言われてしまったけれども、言わずにはいられない気になって「いえ」と断って「礼を言うことですよ」と呟いたら、鯉登さんは少し驚いて、それから嬉しそうに笑って「そうか」と零した。
    休みの前の食卓は、平和で穏やかな空気に満ちている。ひとりの時には決して味わったことの無いその空気に、心まで満たされていく。こんなに穏やかで、満ち足りた時間が俺の人生にあるだなんて思いもしなかった。鯉登さんの気持ちが嬉しくて、幸せで、舞い上がりそうになる。
    「っ…ご馳走様でした。食器、片付けますね。」
    「洗い物は置いておいてくれ、まとめて洗うから。」
    「じゃぁ、風呂、用意してきます。」
    湯を浴びれば少しは冷静になれるだろうか。と思った矢先に「わかった。」と聞こえた鯉登さんの声にふと足を止めて振返った。振り返ってしまった。
    声のした方を見遣れば、腕捲りをしてシンクの前に立つ鯉登さんの姿が見えた。当たり前に、家の中に居る鯉登さんの姿に堪らなくなって「鯉登さん」と呼び掛けると、シンクを見詰めていた顔が此方に向き直った。
    「風呂、先に使いますか?それとも…」
    「うん?」
    「…一緒に、入りますか?」
    この誘い方は、流石に唐突過ぎたろうか。浮かれ過ぎだろうか。
    親父の意向でうちの風呂は一般家庭の其れよりは随分広く作ってある。立ち仕事だから風呂ではゆっくりと足を延ばせるように、という考えだったらしい。俺の風呂好きと長風呂は親父譲りだ。うちの広い風呂でも男二人なら多少狭くは感じるだろうが、窮屈という事は無い筈だ。一緒に入ったことは無いから未だ解らないのだけれど。恐らく、きっと、大丈夫。な、筈だ。
    「…よかよ。」
     一拍間を置いて照れたようにそう答えてくれた鯉登さんにガッツポーズをしたいような気持になりながら風呂場に急いだ。こんなに幸せな夜は無い。と思った。

    ***

    ヴァシリが訪ねて来たのはそれから五日ほど経ってからの事だった。
    タイミング悪く、鯉登さんに店番を頼んでいる間に訪ねて来たのは不味かった。言葉が通じないのが幸いで、指輪の話が伝わった様子は無かったが、俺が戻ってくるまでの間に二人はどういう話をしていたのか、鯉登さんは少しばかり困惑した顔をしていた。
    「要件は解らないんだが、月島に話があるらしい。」
    眉尻を下げてそう言う鯉登さんに、解りました。と答え、もう少しだけ店番をしていて欲しいと頼むと鯉登さんは「わかった」と笑顔を見せてくれた。
    ヴァシリと一緒に店を出て向かった先は、喫茶ツキシマに程近い、谷垣とインカラマッの店だった。
    未だ開店前の時間だが、この時間なら夜の仕込みをしに店には出ている筈だと戸を叩いてみれば、予想通り。インカラマッが顔を出した。
    何も聞くなという訳にもいかず、インカラマッであれば…と簡単に事情を話して席を借りたいと頼むと、インカラマッは快く受け容れてくれた。
    谷垣とインカラマッの店は、猟師飯を振る舞う居酒屋だ。小さな店だが、珍しいモノが安価で食べられると評判で、毎晩賑わっている。インカラマッの占いも評判らしく、其れ目当てで来る客も少なくないという。
    小作りのカウンターと、四人掛けの座敷が二席の他にテーブル席が三つある。その内の、一番店の奥に在るテーブルの一つにヴァシリと向かい合わせに座ってようやく要件を聞くことが出来た。
    テーブルにつくなりヴァシリが広げたスケッチブックに描かれていたのは、先日送られてきたデザイン画を整えたものだった。
    スケッチブックに描かれたそれは画像で見るより鮮やかで、よりイメージしやすくなる。先日送られたモノよりほんの少し細身のデザインに変わっているようだが、素人なりにもその方がキレイな気がした。
    言葉が通じないモノだから、お互い身振り手振りとスケッチブックを千切った紙の端に文字を書いて確認しあってそのデザインでの注文を決めると、どうやら出来上がりにはひと月ほどかかるらしいと知れた。
    それが適切な納期なのかは解りようも無いのだけれど、指輪が出来あがれば…と思うと、覚悟を決めるのには短いくらいな気がした。
    話が纏まれば握手。というのは決まり事らしい。
    求められるままに握手をして席を立とうとすると、ヴァシリは少し考えるような仕草をみせて、それからスケッチブックのさっきとは違う頁を開いてみせた。
    そこに描かれていたのは鯉登さんだった。
    いつの間にそんなものを…と思っている内にヴァシリは鯉登さんの描かれた頁を千切って寄越すと、ほんの少し目を細めて…恐らく、笑ったのだろう。満足した様子でひとり先に店を出て行った。
    「あら?もうお帰りですか?」
    「あぁ、話は済んだからな。」
    様子を覗っていたらしいインカラマッの声に振り向くと、インカラマッの後ろでは谷垣も心配そうに此方を見ていた。
    「急に押し掛けて、すまなかったな。」
    「いいんですよ。この位。お気になさらないで下さい。」
    「礼は、改めて…」
    「それなら、鯉登さんと一緒にうちの店にいらして下さい。いつでも、お待ちしております。」
    にこにこと笑うインカラマッと、すっかり尻に敷かれている様子の谷垣に見送られながら急いで店に戻ると、鯉登さんはカウンターに腰を下ろして待っていた。
    「すいません。今、戻りました。」
    「お帰り。…それは?」
    問い掛けて来る鯉登さんの視線は俺の手に向けられていた。其処に在るのは今ほど千切って渡されたスケッチだ。鯉登さんが描かれている。
    「…さっき、貰って…」
     そう言ってゆるく丸めていたスケッチを拡げてみせると、鯉登さんは笑って「私も貰ったぞ」とカウンターに置いていたらしい紙を拡げてみせた。驚くべきことに、そこに描かれて居たのは俺だった。
     いつの間に描かれていたものか、店に立つ自分の姿が絵に収められているのを見るのは妙な気分だ。ましてやそれを知らぬ間に恋人に渡されていたのだから、尚更だ。
    「あの男、今生では画家なのか?」
     口ぶりから察するに、鯉登さんはあの男を覚えているのだろう。俺は少しも思い出さないが。
    「デザイナーをしているようです。」
    「この前、宇佐美と一緒に来ていたな。」
    「えぇ、仕事の合間に立ち寄ったようで…」
     空々しい嘘がよく出て来るモノだと我ながら感心する。
    「それで、絵を頼んでいたのか?」
    どうやら、鯉登さんは俺がヴァシリにスケッチを頼んだのだと思っているらしい。完全な勘違いだが、それならそれで良い事にしよう。
    「まぁ、そんな所です。見付かりたくはなかったですが。」
    半分嘘で、半分本当の返事をして、心中でスケッチを持たせてくれたヴァシリに感謝した。
    「見つかったついでにこの絵は店に飾っておくか?」
    「それは勘弁して下さい。」
    冗談にも聞こえない提案に焦った言葉に、鯉登さんは「冗談だ」と笑ってみせた。

    ***

    「指輪は出来あがって来るとして、どうやってプロポーズするんです?」
    カウンターに肘をついて揶揄うでも無くそんな事を聞いて来る尾形にうんざりしながら「お前には関係ないだろう」と返すと、尾形は然もつまらなそうな顔をして唇を尖らせた。
    「誰のお蔭で思い出したんですっけ?」
    「…今になって其れを言うのかお前は。」
    「言える時に言ってやろうと思いまして。」
    得意げにも見える顔をしてそう言う尾形が憎たらしい。
    だが、尾形のお蔭どいう部分が無いかと言えば嘘になる。それでも面白くないモノは面白くない。
    「例え思い出さなくても、俺は鯉登さんを口説いたよ。」
    「言いますなぁ。」
    へらりと笑うその顔は悪戯な子供そのものだ。
    「イイからお前は黙ってろ。」
    「気になるじゃないですか。橋渡しをした以上はお二人の行く末を見届けたいんですよ。」
    「もう十分だろ。」
    「いえいえ。まだまだ。何せ前世はろくな縁じゃなかったようですし。現世こそはね。」
    面白がっているのか本心なのか、この男の事はつくづく解らない。
    ただ、残念ながら、これがこの男なりの構い方で、この男なりに俺たちのことを応援してくれているのだという事は解るのだ。解るようになってしまった。いっそ解らなければ腹も立てられたが、そうもいかないでは溜息を吐くほかない。
    「好きにしろ。で?今日は何にするんだ?」
    カウンターに座ったっきり、一向に注文を寄越さない尾形にそう言ってやると、尾形は少し考えてから「マスターのお勧めで。」という今までで一番雑な注文を寄越した。
    「なんだその注文」
    「そう言ったら、どうなるのかと思って。」
     笑うでもなくそう言うのだから参ってしまう。
    「何でもいいのか?」
    「腹は減ってます。椎茸以外ならなんでも。」
    「喫茶店で椎茸が単品で出ることは無いから安心しろ。」
    さて、どうしたものか。冷蔵庫の中を覗いてトマト、ピーマン、玉ねぎとマッシュルームを手にして、ふとカウンターを見上げ「マッシュルームは平気か?」と問うと「…食える。」という端的な答えが返ってきた。キノコ類でも椎茸以外はいけるのか。ならばよし。
    ベーコンも一枚取り出して1cm幅に切り揃え、野菜は少量を薄くスライスする。厚切りのパンにはトマトと玉ねぎにスパイスを加えて作ったピザソースを薄く塗り、野菜とベーコンをちらしてシュレッドチーズをたっぷり乗せる。温めておいたトースターの中に具材を零さないようにセットして、焼き上がればピザトーストの出来あがりだ。
     焼き上がるまでの間にマンゴーの缶詰を開け、ミキサーの中に数切れか肉を落とし、ヨーグルトをひと掬いとミルクを入れてかき混ぜると、後言う間にマンゴージュースが出来あがる。いつもミックスジュースばかりだが、偶には違うモノもいいだろう。
     カウンターに並べてやると、尾形は暫く物珍しそうにジュースを眺めていたが一口飲んで気に入ったらしい。
    「悪くねぇな。」
     口元を綻ばせてそう零した尾形は続いてピザトーストにかじり付くと、黙々と食べ始めた。どうやらこちらも気に入ったらしい。無駄口を叩かれずに済むのが一番だ。と、ホッとしたのも束の間、二階から鯉登さんが降りて来ると、尾形はピザトーストを咀嚼しながらほんの僅か目を見開いた。いつも店に居る鯉登さんの姿が無いから未だ来ていないように思っていたのだろう。常ならばそうなのだが、昨夜泊って行った鯉登さんは、今日は朝から二階で仕事をしていたのだ。
    早朝に店がバタバタしたものだから、二階の方が静かかもしれないとそうしていたのだが、それが余計に尾形の興味を惹いたらしいことは明らかだ。興味津々で此方の会話に聞き耳を立てているのがよく解る。
    「カフェオレでも用意しましょうか?」
    「いや、後で良い。資料を取りに、一度家まで行ってくる。」
    「解りました。」と答えて見送ると、鯉登さんが出て行った直後に尾形がぼそりと呟いた。
    「昨夜もお泊まりだったんですねぇ…」
    「だったらどうした。」
    「とっとと一緒になりゃいいのにと思っただけです。」
    「小姑かお前は。」
    「小姑で結構ですよ。」
    呆れたようにそう言って尾形は俺に向き直った。
    「あの人、さっき自分の家に『行ってくる』って言っていたじゃないですか。それって、帰る場所は『此処』ってことでしょう?それなら、別に家を構えている必要ないでしょうが。」
    言われて初めて気が付いた。あぁ、そうだ。確かに鯉登さんは『行ってくる』と言った。自分のマンションに戻るにもかかわらず、確かにそう言った。
    「だからとっとと一緒になりゃいいんですよ。」
     世話が焼けますなあ。などと、尾形に言われてしまっては形無しだが、返す言葉も無く俯いていると「マスター」を白々しく呼ばれて顔を上げざるを得なくなった。
    「おかわり」とパン屑を口許に付けたまま空のグラスを掲げる尾形は、憎らしいが、頼もしくも思えてしまった。

    ***

    ヴァシリから指輪の出来上がりを報せる連絡が来たのは、指輪を頼んで丁度ひと月後のことだった。ひと月なんて、過ぎてしまえばあっという間だ。慌しく日常を過ごしているうちに、気付けばひと月経っていた。
    明日は定休日というその日、指輪の収まった小箱を店に届けに来たのはヴァシリではなく宇佐美だった。
    「取材で北海道まで行ってきたからお土産!」
    「土産なんて珍しい…」
    「いいから黙って受取って!」
    言葉と同時に差出された大きな紙袋の中には、土産の菓子が入っているらしい箱と一緒に小さな袋が収められていて、その袋の中身が頼んでいた指輪だと直ぐに気付いた。
    ヴァシリが届けに来る予定だったが、仕事の都合で来られなくなったようで、宅配で届けるよりは、と宇佐美が預かってきたと言う。
    「後は渡すだけなんだから!頑張って下さいねっ」
    宇佐美はそう言ってにんまり笑って帰って行った。
     言われた通り。確かに後は渡すだけだ。このひと月、その指輪をどうやって渡すかを延々と考えていた。
     プロポーズというものは、やはり特別なモノだろう。そうであるからには何処か特別な場所で特別な言葉を用意して…とは思うが、何せそうしたことに縁遠い人生を送ってきてしまったものだから、何も思いつかないのだ。
     一人の時間にあれこれ調べて考えては見たモノの、あまり派手な事をするのも自分には不釣り合いな気がして、結局これという案も無いまま終に指輪が出来あがった。
     今日も奥の席で書き物をしている鯉登さんの様子を覗いながらそっと小さな袋を取出すと、中にはカードが添えられていた。直筆らしい、万年筆で丁寧に書かれているメッセージはロシア語だろうか。
    『Желаю вам вечного счачтья. 』
     スマホを取出して意味を調べてみれば、そこに書かれているメッセージは容易に知れた。
    『あなた方の永遠の幸せを祈ります。』
     思いの込められたカードと小さな箱に、やはりヴァシリに頼んで良かった。と心から思いながら、小さな袋をカウンターの奥にそっと隠した。
     考えていてもしょうがない。何も特別な事は出来なくても、俺は、俺らしくいこう。そんな風に漸く思えた。

    ***

    その日は少し早めに店を閉めた。
    鯉登さんは夕飯の用意を申し出てくれたが、朝からずっと書き物をしていたのが解っていたから今日は俺が用意しますと断った。
    「朝からずっと詰めていたでしょう?少しは休んで下さい。」
    「…すまない。もう少しで書き上がるんだが…」
    「じゃぁ、書き終わったら一緒に食べましょう。」
    告げると、鯉登さんは申し訳なさそうに笑って、それから奥の席に戻った。
    鯉登さんは、今日は昼も碌に食べずに書き物をしていたから腹は減っている筈だ。さて。何にするか。
    炊飯器から適量のご飯をボウルに移し、卵を四つと牛乳。バターにケチャップ。鶏肉、玉ねぎ、パセリを用意する。
    鶏肉と玉ねぎは小さく角に切り揃え、バターで炒める。粗方火が通ったら軽く塩胡椒で下味をつけて、そこにご飯を加えて解していく。ご飯がぱらりとするくらいに炒めたら、ケチャップを加えて混ぜ合わせる。ケチャップが全体に馴染んだら、みじん切りにしておいたパセリを加えさっと混ぜて火を止め、ボウルに移して休ませておく。
     卵は、先ず四つ取出したうちの二つを割って牛乳と塩を一つまみ加えてしっかり溶きほぐす。
     バターを溶かしたフライパンに卵液を注ぎ、すぐにフライパン全体に広げて菜箸で手早くかき混ぜる。卵が半熟になったらケチャップライスを横に細長く乗せて、フライパンを手前に傾けながら卵を纏わせていく。
     店を継いだ当初はこれが上手くできなくて、随分不格好なものばかり出来上がっていたが、今ではきれいなラグビーボール型を作ることが出来るようになった。焦らないことがポイントだ。とは、親父の弁だ。
     形が整ったらそっと皿に移しておく。もう一つ、同じように作り終える頃には、鯉登さんが奥の席で背伸びをするのが見えた。どうやらタイミングはバッチリらしい。仕上げにケチャップを垂らしてパセリを添えれば昔ながらのオムライスの完成だ。
     オムライスに添えるスープは店のランチに付けている玉ねぎとしめじのコンソメスープの残りだけれど、これも鯉登さんのお気に入りだ。
     カウンターに並んで、いつも通りに「いただきます」と手を合わせる。スプーンでオムライスを掬って一口頬張ると鯉登さんは「美味い。」と呟いて続いて二口目を頬張った。
    いつもそうだが、鯉登さんは本当に美味そうにモノを食べる。気に入ったものだと表情にでるから解りやすい。幸せそうに食事をする恋人の横顔を見ながら食べるオムライスは、我ながら、悪くない出来だと思った。
    「月島の作ってくれるものはなんでも美味いな。」
    食事の最中、鯉登さんはふとそんなことを口にした。
    「そうですかね。」
    「あぁ。昔から、ずっとそうだ。」
    昔から。鯉登さんの中では、明治と現在は地続きなのだろう。時折、そんな風な事を口にする。
    滅多と明治の話をすることは無いが、思い出したようにふと鯉登さんは懐かしむような、慈しむような、そんな口振りで過去を語る。そうした時、鯉登さんの眼に浮かんでいるのは、俺であって俺では無い、過去の俺なのだろう。それが、ほんの少し寂しい。けれどもそれを口にした事は無い。これからも、するつもりはない。今、鯉登さんの隣に居るのは俺だ。そしてこれからも、隣に在り続けるのは、俺なのだ。

    食事を終えて食器を片付けていると、鯉登さんが欠伸を漏らすようになった。
    「上で、休みますか?」
     声を掛けると、鯉登さんは少し迷ってから「月島」と俺を呼んで顔を上げた。
    「やっぱり、今日も、泊って行っていいか?」
     休みの前は泊って行くのが定番になっていたけれど、明日は久しぶりに一緒に出掛ける約束をしているものだから、今日はマンションに戻ると言っていたのは今朝のことだ。それを残念に思わなかった訳がない。当然、泊るというのなら歓迎だ。断る理由はどこにもない。
    「勿論ですよ。先に、休んでいてください。」
     答えると、鯉登さんはホッとした様子で奥のテーブルに広げていた荷物を片付け始めた。静かな夜だ。とうに看板を下ろした店には二人きり。
    今なら、言えるのではないか。
    「鯉登さん…。」
    「なんだ?」
    素直に振り返る恋人の無防備なその顔に、喉元まで出掛かった言葉は詰まって声にならなかった。
    「いえ、その…」
    「安心しろ。明日の約束なら覚えているぞ?」
    鯉登さんが言うのは、映画を見に行こうというその約束の事だ。鯉登さんが観たいという映画の上映時間が思いの外早くて、明日は休みには珍しく早起きをしなければならない。
    「…そう、ですか。」
    「私が寝坊すると思っているだろう?」
    「そんな事はありませんよ。」
    「ちゃんと起きてみせるからな!」
     きっぱりと言い切って二階に上がっていく鯉登さんを見送ると、店には一人きりになる。
     言えるかと思った言葉は声にならなかった。
    けれども、それは、今じゃなかったという事かもしれない。
     カウンターの奥にしまっておいた小箱を取出してそっと開けてみると、其処にはデザイン其の儘の指輪が収まっていた。カウンターの照明に照らされて鈍く光る紫の石が美しい。恐る恐る指でつまんでみると、俺の指には収まりそうも無いが、鯉登さんの指にはキレイにはまりそうだ。
     指輪が手元にある限り、俺はこの先もこうして鯉登さんに声を掛けるタイミングを計り続けるんだろう。
    そうこうしている間に、何をはっきりさせることもなく鯉登さんと時間を過ごしていくことになるのは避けたい。それでは、明治の昔と同じになってしまう。
     明日だ。明日一日は鯉登さんと二人で過ごせる筈だ。
    ならば、明日の内には何処かで言葉を形に出来る筈だ。
    明日こそ。そう誓って、指輪を小箱に収めるとポケットに捻じ込んだ。

    ***

    翌朝、鯉登さんは宣言通りに寝坊しなかった。
    「ちゃんと起きられましたね」という言葉に「久しぶりのデートだからな」と返事を寄越した鯉登さんは起きたばかりだというのに眩しいくらいの笑顔を見せてくれた。
    朝食を食べて、支度をして、ポケットの中に小箱が在るのを確認してから二人で一緒に家を出ると、店の前でいつもの調子で店に来たらしい門倉さんに出くわした。
    「なんだ?朝から二人揃って…あ。今日は休みかぁ」
    質問と回答を独りで終えて嘆く門倉さんに思わず噴き出したのは鯉登さんだ。俺もつられて笑いそうになったが、どうにか込み上げる笑いを咬み殺して「そうだ。だからさぼらずに働いてくれ。」と返すと、ちょうど門倉さんの後ろからキラウシが迎えに来るのが見えた。
    「ほらキラウシが待ってるぞ。」
    「げ。待ってんじゃなくて、ありゃ追っかけてきてんだよ。少しくらいさぼらせてくれてもいいのになぁ」
    「さぼりの自覚はあるんだな?」
    ぼやいている間に追い付いていたキラウシにそう問われると門倉さんは解りやすくしょぼくれて「すいません」と零したものだから、堪えていた笑いが漏れそうになる。
    「店は休みだって言ったのに人の話聞かないから…すいません。もう連れて帰るんで。」
    「いや、気にしなくていいよ。いつも贔屓にして貰っているんだし。」
    「ほら、マスターはそう言ってくれるだろ?」
    余計な事を言ってキラウシに睨まれるのは門倉さんの常だ。無言で睨むキラウシに「すいません」と再度漏らした門倉さんの声に続いてキラウシの溜息が聞こえた。
    「マスターたち、出掛けるところだったでしょう?すいません。門倉のせいで…」
    「大丈夫だよ。まだ時間には余裕があるから。」
    「二人でデートか?」
    にこりと笑ってそう聞いて来るキラウシに裏は無いのだろう。一瞬、ドキリとして鯉登さんと顔を見合わせたけれど、咳払いを一つして「まぁ、そんな所だ」と答えるとキラウシは「じゃぁ、本当に邪魔して悪かったな…」と零すと、切り替えるようにパッと顔を上げて「いい一日になるといいな。」と笑みを見せた。
    「ありがとう。」と答えながら、いい一日にしよう。と思った。

    ***

     『デート』というものの正解が未だに解らない。
     二人で出掛けて、一緒に並んで映画を見て、目的も決めずに街を歩き、気になった店に立ち寄って、買い物をして、外食をする。
    それら全てに特別な事は何もない。
    友人と買い物に出掛けるのと大差ないようでいて、隣に居るのが鯉登さんというだけで、俺には何もかもが特別なようにも思えてしまう。
    退屈してはいないだろうかと鯉登さんの様子を覗えば、こんなごく平凡な世の中に五万と溢れていそうなデートでも鯉登さんは終始笑顔だった。
    映画が期待通りだったとはしゃぎ(確かに映画など滅多に見ない俺でも面白く思えた)立ち寄った書店では自身の本が並んでいるのを照れ臭そうに横目で見て、好きな作家の新刊を宝物でも見付けたように嬉しそうに手に取っていた。
    通りがかりに立ち寄ったカフェは如何にも今風の小奇麗な店だったが、派手な見た目のパンケーキは味も確かで鯉登さんがこんなに嬉しそうに食べるなら、今度うちでも作ってみようと思ったくらいだった。
    話を切り出すタイミングは、幾らでもあった。その筈だ。その筈だったのだけれど、どのタイミングにも言葉は少しも声にならず、気付けば陽は西に傾きかけていた。
    楽しい休日はあっと言う間に時間が過ぎていく。
    「少し、疲れたか?」
    「いえ、そんなことは…」
    指輪の事を考えていた所為だろう。鯉登さんに要らぬ心配をかけてしまった。
    「それなら、いいんだが…」
    「楽しかったですよ。一日、あなたと居られて。」
    本心からそう告げると、鯉登さんは小さく笑って「うん。私もだ。」と答えてくれた。
    「夕飯は、家で食べましょうか。何か作りますよ。」
    「じゃぁ、私も手伝う。一緒に作りたい。」
    「何がイイですか?リクエストあります?」
    「そうだな…何がイイだろう?」
    そんな他愛ない話をしながら夕方の商店街をゆっくりと歩いている内に、気付けば店の前まで帰って来ていた。
    子供の頃から、ずっと。両親がこの場所に店を構えてから、この店が俺の帰る場所だった。
    店の扉を開ければ、両親がカウンターで待っていてくれた。就職してからもそうだ。アパートで独り暮らしをしていた時期もあるが、帰る場所はこの店だった。
    俺が一人で店を護るようになっても、其れは変わらなかった。これからもずっと変わらず、この店が『喫茶ツキシマ』が俺の帰る場所だ。
    その場所に、鯉登さんが居る。

    「月島?」
    「…鯉登さん」
     知らず、言葉が口をついた。
    「なんだ?」
     振り返った恋人は、今から俺が何を話そうとしているか、少しも知りはしないだろう。
    「色々、考えたんです…」
     何をどう話そうなんていう考えは無い。
    「考えたんですけど、何も思いつかなくて…」
     言葉は勝手に溢れて来た。
    「??月島?」
     突然話し始めた俺に、小首を傾げる鯉登さんの頬はほんのりと夕陽に染まっていた。
    「話があるなら、中で…」
    平日の夕方の商店街には疎らとは言え人通りもある。
    駅から戻る途中にすれ違った中には見知った顔も幾つもあったけれども、そんな事は少しも気にならなかった。
    「俺は、ずっとあなたの傍に居たいです。」
    鯉登さんの事しか、見えていなかった。
    「あなたと一緒に生きていきたいです。」
    鯉登さんだけを、見ていればいいと思っていた。
    「前世と同じように…いいや、前世みたいに、色んなものを背負って、苦労をさせるんじゃなくて…」
    前世と同じように。それ以上に。
    「もっと…楽しい時間や、穏やかな時間を、あなたと一緒に過ごしたい。」
     あなただけを想って、生きていきたい。

     ポケットに突っ込んだままだった小箱を取出して、鯉登さんの目の前で蓋を開けて見せると、鯉登さんが息を呑んだのがわかった。
    「…その…受取って貰えませんか…」
    さっきから、やけに周りが煩い気がするけれども気にしている場合じゃない。
    「何かの、証になるわけでもないかもしれないけれど…」
     祈るような気持ちで答えを待っていると、瞬きもせずに突っ立ったままで居た鯉登さんが、すぅ、と息を吸ってゆっくりと口を開いた。
    「月島…」
    「はい。」
     鯉登さんが真直ぐに俺を見詰めて来る。
    「此れは、プロポーズというやつか?」
    「…そう、受け取って頂きたいです。」
     確かめるようにそう答えると、鯉登さんは瞬きをひとつして、それからふと表情を和らげた。
    「初めてだな。」
    聞こえたのは、そんな言葉だ。
    「え?」
    「明治では、そんな言葉は貰った覚えがない。」
    あぁ、そうだ。そうだった。
    明治の昔、確かに俺は生涯鯉登さんの傍らに在ったが、終ぞ、そんな言葉は口にしなかった。いいや、出来なかったのだ。時代の所為などではない。其れを盾にして、俺は、想いを伝えることをしなかった。
    「…そう、でした、ね。」
    「お互い様だがな。」
    鯉登さんもまた、甘い言葉を口にすることは無かった。俺は、俺達は、互いに離れられずに居たにもかかわらず、何を伝えることもしなかった。
     する必要がないと思っていた。
     してはいけないと思っていた。
     伝えたい想いは、溢れる程あった筈だのに。
    「…月島。」
    「はい。」
    「どうしよう…」
    ぽつりと漏れたその声は震えていた。
    「…すごく、うれしい…」
     笑おうとしてくれたのだろう。けれども、笑顔が整う前に鯉登さんはぐしゃりと表情を崩して泣き出してしまった。
    『案外待っているかも知れませんよ?』
    耳に蘇ったのは尾形の言葉だった。あぁ、確かにその通りだ。尾形。悔しいが、お前の言う通りだった。
    鯉登さんは、ずっと待っていたんだろう。俺と出会ってから、ずっと。いいや、明治の頃から今まで。ずっと待っていてくれたのかも知れない。
    彼是と理由をつけては、何もはっきりとさせないまま、それでも傍を離れずに居る俺を。俺からの言葉を、ずっと待ち続けてくれていたのだ。きっと。今なら、解る。
    「…遅くなって、すいません。」
    低く零すと、鯉登さんは泣き笑いの顔になって「…よかよ。」と郷里訛りの言葉を漏らした。
    「…よか。遅うなってん、嬉しかとは変わらん。」
    顔を上げた鯉登さんは、笑顔だった。
    その笑顔に、今度は俺の方が泣きそうになってしまったけれど、泣いている場合では無い。ぐっと堪えて顔を上げる。
    「指輪、つけてみてもいいですか?」
    「ここでか?」
    「ダメですか?」
    「…よかよ。」
     少し困ったように笑う鯉登さんにホッとしながら、小箱の中から指輪を取出そうとして自分の手の震えに気付いた。
    間違っても指輪を落としたりしないよう細心の注意を払いながら鯉登さんの手を取ると、鯉登さんの手も震えているのが解った。慣れないことに緊張するのは鯉登さんも同じらしい。左手の薬指に指輪をはめるのに随分と手間取った。
    どうにか指輪を落とさずに鯉登さんの指にはめると、サイズもぴったりだ。それになにより、思った通り、ヴァシリにデザインされた指輪は鯉登さんに良く似合った。
    「…キレイだな。」
    「…はい。とても。」
    指輪も、鯉登さんも。とても。
    「もしかして、ヴァシリに頼んでいたのは、絵ではなくてこの指輪だったのか?」
    「…はい。黙っていて、すいません。」
    「そうだったか…。確かにk、これは、言えんものな…」
    薬指に収まった指輪を右手の人差し指でゆっくりと撫でながら、鯉登さんは「月島」と俺を呼んで「嬉しい。」と小さく零した。
    「…本当に、嬉しい…」
    噛み締めるようにそう繰り返す鯉登さんが、愛おしくて。抱き締めずには居られなかった。
    「俺も…嬉しいです。」
    耳元で囁くと鯉登さんは「うん」とくすぐったそうに声を漏らした。聞こえた声が甘くて、抱き締めた身体が温かくて、こんなに、幸せなことは無い。そう思った。
    目の前の鯉登さんと、自分のことで手いっぱいで、俺は本当に周りが見えていなかったのだと気付いたのはその後だ。
     何処かから聞こえてきた拍手で我に返ってふと辺りを見渡すと、いつの間にか其処彼処に見知った顔が溢れていた。
     拍手の中心にいるのは、どうやら尾形らしい。
     口の端を片方だけ上げて皮肉気に笑いながら、それでも尾形は声に出さずに「お幸せに」とその口で象った。
     尾形の向うには、号泣している谷垣と、谷垣を慰めながら、目尻に涙を浮かべて笑っているインカラマッの姿が見えた。
    「えぇ!?マスター!?もう!?本当に!?」
     一際大きな声を上げて驚いているのは門倉さんだ。その門倉さんの隣ではキラウシが呆れた様子でため息を吐いていた。
    「失礼だぞ門倉。素直に祝え。」
    「祝うけど!え!?みんな知ってたのか!?」
    「台無しになるからそろそろ黙れ。」
     漫才のようなやり取りをしている門倉さんとキラウシの隣には仁王立ちをして拍手をしている牛山が見えた。
     牛山の隣には、寄り添うように家永の姿が見える。
    「…指輪、何号だ?」
     前を向いたまま、ぼそりと零した牛山を家永は驚いた顔をして見上げると、それから柔らかに笑っていた。
     エノノカはアシリパと一緒にやたらはしゃいでいる様子だが、興奮気味の少女たちが早口で何を話しているのかは少しも聞き取れない。ただ、祝ってくれているのだろうことだけは、何を聞かなくとも充分に伝わった。
     エノノカの隣には買い物帰りらしい永倉さんと土方さんの姿も見えた。門倉さんと同じく、状況がよくわかっていないらしい永倉さんの隣で土方さんだけは何もかも解っているような顔をして微笑んでいた。
    「え!?なに!?僕大事なとこ見逃した!?」
    人垣の向うから声を上げて飛び出して来たのは宇佐美で、その宇佐美に「遅ぇよ」と答えたのは尾形だった。
    二人が喧嘩を始めた向こうから様子を覗うように此方を見ていたのは菊田さんだ。俺と眼があうと、菊田さんはにこりと笑って、それから深々と頭を下げたものだから、つられて俺も頭を下げた。
     状況に困惑しながらも鯉登さんを見上げると、鯉登さんも困惑した顔をしながら、何処か嬉しそうだった。それは、この場の雰囲気が温かかったからだ。
    周りを取り囲む人の誰もが、笑ってくれていた。
    こんなことは、奇跡だと思う。夢かも知れない。そうそう、或ることでは無い。けれどもどうやらこれは現実で、幸いなことに、俺は、俺達は、周囲にも祝福されているらしい。
    後で考えれば、夕方の商店街で自分の店の前でプロポーズするなんてどうかしていたとしか思えないが、兎に角俺は、その瞬間、幸せだった。
    きっと、鯉登さんもそうだったろう。顔を見合わせて、訳も解らないまま笑ってしまった。
    笑いながら、一生、鯉登さんを大事にしよう。そう思った。

     小さな商店街に、噂はきっと直ぐに広まるだろう。
     此処に居ない人たちの耳にも、話は直ぐに届くはずだ。
     常連さたちは、明日から暫く煩いかもしれないけれど、それはそれでいい。今更隠しようがないのだし。
    俺は、俺達は、これからもこの町で暮らしていくのだから。
    ずっと、二人で。





    **********

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    fujimura_k

    PAST2023年12月発行『喫茶ツキシマ・総集編』(番外編部分)
    月鯉転生現パロ。喫茶店マスターの月島と作家の鯉登の物語。総集編より番外編部分のみ。
    喫茶ツキシマ 総集編(番外編)例えば
    こんな穏やかな日々が
    この先ずっと

    ずっと
    続いていくなんて

    そんな事があるのでしょうか。

    それを
    願っても、いいのでしょうか。


    ***


    図らずも『公衆の面前で』という派手なプロポーズをして以来、鯉登さんは殆ど俺の家で過ごすようになった。
    前々から昼間は大抵店で過ごしてくれていたし、週の半分近くはうちに泊っては居たのだけれど、其れが週四日になり、五日になり、気付けば毎日毎晩鯉登さんがうちに居るのが当たり前のようになっている。
    資料を取りに行くと言ってマンションに戻ることはあっても、鯉登さんは大抵夜にはうちに帰って来て、当然のように俺の隣で眠るようになった。
    ごく稀に、鯉登さんのマンションで過ごすこともあるが、そういう時は店を閉めた後に俺が鯉登さんのマンションを訪ねて、そのまま泊っていくのが決まりごとのようになってしまった。一度、店を閉めるのが遅くなった時には、俺が訪ねて来なくて不安になったらしい鯉登さんから『未だ店を開けているのか』と連絡が来た事もある。
    19591

    fujimura_k

    MOURNING2022年5月発行 明治月鯉R18 『鬼灯』
    身体だけの関係を続けている月鯉。ある日、職務の最中に月が行方を晦ませる。月らしき男を見付けた鯉は男の後を追い、古い社に足を踏み入れ、暗闇の中で鬼に襲われる。然し鬼の姿をしたそれは月に違いなく…
    ゴ本編開始前設定。師団面子ほぼほぼ出てきます。
    鬼灯鬼灯:花言葉
    偽り・誤魔化し・浮気
    私を誘って

    私を殺して


     明け方、物音に目を覚ました鯉登が未だ朧な視界に映したのは、薄暗がりの中ひとり佇む己の補佐である男―月島の姿であった。
    起き出したばかりであったものか、浴衣姿の乱れた襟元を正すことも無く、布団の上に胡坐をかいていた月島はぼんやりと空を見ているようであったが、暫くすると徐に立ち上がり気怠げに浴衣の帯に手を掛けた。
    帯を解く衣擦れの音に続いてばさりと浴衣の落ちる音が響くと、忽ち月島の背中が顕わになった。障子の向こうから射してくる幽かな灯りに筋肉の浮き立つ男の背中が白く浮かぶ。上背こそないが、筋骨隆々の逞しい身体には無数の傷跡が残されている。その何れもが向こう傷で、戦地を生き抜いてきた男の生き様そのものを映しているようだと、鯉登は月島に触れる度思う。向こう傷だらけの身体で傷の無いのが自慢である筈のその背には、紅く走る爪痕が幾筋も見て取れた。それらは全て、鯉登の手に因るものだ。無残なその有様に鯉登は眉を顰めたが、眼前の月島はと言えば何に気付いた風も無い。ごく淡々と畳の上に脱ぎ放していた軍袴を拾い上げて足を通すと、続けてシャツを拾い、皺を気にすることもせずに袖を通した。
    54006

    related works

    fujimura_k

    MOURNING現パロ月鯉 珈琲専門店・店主・月島×画家・鯉登
    脱サラしてひとりで珈琲専門店を営んでいた月島が、画家である鯉登と出逢ってひかれあっていく話。
    作中に軽度の門キラ、いごかえ、菊杉(未満)、杉→鯉な描写が御座います。ご注意ください。
    珈琲 月#1 『珈琲 月』


     そのちいさな店は、海の見える静かな街の寂れた商店街の外れに在る。
     商店街は駅を中心に東西に延びており、駅のロータリーから続く入り口付近には古めかしいアーケードが施さていた。年季のいったアーケードは所々綻びて、修繕もされないまま商店街の途中で途切れているものだから一際寂れた雰囲気を醸している。
     丁度、アーケードの途切れた先には海へと続く緩やかな坂があり、下って行くと海沿いの幹線道路へと繋がっている。坂の途中からは防波堤の向うに穏やかな海が見え、風が吹くと潮の香りが街まで届いた。
     海から運ばれた潮の香りは微かに街に漂い、やがて或る一点で別の香りにかき消される。
     潮の香りの途切れる場所で足を止めると、商店街の端にある『カドクラ額縁画材店』の看板が目に入るが、漂って来るのは油絵の具の匂いではない。潮の香にとって代わる香ばしく甘い香りは、その店の二階から漂って来るモノだ。
    32292

    recommended works

    シュカ

    DONEセックスで愛を計るな。のさらに続き。
    おかしいな、エロっぽいターンに入るはずだったのに入らない。
    甘いだけだよ☺️
    短いよ!
    セックスで愛を計るな。続きベッドの上で寝転がりながら、月島を待っていた。
    手の中のスマホからは女の喘ぎ声。肌色と肌色がくんずほぐれつしている無修正の映像が流れている。女性の性器ばかり映されても参考にならないので、早送りして映像を飛ばしつつ眺める。
    AVを見て勃つかと言われたらNOである。
    羨ましいとか、興奮するという気持ちもない。なんというか、免許更新時に見せられる講習安全ビデオを見ている気分に近い。大勢の人はこれをみて興奮を覚えるらしい。自慰をする時にAVを見ると言うのは知識にはあるが、これで一体どう興奮するのかがわからない。
    どんなことをすれば相手が気持ちいいのか、とか、どんなことをすれば喜んでくれるのか、という男性相手への知識がない。女性相手であれば、≪過去≫の記憶が引き出しにあるので多少はわかるが、男性相手になると過去の記憶を引き出してきても完全にマグロ状態でしか経験がないので、こちらからどう行動すればいいのかがわからない。とはいえ、月島には満足して欲しいという気持ちがある。そうなると頼れるのはインターネットの情報かAVである。AVのプレイを真似してそのままやる男はクソだというのを聞いたことがあるが、知識がなければ頼らざるを得ないのにも頷ける。
    2594