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    fujimura_k

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    2022年5月発行 明治月鯉R18 『鬼灯』
    身体だけの関係を続けている月鯉。ある日、職務の最中に月が行方を晦ませる。月らしき男を見付けた鯉は男の後を追い、古い社に足を踏み入れ、暗闇の中で鬼に襲われる。然し鬼の姿をしたそれは月に違いなく…
    ゴ本編開始前設定。師団面子ほぼほぼ出てきます。

    #やぶこい
    #月鯉
    Tsukishima/Koito

    鬼灯鬼灯:花言葉
    偽り・誤魔化し・浮気
    私を誘って

    私を殺して


     明け方、物音に目を覚ました鯉登が未だ朧な視界に映したのは、薄暗がりの中ひとり佇む己の補佐である男―月島の姿であった。
    起き出したばかりであったものか、浴衣姿の乱れた襟元を正すことも無く、布団の上に胡坐をかいていた月島はぼんやりと空を見ているようであったが、暫くすると徐に立ち上がり気怠げに浴衣の帯に手を掛けた。
    帯を解く衣擦れの音に続いてばさりと浴衣の落ちる音が響くと、忽ち月島の背中が顕わになった。障子の向こうから射してくる幽かな灯りに筋肉の浮き立つ男の背中が白く浮かぶ。上背こそないが、筋骨隆々の逞しい身体には無数の傷跡が残されている。その何れもが向こう傷で、戦地を生き抜いてきた男の生き様そのものを映しているようだと、鯉登は月島に触れる度思う。向こう傷だらけの身体で傷の無いのが自慢である筈のその背には、紅く走る爪痕が幾筋も見て取れた。それらは全て、鯉登の手に因るものだ。無残なその有様に鯉登は眉を顰めたが、眼前の月島はと言えば何に気付いた風も無い。ごく淡々と畳の上に脱ぎ放していた軍袴を拾い上げて足を通すと、続けてシャツを拾い、皺を気にすることもせずに袖を通した。
    「…帰るのか?」
    掠れて落ちた鯉登の問いかけに、月島は束の間手を止め、ちらと鯉登を見遣った。
    「起こしてしまいましたか…すいません。」
    そう零した月島は、再びシャツの釦を留め始め、黙々と身支度を整えていく。答えにならぬ其れが月島の答えであろう。脱いだ浴衣をきちりと畳む月島のその仕草を眺めながらごろりと寝返りを打つと、鯉登は肘をついて半身を起こした。
    「もうこの時間だ。どうせなら、朝餉くらい食べて帰ったらどうだ?」
    外は白み始めている。直に夜も明けようという刻限であれば、何も無理な誘いではあるまいと鯉登が向けた言葉に、月島が寄越した返事は淡白なものであった。
    「外泊の届けをしたとはいえ、貴方と連れ立って行くわけには参りませんでしょう。」
    実に生真面目な、此の男らしい答えに鯉登は苦く笑って「何もそこまでは言っていない。」と拗ねたように呟いた。
    「せめてもう少しゆっくりしていけば良いと言っているだけだ。」
    「…あまりのんびりし過ぎると、下のモノに示しがつきませんので。」
    水を向けたというに、返って来るのは欠片も色気のない言葉ばかり。いっそ清々しい程だ。あまりに詮無い有様に鯉登は嘆息して「つまらんな。」と独り言ちた。
    その一言が耳に届いたか「…なにか?」と短く問うてきた月島に「いいや、なにも」と短く答えれば、月島はふと呆れたように気を吐いて「では。」と軍帽を手に取った。
    「…今日は、市中の調査だったか?」
    向けられた背中に鯉登がそう呼びかけたのは引き留める意図のモノでは無かった。単に確認の問いである。其れを汲んでか、月島は被りかけた軍帽を下げると半身を振返って「いえ」と答えた。
    「今日は、警備の応援依頼が来ています。」
    「警備?」
    耳慣れぬ語句を鯉登が訝しむと、月島は瞬きをひとつして「えぇ、警備です。」と言葉を重ねた。
    「この辺りの氏神の祀られた神社の縁日だとか。」
    「縁日?盗人の見廻りでもしろというのか?何故そんなものに我々が借り出される必要がある。」
    眉間の皺を深くして、明らかな不満交じりの疑問を口にした鯉登に、月島は表情を変えることすら無い。
    「必要を問われるのであれば、土地の者たちと繋がりをつくっておくことも重要かと。」
    「…情報のためか…」
    諭すようなその言葉に返した問いに、月島が答えぬのは同意の証であろう。鯉登は黙って見詰めて来る月島に大仰に息を吐くと「そうであれば、確かに必要な仕事だな。」と身を起こした。
    「そう言えば、以前にも手伝ったことがあったな。」
    何処か遠くを見るような、そんな面持ちで鯉登がそう零すと月島は僅かに表情を動かして鯉登を見遣った。
    「あの時の社なら覚えているぞ。私が任官して直ぐの頃だ。月島が人助けをしていた。」
    覚えていることを得意げにそう語ってみせた鯉登であったが月島はそれに納得するどころか、眉根を寄せて「人助け?」と疑問符をつけて声を漏らした。
    「覚えていないのか?」
    「全く。」
    些か驚いた様子で問うた鯉登に月島が寄越した返答はきっぱりとした否定であった。
    未だ雪の残る季節で、脚を挫いたという参拝客の男を手当てしてやっていたではないかと告げてみても、月島の表情はビクともせず、確かに全く記憶して居らぬのだと見て取れるものであった。
    「本当に覚えていないのだな。傍で見ていた私は覚えているというのに。」
    幾らか呆れの滲んだような声で鯉登がそう漏らすと、月島は涼しい顔をして「気に留める程の事でもありませんので。」とそう零した。確かにそれはその通りなのであろう。月島は、常日頃から気働きの出来る男である。目端もよく利く。故に、鯉登の補佐が務まっているのだ。通りすがりの、あれしきの人助けなど月島にとっては些末事なのであろう。
    「…月島らしいな。」
    微かに笑んで鯉登がポツリと零すと、月島は手にした軍帽を深く被って「兎も角…」と低く告げた。
    「今日は一日外での勤めになります。お疲れの出ぬよう、少尉殿は今しばらく休まれてください。」
    「私はそれほどやわじゃない。」
    気遣いのつもりで向けられたのであろう月島の言葉に、鯉登が返した答えには僅かばかりの棘があった。
    月島はその棘に気付いたものか「それは承知ですが」と言葉を継いで「ああしたところには、ヤクザ者もよく出入りしますので…。」と語尾を濁した。
    「やくざ者がなんだというのだ。…そのくらい…。」
    不機嫌も顕わに鯉登はそう零したが「いや、待て。」と呟くと「運が良ければ、刺青人皮の情報を掴めるか知れんということか。」と表情を輝かせた。
    「可能性は、低いでしょうが…。」
    百面相の如きその表情の変わりように驚きながら、月島が漏らした呆れ声にも鯉登は上機嫌のままだ。
    笑含んで「まぁいい。」と零すと「上手くいけば、鶴見中尉殿に吉報を届けられるかも知れんではないか。」と言って益々笑みを深め「楽しみになって来た。」と口の端を吊り上げた。まるで物見遊山に向かう子供みたような浮かれようである。
    「少尉殿。張り切るのは結構ですが、くれぐれも、ひとりで先走るような真似は為さいませんように。」
    月島が釘を刺すようにそう告げても、鯉登の笑みが崩れることは無かった。そればかりか―
    「承知している。月島がついているのだから特段の心配はないだろう?」と鯉登はそう宣った。
    堂々たるその物言いには二の句が継げず、月島は「然様ですか。」と答えると、呆れの滲んだ顔を隠すように深く軍帽を被り、鯉登に背を向け障子に手を掛けた。
    「月島」向けられた背に鯉登が静かに呼びかけると、月島は振向かぬまま「はい」と静かに答えた。
    束の間、落ちた沈黙は何であるか。
    「…また、後でな。」
    何をか含みのあるように。鯉登がそう告げると、月島はそれに応えぬまま「…失礼します。」と頭を下げ、音を立てぬようにするりと障子を開いた。
    開いた障子の隙間から見える庭には、未だ夜が色濃く残っていた。


    ***


    鯉登の私邸から兵舎までは直線で歩けば十分足らずの距離である。然して月島は、その日兵舎への帰路に迂廻路を選んだ。陽は未だ昇りきらず、朝靄の掛かる仄暗い裏道を黙々と進んで行けばやがて川べりに出る。そこから兵舎までは幾らも無い。どうやら誰に出くわすことも無く戻れそうだと、そっと安堵の息を吐きかけた月島は、ふと川添いの道端に立つひとりの男の姿に気付いて息を呑んだ。
    兵舎にも程近い場所である。師団の者かと月島は身構えたが、よく見れば男は着物姿であった。朝の散歩にしては些か時間が早い気はするが、近在の者であろうか。月島がそう判じて歩みを進めると、男は通り掛かる月島の姿を認めて頭を下げた。
    単なる挨拶にすぎぬ筈だが、月島は妙な胸騒ぎを覚え軍帽に手を掛けると、鍔の陰から男を見遣って気持ちばかり急ぎ足でその前を通り過ぎた。過ぎてしまえば雑作も無い。何を構える必要があったかと思い掛けた頃、ふと声が背中を追ってきた。
    「もし、軍人さん…」
    確りと響いたその声に、月島は足を留めざるを得なかった。聞こえぬふりをすればよかったものを、立ち止まったからにはと思い切って振返ってみれば、色白の柔和な顔をした若い男が薄く笑みをして月島を真直ぐに見詰めている。答える道理はないが、袖にする理由も無い。「なんだ?」と問い掛けに短く答えてみれば、男はその顔に安堵を浮かべて口を開いた。
    「お連れ様は、ご健勝で在られますか?」と。
    「連れとは…」
    にこりと微笑み問うてくる男に、一体誰を言うのかと問いかけた月島の、その言葉を遮ったのは「軍曹殿」という耳に馴染んだ己の呼び名であった。
    声に振り返れば、見慣れた軍服姿の男が二人並んで其処に立っている。
    「おはようございます。」
    「こんな早朝から見回りですか?」
    代わる代わる口を開くのは鏡合わせのように対の貌をした二階堂兄弟であった。双子が揃って同じ隊に居るのも珍しい話ではあるが、其れも全て鶴見中尉殿の計らいであろう。腹の読めぬ双子ではあるが、彼等であれば、此処で出くわしたとて然したる支障はない。
    月島は安堵して「おはよう。」と二人に返し「まぁ、そんな所だ。」と端的に答えた。
    「お前たちこそ、こんな時間に何処へ行く気だ?」
    「一町ばかり先の神社まで。」
    「散歩がてら、本日の警備の下調べに。」
    「中尉殿の命か?」
    問うと、双子はチラと互いに視線を交わし、月島に向き直ると、無言のままこくりと頷いてみせた。その仕草は、中尉殿の命を他言して良いものかと、一時思案したものだろう。然程の任務でもあるまいと思いながら、それも誠実の証かと踏んで月島は「そうか。」と漏らし「ならば、頼んだぞ。」と告げた。
    踵を合わせ、敬礼をして去る二階堂兄弟を見送った月島は、安堵と同時に今ほど声を掛けて来た男の事を思い出した。慌てて振返ってみれば、いつの間に立ち去ったものか。既に男の姿は其処になかった。
    足音を聞いた覚えも無いが、軍人が立ち話を始めた傍らに待つのも憚られて静かに去ったろうか。
    其れならばそれでよいが、男の問いは何であったか。
    『お連れ様は、ご健勝で在られますか?』と、問うてきた男の声が耳に蘇る。
    『連れ』とは、誰を指して問うたものであろうか。逡巡する月島の脳裏に浮かんだのは鯉登の姿であった。
    一昨年の秋・鯉登音之進が新任少尉として任官して以来、補佐となった月島の傍らには常に鯉登の姿があった。その筈である。然し、連れなどと言えるような間柄などでは決してない。
    上官と部下。新任少尉と補佐。それが、己と鯉登の関係であると、月島はそう認識している。
    加えて言うならば、監視対象と監視者。であろうか。
    鯉登は嘗て月島が鶴見中尉の命を受け、その手で拐かした子供である。口を塞ぎ、縄で縛りあげ、自由を奪って監禁した。後ろ手に縛られ、床に転がされて悔し涙を浮かべていた少年の姿は、今でも月島の瞼の裏に残っている。其れだというのに、よもやその子供が長じて己の上官になろうとは。世はつくづく皮肉なものだと月島は思う。だがその誘拐も、補佐の任に付くことも、鶴見の命であれば月島に断る謂れは無いのだ。海軍将校を父に持つ鯉登は、鶴見の手札としてまたとない逸材だ。利口が故に要らぬ知恵を働かせて造反に走るような事のないように、懐柔させるには補佐に付いて傍に在れるのはむしろ好都合であった。
    任官したばかりの鯉登は多少世間ずれしたような所はあったが、父親の後ろ盾の所為か同輩の入れ知恵で妙な手垢のついているようなことも無く、こと職務に当たっては、存外素直に補佐官の言うことを素直に聞いた。根は正直な子で在るのだろう。鯉登は月島によく懐いた。陸に伝手の無い所為もあろうか、歳の離れているのが奏功したものか。或は、亡くなった鯉登の兄と月島の歳が同じであったが故に兄を重ねたものか。理由は定かでは無い。定かではないが、懐柔させるに手古摺る間も無く、鯉登は月島に懐いた。
    懐く、どころか―試すように鯉登に袖を引かれてみれば、男など抱いたことも無かったというに、儘よと圧し掛かり、懇ろになって既に久しい。
    とは言え、鯉登とは、身体だけだ。
    連れ、だなどと。罷り間違っても、言えるような間柄では無い。例え何度となく床を共にしていようと、そんな関係では無いのだ。
    姿を消した男の立っていた場所を見遣るに、其処には最早何もない。幾らか朝靄の晴れかけた、静かな水辺が在るばかりだ。
    月島は、瞬きをひとつ、ふたつ繰り返すと、ふ、と息を吐いて再び兵舎に向かって歩き始めた。


    ***


    音も無く閉じられた障子の向こうに幽かに足音を軋ませながら月島が去ると、鯉登の一人残された座敷はしんと静まって再び夜の最中に落ちたような気配に包まれた。
    見るとは無しに障子を見遣り、二つばかり瞬きをして、ふと思いついたように。つい今まで月島の使っていた布団に手を伸ばせば、其処には未だ幽かに温みが残っていた。
    熱の名残を確かめるように、撫ぜる内にも温みは冷めていく。其れが惜しくて鯉登は撫ぜていた布団にごろりと身を横たえると、今ほど月島が布団の脇にきちりと畳んだ置いた浴衣を手に取り引き寄せた。
    鼻先を寄せれば、確かに月島の匂いがする。よく知った、男の匂いだ。
    こんな風に、月島を見送るのは何度目だろうか。振り返るに、もう数えようがない程であることに気付いて鯉登は苦く笑った。
    父と、兄の後を追うべきと、其れが当然と十六まで生きていた。例え其れが誰に認められるモノでなくとも、そうするしかないのだと思っていた。鶴見中尉に出逢い、そして再開するその日までは。
    鶴見中尉の御為に働きたい。命を救われた御恩を返したい。その一心で道を改め、陸を目指し、晴れて鶴見中尉の配下に付くことが出来た。この先は、一心不乱に職務に邁進するだけだ。その筈が―
    月島基。月島軍曹。己の補佐である、その男。
    月島は鶴見中尉の腹心とされる男でもある。鬼軍曹とも呼ばれ、確かに仕事はよくできる。故に、兵卒たちの信頼も厚く、下の者達には慕われているらしい様子は度々兵舎でも見掛けられる。上官である鯉登には見せぬ様な笑みを廊下の先に見ることも幾度かあった。
    その度に、知らず眉根を寄せるようになったのはいつ頃からだったろうか。見回りと称し、色街へ向かう兵卒たちの中に月島の後姿を見付けて唇を噛んだのは、いつだったか。そうして、月島の袖を引いたのは―
    日頃の労を労いたいと、或る晩、月島を私邸に招いた。月島は、二つ返事とはいかなかったが、鯉登の誘いを断ることはしなかった。無礼講だと杯を重ねたが、その晩は少しも酔わなかった。酔えなかった。
    酔えぬままに、酔ったふりをして「男に興味はあるか」と月島にしな垂れかかった己は、傍から見ればさぞ醜悪であったろうと鯉登は思う。
    いいえ。と答え、男に興味を持ったことは無いと告げる月島に、それでもと身を寄せて「では、私ならどうだ」と問うたのは、向こう見ずにも程があった。
    今振り返れば無茶な話でしかない。よくも話が成立したものだと感心するが、二度とは同じ真似は出来まい。するつもりも、その相手もいはしないが。
    チラと視線を寄越した月島に僅かの色気を感じ、縋るように「月島」と名を呼べば、月島は杯を置いて肩に手を掛けて来た。あとの事は為すがまま、為されるがままであった。知識ばかりで経験など少しもなかったが、酒というものは恐ろしい。
    恐ろしく、有難いモノだ。其れが故で、今日まで延々と関係が続いてしまっているのだから。
    如何して、と、鯉登は思う。
    あの時、己は月島の袖を引いたのか。考えるに、己の中にも明確な答えは無いのだ。…いいや、答えなどとうに出ているのであろうが。鯉登はそれに気付かぬふりを続けていた。気付いてはいけない。とも。
    そうして思うのだ。如何して、あの時月島は己の誘いに乗ったのだろうか。と。その日その場限りであれば、酒の勢い。其れまでの話であったかしれない。
    けれども、二度、三度と繰返し、回を数えきれぬほどになっても、月島は何を言うことも、何を問うこともせず、唯誘われるままに鯉登を抱くのだ。
    言葉少なに。淡々としながらも、触れて来るその手は、重ねる身体は、確かな熱を持っている。
    欲の為の行為。単たる処理。そう思うには、あまりな熱に、触れる度、鯉登は気を狂わせる。
    想い合っているのだと、そう錯覚する程に。
    けれども月島は決して鯉登の隣で朝を迎えることは無いのだ。少しばかり休んで行くことはあっても、朝陽の射す部屋に月島の姿があったことは無い。
    その事実に、鯉登は冷静を取り戻し、ひとり虚しく息を吐く。
    「つきしま」と呼ぶ声に返事は無い。
    「…つれない男だな…」
    独り言ちた鯉登は、引き寄せた月島の浴衣を掻き抱いて強く目を閉じた。
    何も見ずに済むように。なにも気付かずに済むように。


    ***


    その日、第七師団が警備の応援を頼まれたのは兵舎からも程近い神社であった。
    通常、軍がそのような任に駆り出されることは無い。そもそも軍に対しその様な応援要請がなされることは無いのだ。今般、鶴見配下の兵が要請に応じるに至ったのは、専ら情報収集の機会を得る為であった。縁日となれば人は動き、集まる。よくない筋のモノは殊更に商売の機会と働き始める。そうした筋の中には鶴見の求める刺青人皮の情報を持つ者が在る可能性が高いと判じたのだ。応援を持ちかけたのも師団側で、地回りなどは大層恐縮したものであるが軍からの申出を断れる者など在る筈も無かった。
    斯くして、鯉登少尉以下十数名が境内に配備された縁日は一種異様な雰囲気であった。
    古くからその土地に祀られているという神社は街外れに在り、鬱蒼とした木々に囲まれている。森の奥には旧来の社がそのままに残されているという話だが、そちらを訪れる者はなく、人々が専ら信心に訪れるのは江戸末期に御神体を移して建立された本殿である。
    参道から続く境内には屋台も幾つか見られ、近在の者達が次々と参拝に訪れているが混雑という程もない。情報を探ろうにも、ヤクザ者らしき輩の姿は殆ど見受けられず、境内は平和そのものの有様で警備を任された鯉登らは当然に退屈に時間を持て余す事となった。
    兵卒らは鯉登少尉、というよりは、月島軍曹の眼があるからか、それでも真面目くさって参道や境内の見廻りを続けているが、先刻から二階堂兄弟の姿は見えず、本殿の裏で昼寝でもしているのではないかというのは月島の勘繰りである。
    尤も、其れを確かめに行く術が無いのは、鯉登の落ち着きの無さ故であるが、当人の知った所では無い。
    月島の心中など意に介さず、縁日が珍しいモノか、退屈も相俟って、鯉登は先刻から境内を彼方此方歩き回っているのだ。
    己の立場や風貌に頓着しないのは鯉登の良さであると月島は見ているが、頓着をしなさすぎるのも如何なものか。市井にも噂される程の美男と評判の第七師団は鯉登少尉殿が気安く彼方此方に声を掛けるモノだから月島は堪ったものでは無い。
    「少しはご自身の立場というものをお考え下さい。」
    堪り兼ねて月島はそう苦言を呈したが、鯉登は小首を傾げ「鶴見中尉殿なら未だしも、私如きに立場などあるものか。」と零し「市井の者から情報が得られることもあるやも知れんだろうが。」と不服そうに口を尖らせるまでしてみせた。全く子供みたような仕草である。怒りを通り越して最早溜息しか出ぬ月島であったが、鯉登はそれすら然して気にした風はない。
    「なぁ、月島」と今不貞腐れていたその口で、何事も無かったかのように月島を呼んだ鯉登は、月島が自身の方を向き直るのを待つと「ホオズキはこの時期だったか?」と唐突にそう問うた。
    何を突然、と思う月島の目に映ったのは、屋台の一角に並ぶ鉢の数々であった。葉の茂るばかりのモノが大半の中に朱赤に染まり掛かる実が幾つか覗くそれは確かに鯉登の問うホオズキである。
    「…五月の末から夏くらいまでだそうですよ。」
    「!詳しいな。好きなのか?」
    「いえ、先程店のモノから聞きました。」
    答えると、鯉登は「ふぅん」と零して鉢の傍らに腰を下ろした。
    「この辺りでは食用にもするらしいです。」
    「食べられるのか?」
    「これらは観賞用ですよ。」
    鯉登の私邸にはそれなりに手入れされた庭があるが、鯉登が庭木に興味を持つさまなど終ぞ見た試しがない。ホオズキの何がそんなに気に入ったかと月島が疑問に思う内に鯉登はふと「『鬼灯』と書くのだな」と漏らして月島を振返った。
    「庭に置いたら鬼でも出るか?」
    悪戯に笑う子供そのものの鯉登の其の言い様に、月島はいよいよ呆れて「鬼と書くのは、幽霊を指すのだそうですよ」と声を漏らした。
    「幽霊?」
    訝しく眉根を寄せる鯉登に、月島はひとつ咳払いをして「そう言われているという話です。」と答えた。
    「人魂とやらに似ているんですかね。」
    然したる興味も無く、通り一遍の世間話のように。月島がそう告げると鯉登は「ふぅん」と再び声を漏らして「幽霊などというものが居ると思うか?」と月島を見遣った。その言葉の真意が測れず「さぁ」と返した月島に、鯉登はすい、と目線を逸らすと「居るのなら、私の所にも出てきてほしいモノだな。」と、冗談とも本気ともつかぬ声音でそう漏らした。
    鯉登が出てきてほしいと願うのは、鯉登が幼くして亡くした兄の幽霊であろうか。少尉となったその姿で、少尉となったその年に命を落とした兄の幽霊に、逢えたらば、鯉登は何を話すつもりだというのだろうか。月島がそう思う内、鯉登は明るく「冗談だ。」と言って、最早ホオズキに興味を失ったものか、隣の屋台に並ぶ竹細工を見始めていた。
    幼児同様、ころころと気分を変えて勝手気ままに動き廻るその様に、さしもの月島も眉間の皺を深くした。
    束の間の感傷を引き摺る暇も無い。
    言ったところで何の効果があるものか知れないが、小言のひとつも言わねばなるまいと顔を上げた月島であったが、然し次に発したのは小言ではなく「少尉殿っ」という切羽詰まった声であった。
    顔を上げた月島の目に映ったのが、赤に染まった鯉登の指先であったからだ。
    「見せてくださいっ」
    駆け寄り、ややもすれば乱暴な位の勢いで鯉登の手首を掴んだ月島に苦笑するのは鯉登である。
    「なんだ、大袈裟に。」と鯉登が笑うのは尤もであろう。竹細工の端を引っ掛けたものか、鯉登の指先に僅かばかりの歪な傷が見て取れた。零れた血の量が目に映る程であったのは、切れたその場所が指先であったからか。大した傷では無いと解ると、月島はホッと息を吐いて懐から手拭いを取出した。
    「これしきの傷など、放っておいてもいいくらいだ。」
     血止めをするように手拭いで包み込んだ指をぐっと握りこむ月島に、鯉登が苦笑交じりにそう告げると、月島は鯉登の方を見ることもなく「剣を振るう手です。」と零した。
    「大事になさい。」
    静かに告げる月島のその声と、指先を包む手の熱に、鯉登は返す言葉を見付けられず、気まずさを抱えながら月島の気が済むのを待つほか無かった。
    「軍曹殿っ!」
    束の間落ちた沈黙を破ったのは見廻りを続けていた兵卒の声であった。刹那、弾かれたように顔を上げた月島は、ふと鯉登の指を包んでいた手の力を緩めた。その隙に鯉登は手拭いを指先から外すと、素早くポケットに捻じ込んだ。
    如何した。と問う月島の耳に齎されたのは、境内の裏手に構えられた屋台のひとつに刺青の男が居るという話である。待ち兼ねたその情報に月島は鯉登と視線を交わすと、すぐさま手分けしてその男を探し始めた。
    いつの間に何処から戻ったものか、二階堂兄弟も合流し、師団面々は俄かに活気づいた。
    兵卒の聞いた男の特徴を頼りに境内を捜し始めるが、然程広い境内でもないというのに縁日の人出もあってか、目的の男を探すに探せず、血眼になるうちに兵等は散り散りになった。
    「…月島?」
    気付けば、鯉登の隣に月島の姿は無かった。
    「月島、何処だ!?月島ぁ!」


    ***


    境内で一人の男に目星をつけた月島は、本殿の裏手から社の奥へと男を追って走っていた。
    鯉登が後を追っているモノと思っていたが、気付けば一人きりであった。月島はそうと察してはいたが、振り返る余裕など無かった。男を見失う訳にはいかないのだ。月島の追尾に気付いたものか、前を行く男は木立の間をすり抜けて、林の奥へ奥へと進んでいく。
    一時でも目を逸らせばその隙に男を見失いそうで、月島は只管に男の姿を追って走り続けた。
    鯉登と離れてどれ程であろうか。
    男を追って林を抜けた先には、ぽかりと場が開けて、半ば朽ちかけた古い社が月島の目に飛び込んで来た。
    「…此処は…」
    話に聞いた、旧来の本殿であろうか。
    歪な石畳の参道の脇には柱にひびが走り、傘の欠けた灯篭が火の気も無く唯其処に在る。阿吽を為す狛犬の片方は耳が欠け、もう片方は片目を苔に覆われていた。木立に囲まれた奥まった場所で在るが故であろうか、昼間だというのに辺りは薄暗く、空気は淀んで冷えている。
    如何にも、様子がおかしい。
    長居するのは得策では無さそうだ。人を集め、体制を整えて出直すべきか。そう考え、来た道を戻りかけた月島の足を止めたのは、今の今まで追っていた男の姿であった。確かに此処へ来るまでは男の背を追っていた筈である。然してこの場に男の姿は無い。
    若しや、社の中に潜んでいるか?せめて其れだけは確かめて戻るべきではないか。
    思い直して社を振り仰ぐと、風も無いというのに、社の扉がきぃと軋んだ音をさせて薄く開いた。
    扉が開いたということは、中に先刻の男が逃げ込み潜んでいるという事か。
     銃剣を携え、息を殺して足音を消し、月島は社の扉近くまで足を進めると、ちらと隙間から中を覗き見た。
    僅かの隙間から覗くのは暗闇ばかりで、中の様子までは解らない。耳を澄ますに人の気配は感じられないが、中を検めぬ道理はない。彼方も息を潜め、獲物を構えて此方の襲撃を待ち構えているや知れないのだ。月島はすぅ、と息を吸いこむと、次の瞬間には社の扉を蹴って中に踏み込んだ。
     果して扉の開いた先に月島を待っていたのは、青白い顔をした男であった。
     ぽつねんと、ただ一人。刃物も銃も持たず、暗い社の中にひとり佇む男は闇より暗いどろりとした目をしていた。扉を蹴破って現れた月島に何の動揺を見せることも無く、まるで其れが解っていたかのように。立ち尽くしたまま微動だにせず、銃剣を構える月島を見る男の眼は物言いたげにじっとりと月島に絡みついた。その癖、男は一向口を開く気配すら見せないのだ。
     月島は男の佇まいに薄気味の悪さを感じてごくりと唾を呑むと、手にした銃を構え直して男を見遣った。絡みつくその視線に男の面差しに、見覚えが在ったろうか―
    「貴様、何処かで…」
    眉を顰め、月島がそう零すと月島の眼前に突如火柱が立ち昇った。驚き身構える月島を他所に、火柱の最中にある男は悠然として火に巻かれていた。その肌も、その瞳も、火を映したように朱に染まっていく。
    「っおい…っ」
    助け出すべきかと月島が大きく声を上げると、刹那、男の口元がぐにゃりと歪み、開いた口から溢れる闇が瞬く間に辺り一面を呑み込んだ。月島は声を上げる暇も無く闇に呑まれ、闇の中にはゴトリと銃剣の落ちた鈍い音だけが響いた。


    ***


    刺青の男を追っていた筈の師団の面々は、半時の後には追う対象を月島軍曹に変えていた。
    兵卒が掴んだ刺青の男の話が全くのがせであることが判明するのには半時とかからなかった。がせというのは語弊があろうか。捕らえた男には確かに刺青があった。だが其れは単に任侠者が好んで入れる類のモノで、鶴見の探し求めるモノとは程遠いモノであった。捜索は徒労であったかと落胆する間も無く、師団の面々が動く羽目になったのは、男の捜索の最中に月島軍曹の姿が見られなくなった事に由来する。
    途中まで鯉登と同道していた筈が、気付けば月島の姿が見えなくなっていた。捕らえた男を尋問する間にも、月島がその辺りに姿を見せることは無く、若しや事件や事故に巻き込まれたかと面々がざわつき始めるのにそう時間はかからなかった。あの月島が下手を打つとは考え難いが、事故であれば解らない。兎も角手分けをして探してみるほかあるまいと、一度集まった面々は再び散り散りとなった。
    曲がりなりにも少尉である鯉登を独りで行動させるのは如何かと、鯉登について月島の捜索に当たる兵もあったが、何せ鯉登は足が速いのである。加えて、月島でもなければ鯉登の行動を予測することなど不可能に近い。鯉登についていた兵は見る間に鯉登を見失った。尤も、鯉登は兵がついていたことさえ気付いていなかったものか、ひとり勘に頼って林の中をぐんぐんと進み、気付けば、件の社に辿り着いていた。
    林の中に、ぽかりとそこだけ開けた空間は、振り仰げば空も見えるというのにどうしてだか薄暗く、寒気を覚える程に空気が冷たい。違和感に眉根を寄せ、辺りを見遣った鯉登の眼は、朽ちかけた社の扉を捉えた。
    僅かに開いたその扉は、ゆらゆらと誘うように揺れている。其れが妙な事だと頭ではそう解っているというのに、鯉登は社へ近付く足を止めることも出来ず、ゆっくりと歩みを進め、無意識の内に扉の前に立っていた。半分程開いた扉にそっと手を掛け、中を覗いてみれば、社の中は墨を刷いたような暗さであった。
    「月島?中に居るのか?」
    掛けた声に返答は無い。其れだというのに、鯉登はそろ、と社の中に足を踏み入れた。
    三歩も進めば、視界は闇に覆われる。扉は開いている筈だのに、何故だか外の明りが届かない。
    何かが、おかしい。
    そう思った刹那、鯉登の背後でバタン。と大きな音をさせて扉が閉まった。驚き振り返る鯉登の目には、何処に扉があったものかさえ最早解らなくなっていた。
    「っ…なんだ!?」
    直ぐそこに在る筈の扉に手を伸ばすに、如何した訳だか何処にも扉らしきものがないのだ。そんな筈は無いと焦りながら、触れる感触を頼りに扉を探そうと壁伝いに歩いてみれば、焦りは益々募った。手に触れる感触が確かであれば、継ぎ目のない板戸に四方を囲まれているようなのだ。
    「…そんな馬鹿な…っ」
    何が起こっているのかと混乱しかかる鯉登の背後と、ふと、物音が響いた。
    闇の中に、何か、いる。
    其れを察して軍刀に手を掛けた鯉登は、すらりと刀を抜いて後ろを振り返った。
    視界は一面、闇である。
    此れは、世にいう怪異というものか。いいや、そんなものが在る筈がない。きっと何かの仕掛けがある筈だ。闇の中に在れば何れは目が慣れる。此処が何処であるか、辺りがどうなっているか、直にこの目で確かめられる。その筈だ。
    混乱しかかる精神を、どうにか理性で抑えつけ乍ら刀を構える鯉登の腕を、何者かが掴んだのは不意の事であった。
    足音も、呼吸の音さえも無く、いつの間に鯉登の傍らに在った何者かは強い力で鯉登の腕を掴むと、鯉登がそれに気付いて反応するより先に鯉登の手から刀を奪い取り、あらぬ方へと放り投げた。
    「っ!?…何…っっぐ…っぅ!?」
    鯉登から刀を奪った何者かは、続いて強い力で鯉登を床に投げ飛ばすと、黒い塊となって鯉登に圧し掛かり、真上から見下ろしてきた。
    尋常ならざる力で床に叩き付けられるような格好になった鯉登は、痛む背に歯を食い縛って身を起こそうと試みたが、黒い塊となった何者かに抑え込まれ、見る間に身体の自由を奪われた。
    「っクソ…っ…離せっ貴様、一体…っ…っっ」
    押し返そうにも、腕の自由を奪われてはどうにもしようが無く、せめてと足を蹴り上げてみたが、圧し掛かる何者かはビクともしない。
    焦りを募らせながらどうにか逃れようと必死に足掻く鯉登は、然し闇の中、己を見据えてくる、燃えるような目に気付くと驚きに目を見開き、ピタリとその動きを止めた。止めざるを得なかった。
    闇に慣れ始めた鯉登の目が、朧に輪郭を捉えた黒い塊は、鯉登の良く知る男の姿をしていたのだ。
    「…つき、しま…?」
    よく知る筈のその男は、見たことも無い、悍ましい姿をしていた。皮膚は火を纏ったように朱く、額には青筋に巻かれた歪な角がある。鯉登を見据えてくるその眼は赤黒く濁っていた。さながらその姿は鬼である。
     愕然としながら呼んだ名前に答えが返ることはなく、ばかりと口を開いた月島によく似た何かは、牙の合間から血のような赤い舌をだらりと垂らし、鯉登の喉首を舐め上げた。異形を模したその姿に背筋を寒くしながら、然し鯉登は逃げることが出来なかった。自身の首元に鼻先を埋める異形からは、哀しいかな、確かに知っている男の匂いがするのだ。
     此れは月島では無い。だが、確かに此れは月島に違いない。
     鯉登はそう確信すると、抵抗を諦め、ぱたりと量の手足を床に投げ出した。
     このまま、此の男に喰われるのだろうか。
     逃げるべきであろう。抵抗するべきであろう。これが月島であるならば、目を覚ませと殴ってでも正気を取り戻させるべきだ。だが、そんな事が可能だろうか。尋常ならざる力で己を抑え付け蹂躙する、此の異形に正気を取り戻させることなど。
    いいや、若しや、これが月島の本性であったろうか。
     「…っ…つきし、ま……っ」
     縋るように、漸くに上げた鯉登のその声に、異形の鬼が動きを止めるようなことは無かった。
     「っぐ、ぅ…っ月島…っ…つき、しまぁ…っ…っ」
     一筋の光も無い、真っ暗闇の最中に響くのは、悲鳴にも似た鯉登のすすり泣きと、肉を穿つ卑猥な水音ばかりであった。


    ***


    目を覚ました月島の視界に最初に飛び込んで来たのは眼前に転がる銃剣と、煤けた板塀であった。
    一体いつの間に意識を失っていたものか、床に倒れ込んでいたらしい己の身をゆっくりと起こしてみれば、妙に頭が重い。床に転がっていたせいか、身体の彼方此方が軋むようで、例えようのない違和感と鈍痛があるが、どうやら手足に不自由は無いようだ。
    如何してこんな所に…と逡巡して、刺青の男を追っていた事を思い出すと、月島はハッと目を見開いて辺りを見渡した。あの男は何処へ行った。と。炎に捲かれていたあの男は無事なのか。確かに火柱を見たというのに、どうして社も己も無事なのか。思案するよりこの目で観る方が余程早い。
    然し、薄暗がりの中、月島の目に映ったのは件の男の姿などでは無かった。
    己の傍らに、見るも無残な有様で横たわる人が居る。その人が誰であるか。気付いて、月島は息を呑んだ。
    衣服を剥がれ、蹂躙された痕跡も明らかに板の間に転がされているその人は、紛れもなく鯉登であった。
    何故、如何して、と思う間に、裸のまま床に転がされた鯉登に近付いてみれば、確かに鯉登に息のあることを確認して、月島は漸く息を吐いた。
    鯉登は生きている。息をしている。死んではいない。其れは確かだが、何者に暴かれたものか、無残という他無い鯉登の有様に月島は絶句した。
    名を呼ぶことも憚られ、月島は震え掛かる手でそっと鯉登の頬に触れようと手を伸ばしたが、指先の触れる直前でその手を留めた。
    目を閉じ、弱く息を漏らす鯉登の頬には幾筋も涙の走った痕が見えたのだ。乾いた唇の端には血の渇いた痕さえ見える。穢された痕跡も明らかな肌には、幾つもの鬱血と、擦り傷があった。
    己の直ぐ傍で、何が起こり、鯉登がこんな様になったのか。想像はするに易く、目の前は暗くなる。
    月島は触れかけた手で拳を作ると、指が白くなるほどに握り込んで己の膝を打った。
    身の内に湧き上がる感情を殺すように。
    月島は、何度も、何度も、己の膝を打ち続けた。


    ***


    鯉登を抱えて戻った月島が師団に合流したのはその日の夕刻であった。
    宵闇が迫る頃、ようやく戻った月島に皆が安堵したのは束の間で、月島がその腕に抱えているのが鯉登だと解ると、師団の面々は騒然となった。ぼろきれのような有様でぐったりと月島に身を預ける鯉登に意識は無く、二階堂兄弟などは目を血走らせ、直ぐにも鯉登に怪我を負わせた何者かを追おうとした程だが、月島はどうにか其れを宥め、鯉登負傷の旨を鶴見中尉に報告するよう託てると、その足で鯉登の私邸に向かった。
    月島が鯉登を抱えて邸に辿り着くと、邸には師団側から報せを受けたらしい医師が既に待ち構えていた。直ぐにも診察をという医師の申出は全くの善意であったに違いないが、月島は断りを入れ、暫し座敷の外に医師を待たせた。訝る医師を宥めた上で、鯉登の使用人に湯桶を用意するよう頼みこむと、月島は人払いをして自身の手で鯉登の身体を清めた。掛かる措置などすべきでは無かったか知れないが、月島はどうしても穢されたままの鯉登の姿を己以外の眼に曝すことが出来なかったのだ。身体を拭い、浴衣に着替えさせる間、鯉登は目を覚ますことは無かった。其ればかりか、医師の見立てを受ける間にも、起き出す気配さえ見せなかった。医師というものは心得たもので、漸くに呼ばれた座敷に寝かしつけられた鯉登を一瞥すると、大きな怪我の無いことだけを検めて、ちらと月島に目配せを寄越した。
    去り際、随分と無理を強いられた様子であるから、確りと養生をさせるようにと、そう言い置いた医師に、月島は鯉登に代わって深々と頭を下げた。
    昏々と眠り続ける鯉登が、よもやこのまま目を覚まさぬ様な事になれば大事である。まさかとは思いながら、離れるに離れられず、月島は鯉登の傍らに控えた。
     鯉登が、その眼を薄らと開いたのは明け方近くになってのことである。小さく声を漏らし、身を捩らせた鯉登は、やがてゆっくりと瞼を開くと、ぼう、とした焦点の定まらぬ眼で月島を見た。
     「少尉殿…っ」
     思わず声を上げ、月島がその顔を覗き込むと、鯉登は未だ開ききらぬ目でぼんやりと月島を見詰め、乾いて艶を失ったその唇で「つきしま」とその名を象った。
     「…よかっ…た…無事、なのだな…」
     薄らと笑って、鯉登はそう呟くと、安心したようにそっと瞼を下ろし、再び静かに寝息を立て始めた。
     鯉登の穏やかな寝顔に月島は漸くホッと息を吐いたが、ふと、鯉登の漏らした声に違和感を覚えた。
     無事、とは、どういうことだろうか。
    鯉登は、己があの場に倒れていたのを見たという事か?己が昏倒するその直ぐ傍で、鯉登は何者かに…と、その先を想像し掛けて、月島は強く頭を振った。
     強く拳を握り、沸騰しかかる己の情を如何にか堪えて、眠る鯉登の穏やかなその顔を目に焼き付けると、月島は、ゆっくりと息を吐いて漸くに座敷を出た。
     
     昨日は迂回したその道を真直ぐ進み、兵舎へと急ぐ。この時間には未だ居られまいと訪ねた執務室には、予想に反して既に鶴見の姿があった。
     「思ったよりは、早かったな。」
     薄く笑みをしてそう月島を出迎えた鶴見は、何を思って待って居たろうか。
     月島は、極力言葉を選んで事の仔細を鶴見に告げ、己の失態を詫びて恥じた。
     鶴見の命を受け、鯉登に着いていながらの体たらくである。補佐を外すと言われることも覚悟の上であった。尤も、其れを言われたとしても、今一度鯉登につかせてくれと頭を下げる覚悟もしていたのだが、月島の覚悟を他所に、鶴見は何の処分を下すどころか「ご苦労だったな」とだけ告げると、暫し思案して月島に兵営での待機を命じ、ひとり静かに席を立った。
     鶴見の去った室内に、一人残された月島は遣る瀬無く、ただ立ち尽くすばかりであった。


    ***


     待機を命じられ、兵営に戻った月島を待っていたのは思いもかけぬ男であった。
     「何の用だ」と問うた月島に猫のように目を細め、如何にもつまらなそうに嘆息したのは尾形上等兵である。壁に凭れ「別に用なんてありませんよ。」と嘯く尾形に一瞥をくれると、月島は「用が無いならとっとと仕事に戻れ」と吐き捨てた。
    お前の相手をしている暇は無いと言外に告げたつもりであったが、尾形はその意を介した風は無く、壁に凭れたその姿勢のまま「これは手厳しい」とへらりと笑ってみせた。
     「少尉殿が居られぬのでは、さぞ軍曹殿がお寂しかろうと思って参りましたのに。」
     口の端を上げたその隙間から尾形が漏らしたその言葉に、月島が弾かれたように振り返ると、尾形は吊り上げた口の端を歪めて壁から身を剥した。
     「何なら俺が、少尉殿の代わりをして差し上げましょうか?」
     「尾形、貴様…っ」
    「…と言うのは冗談で、俺は命を受けただけですよ。」
    明らかに冷静を損ない、目を血走らせている月島にうんざりした様子で尾形が言葉を繋ぐと、月島は眉間に皺をして「命だと?」と尾形の言葉を訝った。
    尾形はその声も予想したものか「そうですよ」と涼しい顔をして淡々と告げた。
    待機を命じられた月島が、命の通りに待機をしているかを見張るようにと、そう命じられたのだと尾形は言うのである。命を下したのが誰であるかは問うまでも無い。苦虫を噛み潰したような顔をする月島に、尾形は平然と向き直ると「そうでも無けりゃ、軍曹殿の所になんぞ、態々来たりしませんよ。」と、然も当然といった風情で言ってのけ、ちらと月島の顔色を窺って「何も無けりゃあ、鯉登少尉殿の様子でも伺いに行く方が余程面白そうだ。」とまで宣った。
     途端に、月島の顔色が変わり、その眼に強い殺気が過る。
     「尾形…っ」
     「一体何があったっていうんです?」
     月島が苛立つのに反して、尾形は愉快そうに嗤う。
    「ぼちぼち噂になっていますよ?軍曹殿が目を離した隙に、鯉登少尉殿が暴漢に襲われ、大変な怪我を負わされたようだ、と。」
    猫の目を弓型にして、然も愉快そうに問うてくる尾形に、月島は血の沸き立つのをどうにか抑え込みながら軍帽を脱ぎ捨てると「貴様には関係ない」と低く言い放って尾形に背を向けた。


    ***


    月島軍曹が一時消息不明となり、捜索に出た鯉登少尉が何者かに重傷を負わされた。という話は、その日の内に師団内に知れ渡るところとなった。
    「暫く療養なさると聞いたが、少尉殿はご無事なのか?」
    「あの少尉殿がそれ程の怪我を為さるとは…」
    「軍曹殿は何をしておられたのか。」
    「一刻も早く、少尉殿の仇討ちをせねば。」
    兵卒に至るまでが口々に噂を始め、昼を過ぎる頃には知らぬ者がないような事態にまで陥った。鶴見中尉が目を掛ける鯉登少尉が怪我を負わされたからには、直ぐにも犯人断固確保の命が出るだろう。そうなる前に、目ぼしい不審者をあたっておくべきか。功を急く面々は躍起になって早々と街の巡回まで始める始末となったが、その日、鶴見が兵卒たちの期待するような命を発することは終ぞ無かった。尤も、鶴見が動かぬことが却って兵卒たちの功名心を煽ったものか、兵舎の空気は益々ひりつくばかりである。

    不穏な空気が立ち込める中、鶴見が鯉登の私邸を訪ねたのは、騒動が起こった翌日の早朝であった。
    朝靄の掛かる中、訪問の伴に月島…ではなく、宇佐美を連れて。鶴見は裏口から鯉登を訪ねた。
    突然の鶴見の来訪に驚いたのは使用人である。直ぐに鯉登を呼ぶと色めく使用人を制し、鶴見がひとりで鯉登の居室を訪ねると、起き出したばかりであったか、浴衣姿のままであった鯉登は驚き、目を見開くと、慌てて布団の上に正座して、深々と頭を下げた。
    常の鯉登ならば鶴見直々の訪問などを受ければ、隣近所に響くほどの猿叫を上げたであろうが、その日は声も無く、鯉登は唯、土下座の姿勢で背を震わせた。
    下げた頭の下から、消え入りそうな声で漏れ聞こえたのは鯉登の詫びであったろうか。
    鶴見は頭を下げ続ける鯉登の肩に手を掛けると「無事で何よりだ」と声を掛け、顔を上げさせた。
    果して鶴見の眼に映ったのは、日頃見慣れた若い生気に満ち溢れた鯉登の姿からは程遠い、やつれたその顔であった。
    触れれば今にも泣き出しそうな、子供みたようなその顔に、鶴見は幽かに目を細め「何があったのか、話せるかい?」と、それこそ幼子に問うようにして怯えの滲む鯉登の目を覗き込んだ。
    鯉登は他でもない鶴見の問い掛けに何とか応えようと、幾度も口を開きかけるのだが、如何して、何度口を開いても、其処から声の漏れることは無かった。
    話せぬわけでは無い。声を失くしたわけでも無い。唯、鯉登には、己の身に何が起こったか、言葉にする手段が見当たらないのだ。
    歯痒く唇を噛む鯉登に、鶴見は質問を変えよう。と言い置いて、再び鯉登の目を覗き込んだ。
    「鯉登少尉。お前を襲ったのは、誰だった?」
    鶴見が問うたその刹那、鯉登の瞳がぐらりと揺れて鶴見から目を逸らした。
    閉じたままの唇は戦慄いて、微かに震えている。
    「お前の…いいや、私の知っている男なのだな?」
    重ねた問いに鯉登が恐る恐る鶴見と視線を合わせると、鶴見は瞬きを一つして、徐に口を開いた。
    「…月島なのだな?」と。
    問われた鯉登は押し黙り、ゆっくりと面を伏せ、揃えた膝の上にぽたりと一つ雫を落とした。
    落ちた雫は冷や汗か、或は涙であったろうか。
    鶴見は鯉登の膝に落ちた雫が浸みるのを見詰め乍ら、努めて平板な声で「月島は覚えていないようだが…」と独り言のように呟いて鯉登が顔を上げるのを待った。
    鶴見のその声をどう聴いたものか、鯉登は暫しの沈黙の後、そろりと顔を上げると「申し訳ございません」と再び詫びの言葉を口にした。
    「…今は、未だ、…」
    言葉をひとつひとつ、慎重に選びながら、鯉登はぽつぽつと声を漏らした。
    途切れ途切れの言葉を繋げば、鯉登の言い分はこうである。己の身に何が起こったか、鯉登自身もよく理解出来ておらず、納得もしていない。考えの整理がつけば、きっと報告をする。落ち着くまで、今暫くは時間的な猶予が欲しい。と。
    切々と訴えるその様に、鶴見は「解った」と短く答えると「お前が話せるようになるまで、報告を待とう。」と告げて鯉登を労わった。
    鶴見の声にホッと息を吐く鯉登であったが、続いた言葉には息を呑んだ。
    「大きな怪我は無いようだが、噂にもなっている。暫くは、このまま邸で療養を続けるといい。」
    鶴見の言葉は、単に憔悴しきった様子の鯉登を案じてのモノであったが、鯉登にはその言葉が失態の反省を絆す蟄居を命じられたようにさえ聞こえたものか、鯉登は失望も顕わに肩を落とした。
    「っつるみ、ちゅういどの…私は…」
    「そんな様で、仕事が出来るかね?」
    何をか訴えかける鯉登に、鶴見が先んじて釘を刺すと、鯉登は声を詰まらせた。
    「っ…じゃっどん…」
    「漸く、薩摩訛りが出たな。」
    鶴見の指摘に鯉登は「あ」と小さく声を漏らすと、いよいよ言葉に詰まって唇を噛んだ。
    「それは、月島の為か?」
    俯く鯉登に鶴見がそう問い掛けると、鯉登はハッとなって顔を上げたが、言葉は上手く声にならぬものか、声の無いままふるふると首を横に振って其れに応えた。
    「…月島を、怖いとは思わんのか?」
    続いた問いには、こくりと首を縦に振ってみせる鯉登に、鶴見は「お前をこんな様にしたというのに?」と問いを重ねたが、鯉登の返答は変わらなかった。
    「…月島は、今…」
    それどころか、月島の身を案じる様子さえ見せる鯉登に、鶴見は「待機を命じている。私には、普段の月島と変わらぬように見えた。」と静かに告げた。
    「お前の事を、酷く悔いて、気落ちしているようだ。」
    真実その通りであったことをそのままに伝えると、鯉登は、安堵と不安の綯交ぜになったような、複雑な顔をして開きかけた口を閉じた。
    膝の上に置かれた手は固く握られ、震えが見て取れる。何があったかは定かではないが、異変があった事だけは確かなのだろう。
    鶴見は鯉登に気取られぬようそっと息を吐いて「兎に角」と鯉登の肩を掴んだ。
    「無理はいけない。お前は暫く休んでいなさい。」
    お前に何かあっては、御父上に申し訳が立たないからなと笑ってみせた鶴見に、然し鯉登が笑みを返すことは無かった。

    鶴見が座敷を出ると、障子を開いたその先には、いつの間に控えていたものか、宇佐美の姿が在った。
    声も無く、気配を消して置物のように其処に在る宇佐美に、鶴見がちらと視線を送ると、宇佐美は勝手知ったる様子で首を下げ、廊下を進む鶴見の後へ続いた。
    「すまないな。こんな時間に付き合わせて。」
    「いいえ、とんでもない。鶴見中尉殿の命であれば、いつなりと、喜んでお供致しますよ。」
    宇佐美のその言葉は本心であろう。鶴見はふと口許に笑みを浮かべ、それからすぐにその口の端を引締めると「宇佐美」とその名を呼んだ。
    「話を聞いていたか?」
    「…いいえ。何も。」
    前を向いたまま、静かに投げられた問いに宇佐美が返したのは否定の答えであった。
    確かめるように鶴見が振り返ると、宇佐美はにこりと笑みをしてみせるばかりである。
    「…お前は、本当によくできた男だな。」
    「お褒めに預り光栄です。」
    宇佐美の声は密やかに、けれども、弾むように零れ落ちた。


    ***


    鶴見の去った後、鯉登は座敷の上にへたり込んで、昨日の…社でのことを思い返した。
    果してあれは現実であったろうか。
    考えるまでも無い。アレが紛れも無い現実であったことは、我が身を見れば明らかだ。
    鯉登は確かにそれが現実であったと承知していた。承知はしていたが理解が追いつかぬのだ。
    昼間、月島は刺青の男を追っているうちに行方が知れなくなった。その月島を探して境内の見廻りを続ける間に気付けば神社を囲む林の奥に進んでいた。林を抜けた先に見たのは、記憶が確かならば古びて朽ちかけた社であった。あれが話に聞く元の本殿であろうか。
    そうであったとして、その中で起こった一連の事態を何とする。
    林を抜け、社を認めたその時に、扉は確かに開いていた。開いていたからこそ、その中に踏み込んだのだ。だが、その先は如何だ。
    辺り一面を闇に覆われ、壁伝いに入口を辿ろうとしても、何処にも板の切れ間など見付けられなかった。
    それに何より、自身に襲い掛かったアレはなんであったか。闇と一体になったような異形の化け物は、確かによく知る男の…月島の姿形によく似ていた。
    唯、似ていると言っても、その肌は朱く、その額には隆起した瘤のような角があり、瞳は赤黒く淀んでいたのだ。涎を滴らせる口許には牙が覗き、だらりと垂れた舌は血を滴らせたかのように朱かった。
    凡そ、人の姿では無い。
    我が身を捉え抑えつけたその力も常の月島の比では無かった。いくら足掻いたところでビクともしない。
    アレはまるで絵物語に出て来る鬼のようではないか。
    そんなモノが存在するとは俄かには信じ難いが、そうと言い表すのが相応しい。それ程の異形であった。
    それだというのに、やはりアレは月島であったと鯉登は思う。
    アレは確かに月島であった。そして同時に、月島では無かった。
    目にも恐ろしい姿をして、己を嬲った化け物は、化け物の姿になってしまった月島は、赤黒く淀んだ眼の其の奥に、言いようのない哀しみを湛えているように見えた。だからこそ、鯉登は抗えなかったのだ。其処に確かに、月島が居る。姿形が違っても、此れは確かに月島だと。そう思うからこそ、その姿がどれ程恐ろしくても、抗うことは出来なかった。
    一体何故。如何してそんな姿になってしまったのかと混乱の内に声を上げても、終ぞその声が化け物になってしまった月島の耳に届いた様子はなかった。
    常の月島の慎重さなど欠片も無く鯉登に襲い掛かった化け物は、凌辱と言うに相応しい抱き方をした。そうしながら、化け物は―月島は、泣いているようにさえ見えたのだ。鯉登には、其れが何より哀しかった。
    尤も、その場で悲鳴を上げていたのは鯉登自身だ。浴衣の袖を捲れば昨日の痕跡も生々しい。
    身体の至る所に鬱血と、擦り傷。引っ掻いたような爪痕が無数にある。どうにか仕事に行かねば、せめて鶴見中尉殿に某かの報告をしなくては。そう思ってどうにか布団から這い出してはみたが、立ち上がるのもやっとであった。気を抜けば、今にも眠りに引きずり込まれそうで、身体は休養を求めていた。身体だけでは無い。思考も、感情も、何の処理も儘ならぬ。
    月島は、一体如何しているだろうか。
    鶴見中尉は待機を命じたと言っていたが、月島の身体に、精神に、何の障りもないだろうか。
    何も覚えていないというのなら、アレは、一体何だったというのだろう。
    考えるに、思考は少しも纏まらず、鯉登は眠気に任せて布団に身を投げ出した。
    今は未だ、何も考えが及びそうにない。
    今は、未だ。


    ***


    待機を命じられ、尾形の監視を受けていた月島の元に鶴見からの呼び出しがあったのは昼前の事であった。
    「…療養、ですか。」
    月島が漏らした声には動揺も明らかであったが、鶴見は其れを気にする風も無く「そうだ」と告げた。
    「怪我は然程に無いようだが、随分と憔悴していた。鯉登少尉にはこれからまだまだ役に立ってもらわねばならん。であれば、あの姿を人目に曝すのは得策ではないと思ってな。」
    淡々と告げる鶴見に、月島は言葉も無い。
    憔悴、などと聞いてしまえば、月島は直ぐにも鯉登の元へ飛び出して行きたいような焦燥に駆られたが、行って如何するのだ。と、冷えた声が頭の隅に響いた。
    医者でもない己が鯉登を訪ねたとて、何をしてやれるわけでも無い。弱り切ったその顔を見て、一体如何するつもりか。一体、如何して声を掛けられる。
    唯の補佐に過ぎぬ自分が、鯉登に何をしてやれるというのか。
    鯉登は、己の傍らで暴漢に襲われていたのだろうに。
    口を閉ざしたまま欝々と思考を巡らす月島を如何見たものか、鶴見は「月島」とその名を呼ぶと、月島が顔を上げたのを確かめてからゆっくりと口を開いた。
    「待機の命を解く。代わりに、当分の間、鯉登の様子を見てやってくれ。」
    「様子を、見る…とは…」
    「なに。いつも通りだ。鯉登が養生する間、鯉登の屋敷へ通って経過を報告してくれ。」
    「…毎日、ですか?」
    「通うのはな。報告は何か変化があってからでいい。其れが当面のお前の仕事だ。不服か?」
    「っいえ、不服など…っ」
    困惑する月島に鶴見は「だろうな」軽く笑うと「他の者になど任せられまい」と其れが当然というように言葉を続けた。
    「鯉登は仕事をしたがっていたが、くれぐれも無理はさせぬように。養生序でに、兵法の勉強でもさせてやるがいい。」
    良いな。と問われて、月島が返せる返事など一つしかなかった。
    「承知しました。」
    呆然と答える月島に、鶴見はふと笑みを見せると「何を驚いている。」と愉快そうに問うた。
    驚いている。その様に、鶴見には見えたモノか。月島は躊躇いながら「補佐の任を、解かれるかと思っていました。」と正直に、そう答えた。
    何を誤魔化したとて、相手は鶴見である。小手先の嘘が通じる筈も無い。だからこそと真っ正直に告げた月島に、鶴見は笑みを消して「如何してそう思う?」と挑むように月島を見た。
    「っ…大事な、手札である、鯉登少尉殿から目を離し、怪我まで負わせたのです。処分は、当然かと…。」
    勤めて冷静にそう答えた月島に、鶴見は「確かにその通りだな」と零すと、脚を組んで月島を見遣った。
    「だが、今お前の任を解けば、鯉登が自責に駆られるだろうな。」
    「っ…そんなことは…」
    「アレは、お前によく懐いているのだろう?」
    含みのあるその言葉に、月島がグッと息を呑むと、鶴見はゆっくりと瞬きをして「まぁいい」と零し「よく労わってやれ」と続けた。
    月島は困惑しながらも、何処か安堵して息を吐くと、敬礼をして鶴見に背を向けた。
    「月島」と呼ぶ鶴見の声が背を追ってきたのはドアノブに手を掛けたその時であった。
    「間違っても、鯉登の傷を抉るような事を聞いてやるなよ?」
    釘を刺すように。振り返った先で言い置かれたその言葉に、月島は「心得ております。」と静かに答えた。


    ***


     「俺はどうやらお役御免のようですね。」
     廊下へ出た月島を待っていたのは、他でもない尾形であった。聞き耳を立てて、鶴見との話を聞いていたのだろう。どれ程聞き取れたか知れないが、此の男に仔細を話すのは全く適切では無い事は確かだ。
    月島は「そのようだな」と短く返すと、用は済んだとばかりに尾形の前を通り過ぎた。
    「少尉殿は、そんなに御加減が悪いのですか?」
    擦れ違いざま、煽るように投げられた言葉に月島は刹那眉根を寄せ「お前が気にすることだったか?」と問い返した。
    「部下が上官の安否を気に掛けるのは当然でしょう?」
    果して聞こえたその答えに、月島は嗤うばかりだ。
    尾形百之助はそのような殊勝な男では無い。師団内に、そのことを知らぬ者は無いだろう。にも拘らず聞こえたその声を、月島は鼻で嗤うと「どうだか」と吐き捨てた。
    会話を続けるだけ無駄だとは思うが、鶴見との会話の幾らかを聞かれたのであれば気懸りでもある。
    月島は先を急ぎかけた足を止めて尾形を振返ると、僅かに歩み寄って尾形の眼を見据えた。
    「つまらん勘繰りで余計なことをしてくれるなよ?」
    釘を刺すように。告げた月島のその言葉に、尾形は猫の目を瞬かせると、ニンマリと笑ってみせた。
    「軍曹殿『余計な事』とは、一体どんなことです?」
    「…尾形…」
    「冗談ですよ。大事な少尉殿が傷物にされたからってそうカリカリせんでください。」
    愉快気に笑う尾形に、月島はカッとなってその襟首に手を掛けた。
    「っお前…っ」
    「俺を殴ってどうなります?」
    握った拳をなけなしの理性で抑え込むうち、聞こえたその言葉に、月島は苛立ちも顕わに尾形を突き飛ばした。拳を振り下ろさなかったのは、尾形の為などでは無い。今ここで騒ぎを起こすのは何の利にもならんことを知っているからだ。
    「軍曹殿は俺が少尉殿になり代わるのはお気に召さんようでしたが、子守が手に負えんというなら、籠り役の方を変わりましょうか?」
    揶揄うように言葉を続ける尾形の真意は定かではない。単に面白がっているだけか、それとも何か、別の思惑が働いたものか。腹は少しも見えては来ない。最早答えるだけ無駄に思えて、月島は深く息を吐くと「馬鹿を言え」と其れだけを吐いて尾形に背を向けた。

    少尉殿の代わりなど、如何してなれる訳がない。
    俺の代わりも、お前如きに務まるものか。
    務めさせてなるモノか。
    月島は強く、そう思った。


    ***


    鶴見の訪問を受けたその日、鯉登は夜半に目を覚ました。
    昼間から寝たり起きたりを続けた所為か、浅い眠りを揺蕩う内に、小さな物音で意識が浮きあがったのだ。
    閉じた障子の向こうは、縁側から庭に続いている。日暮れ前に帰した使用人が再び訪ねて来るのは日が昇る頃で、夜更けの邸には鯉登一人の筈であった。
    ざり、と砂を踏む足音は庭先から聞こえ、縁側を上がってみしりと廊下を軋ませた。迫る気配に鯉登は身を起こして枕元の軍刀を手に取った。身体は万全では無い。が、然し、並みの者に後れを取るような、温い鍛錬などしてはいない。鯉登には其の自負があった。障子の向こうに立つ蔭に息を潜め柄に手を掛ける。いざと構えたその時に、すらりと障子が開いて其処に立つ者の姿が見えた。
    「っ…つきしま…?」
    月光を背に鯉登を見下ろしたのは、鯉登が名を呼んだその男であって、その男では無かった。
    浮び上ったその姿は、鯉登が闇の中で見た鬼そのものに違いなかった。
    声も無く鯉登を見据える鬼は、月光を受けて赤黒く淀んだ眼を揺らめかせると、後ろ手にぴしゃりと障子を閉めて鯉登に襲い掛かった。
    「っ月島…っ止せ…っ」
    軍刀は容易く取り上げられ、見る間に鯉登は四肢の自由を奪われた。
    「月島!正気に戻れ…っ!月島っ」
    叫ぶ鯉登に、鬼は、月島は、何を答えることも無く鯉登の浴衣を肌蹴させると、欲望の儘に舌を這わせ、牙を立てた。
    「っ月島…つきし、ま…っ…どうして…っ」
    泣くような鯉登のその声は、誰に届くことも無く夜に落ちた。肌を合わせるその度に、鯉登を気遣っていた月島は、其処にはもう居なかった。
    鯉登は全てを諦めると、目を閉じ、異形に身を任せた。何の抵抗をするだけ無駄な事は重々知っている。
    知っているのだ。もう。

    幾度欲を吐き出し、欲を受け止めたろうか。鯉登が意識を失いかかる頃、異形は漸く気が済んだものか、鯉登から身を剥すとフラフラと正体の無い様子で寝所を出て行った。ぎしりと縁側の軋ませた後、ざり、ざりと、砂の音をさせて足音は遠ざかっていく。
    朦朧とする意識の中で、その音を聞きながら、鯉登はひとり静かに涙を流した。
     如何して。と。
     一体、如何してこんなことに。
     思うばかりで何の答えも得られぬうちに、鯉登は意識を手放した。


    ***


    風呂敷包みを手に、月島が鯉登の私邸を訪ねたのはあくる日の午前の事であった。
    気分が優れぬと言って使用人を遠ざけていた鯉登は、月島の訪問を聞くや起き出して身支度を整えた。動揺が無いと言えば嘘になる。だが、確かめぬことにはどうにもならぬと恐る恐る玄関へ向かった。
    「おはようございます。」
    果して其処に居たのは、常と変わらぬ、鯉登の良く見知ったその男であった。
    僅かばかり違う点があったとすれば、座敷の奥から現れた鯉登の姿を認めると、ハッと顔を上げて安堵の表情をみせたことだろうか。鯉登の目にはそのように映ったが、それが真実そうであったかは定かではない。その表情が見られたのは一瞬の事で、次の瞬間には月島は平素と変わらぬ様子で敬礼をしてみせた。
    「お休みの所を申し訳御座いません。」
    「っ…大事ない。気にするな。」
    眼前に在るその姿も、聞こえるその声も月島そのものである。此方を静かに見詰めて来る月島の瞳は黒く、鯉登は安堵に息を漏らした。
    「待機は、解かれたのか?」
    そう問い掛けた鯉登に、月島は「はい」と短く返し「代りに、少尉殿が養生なさる間、兵法の指導をするようにと命を受けました。」と続けると、小脇に抱えていた風呂敷包みに視線を移した。
    重そうな包みの中身は本であろうか。
    「実務ではありませんが、少しは、退屈しのぎになるでしょう。何れ戦争にでもなれば、中尉殿のお役に立てるやもしれません。」
    その物の言い様も、仕草も。月島はいつも通りであった。あまりにも変わりないその様に、鯉登は身の内に安堵と同時に一抹の不安が拡がるのを感じながら「月島」と眼前の男に問い掛けた。
    「月島は…その…怪我も、何も、無かったのか?」
    問い掛ける鯉登の目には、不安も浮かんでいたのだろう。月島は投げられたその問いにハッとなると「はい。」と答え「お蔭様で。」と付け加えた。
    「そうか。…それなら、良かった…。」
    『良かった』と。そう言いながら、薄らと笑んでまで見せる鯉登に、月島の心中は穏やかでは無かった。
    月島が鯉登を訪ねるのは、鯉登をこの屋敷に担ぎ込んだその時以来である。最後に見たのは、布団の上の、意識朦朧としたその姿であった。
    待機を命じられ、顔を見なかったのは僅か二日に過ぎない。其れだというのに、気が気では無かったのだ。
    ふとした隙に月島の脳裏には板の間に転がる鯉登の姿が過り、月島の耳には『月島』と己の名を呼ぶ鯉登の掠れた声が蘇った。
    あの日、自分があの男を深追いなどしなければ、鯉登はこんな目に遭わずに済んだのではないか。あれきり行方さえ知れない男は何者であったか。そんな男など元から居たものか。己は幻を追っていたのではないか。その挙句の此の様かと後悔は幾度となく月島を苛んだ。月島は、凡そ己が正気では無いと承知しながら、然し聞こえた鯉登の言葉には憤りをさえ覚えたのだ。
    何の心配をしているのか。俺の心配など無用だと、叫びたい衝動に心臓がキリキリと痛む。月島は沸き起こる衝動に必死に耐えた。
    心配などされるくらいならば、いっそ、詰ってくれた方が余程マシであった。お前は何処で何をしていたかと。詰って、殴るなり蹴るなりしてくれれば己の不手際を詫び、以後は必ず御守りすると言えたものを。其れを言えたらば、どれ程楽であったか。
    如何して、己は其れが言えぬのか。
    「っ…少尉殿…」
    問い掛けた月島は、その先の言葉を濁すと「いえ」と言葉を継いで「なんでもありません。」と首を垂れた。
    鶴見にも釘を刺されたというのに、鯉登が無事では無かったことを誰より知っている己が、一体何を問おうというのか。最早何を問うことも許されぬような気がして、月島は口を噤む他なかった。けれども鯉登は、月島が言い淀んだその先が聞こえたかのように、やがてぽつりと呟いた。
    「…大丈夫だ。」と。
    声に驚き顔を上げた月島に、鯉登は柔らかに笑ってみせると「私は、丈夫だからな。」と、念を押すように言葉を重ねた。
    鯉登のその声には、慈愛のようなものが滲んでいた。
    月島には、そう、感じられた。

    ***


    昼間、月島が訪ねて来たその日の晩のことである。鬼は再び鯉登の屋敷に現れた。
    昼間とは打って変わった異形のその姿に鯉登は絶句し、抵抗を試みたが、どれだけ声を上げようと、その全ては徒労に終わった。
    異形は鯉登の自由と尊厳を奪うと、己の気が済むまで欲を勝手に吐き出し、日の昇らぬうちに邸を出て行った。その間、異形が声を発することは無い。
    此れは本当に現実か。悪い夢なのだろうか。
    昏倒し、絶望するうちに鯉登は朝を迎え、重い身体を引き摺り起こしてみれば、我が身に起った事が夢ではないと思い知るのだ。
    暗澹たる思いを抱える鯉登の元に、昨日と同じように月島が訪ねて来たのは午前の未だ早い時間であった。
    小脇に風呂敷を抱え、鹿爪らしい顔をして玄関に立つ月島は、異形の姿をした己がした事など露ほども知らぬ様子であった。
    月島の顔を見るに、鯉登は気の触れそうな眩暈に襲われたが、努めて冷静に、いつも通りを装って月島に接した。昼間の月島には、何の変わりも無いのだ。
    矢張りアレは月島では無いのか。それとも、月島が、夜毎化け物に姿を変えているというのだろうか。
    疑念を抱えたまま、昼間は何食わぬ顔をして共に過ごし、夕暮れに兵舎に戻る月島を見送って迎えたその晩、鬼は昨晩同様に鯉登の前に姿を現した。
    「っ…つきしま…っ…どうして…っ」
    失望も顕わな鯉登の声が、異形の耳に届く筈も無く、鯉登は抵抗虚しく布団に抑え付けられた。
    「つきしま…っ答えろ…っ…つき、しま…っ」
    異形が、月島であるならば、と、繰返し名を呼んだところで異形が答えることは無かった。やはり此れは月島ではないのかと思いかかった鯉登であったが、無情にも、異形が確かに月島であると、その晩気が付いた。気付いてしまったのだ。
    異形の腹に、鯉登もよく知る大きな傷痕が見えたのだ。月島が鶴見中尉を庇った際に出来たという、大きな、腹の創。それは、この異形が確かに月島なのだと鯉登に知らしめた。
    「…っ何故……何故だ…っ…つきしま…」
    落ちた問いに答えが返ることはなく、異形は唯、己の欲を追い、鯉登の身体を貪るばかりであった。

    同じ夜と、同じ朝を繰返し、昼にはまた、素知らぬ顔をして月島を出迎える。
    三日目の晩には、鯉登は最早一切の抵抗を諦めて布団の上に身を投げ出した。この異形が月島であるならば、月島の気の済むようにさせてやろう。鯉登は、そう考えたのである。
    何が祟ったのか、月島がこのような姿になってまで己を襲うのは、某かの謂れが在る筈だ。
    異形の望みを叶えてやれば―月島の気が済めば―そうすれば、いつか、或は…。

    一縷の望みを糧に、鯉登は唯、目を閉じた。
    瞼の裏に、常の月島を思い浮かべながら。
    その男が、今にも、戻っては来まいかと願いながら。

    少尉殿。と呼ばれた声に顔を上げれば、鯉登の間近に月島の面があった。
    思いの外近い距離にあったその面にぎょっとなって鯉登が身を引くと、月島は気まずそうに苦く笑った。そうして「失礼」と零すと咳払いをひとつして、改めて鯉登に向き直った。
    「体調が、優れぬのではありませんか?」
    気遣わし気に此方の顔を覗き込み、そう問うてくる月島に、鯉登は歪みかかる顔にどうにか笑みを貼り付かせて「気のせいだろう」と答えると、月島の視線から逃れるように面を伏せた。
    「…然し、お顔の色が…」
    「っ大丈夫だ。問題ない。」
    答えた声が震えはしなかったか。
    月島に気取られぬよう、ごくりと唾を呑みこむと、鯉登は文机に広げた書物に目を落とした。
    大丈夫。だとは思っている。思ってはいるが、連日無体を働かれ、満足に眠れぬ日が続いては、如何に体力に自信があったとて身体がもつものではないらしい。
    月島に応えてやろうとしながら、情けない。そう思いながらも、己を気遣う月島のその声を嬉しく思うのもまた事実だ。鯉登はそんな自身に嫌気がさして、ふと息を漏らした。
    「…今日は、休みましょう。」
    漏れた息が聞こえたものか、月島はきっぱりとそう言い切ると、鯉登が文机に広げた書物を取り上げ、素早く栞を挟んで閉じてしまった。
    「っしかし…」
    「元々療養を命じられている筈です。」
    「…それは、そうだが…。」
    きっぱりとした物言いをする月島には、譲歩する考えなど微塵も無いだろう事が見て取れる。
    「いいですね。」
    嫌とは言わさぬ圧を含んで重ねられたその言葉に、鯉登は「わかった」と答えるほかない。
    鯉登の答えを聞くと、月島はほんの僅か口許を緩めてみせた。答えに満足したのだろう。月島は「では。」と、小さく零すと風呂敷鼓を抱えて膝を立てた。
    「っ帰るのか?」
    反射でそう声を漏らした鯉登に、驚いたのは月島である。休むようにと言ったのだから、其れが当然であろうと月島はそのつもりであったが「はい。」と短く返した答えには鯉登は解りやすく失望してみせた。
    「っ…此処に、居てくれ…。」
    「…は?」
    弱々しく漏らされた鯉登のその声に、月島は驚くあまり無礼ともとられかねない、返事とも言えぬような声を漏らした。けれども鯉登は其れを咎めるようなことは無く「居てくれるだけでいい。」と、縋るように言葉を重ねた。
    「…しかし。」
    自分が居ては、職務の事を考える。
    あの日の事を、否が応でも考えるだろう。
    それでは休めるものも休めないのではないか。思案する月島に、鯉登はポツリと呟いた。
    「…駄目か?」
    上目遣いの、幼子のようなその言い様に、如何して断る手段があったろうか。
    「…解りました。」
    深く息を吐いて漸くに月島がそう告げると、鯉登は嬉し気に笑って「あいがと。」と薩摩訛りでそう零した。
    鯉登の笑う顔も、薩摩訛りも、いつ以来であろうか。
    安心しきったように。穏やかに笑う鯉登のその顔に、月島は知らず手を伸ばした。
     二十歳を過ぎたばかりの鯉登の頬は、触れればその丸みが手に馴染むような幼さの残るモノだった。その筈であったが、久方ぶりに触れたその頬は、手に馴染む丸みを失っていた。目にも明らかであった筈のその事実に、然し月島は愕然となった。
    「…つき、しま?」
    頬に触れたまま硬直した月島に鯉登が声を掛けるまで、一体どれ程だったろうか。月島はハッと我に返ると、慌てて鯉登から手を離して立ち上がった。
    「っ月島!?」
    「っ茶を、貰ってきます。」
     誤魔化すように足音を立てて遠ざかっていく月島の背中を見詰め乍ら、鯉登はつい今、月島に触れられた己の頬にそっと指を這わせた。
     頬に触れた、月島の手は温かかった。
    温かく、慈しみに満ちていた。
    「月島…」
     静かに名を呼ぶ鯉登のその声に、応える声はなかった。


    ***


     「焼身?…あの社でか?」
     確かめるようにそう問い掛けた鶴見に、こくりと頷いてみせたのは宇佐美である。
    宇佐美が耳に入れておきたい話があると鶴見を訪ねたのは、件の騒動から五日ばかり過ぎた日の午後の事であった。
    「半年ほど前に三町先の呉服屋の跡取りが亡くなったのを覚えていらっしゃいますか?」
    宇佐美がそう問うと、鶴見は少しばかり考える仕草をして「兵営にも出入りをしていた店だったか?」と零した。どうやらそれは正解であったらしい。宇佐美は、流石は鶴見中尉殿と言わんばかりにうっとりと目を細め、鼻から息を吐いて話を続けた。
    件の跡取りは表向き病死という事になっているが、実の所、自死であったという。縁談の話が持ち上がった矢先であった。縁談相手は家柄も人と也も申し分なく、双方の家は元より、当人同士も承知しての話であった筈が、婚礼を間近に控えたある日、店の蔵で首を吊っているのを使用人が見つけたという。
    傍らには遺書が残されており、想う相手と添えぬことを詫びる内容が書かれていたという話である。
    社で焼身を計ったのは、その跡取りの幼馴染の男であった。幼い頃から仲が良く、二人は何処へ行くのも一緒であった。習い事から、縁日まで。度々連れ立って歩く姿を揶揄う向きもあったが、当人たちは其れを否定も肯定もしなかった。氏は違うが、兄弟のようなモノだと、呉服屋の店主などはそうも言っていた程だ。それ程に、仲の良い二人であった。それ故に、男の後追いを聞いた者達は、皆一様に男を憐れんだ。
    真偽のほどは定かではないが、その男は件の跡取りと恋仲で、跡取りの残した遺書というのは、その男に向けたモノでは無かったかと、そう噂する者も少なくないという。
    「男の亡骸は、恐ろしい形相をしていたそうですよ。
    まるで鬼のよう、だったとか。」
     「…鬼…か。」
     「余程、無念だったのでしょうね。」
     涼しい顔をして、尚も宇佐美は話を続けた。
    噂には続きがあるという。男が焼身を計って以来、時折、社の裏の林で鬼火が飛ぶのを見るというのだ。死にきれなかった男が幽鬼になって林を彷徨い歩いているのではないかと、そんな話が巷に拡がっている。
    「鬼火だの幽鬼だのと、凡そ現実味は在りませんが、噂に乗じて不貞を働こうという輩が出てもおかしくは無いかと…。」
     「それらが、鯉登を襲ったか?」
     「唯の推測です。」
     鶴見の問いに、宇佐美は即座にそう答えた。
    全ては噂話に過ぎない。現実味の薄い話もあるとなれば、其れが実のように鶴見に伝えることは鶴見大事で生きている宇佐美には到底出来ないのだ。
     「それにしても、よく調べがつくものだ。」
     感心の中に幾らか呆れも滲ませて鶴見がそう零すと、宇佐美は口の端を片方だけ上げて歪に笑ってみせると 「お褒めに預り光栄です。」と形ばかりの礼を述べて「ですが」と言葉を繋いだ。
    「この話の大半は、私ではなく、二階堂兄弟の拾ってきた情報ですよ。」
     「二階堂が?」
     鶴見が驚いてみせると宇佐美はこくりと頷き「二人はあの日、その場に居ましたからね。」と静かに告げた。
    「思う所もあるようで。鯉登少尉殿に怪我を負わせた輩を見付け出すと躍起になっているようですよ。」
    モノを言わぬ鶴見が心中で何を思うかは宇佐美の知るところではない。然し命の無い内に、あまり目立つ動きをする者があるのなら、其れは鶴見の耳に入れておかねばならない。伝えた上で、それを取るに足らぬと判断するか、或は―
    「二人揃わなければまともに役に立たないのは困りものですが。」
     「それはその通りだな。」
     チラと視線を投げた宇佐美に、鶴見は薄く笑みを見せるばかりであった。


    ***


    鬼は飽くことなく、夜毎鯉登の邸に現れた。
    邸に留まる時間はまちまちであったが、鬼が鯉登に触れぬような事は無かった。

    如何に若く、丈夫な身体を持った鯉登であっても、一週間、十日と事が続けば疲労は次第に蓄積する。
    療養を続けている筈が、鯉登は回復するどころか日を追う毎にやつれてさえいくようなあり様であった。鯉登のその姿に次第に焦燥を募らせたのは月島である。
    「一度、医者に診て貰った方が宜しいのではありませんか?」
    堪り兼ねて、失礼は承知でと、そう進言した事もある。けれども鯉登はそんな月島に「医者など必要ない。」と笑うばかりであった。
    鯉登の憔悴は、鶴見にも伝えてあるが鶴見は「よく見てやるように」と言うばかりで特段の指示を出すことは無かった。
    指示のない代わりに、鶴見は一度「鯉登に喰わせてやってくれ」と見舞いだと言って菓子を届けてきたが、それきりである。鯉登は鶴見の大事な手札である筈だというのに、もう少し目を掛けてやれぬものかと月島は気を揉んだが、当の鯉登は鶴見の気遣いに大層喜んで、その時ばかりは従来の鯉登のような快活な笑みを見せたものだから、尚更に月島の焦燥は募った。

    午前の早い時間に鯉登の邸を訪ね、昼餉を共にして、夕刻には邸を出る。淡々と繰り返すその日々は一見、酷く穏やかだ。硝煙や土埃もなければ、血や火薬の匂いもない。ともすれば、己の役割や、鯉登の立場を忘れてしまいそうになる。何もかもを忘れて、ただ穏やかに。この日々が続けばいい。月島は、ふとそんな事をさえ思い掛かる自分に気付いて愕然とした。
    愕然として、戦慄したのだ。己が何故その様な事を望むのかと。
    其れに気付きかけ、月島は頭を振った。
    愚かな…過ぎた考えなど持たずに済むように。
    一刻も早く、鯉登に回復して貰わなければ。

    「明日は、休みに致しますか?」
    書物を重ねた風呂敷を包み直しながらそう問い掛けた月島に、鯉登は暫し沈黙してから「そんなに疲れて見えるか?」と問いを投げ返した。
     「…はい。」
     苦々しく月島がそう告げると、鯉登はふと笑みを作って「大事ない」と返した。
     「一人で床に臥せっていても気が滅入るだけだ。」
     「それは、そうかもしれませんが…」
     「それに、月島にモノを教わるのは楽しい。教え方が上手いのだろうな。何を教わっても解りやすい。」
     唐突なその言葉に月島は僅か目を見開いた。
    「有難いとも思っている。」
     「…そう、ですか…。」
     正面から告げられる、感謝や好意といったモノには吹慣れな月島である。どう返していいものか答えに迷い、そう返すのが精一杯であった。
     「…それならば、良いのですが…」
     誤魔化すようにそう言って軍帽を手に取り、深く被る。己が今、どんな顔をしているか判別がつかず、月島は逃げるように腰を上げた。
     「もう、帰るのか?」
     「えぇ。…また、明日…」
     風呂敷を抱え、月島が背を向けると、鯉登の声がその背に降りかかった。
     「…つきしま…」と。
     呼ばれる声に振り返れば、真直ぐな鯉登の瞳が己を捉えた。
     「っ…泊って、行って、は、くれないか?」
    躊躇いがちに、そう零されたその言葉に、月島は知らず喉を鳴らした。
    月島自身は、此処暫く鯉登に触れていない。そう認識しているのだ。件の騒動の前の晩、明け方近くまで鯉登の寝所に留まった、あの晩以来、触れることを避けて来た。欲が無かった訳では無い。穢された鯉登を嫌悪するのでも当然無い。唯々、鯉登に無理をさせたくない。労わってやりたい。その一心であった。
    「…っ…外泊の、届を、しておりませんので…」
    「っだったら…」
    「御身体に障ります。」
    「…っ…っっ」
    「今は…お大事に、為さってください…。」
    「…そう、か…そうだな…月島の、言う通りだ…」
    落胆も明らかに、俯いてそう零した鯉登は少しの沈黙の後、パッと顔を上げてみせた。
    「早く回復して、中尉殿のお役に立たねば…っ」
    笑みを作り、努めて明るく声を上げる鯉登を、月島は気付けば抱き締めていた。
    衝動。と、言う他無い。抱えていた風呂敷を投げ出し、目の前の鯉登を強く、強く抱き締めていた。
    「っ…つき、しま…」
    鯉登の声を耳に聞き、ゆっくりと身を剥した月島は然し何を答えることもせず黙って風呂敷を拾い上げると、そのまま座敷を出た。
    「月島っ」
     振り返れば、歯止めが効かぬ様な気がして。月島は終に振り返ること無く鯉登の邸を後にした。


    その日の晩。
    鯉登はひとり座して鬼の来訪を待った。
    月島を我が元に引留めておけば、或は何かが変わるかと誘いをかけてみたが、月島基という男は、存外難儀であったらしい。
    頬に触れ、抱き締めこそすれ、今は未だと背を向ける。そんな事をされてしまっては、思い違いをしてしまうではないかと鯉登は思う。
    己と月島の関係は、上官と部下であり、月島は己の補佐である。そう認識している。其れだけの事で、それ以上にはなるべきでは無い。身体を繋いだのも、興味本位と、欲の処理のため。その筈だ。
    その筈だのに、如何して己はこんな想いを抱えているのか。
    その筈だのに、如何して月島は私を―
    思い巡らす内に夜は更け、弦月が中空に上り掛かる頃、庭先に最早耳馴染んだ足音が聞こえてきた。
    ざり、ざりと、砂を踏む足音は縁側から上がって、鯉登の座敷の前に立つ。
    嗚呼、矢張り今日も来たか。
    そう思う内に障子は開き、異形が寝所に押入って来る。赤黒い眼はいつにも増して暗く鯉登を見据え、強い力で肩を掴んだ。
    鯉登は諦めに目を閉じた。然し、一向、鬼が動く気配が無い。強く肩を掴んだまま、微動だにせず其処に在るのだ。
    いつにない異形のその行動に、鯉登が恐る恐る瞼を開けると、間近に鬼に成り代わった月島の顔があった。刹那、赤黒く淀んだその眼と視線が合わさったかと思うと、鬼は力強く鯉登を抱き締めた。
    ぎゅう、と、鯉登を抱くその腕は、夕刻、去り際に鯉登を抱き締めた、月島の腕そのものであった。
    驚き身を硬直させる鯉登を抱き締める異形は、何をすることも無く暫くそのままでいると、それで気が済んだものか、そっと腕を解いて鯉登に背を向けた。
    呆然と座り込んで居た鯉登が我に返ると、既に座敷に異形の姿は無く、開いたままの障子の向こうには弦月が浮かんでいた。
    「っ…つきしま…っ」
    慌てて座敷を這い出してみても、庭には既に誰の姿もない。そこには唯、静かな夜が横たわっているだけであった。
    「…月島……っ…つき、しまぁ……っ」
    何度もその名を呼び、鯉登は縁側に蹲ってわぁ、と、声を上げて幼子のように泣いた。
    異形は、あの鬼は、確かに月島である。
    月島は、本人の知らぬところで苦しんでいるのだ。異形は、その苦しみの化身に違いない。
    であるならば、あの異形を生したのは―
    「…月島…っ…すまない…私が…私が、お前を…」

     
    ***


    「出掛けた!?お一人でか!?」
    月島の責めるような口調に身を固くしたのは鯉登の使用人であった。
    その日、いつも通り月島が鯉登の邸を訪ねてみれば、既に鯉登の姿は邸には無く、使用によれば朝早くから出かけたという話である。使用人が朝餉の支度に訪ねてみれば、鯉登は久方ぶりに軍服に袖を通して身支度を整えていたという。
    「鶴見中尉殿を訪ねると仰られたもので…てっきり、軍曹殿もご承知かと…」
    額に脂汗を浮かべてしどろもどろになる使用人に、月島は眉間の皺を深くしながら「それは確かか」と問い質した。
    「はい。…その、此の所、あまりお顔の色が優れないご様子でしたので、車夫を呼ぶか、私がお供を致しましょうかとも申しましたが、無用だと…。」
     「それで、ひとりで出て行かれたのだな?他には何か言っていなかったか?」
     「いえ、特に…あぁ、戻りはいつになるか解らないから、今日は適当に帰って構わないと…」
     「よくぞ俺が来るまで留まっていてくれた…」
     月島がそう声を掛けると、使用人は大層恐縮した様子で滅相も無いと汗を拭った。
     「どうも、胸騒ぎがして…軍曹殿のお顔を見て、漸くホッと致しました。」
     そう零した使用人は、ふと頬を緩めて月島を見遣ると「少尉殿の事は、軍曹殿にお任せするのが一番と心得ております。」と、何の含みも無く、月島を頼る様子でそう告げて「後は、御頼み申します。」と深々と頭を下げた。
     

    ***


    その日の朝、兵舎を賑わせたのは久々にその姿を見せた鯉登少尉その人であった。
    「鶴見中尉殿は居られるか?」
    普段通りに職務へ向かう道すがら、掛けられた声に何げなく振り返った先に居たのが鯉登少尉であることを認めると、兵卒は慌てて敬礼をしたという。
    緊張に言葉を詰まらせながら、予定の通りであれば、本日午前は執務室に居られる筈であると鶴見中尉の所在を伝えた兵卒に、鯉登は短く礼を言うと足早にその場を去っていった。
    その背中を見送りながら、その場に居合わせた誰しもが眉を顰めたのは、久方ぶりに見る鯉登のその姿故であった。
    軍服の凛々しい姿はそのままに違いないが、件の騒動以前に比べ、そのやつれた様子は誰の目にも明らかであった。 
     「あのご様子…余程御加減が悪いのだな…」
    「アレでは当面復帰できぬのではないか?」
    「未だ暴漢は捕まっていないというじゃないか…」
    「一体何処のどいつが少尉殿を…」
    口々に噂する兵たちの声は、小さなさざめきとなって兵舎の中に拡がっていった。


    半時後。鶴見の前には、書簡を差出す鯉登の姿があった。
     書簡の中身は、鯉登が事の仔細を認めたモノである。私情を省き、己の眼で見た事柄、己の身に降りかかった事態を、その事実のみを書き記したに過ぎぬモノであるが、そうだとしても、客観的に見れば荒唐無稽な作り話だと一蹴されてもおかしくは無い内容であった。
     何処の世の中に、行方知れずになった部下を追った先で、鬼に成り変わった部下に襲われ、以後も毎夜その鬼に犯され続けている等と言う話を信用する者があるだろうか。どこぞの三文小説の方が余程マシな筋書きであろう。
     差し出した書簡の内容に鶴見が得心するとは思えなかったが、然してそれが事実である。
     祈るような気持ちで、鯉登は鶴見の声を待った。
     「…これが、事実だと言うんだね?」
     一読し、顔を上げた鶴見はそう問い掛けた。
    鯉登は黙ったまま、こくりと頷いてそれに応えた。
    「…そうなのだろうな。」
     鶴見の声は、酷く落ち着いたものだった。
     「お前の、其のやつれた顔を見れば解る。」
     よく今まで耐えていたものだ。とは、鶴見の本心であろうか。鯉登は漏れ聞こえたその声に涙ぐみそうにさえなったが、拳を握ってグッと堪えた。
     「…月島が、そう、なってしまったのは、私の所為ではないかと…」
     驕りか知れなかったが、昨晩の異形を思うに鯉登にはどうにも、その様にしか思えないのだ。
    「そうだとしても、お前だけの所為ではないだろう。」
     鶴見は鯉登を何ひとつ否定することをしなかった。
     「月島の中に、そうなる原因があった筈だ。」
     「…しかし…」
     「お前の所為だと言うのなら、月島を元に戻せるのも、鯉登少尉。お前だけだろうな。」
     鶴見の言葉に鯉登が顔を上げると、鶴見はにこりと笑みを作って「此れは預かっておく。」と、鯉登の手渡した書簡を引き出しに仕舞った。
     「ご苦労だったな。早く帰って休みなさい。」
     「っ中尉殿、私は…」
     「仕事がしたいかね?」
     「っはい。」
     「それは却下だ。」
     立ち上がり、復帰を訴えかける鯉登に、然し鶴見はきっぱりと否を示した。
     「この件にかたがつくまでは、療養を続けなさい。」
    鶴見のその言葉には、言外に月島と向き合えという意味があったろうか。言葉を失くし、俯く鯉登であったが、鶴見は其れを責めることはなかった。
    「…こんな風に、私と話せるお前はいつものお前ではないのではないかね?」
    常であれば、鶴見の言う通り、二人きりでまともに会話など出来た試しがないのは事実だ。
    「お前と話が出来るのは嬉しいが…もう少し、落ち着くまで養生しなさい。そうして、早くいつものお前に戻っておくれ。」
    鶴見のその言葉は嬉しく、そして同時に哀しくもあり、鯉登は肩を落として自身の足元を見た。


    ***


    何故、月島は鬼になったろうか。
    何が、月島を鬼に変えたろうか。
    何度となく考えた所で、答えなど一向見つかりそうにない其の問いを、鯉登は繰り返していた。
    如何して、鬼になってまで月島は自分を求めるのか。
    答えなど知りようも無いのか知れないが、鯉登はそうまでして月島が求める者が己であることに、一種喜びを感じていた。
    他の誰でもなく、月島は、化け物の姿になってまで己の寝所に現れる。欲の赴くまま、鯉登の身体を貪り、求め続ける。それを、嬉しく思うのだ。月島が、正体も持たない欲の化け物に成り下がっているというのに、其れを哀しくも、嬉しいと思うのだ。
    鯉登は、そんな自身の卑しさに嫌悪を抱くのだが、それでもなお、嬉しいと思ってしまう。
     鶴見中尉の御為に働きたいと、そう思っていた筈が何という様かと情けなくなる。
     この心中を知られれば、或は、月島は愛想を尽かし執着せぬようになるだろうか…
     
     鶴見の執務室を出た鯉登は閉じた扉に一礼をすると、フラフラと所在なく廊下を進んだ。先へ進み、角を曲がれば直に自身の執務室に辿り着く。だがしかし、療養を命じられたからには其方へ行くわけにはいかぬのであろう。ひとり其処に座っていた処で、何の仕事が出来るわけでも無い。療養を命じられたからには大人しく帰る他あるまいと階段を降り掛かる鯉登の目に、ふと映ったのは尾形の姿であった。
     何時だかも同じような事があったろうか。階下から上がって来た尾形は、チラと鯉登に視線を寄越すと形ばかりの敬礼をしてみせた。
     鯉登はそれに一瞥をくれると、此方も同じく無言のまま敬礼を返して階下へと足を進めた。
     何事も無く、唯すれ違うだけで済んだかと思えたのは束の間の事だ。
     「随分、お盛んなようですね。」
    頭上から降って来た言葉は、如何な意味か。
    「毎晩同じ相手では飽きませんか?」
    其れが明確に己に向けたモノだと悟ると、鯉登はキッと振り返り尾形を睨め付けた。
    「尾形上等兵。貴様何を言っている。」
    声を掛けたのは得策では無かったか。
    「おや?やはり思った通りでしたか?」
    「…何の話だ。」
    鯉登が声音を低くしたところで怯むような尾形では無い。尾形はぐにゃりと口許を歪めると一層厭らしく笑ってみせた。
    「軍曹殿に飽きたらば、俺がお相手して差し上げますよ。と。そう言っているんです。」
    「っ…貴様…っっ月島を愚弄するか…っ」
    「ははぁ!やはり少尉殿のお相手は月島軍曹殿ですか。どうりでべったりの筈だ。」
    「っどこまで…っ」
    瞬間、鯉登はカッとなって階段を駆け上がりかけたが、階段の先には鶴見の執務室がある。ただでさえ療養中の身であるのに、兵舎の中で騒ぎを起こすなど出来る筈が無かった。
    「貴様なんぞを相手にする位なら、喉首掻き切って死んでやるわっ」
    手の白くなるほど拳を握り、せめてと吐き捨てた言葉に尾形はただ目を丸くして、それから愉快そうに声を上げて笑い始めた。全く此の男は、人を不快にさせて面白がるばかりだ。何を知る訳でもあるまいに、つまらぬ噂でも拾ってきて揶揄ってきたに過ぎない。きっとその筈だ。
    「貴様と話しているだけ無駄だっ」
    言い置いて、階下へと急ぐ鯉登の背を尾形の声が追って来る。
    「少尉殿」と呼ぶその声には嘲笑が含まれていた。
    「お困りなら、軍曹殿に代わってこの俺がいつでもお力になって差し上げますよ。」
    鯉登はその声に振り返ることすらせず兵舎を出た。
    悔しさに噛んだ唇には、薄らと血が滲んでいた。


    ***


    「百之助?」と呼ばれた声に振り返れば、其処に居たのは宇佐美であった。
    「上機嫌じゃん。何か良い事でもあった?」
     階段の途中に在る尾形を見下ろして声を掛けてきた宇佐美に、尾形は僅かばかり考えるような仕草をして「ボンボンと会った。」と答えた。
     「少尉殿と?療養中じゃなかったっけ?」
     問われて思い出したものか、尾形は「その筈だがな。」と零しながら階段を上がって宇佐美と並び立った。
     「俺と寝る位なら喉首掻き切って死ぬんだと。」
     薄らと笑みをしてそう告げた尾形に、宇佐美は反射的に噴き出し「百之助、本気で嫌われてるじゃん。」と声を上げて笑った。
     「アンタも好かれちゃいないだろ。」
     「そうかな?俺はそこまで嫌われてないと思うんだよね。」
     憮然とする尾形に宇佐美は尚も笑う。
     「復帰したんなら、試しにお誘いしてみようかなぁ。まぁ、お顔はキレイだし。あの生意気なお坊ちゃんを泣かせるのも楽しそうだよね。そう思わない?」
     宇佐美にしてみれば、悪巧みの誘いのつもりであったのだろう。然し目の前の尾形は、思いの外不機嫌な顔をしていた。
     「アレ?百之助、何怒ってんの?」
     「あ?」
     「怒ってるじゃん。」
     尾形の不機嫌に宇佐美は焦るどころか新しい玩具を見付けたような気になって益々笑みを深め、鼻息を荒くしかけた所で「そこで何をしている」と低く響いた声に冷や水を浴びせられた。
     尾形と揃って宇佐美がびくりと肩を跳ねさせたのは、聞こえたその声が月島のモノであったからだ。それも、すこぶる機嫌の悪い『鬼軍曹』のその声であったからだ。常の月島の声であれば、そこまで身構えるようなことは無いのだが、悪ふざけをすれば唯では済まぬと、聞こえたその声は言外に告げていた。
     「立ち話で油を売る暇があったら仕事をしろっ」
     ミシミシと階段を軋ませて上がって来た月島の不機嫌は明らかで、係わらぬのが得策と踏んだ宇佐美は明後日の方を向いてわざとおどけたように声を上げた。
     「いっけなーい!中尉殿に呼ばれてたんだった!急がなきゃ!あ!軍曹殿!これ、少尉殿には内緒ですよ!嫉妬されちゃうっ。」
    わざとらしく笑って去っていく宇佐美に、月島は最早何を問う気も失せたが、傍と見れば、尾形は何食わぬ顔をしてその場に留まっていた。
    其ればかりか、挑むように月島を見るのである。
    「何か言いたいことがあるならはっきり言え。」
    眉間に皺して呟いた月島に、尾形は挑むように口を開いた。
    「毎晩遊んでるようなアンタに、とやかく言われる筋合いはない。」
    「…なんだと?」
    青筋を立てる月島を、尾形は怯む様子も無くじっと見据えていた。


    ***


    兵舎を出た鯉登は昂る気を収めようと、私邸まで続く川べりの道を迂回して、宛も無く昼の市中を歩いていた。邸に戻れば、いつも通りに訪ねて来たであろう月島が待っているやも知れない。使用人の口から鶴見の元へ向かったと聞けば、取って返したか知れないが、もしも万が一、月島が待っていたらと思うと、鯉登は直ぐに邸へ帰ることなど出来なかった。
    耳に蘇るのは尾形の嘲笑と、鶴見の言葉である。
    怒りに任せて暴れてしまいたいのか、情けなさに泣き出したいのか、己自身でも解らないのだ。こんな状態で月島の顔を見てしまえば、醜態をさらすことになるだろうことは容易に想像がついた。
    そんな事になれば、月島は益々苦しむのではないか。鬼になり続けるのではないか。このままでは、いつか、鬼の姿の侭になってしまうのではないか。鯉登はそんなことまで考えるようになっていた。
    あり得ないと思いたいが、連日連夜あの姿を見ていれば、其れを否定しきれないのがあまりにも哀しい。
    思い巡らせ、どれ程歩いたろうか。
    気付けば鯉登は、あの日警備をしていた社に来ていた。縁日でもない、ごく普通の日であれば、境内は静かなモノで、屋台も無ければ参拝客の姿もない。
    いっそ物寂しい気配の漂う参道を進み、ひとり社の前に立つと、鯉登は静かに手を合わせた。
    どうか、どうか、あの男が。月島が。
    元の通りに戻りますように。
    願うのは唯一つ。其ればかりであった。
    神頼みなど馬鹿馬鹿しい。それでどうにかなるものかと笑うものもあるだろう。けれども今ばかりは、此ればかりは、願わずには居られなかった。
    合わせた手を解き、幾らか落ち着いた心持ちで顔を上げると、いつの間に、直ぐ傍らに手を合わせる男の姿があった。
    着物姿の、細面のその男には見覚えがある。此の男に出逢ったのは、いつだったか。思う内に顔を上げた男に、鯉登は傍と思い出した。
    隣に立つその男は、何時ぞや月島が助けた男ではなかったか。
    ぼう、と男を見る内に、男は鯉登の視線に気付いた。月島が居れば、他人をじろじろと見るモノではないと小言を言われたことだろう。慌てて視線を逸らしかけた鯉登に、男は薄く笑むと軽く頭を下げた。つられて鯉登も頭を下げる。
     「お連れ様は、お変わりございませんか?」
     下げた頭に、降ってきたのはそんな言葉だった。連れ、と言われ鯉登の頭に浮かぶ姿はひとりしか居ない。
     「…変わりない。」
     端的にそう答えた鯉登は改めて男に向き直ると「怪我は、もういいのか?」と問い掛けた。
     記憶が確かであれば、縁日の境内で怪我をした男を月島が手当てした筈である。「お蔭様で。」と答えた男
    は笑みを見せたが、小一年は昔になろうかという話だと思い出し、鯉登は些か気まずく咳払いをした。
     「お前の連れはどうした?今日は、ひとりか?」
     誤魔化すようにそう問いかけると、男はふと笑みを落ち着かせて「はい。」と答えた。
     「迎えに来たのですが、どうやら迷っているようで。」
     何処か寂し気にそう答える男に、鯉登はふと思いついて、其れならば。と身を乗り出した。
     「私が一緒に探してやろう。この辺りは、この前随分と歩き回ったんだ。大抵の所は…」
     「いえ、其れには及びません。」
     意気揚々と話す鯉登に、男はそう告げると「連れのいる場所は、解っているのです。」と声を落とした。
     「解っている?…ならば、何故…」
     困惑する鯉登を、男は真直ぐに見上げると「お願いがございます。」と静かに告げた。
     「どうかアイツを、助けてやって下さいませんか。」
     「…助ける?…アイツ、とは…」
     「そうすれば、お連れ様も、きっと…」
     言葉尻を濁して面を伏せると、男は鯉登の脇をすり抜けて、社の奥へと向かって行った。
     「待てっ!どういうことだ…っ」
     鯉登の声に男はちらと振り返り、誘うように林の奥へ進んでいく。
     「っ…月島が…月島の事が関係するのか…っ!?」
     声を上げ、男の背中を追って鯉登は林の奥へ奥へと進んでいった。
     月島を捜し歩いた、あの日のように。


    ***


    尾形を目の前にして、月島は蒼白となっていた。
    「驚いた。その様子じゃぁ、本当になにも御記憶されていないようで。」
    鼻で嗤ってそう言う尾形に、月島は蒼い顔をして詰め寄った。
    「貴様、謀ってはいないだろうな…」
    「この嘘に何の価値があります?」
    月島が夜毎フラフラと兵舎を抜け出しては明け方近くに帰って来る。件の騒動が起こって以来、其れが延々と続いている。と、其れを吹聴して歩いたところで尾形の得になるような事など在りそうにない。
    寧ろその話が兵卒たちの耳に入れば、軍曹殿は少尉殿の仇討ちの為に夜毎暴漢を捜し歩いているのだろうと、そんな話になるのが関の山だ。
    無言の月島に尾形は苦笑して「ご納得いただけたようで」と漏らした。
    「序にもう一つ、面白い話を御耳に入れて差し上げましょう。」
    ニンマリと笑った尾形が口にしたのは、およそ信じ難い話であった。
    「鬼を見たというんです。」
    夜半に兵舎をうろつく何者かを怪しんだ見廻りの兵が見たのは、額に角を生やした紅い眼の化け物―モノの本で見るような、恐ろしい鬼の姿であったと。
    「…其れが、俺だとでもいうつもりか?」
    「さぁ。俺は鬼なんてものは見たことが無い。見たことの無いものは信じようも在りませんよ。けれども『見た』というヤツは居る。そして軍曹殿の記憶は無い。…そんな化け物に襲われるのは、さぞ恐ろしいことでしょうなぁ…」
    ちらと視線を寄越す尾形に月島が眉を顰めると、尾形はスッと目を細めて鋭く月島を見た。
    「何を確かめずとも、少尉殿の御様子を見ればお分かりなのでは無いですか?」
    「なに?」
    「軍曹殿が夜毎何処へ向かい何を為さっているか…」
    呆れと嘲笑の滲んだその声に、背筋が泡立つ。
    「本当に、お心当たりがないとでも?」
     片眉を上げ、そう問うてくる尾形に然し月島は答えようが無い。尾形に言われる今の今まで、己が夜毎兵舎を抜け出していたという自覚は無かったのだ。
     明け方まで戻らぬという己が、何処へ向かい、何をしていたか。考え得る可能性は、恐ろしいモノだ。
    若しやその可能性の通りなのだとしたら―
     「そんなことより、いいんですか?」
     内に籠りかける思考を遮るように尾形が問い掛ける。
     「少尉殿をお一人にさせておいて。」
     「?…どういうことだ?」
     「俺が余計な事を言って怒らせてしまったんですけれどもね。随分、覚束無い足取りのようで…」
     「!?鶴見中尉殿のところではないのか?」
     へらりと笑って答えてみせた尾形の返事に、月島は瞬時に顔色を変えて声を荒げた。
     「今さっき出て行きましたよ。軍曹殿と入違いで。」
     至って呑気にそう答える尾形に気が遠くなる。
     「少尉殿はお一人か!?」
     「軍曹殿が此処にいるってことは、そうなんでしょうねぇ」
     「っそれを早く言えっ!」
     へらへらと笑う尾形に舌打ちをすると、月島は勢いよく階段を駆け下りて表へ出た。
     今しがた出たばかりだというなら、そう遠くへは行っては居まい。真直ぐ邸に帰っていればいいが、尾形は怒らせたと言っていた。悋気を起こしてつまらぬ争いに巻き込まれるような事が無ければよいが。万一その様な事になってしまっては、今の鯉登ではもしやの事態も懸念せねばならぬ。それよりもなによりも、一刻も早く鯉登に会って、話をしなければ。
     尾形の言が確かならば、其処からの推測の通りであるならば、一体―
     纏めようにもまとまらぬ考えに途方に暮れかかり、先を急ぐはずの足がもつれて倒れかかると、向こうから来る人影が慌てた様子で月島を避けた。
    「軍曹殿?」
    「如何されました?」
     避けた上で、そう声を掛けてきたのは二階堂兄弟である。市中から戻った様子の二人に、月島は祈るような思いで取りすがった。
     「鯉登少尉を見掛けなかったか?」
     その必死の形相に驚き、二人は顔を見合わせた。
     「鯉登少尉殿、ですか?」
     「少尉殿は療養中では?」
     「っそう、なんだが…」
     言い淀む月島に、再び顔を見合わせて「あ」と声を漏らしたのは洋平の方であったろうか。
     「見たのか!?」
     噛みつくように声を上げた月島に、洋平は僅かに怯えた様子で「確かではありませんが。」と頬をひくつかせてそう答えた。
     「似たような背格好の方をお見掛けしたので…」
     「さっきのか?矢張りアレはそうだったか?」
     浩平がそう続けると、月島は掴み掛からんばかりの勢いで二人に詰め寄った。
     「何処だ!?何処で見かけた!?」
     「何処と言われましても…」
     「遠巻きに、見掛けただけなので…」
     月島の気迫に気圧され、冷や汗をかく二人を他所に、月島は必死に問い詰めた。
     「何でもいい。覚えていることを教えてくれっ」
     「っ…確か、神社の近くです。」
     「そうだ。神社の近くだった。」
     「神社…例の社か!?」
     二階堂兄弟が揃ってこくりと頷くと、月島は「解った」と叫ぶように言って走り出した。
     後に残された二人はと言えば、呆然とその背中を見送るばかりであった。
     「…俺達も、行った方がいいのか?」
     「…いや、止した方がいいだろう。」
     「…だな。」


    ***


    男を追って林を進むうち、鯉登は見覚えのある社の前に辿り着いていた。
    鬼に―月島に襲われた、あの社である。そうと気付いた鯉登は背筋を寒くしたが、躊躇っている場合ではない。男の口振りでは、この先に月島を元に戻せる手立てがあるやも知れぬのだ。其れが真実か否かは解らない。けれども縋る手立てが在るのなら、其処に縋らぬ手は無いのだ。
    鯉登は震え掛かる膝をどうにか立たせて、ゆっくりと社に近付いた。
    あの時開いていた扉は、今はきちりと閉じられている。その扉を開くべきか。開いてしまえば、あの時と同じことが繰り返されるのではないか。
    鯉登は沸き起こる恐怖心を飲み下して、扉に手を掛けると、一息に開け放した。
    扉を開いたその先は、何一つ物のない伽藍洞であった。神経を研ぎ澄ませてみたところで、其処には微塵も人の気配は無い。唯、不気味な程に静かだ。
    風の音一つせず、聞こえるのは、緊張に逸る己の心音ばかりである。己を覆った闇を思い出せば、社の中に足を踏み入れるのは如何しても躊躇われた。
    再びあの闇に囚われれば、次はどうなるというのだろうか。月島は此処には居ない。あの時も、扉を開けた時には月島の姿は見えなかった。鬼となった月島は突如闇の中から現れて襲い掛かってきたのだ。
    あの、闇の中に、月島以外の誰かも居ただろうか。今ほどの男が捜していた連れというのが、若しや月島と同じように闇に囚われているのだとしたら。
    男は、何処に居るかは解っていると確かそう言った。そうして男の後を追って辿り着いたのがこの場所ならば、男の連れは此処にいるという事では無いか。
    助けてやってくれ。と言うならば、男の連れを捉えているのは何者か。
    或はそれは、怨念の類ではないか―
    俄かには信じ難く、然し現に月島の姿を見れば、何の呪詛だと言われたとて疑いようも無い。何かの呪いだというならば、一体何故月島を呪うのか。
    「…目的はなんだ…」
    鯉登が低く声を上げると、伽藍洞の社に突如火柱が立ち、焔の向こうに陽炎の如く男の姿が現れた。
     見覚えのあるその顔は、鯉登に助けを求めたその男の連れに違いなかった。
     「月島に憑りついているのはお前なのか?」
     静かに問う鯉登を、男は無言のまま見詰めた。
     「何故、月島を呪う?」
     問いを重ねた鯉登に、男は瞬きを一つすると、ゆっくりと口を開いた。
     「呪ったつもりなどない。」と陽炎の向こうに立つ男は、そう答えた。
     「如何してあの男があんな姿になったのか、俺にも解らないんだ。」
     途方に暮れたように、男は話し続けた。
     「俺は唯、アンタたちが羨ましかった。」
     「…羨ましい…?」
    「あぁ、そうだ。羨ましくて、妬ましくて、もどかしかった。それだけだ。」
     「…何故、そんな…」
     男の言葉に困惑する鯉登に、男は「そりゃあそうだろう」とうんざりしたように声を零した。
     「アンタたちは、何を取り繕わずとも想う相手と一緒にいられるんじゃないか。」
     それがどうして羨まずにいられるもんか。と、男は自嘲して暗い眼で鯉登を見遣った。
     「それなのに、アンタたちはどうして…」と。
     男が言外に、何を言おうとしているか―鯉登には、其れが解った。解ってしまった。

     「俺と同じになればいいと思った。」
     告げる男の眼は暗い。
     「俺と同じにはなるなとも思った。」
     暗く、哀しいその眼を、鯉登は知っている。
     「これが呪いだというのなら、あの男の呪いを解けるのは、あの男自身か、アンタだけだ…。」
     夜毎、自身を襲う、鬼の眼だ―


    ***


     二階堂兄弟の言を頼りに月島が件の神社に辿り着くと、其処に鯉登の姿は無かった。
     ぜぇ。と息を切らし。辺りを見渡しても、参拝客の姿すらない。
     入れ違いになったか。もう、私邸に戻ったろうか。そう考え、月島が神社を後にし掛かると、ふと、何処からか声が聞こえた。
     「軍人さん。こちらですよ。」
     どこかで聞いた覚えのあるような、けれども、知らぬような。その声に振り返ると、声の主の姿は無く、唯、社の裏手の林へと続く径が見えた。
     そんな径があったろうか。此の径は何処へ続いているというのか。
     行くべきでは無い。常であれば、月島はそう判断したに違いない。けれども、どうしても。今は。今ばかりは、その径へ進まねばならぬ気がして、その先に、鯉登が待っているような気がして、月島は意を決すると、勢いをつけて一息に掛けだした。


    ***


     男は、確かに以前月島が助けたその男の連れであった。連れ合いの怪我の手当てをする間も、男は気遣わし気に傍らに立ち、終始、周囲の目を気にしていた。
     男と連れ合いの関係が何であるか、鯉登は…恐らく、月島も解っていた。
     解っていたからこそ、手当てを終えた月島は「人目を避けるなら、裏道を通って行け」と男に伝えたのだ。鯉登は傍らで其れを見ていたに過ぎないが、月島のそうした気遣いを好ましく思った。
     男にしても、其れは同じであった。
     男の眼には、傍らに在る鯉登を見る月島の眼が、仕草が、その関係を報せるには充分であったらしい。軍属の身であれば、想う相手と近しく在ることは出来るだろう。けれども、立場もあれば、人目も或る。自分達と同じ境遇か、或はもっと厳しい環境にあるのではないかと、男は月島を慮った。
     同じ町に、そうした境遇にあるモノが居るというのは、男と、その連れ合いの支えになったという。けれどもその後、男は不遇で連れ合いを失い、失意のうちに自ら命を絶つことを選んだ。
    死に場所に思い出のあるこの社を選んだが、自死が故か魂は死にきれず、この場に留まり続けて居た。そうした処で警備にかりだされていた月島を見掛けたのは、何の因果であったろうか。
    久方ぶりに月島を、そして傍らに在る鯉登を見るに、男は言いようのない嫉妬と、もどかしさを感じたという。傍目には想い合っているのが明白だのに、煮え切らないその様が、男にはあまりにももどかしかった。

    「切欠をやろうと思っただけだった。」
    男は寂し気にそう呟いた。
    「あんたを傷つけたいだなんて、微塵も思っちゃいなかった…勿論、あの男の事も…」
    陽炎が揺らめいて、男の声が途切れ掛かる。
    「…あの男を、俺を、救ってくれ…」
     ごう、と火柱が燃え上がると、男の影は朧になって、火の粉と共に消え去った。


    ***


    「少尉殿…っ!」
    林を抜け出したその先に、見覚えのあるその背中を見付け、月島は声を張り上げた。
    社の扉の前に立っていた鯉登は突如背後から聞こえたその声に驚き振り返ると「月島…」と小さくその名を口にした。
    「如何して、此処に…」
    呆然と呟く鯉登であったが、一方の月島は額に汗と青筋を浮かべ鬼気迫る表情である。
    「少尉殿、お答えください。貴方を、襲ったのは…」
    言葉の先を言い淀んだ月島に、鯉登はぐっと唇を引き結んで月島を見た。月島には、己を見る鯉登のその眼だけで充分であった。
    「如何して、何も言わなかったんだ…っ」
    常に無い荒いその口調に、鯉登はきつく目を瞑り、それからゆっくりと瞼を開いて月島を見た。
    「…っ…誰に、聞いた…」
    微かに震えたその問い掛けに、月島は眉間の皺を深くして忌々しげに「尾形に…」と短く答えた。
    「っあの男…」
    「他に誰が知っています?」
    「鶴見中尉殿だけだ。誰に話せるものか…っ」
    鯉登の言葉に嘘は無いだろう。
    師団の中には、未だ鯉登を襲った暴漢を探し出して手柄にしようと躍起になっている者も居る。そんな状況で、補佐である月島が上官である鯉登を襲った等と。
    話に出ようものならどんな事態を招くか考えるだに恐ろしい。唯襲ったというなら未だマシかも知れない。実際の所は、恐らく―
    「…如何して…」
    何故、言わなかったかと。問うのは酷だろうか。
    己には、何の自覚も、記憶も無い。
    唯、知り得た情報と、鯉登の此処暫くのあり様を見れば、何が起こっていたかは推測するに易いのだ。
    其れが現実だとすれば、悍ましい話である。恐ろしい話でもあろう。鯉登にしてみれば、尚のこと。
    それ故に、何も言えなかったというのだろうか。
    日頃から、何でも無用なことまで報せて来るくせに。
    如何してそんな事ばかり、何も言わずにいるのか。
    如何して、何も言えずに居たのか…。
    如何してー

    「…お前を、助けたかったのだ…」

    ポツリと、鯉登はそう呟いた。聞こえたその声に顔を上げてみれば、鯉登は、ただ真直ぐに月島を見詰めていた。
    「お前がそうなってしまったのは、私の所為なのだろう…」
    真直ぐに見詰めて「月島」とその名を呼び、鯉登は淡々と話し続けた。
    「私は…お前が鬼になって『嬉しい』とさえ思ってしまった。」
    呆れるか?と問うた鯉登に、月島は「いいえ」と答えて首を横に振った。鯉登は其れを見ると、僅かだけ表情を緩めて再び口を開いた。
    「鬼になったお前が、私を…私だけを求めてくれたのが嬉しかったのだ。」
    浅ましい話だがな。と鯉登は自嘲する。
    「お前を鬼にしてしまったのは、私だ。」
    「っ…そんなことは…」
    否定しかかる月島に、鯉登は緩く首を横に振ってみせた。
    「お前を人に戻してやらなければと思うのに、人に戻ってしまったら、もう二度と、私を求めてはくれなくなるのではないかと…そう、思ったら…」
    ぽつぽつと、話を続けながら鯉登の視線は次第に足元に落ちていく…。
    「…私は…それが、堪らなかった…」
    掠れたその声は、震えていた。
    「お前を人に戻してやりたくて、戻してやりたくなかった…だからいつまでもお前は鬼の儘なのだろう…」
    顔を上げた鯉登の頬に、雫が一筋走った。
    「すまない、月島…」
    唇を戦慄かせ、詫びる鯉登の目に月島が映っている。
    「…私が、お前に、執着したばかりに…っ」
    愕然と鯉登を見詰める月島は、然し次第にその姿を変貌させていた。
    肌は火に巻かれたような朱に染まり、瞳は赤黒く沈んでいく。青筋の浮いた額には、ギリギリと音を立てて瘤が隆起し始め、角を生していく。
    「…違う…」
    鬼になり掛かる月島は、半分人の姿を保ったままで呻くように声を漏らした。
    「違う…そんな…これは、少尉殿の…貴方の、所為などでは無い…これは…」
    話す内にも変わりゆく我が身に絶望しながら、月島は「違う」と繰返した。
    己が鬼に成り果てたのは、鯉登の所為などでは無い。
    この醜く悍ましい姿に、何か原因があるとするならば、其れは己自身の所為に違いない。
    己が欲を持ったからだ。己が欲を持っていたからだ。上官であり、監視対象である筈の、其れだけであった筈の鯉登に醜い欲望を持ったからだ。
    任務だと、此れは仕事だと都合よく言い訳で武装して、何も知らぬ子供であった鯉登を何度もこの手で抱いて穢していた己の欲が、この姿を象ったのだ。
    抑え込んでいた己の欲望が発露した結果の此の様だ。
    なんと情けない話だろうか。
    なんと恥ずかしい話だろうか。
     こんな男を、こんな俺を、如何してこの人は―

     身の半分を鬼の姿に変えた月島がゆっくりと歩み寄ると、鯉登は何を恐れることも無く近付く月島を待っていた。
     「…鯉登、少尉殿…」
     愛しく名を呼べば、鯉登は笑って異形の姿になり掛かる月島を抱き締めた。
     「…少尉殿…っ」
     ぎゅう、と、縋りついてくるその腕が。自分を受け容れようとするその仕草が。
     鯉登音之進が、ただ、ただ、愛おしかった。


    ***


    扉を閉じた社の中は、ひんやりと冷えて薄暗かった。けれども其処に、先日のような闇が拡がることは無い。格子や板戸の隙間から僅かに漏れ射る外の明りは、社の中に寄り添う二つの影を仄かに浮かび上がらせた。
    板の間に寝転がり、切なく息を漏らす鯉登の上に覆い被さった月島の背中には斑に赤が散りばめられており、額の左側には角が突き出している。鯉登を見詰めるその瞳は、片方は暗い海の色をして、もう片方は、赤黒く燃えるような火の色に染まっていた。
    床に身を横たえたまま、鯉登がそろりと手を伸ばし、月島の額に浮き出た角に触れると、月島はびくりと肩を震わせ金銀妖瞳で鯉登を見据えて喉を鳴らした。
    「…つきしま…」
    鯉登の指は大事そうに月島の角に触れ、それからゆっくりと朱に変容した月島の半眼をなぞった。
    「っ…少尉殿…」
    鯉登の手が月島の頬を捕らえると、月島はその手に己の手を重ねて指を絡めた。
    頬に触れる温みの名残を惜しみながら、月島は捉えた鯉登の手首に、掌にと口付けを落とし、べろりと舌先で舐め上げる。
    「っん…っ…ふ…っ」
    捉えられていない方の手で口元を覆い、甘い息を漏らす鯉登を咎めるように、もう片方の手も捉えると、鯉登は僅かに責めるような目をして月島を見た。
    「…少尉殿…声を、堪えんでください…」
    告げ乍ら、月島は鯉登の左手を取って、ぐい、と身体ごと鯉登を引き寄せると、その首筋に顔を埋めた。仄かに椿油と汗の匂いの混じった鯉登のその若い匂いに眩暈を覚えながら、すんなりと伸びたその首に舌を這わせ、耳を食む。
    「っはっ…ぁ、っん……っ」
    捉えた腕の中でびくびくと跳ねる鯉登の背を撫ぜ乍ら、耳裏に舌を這わせ、頬に、瞼に、口付ける。
    「…つき、しま…っ」
    切なくその名を呼んだ鯉登は、自由を取り戻した両の手で、ぎゅう、と、月島に縋りついた。
    はぁ。と熱い吐息を零す鯉登の眼前には、斑に赤い月島の首筋が見えるだろう。醜い角も見えるだろうか。
    それでも、鯉登は何を臆することなく強く月島を抱き締めて、その耳元に甘く囁いた。
    「…つきしま…好いちょっ……」
    熱に浮かされたような鯉登のその声は、赤斑の月島の耳を見る間に深紅に染め上げた。
    薩摩訛りのその声は、確かに好きだとそう告げた。
    何度身体を重ねても、終ぞ聞いた覚えのなかったその言葉に、月島は驚き、束の間身を離した。
    間近に見た鯉登は、耳裏から、首元までを真っ赤に染めて、それでもうっとりと笑ってみせた。
    笑った、その唇をそのままに、鯉登が月島に寄越した口付けは、触れるだけのモノであった。
    幼い口付けは、触れた、唯其れだけで、鯉登の言葉が嘘ではないと。知らせるには余りに十分であった。
    月島は、身に沸き起こる喜びを噛み締めながら、同時に、罪悪感に身を焦がした。
    何をも知らぬ、未だ幼い鯉登に取り入って、懐かせて。挙句の此の様だ。何が許されるものかと思う。許される筈がない。何れ鯉登は、全てを知るか知れない。其れを告げるのは鶴見か、或は自分であるか。賢いこの子なら、己で真実に辿り着いてしまうかも知れない。その時が来れば、来てしまえば、この子は、鯉登は、きっと後悔をするだろう。
    こんな男に身を許して、好きだ等と―
    いいや、後悔などさせるものか。其れと気付かぬように、この子が、鯉登が傷つかずに済むように、其れが己に出来る精一杯ではないか。
    それでも、もしも、もしものその時は俺が…俺自身が、この手で―
    「…月島…」
    柔く名を呼ぶその声に誘われるように、祈るように、月島は己の名を象ったその唇にそっと触れた。
    二度、三度、啄ばむだけの口付けを繰返し、四度目に、深く口付ける。
    好きだ。とは。言える筈も無く、好きだ。等と、思って許される筈も無い。
    それでも、月島は、鯉登を抱き締めずには居られなかった。
     声も無く、ただ、ただ、大切に、抱かずには居られなかった。


    ***


    外から差し込む光に目を開くと、鯉登は、己が月島の腕の中に在るのだと知った。
    「お目覚めになられましたか?」
    ぼんやりと霞む眼を瞬かせるうちに聞こえてきた穏やかなその声に「あぁ」と答えて顔を上げると、間近に月島の顔が見えた。
    その顔は白く、額には角も無い。此方を見詰めて来る穏やかな眼は、深い海のような色をしていた。
    「…もう、鬼にはならないか?」
    ぼんやりと、そう問うた鯉登に、月島は少しばかり躊躇ってから「解りません。」と静かに答えた。
    「俺は、欲深い男なので…またいつ鬼になるか、解りません…」
    真摯に答える其れが月島の本心なのだろう。鯉登は月島のその真面目さに苦笑して「構わん」と答えた。
    「例えこの先お前が何になろうと、私は受け容れる。」
    きっぱりとそう言い切る鯉登に、月島は暫し息を呑んだ。
    「だから…私の傍に居てくれ…」
    此れは、戯言である。
    軍人の身で、何を馬鹿なと、鯉登は自身でそう思いながら、言わずには居られなかったのだ。
    この先もずっと、月島と共に在れたらば。其れが叶うなら、どんなにか幸せか。
    きっとこの願いは叶うまい。そんなことは解っている。
    解ってはいても願わずには居られない己を恥じて、鯉登は其れを気取られまいと月島の首元に顔を埋めた。
    月島は、鯉登の言葉に何を答えることもしなかった。言葉のない代わりに、強く鯉登を抱き寄せた。
    鯉登は、それで十分だと安堵して、一筋だけ涙を零した。首筋に伝う雫に気付きながら、月島はただ、ただ、強く、鯉登を抱き締めるばかりであった。
    決して離さずに済むように。そう、願うように。


    ***


    朝日が上る中、社を出る二人を物陰から見送ったのは陽炎であった。
     穏やかな顔をして、肩を並べる二人の姿をみるにつけ、男は思う。己は何がしたかったかと。
     振り返るに、幸せそうな二人を見たかったのかもしれないと、そんな風に思うのだ。添う事の叶わなかった自身と連れ合いの代わりに、せめて縁のあった二人に添い遂げて貰えたなら…。と。
    この先の事は解らない。けれども男には、二人がこの先も添えるであろうと、何故だかそう思えた。
     安堵に身の軽くなるような心地がして、ふと振り返ると、男の傍らにはいつの間に、想い焦がれたその人の姿があった。
     「いつまでここにいるつもりだい?待ちくたびれて迎えに来てしまったよ。」
     着物姿の細面のその男が、朝陽の中で柔らかに微笑んでいた。
     社に薄日が差し込むと辺りは清浄な空気に満ちた。陽炎は最早跡形も無く、社には唯、静寂が訪れていた。


    ***


    「月島軍曹を、ですか?」
    言外に意外だと滲ませてそう問い返す宇佐美に、鶴見は「そうだ」と答えた。
    執務室には二人きりだというに、声を落として密やかに会話は進んでいく。
    「百之助ではなく?」
    宇佐美からの再度の問いには、鶴見は暫し思案して「必要と思うか?」と問い返した。
    「…念のため、といったところでしょうか。」
    僅かに目を細めそう告げた宇佐美に、鶴見が返したのは「ならば任せよう」という一言であった。
    「貼り付く必要はない。ただ注意はしておいてくれ。」
    「注意をする程度で宜しいのですか?」
    「…今の所はな。」
    今の所は。という鶴見の言葉を繰り返すと、宇佐美はにこりと笑って「承知しました。」と答えてみせた。
    宇佐美への指示は、其れだけで充分なのだ。後は放っておいても、此の男であれば己で考えて動いてくれる。有事の際にも、何を躊躇うことも無いだろう。
    「やはり頼りになるのはお前だけだ。」
    笑みをして鶴見がそう零すと、宇佐美は満足そうに口の端を吊り上げた。


    ***


    社を後にした鯉登が月島を伴って鶴見を訪ねたのはその日の午前であった。
    「かたがついた、ということか?」
    「はい。もう、御心配には及びません。」
    鶴見の問いかけに、答えたのは月島である。つい昨日まで鶴見と話せていたモノが、一晩経てば鯉登は常の薩摩訛りが抑えられぬようになってしまっていた。尤も、落胆するのは鯉登ばかりで、鯉登のその様を見る鶴見も、通訳を務める月島も安堵するばかりだ。
    「…そうか。おさまったならそれでいい。」
    鶴見はそう告げると「ご苦労だったな。」と鯉登を労い、月島にも目配せをした。
    「療養は今日一杯だ。明日からは、通常通り。それで良いな?」
    鶴見の計らいに鯉登は酷く動揺してみせたが、月島はそんな鯉登を制して、引き摺るようにして鶴見の執務室を後にした。

    二人の去った後、鶴見はひとり空を見詰めていた。脳裏に浮かべるのは、並び立った部下二人の姿である。鯉登少尉。それに、月島軍曹。自らが組ませたその二人である。鯉登少尉任官にあたり、月島軍曹を補佐に付かせたのは思惑あってのことであった。月島の他には務まるまいと判断しての人選であった。その判断は間違っていなかったのだろう。だが―
    「あの月島がなぁ…」
    零れた言葉は虚しく転がり落ちて、誰に拾われることもなく、暗い部屋の隅に横たわるばかりであった。


    ***


    「真直ぐ、私邸に戻られますか?」
    月島の問いに鯉登が「あぁ」と答えると、月島は其れが当然のように「お送りします」と告げて鯉登の隣に立った。
    私邸までの僅かの距離で、事の片付いた今となっては然程の心配も必要ないだろうに。当たり前に己の隣に立つ月島に鯉登は気恥ずかしいような気さえしながらも、申し出を断ること無く月島と並び歩いた。

    兵舎を出掛かったところで宇佐美と尾形に出くわしたのは偶々である。
    「無事に御戻りですか軍曹殿。」と厭味ともつかぬ物言いを月島に向けて来たのは尾形で「少尉殿、少し痩せられました?」と遠慮も無しに鯉登の顔をじろじろと覗き込んできたのは宇佐美だ。
    出くわすと解っていれば避けたものをと、月島は小さく舌打ちをして二人の脇をすり抜けようと試みた。
    「遊んでないで仕事をしろ。」
     にらみを利かせて言い置けば、二人は束の間口を閉ざしたが、月島に続いて鯉登が二人とすれ違うその刹那、尾形は余計な口を開いた。
     「俺の出番はなさそうですね?」と。
     聞こえた言葉に、止せばよいモノを。鯉登は律儀に足を止め「そんなものは元から無い。」と言い返した。盛大にため息を吐いたのは月島で、面白い事が始まりそうだと、目を輝かせたのは宇佐美である。
     「物足りなくなったら、いつでも俺を呼んでくださいよ。」
     へらりと笑ってみせる尾形に「十分間にあっているっ」と声を荒げ、噛みつかんばかりの鯉登に益々深く溜息を吐いた月島は、いよいよ堪り兼ねて鯉登の腕を掴んだ。
     「参りましょう。少尉殿。時間の無駄です。」
     掴んだ腕をぐいと引いて、先を急がせようとする月島を他所に、引留めを計ったのは尾形では無かった。
     「え?少尉殿、間に合っているって、一体何が間に合っていらっしゃるんです?」
     「宇佐美っ」
     目を爛々と輝かせて鯉登に詰め寄る宇佐美は月島の声など諸ともしなかった。
     「少尉殿に聞いているんです!ねぇ、鯉登少尉殿。何が間に合っているんです?」
     意地の悪い笑みをしてにじり寄って来る宇佐美に「煩いっ」と叫ぶと、鯉登は逃げるように月島の背後に隠れた。尤も、鯉登に比べ小柄な月島の後ろには鯉登の姿がそのまま見えているのだが。
     「え?どうしたんです?鯉登少尉殿。どうして赤くなっていらっしゃるんです?」
     「しつこいぞ宇佐美。」
     尚も諦めない宇佐美にそう零したのは月島で、次いで「間に合ってんだってよ。今のところは。」と、呆れたように言ってのけたのは尾形であった。
    「ねえ?軍曹殿。」
    事の発端を作っておいていけしゃあしゃあと。涼しい顔をして宣う尾形には何を言うのも無駄だろう。
    「お前たちは与太話をしてないで仕事をしろっ」
    月島は吐き捨てるようにそう言うと、二人に背を向けて鯉登に先を絆した。
    「え?軍曹殿?何を怒ってらっしゃるんです?」
    「宇佐美、いい加減…っ」
    しつこいにも程がある。と、青筋を立てた月島を制したのは鯉登であった。「月島」と、月島が後ろを振り返る刹那、その名を呼んだ鯉登は、今ほど自身の腕を捕らえていた月島の腕を掴み「帰るぞ」と告げたのだ。先刻までの動揺がまるで嘘のように。それでも未だ赤みの残るその頬に、月島はハッとなって冷静を取り戻した。
    「失礼。」と小さく零し「…帰りましょう。」と月島が続ければ、鯉登はホッとしたように小さく笑って前を歩き始めた。
    「軍曹殿。」
    背後に聞こえたのは尾形の声だ。
    「どうぞごゆっくり。」
    笑含んだその声に月島は再度振り返り掛かったが「月島」と名を呼ぶ鯉登のその声が月島を制した。

     「あーあ。行っちゃった。」
     遠ざかり行く鯉登と月島の背中を見送りながら、宇佐美はさもつまらなそうにそう呟いた。
     「アンタが悪ノリし過ぎるからでしょうが…」
     隣に立つ尾形が心底うんざりしてそう零すと、宇佐美は「何のこと?」とおどけてみせた。
     「…アンタ、わざとだろ?」
     「さぁ?…どうだろうね?」
     少しも嗤っていない眼で、にんまりと笑みを作ってみせる宇佐美に、尾形は冷ややかに視線を投げて、気付かれぬようにソッと息を吐いた。
     喰えない男だ。と、思ったのは、何方だったか―

     「なぁ、あれ…」
     「少尉殿か?」
     一連の騒ぎを遠巻きに見ていたのは二階堂兄弟であった。
     「隣に居るのは軍曹殿か?」
     「そうだな。アレは月島軍曹だ。」
     確かめるように顔を見合わせた兄弟は、鯉登少尉と月島軍曹が揃って歩いて行く姿をぼんやりと見詰めながら「少尉殿は、お元気になられたか…」と呟き「そのようだ」と零すと、二人揃って安堵と落胆の混ざったような複雑な吐息を漏らした。
     「手柄は取りそこなったか?」
     「解らんが…かもしれないな。」
     「だが、少尉殿がお元気になられて良かった。」
     「…それはそうだ。」
     互いに、薄く笑って懐から煙草を取出すと、揃って其れを咥え、マッチを擦ったのは浩平の方であった。
    「このところ、随分と賑やかになったな。」
    咥え煙草に火を吸いつけ、足元にマッチを落とすと、浩平は隣に佇む洋平に煙草の火を差出した。
    「鯉登少尉殿が来てからやけに賑やかになった気がする。」
    貰い火をして一服つけてから、洋平がそう零すと浩平は「そうだな。」と呟いて「少々煩いが、悪くは無いかもしれないな」と煙をふかした。
    「まあな。」と答えた洋平の吐き出した煙は、ぷかりと浮かんで浩平の吐いた煙と混ざり合った。


    ***


     鯉登の私邸へ帰る道すがら「少尉殿。」と月島が呼びかければ、鯉登は前を向いたまま「なんだ」と答えた。
     後に続くだろう言葉を待った鯉登の耳に、然し届いたのは「…いえ」という短い一言だった。
     月島が何を言い淀み、どんな言葉を呑み込んだのか、聞かずとも解る。
     「…身体なら、大事ないぞ。」
     極力、平板に。何を強調することも無く、ごく淡々とそう告げると、背後に聞こえたのは「すみません」という一言だった。
     振り返らずとも、月島の表情など手に取るように解る気がしたが、物は試しと振返ってみた鯉登の目に映ったのは、思った通りの…いいや、思った以上の、思い詰めた顔だった。
     過ぎた話を蒸し返してもどうにもしようが無いというのに。だが、そうしたところが如何にも月島らしいと鯉登は不器用なほどに真面目な男を好ましく思った。
     「すまない。と、そう思うなら、今日一日、精々私を労わってくれ。」
    「…心得ました。」
    告げた言葉に、月島はほんの僅か困惑して、其れでも何処か嬉しそうな…ホッとしたような顔を見せた。
     きっとこの先も、何度となく、此の男の、月島の、思い詰めた顔を見ることになるのであろう。
    其れが月島基と言う男の性分なのだ。どれ程も解ったつもりではないが、少しは、月島基という男を知れたような気になって、鯉登は知らず笑みを作った。
     「月島」と呼べば、補佐であるその男は「はい」と愛想もなく顔を上げる。滅多と微笑むことは無い。大抵が、難しい顔をして口許を引締めている。口にするのは小言が大半で、褒められることは殆ど無い。昨夜のような事があっても、この先もきっとそうだろう。月島基は、この男は、己の任を全うする。けれども―
     「腹が減ってはいないか?」
     「それは、まぁ…」
    「ならば決まりだな。其処の蕎麦屋にでも寄って行こう。」
    言うが早いか、蕎麦屋へと向かい始めた鯉登であったが、ふと足を止めると通りの向こうを見遣った。
    後を追った月島がその視線を辿ってみれば、鯉登の視線の先には、先日、社の縁日で見掛けたような鬼灯がいくつも路上に並べられていた。
    「お求めになられますか?」
    問うてきた月島を振返った鯉登は、暫し黙って月島を見詰め続けた。
    鯉登を見詰め返す月島の目は、深い海の色をしている。月島の本心は、静かなその海の底なのだろう。
    何時しか沈んでいったものか。或は、月島自らの手で沈めたモノか。今はまだ定かでは無い。
    けれども、いつか。と、鯉登は思う。
    鬼になる程の情念があるのならば、いつか。
    いつかその深い海の底から、月島の本心を引き揚げたい。そう思い、願うのだ。
    暗く、深い、海の底に沈んだままの月島のその情念が、月島基そのものが、あの陽炎のように、いつしか消えてしまわぬようにと。

    「いや、止しておこう。」
    瞬きをして静かに答えた鯉登に、月島はホッとしたような笑みをみせた。
    「えぇ、その方がいいでしょうね…」
     そう答えた月島の本心は知れないが、其処に浮かんだ僅かの笑みに鯉登は淡く希望を抱き微笑んだ。
     いつかのその日を、夢に見ながら。
     夢にはすまいと、誓いながら。
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    fujimura_k

    PAST2023年12月発行『喫茶ツキシマ・総集編』(番外編部分)
    月鯉転生現パロ。喫茶店マスターの月島と作家の鯉登の物語。総集編より番外編部分のみ。
    喫茶ツキシマ 総集編(番外編)例えば
    こんな穏やかな日々が
    この先ずっと

    ずっと
    続いていくなんて

    そんな事があるのでしょうか。

    それを
    願っても、いいのでしょうか。


    ***


    図らずも『公衆の面前で』という派手なプロポーズをして以来、鯉登さんは殆ど俺の家で過ごすようになった。
    前々から昼間は大抵店で過ごしてくれていたし、週の半分近くはうちに泊っては居たのだけれど、其れが週四日になり、五日になり、気付けば毎日毎晩鯉登さんがうちに居るのが当たり前のようになっている。
    資料を取りに行くと言ってマンションに戻ることはあっても、鯉登さんは大抵夜にはうちに帰って来て、当然のように俺の隣で眠るようになった。
    ごく稀に、鯉登さんのマンションで過ごすこともあるが、そういう時は店を閉めた後に俺が鯉登さんのマンションを訪ねて、そのまま泊っていくのが決まりごとのようになってしまった。一度、店を閉めるのが遅くなった時には、俺が訪ねて来なくて不安になったらしい鯉登さんから『未だ店を開けているのか』と連絡が来た事もある。
    19591

    fujimura_k

    MOURNING2022年5月発行 明治月鯉R18 『鬼灯』
    身体だけの関係を続けている月鯉。ある日、職務の最中に月が行方を晦ませる。月らしき男を見付けた鯉は男の後を追い、古い社に足を踏み入れ、暗闇の中で鬼に襲われる。然し鬼の姿をしたそれは月に違いなく…
    ゴ本編開始前設定。師団面子ほぼほぼ出てきます。
    鬼灯鬼灯:花言葉
    偽り・誤魔化し・浮気
    私を誘って

    私を殺して


     明け方、物音に目を覚ました鯉登が未だ朧な視界に映したのは、薄暗がりの中ひとり佇む己の補佐である男―月島の姿であった。
    起き出したばかりであったものか、浴衣姿の乱れた襟元を正すことも無く、布団の上に胡坐をかいていた月島はぼんやりと空を見ているようであったが、暫くすると徐に立ち上がり気怠げに浴衣の帯に手を掛けた。
    帯を解く衣擦れの音に続いてばさりと浴衣の落ちる音が響くと、忽ち月島の背中が顕わになった。障子の向こうから射してくる幽かな灯りに筋肉の浮き立つ男の背中が白く浮かぶ。上背こそないが、筋骨隆々の逞しい身体には無数の傷跡が残されている。その何れもが向こう傷で、戦地を生き抜いてきた男の生き様そのものを映しているようだと、鯉登は月島に触れる度思う。向こう傷だらけの身体で傷の無いのが自慢である筈のその背には、紅く走る爪痕が幾筋も見て取れた。それらは全て、鯉登の手に因るものだ。無残なその有様に鯉登は眉を顰めたが、眼前の月島はと言えば何に気付いた風も無い。ごく淡々と畳の上に脱ぎ放していた軍袴を拾い上げて足を通すと、続けてシャツを拾い、皺を気にすることもせずに袖を通した。
    54006

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