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    fujimura_k

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    fujimura_k

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    2023年12月発行『喫茶ツキシマ・総集編』(番外編部分)
    月鯉転生現パロ。喫茶店マスターの月島と作家の鯉登の物語。総集編より番外編部分のみ。

    #やぶこい
    #月鯉
    Tsukishima/Koito

    喫茶ツキシマ 総集編(番外編)例えば
    こんな穏やかな日々が
    この先ずっと

    ずっと
    続いていくなんて

    そんな事があるのでしょうか。

    それを
    願っても、いいのでしょうか。


    ***


    図らずも『公衆の面前で』という派手なプロポーズをして以来、鯉登さんは殆ど俺の家で過ごすようになった。
    前々から昼間は大抵店で過ごしてくれていたし、週の半分近くはうちに泊っては居たのだけれど、其れが週四日になり、五日になり、気付けば毎日毎晩鯉登さんがうちに居るのが当たり前のようになっている。
    資料を取りに行くと言ってマンションに戻ることはあっても、鯉登さんは大抵夜にはうちに帰って来て、当然のように俺の隣で眠るようになった。
    ごく稀に、鯉登さんのマンションで過ごすこともあるが、そういう時は店を閉めた後に俺が鯉登さんのマンションを訪ねて、そのまま泊っていくのが決まりごとのようになってしまった。一度、店を閉めるのが遅くなった時には、俺が訪ねて来なくて不安になったらしい鯉登さんから『未だ店を開けているのか』と連絡が来た事もある。
    一緒に暮らそう、だとか、そんな話をしたわけでは無い。するべきなのだろうけれども、タイミングを外し続けている内に、自然とそんな風になってしまった。言葉より、気持ちと行動の方が先になって、一晩だって離れていたくない。と、思うようになってしまったのだ。
    プロポーズをして、其れに良い返事を貰って、一緒に居るのが当たり前になった。それでも俺と鯉登さんの関係には法的には何の保証が出来た訳では無い。けれども、そうだとしても、鯉登さんが俺の『特別』である事には変わりなく、鯉登さんにとって、俺もそうである筈だと信じている。
    そして恐らくは商店街の面々も、俺達をそんな風に見てくれているのだろう。特別、誰に何を言われた訳ではない。みんな、あの日の騒ぎの後は至って普通にいつも通りだ。
    ただ、近頃は店の買出しを手伝ってくれたり、家の買い物をしに商店街で買い物をするようになった鯉登さんに、気安く声を掛けたり『マスターと一緒にどうぞ』なんて、おまけをくれたりする人が増えた。商店街のど真ん中、店の真ん前でプロポーズをしたのが幸いだったか(今考えると、何でそんな真似をしたのかと恥ずかしさで頭を抱えそうになるが)俺と鯉登さんのことは周知の事実と化していて、最早誤魔化しようもない。誤魔化す必要も無いのだけど。
    プロポーズの前に駅前でも派手な告白をしてしまったくらいだから、其れも今更なのか知れないが、商店街の面々も、常連客達も、俺と鯉登さんの事を概ね理解してくれているらしいことは幸いなんだろう。
    中には、姿を見なくなった客もいるが、それはしようのないことだ。そうした人に直ぐに理解を求めるのは難しい事も承知の上だ。それに、そうした人たちはごく僅かだし、嫌がらせのようなモノが無いのは奇跡に近いのだということも、理解している。
    俺は兎も角として、鯉登さんが嫌な思いをする事がなければいいがと警戒もしたが、どうやらそんなことも無く、俺も、鯉登さんも、商店街の面々も、変わらず、平和に日々を過ごし、間も無く一年の終わりを迎えようとしていた。
    インカラマッと谷垣は騒ぎの後に祝いの席を設けたいと言ってくれて、近々飲みに行く約束をしているのだが、暮れが迫ると谷垣の店は随分と忙しい様子で、すっかりタイミングを外してしまった。落ち着いて呑みに行けるのは、年が明けてからの事になりそうだ。
    土方さんと永倉さんは揃って何か記念になるモノを贈ろうと言ってくれているが、二人の意見が合わないらしく、店に来るたびに此れは如何だ?此方の方がいいだろう?と双方から提案を受けている。爺さんたちが二人揃って鯉登さんにべったりなのは少しばかり気がかりだが、孫を可愛がっているような感覚なのだろう。と、思っておくことにする。
    家永は、俺が鯉登さんにプロポーズをした翌日に珍しく一人で店に来た。何事かと思えば、昨日のプロポーズに感動したという話だった。随分はしゃいだ様子で、実は自分も牛山にプロポーズされて、次の休みに牛山と一緒に指輪を見に行くのだと嬉しそうに話して帰っていった。
    一緒に選ぶという手もあったか。と、その時になって思ったが、鯉登さんはプレゼントした指輪を気に入って大事にしてくれているのだから、それはそれで良かったと思いたい。
    門倉さんは、未だに『あんな別嬪がマスターを選ぶのが信じられない』と最上級に失礼なことを言いながら、俺がきちんと指輪を用意していた事だけは褒めてくれている。
    「サイズぴったりだったんだろう?凄いよなぁ。俺が指輪なんか用意しようとしたら絶対サイズ間違えるよ。」
     カウンターに肘をついてそう漏らした門倉さんに「誰か送りたい相手でもいるんですか?」と聞いたら、意外にも門倉さんは虚を突かれたような顔をしてみせた。さぁな。と門倉さんは笑って見せたが、これは心当たりがあるということだろう。
    「そんなもん贈ってもアイツは喜びそうにねぇから、いらねぇだろうな。」
     そんな事は無いんじゃないかと、そう口に仕掛けた矢先、店のドアが開いていつものようにキラウシが門倉さんを迎えに来た。気付いた門倉さんが「げ」と小さく漏らす声を聞くのももう慣れた。
    「いつまでサボってる。帰るぞ。」
    「そんな忙しくねぇだろ?もうちょっとくらいさぁ…」
     門倉さんはぼやいていたが、キラウシは問答無用で門倉さんをカウンターの椅子から降ろすと、ドアの方にぐいぐいと背中を押して店を出るように急かした。
    「わかっ…わかったから!押すなっつの!」
     情けない悲鳴を上げる門倉さんを他所に、キラウシは思い出したように振り返ると「そうだ」と零してカウンターまで戻ってきた。
    「うっかりするところだった」
    そう言いながら、キラウシは提げていた袋をカウンターに置いた。
    「これ、二人で。正月用に。」
     置かれた袋の中身は上等な酒のようだった。
    「二人とも飲めるんだろう?」
    「あぁ、ありがとう。」
     答える間にもキラウシは口の端を上げて笑みを作ると、直ぐにドアの方を向き直り、まだドアの前でいじけていた門倉さんの背中を押しに行った。
    「ほら、帰るぞ。」
    「わかったっ!解ったからっ!」
     賑やかに帰っていく二人を見送りながら、門倉さんが指輪を渡したいのかも知れない誰かが解ったように気がしたが、余計な事は言わないでおこうと決めて、貰った酒を大事にカウンターの下にしまった。
     この酒は、鯉登さんと二人で大事に飲まなければ。
    尾形と宇佐美は相変わらずだ。
    「プロポーズしたんだし、次は御実家に御挨拶だよねぇ。」
    ニコニコと完全に面白がっているのは宇佐美だ。
    「別にそんなもん必要ねぇだろ。」
    「でも、一応ねぇ…」
     興味無さげに呟いた尾形に尚も食い下がる宇佐美はチラリと此方を伺って来る。
     実家への御挨拶。その考えが全く無かった訳では無いが、プロポーズで精一杯で此処暫く頭から完全に抜けていた。言われてみれば、何れはそれも考えなければいけない事なんだろう。当然に。
    「マスターはお正月、実家帰らないの?」
    「…考えてなかったな…」
     宇佐美に問われるまで、本当に考えていなかった。
    『喫茶ツキシマ』は親父の代から、例年、正月には暮れの三十一日と年明け一月1日しか休んだことが無い。
     二日と三日はメニューも限った時短営業ではあるが、正月の二日から店を開けるのが子供の頃から当たり前のように思っていたから、その二日で佐渡の実家に帰ることは考えことも無かった。子供の頃にも帰った記憶は無い。父方も母方も、俺の祖父母という人たちは早くに他界してしまっていて、島には帰る実家が無かったという所為もあるだろうが、両親にも正月に島に帰るという考えは無かったように思う。
    実際、店を閉める二日間で佐渡の実家に帰省となると、無理をすれば出来なくはないが、移動だけで疲れ果ててしまうだろう。季節柄、島に渡る船が無事に出るかも気にしなければならない。運よく島に渡れたとして、帰れないでは困るのだ。それに、店の掃除や仕込みもある。実質的には無理な話だ。俺一人になってからは暮れに普段より気持ちだけ丁寧に掃除をして、一日にはいつも通りの仕込みをする。そうして漸くひと息ついて、酒を飲んでいる内に終わるのがいつもの正月だ。
     けれども、今年は俺ひとりではない。筈だ。
    「鯉登ちゃんは、どうするんだろうね?」
     宇佐美の其の言葉で、何も聞いていないことを思い出した。鯉登さんは、今まで、どう過ごしていたのだろう。どう、するのだろう。
    「ねぇ、百之助は?実家帰んないの?」
    「あぁ…まぁ」
    「弟くんのとこ?百之助大好きな弟君居るよね?」
    宇佐美がそう言ったら、途端に尾形の顔が曇った。
    「弟らしきのは居るが、そっちは実家じゃねぇ。」
    「あぁ、そっか。お母さん違うんだっけ?」
    「余計なこと言ってんな。馬鹿。」
    「は!?馬鹿って何!?」
    「うるせぇよ。アンタこそ実家帰れよ。」
    「それこそ余計なお世話だけど!?」
    「弟たちが待ってんじゃねーのか?」
    「待ってんのはお年玉だけだし。百之助のとこの弟くんみたいに熱烈に待ってくれてないからね。」
    「は!?」
    「会いに行ってあげたらいんじゃない?お正月くらい、お兄ちゃんしてあげたら?」
    「俺は別に会いたかねぇ」
    「素直じゃないなぁ」
    「あ?」
    尾形の顔つきが変わっていよいよ不味いか、と思った矢先、宇佐美はころっと表情を変えて此方を向き直った。
    「あ、マスター!いつもの玉子サンド下さい!お腹空いちゃったぁ」
    「おい、宇佐美、お前…」
    「ん?百之助も食べる?」
    「………食べる」
    「だって!百之助の分もお願いします♪」
    本当に、相変わらずだ。この二人は。

    ***

    『今年も帰らないのか?』
    兄からそんな連絡が来たのは、月島からプロポーズをされて、暫くの事だった。
    『今年も』という言葉に、ほんの少し、胸が痛まないではない。家を出て、兄とも離れて暮らすようになってから滅多に実家には帰らなくなっていた。正月も然りで、ここ数年はひとりきりで正月らしい用意もせず、普段通りに過ごして来た。もう何年も、正月に帰省などしていない。最後に実家に帰ったのが何年前か解らないくらいだが、それでも帰る気になれなかった。
    正月になれば色々なところから街に人が集まる。普段は居ない人も集まって来る。だから、その人混みの中に月島が紛れてはいないかと、正月に実家に帰ることもせず、必死になって月島を探していた。尤も、其れは一昨年までの事で、去年の暮れから今年の正月は、殆どの時間をマンションでひとり過ごした。人混みで月島を探す必要はなくなったが、月島に会えるかもしれないと考えてこの町の神社には行ってみたが、そう、思惑通りにはいかなかった。それでも、月島の居場所が解っていて、今も、同じ町に居ると知れたら、その街を離れたくなくて、実家に帰ることなど、少しも考えなかった。
    月島を、ずっと探していた相手を見付けたと、兄に告げたのは丁度去年の今頃だった。今日と同じように、正月は如何するのかと問うてきた兄に、初めてその話をした。子供の頃から、ずっと探している人がいた。その人を、漸く見つけることが出来たのだと。
    『今の街に引越したのは、其れが理由か?』
     私の話を全部聞いた後、咎めるでもなく柔らかにそう問うてきた兄に、そうだと告げると、兄は電話口で小さく笑って『良かったな』と言ってくれた。昔から、私に甘い兄だ。それ以上は何も聞かず『解った』とだけ言って電話を切った。それからもう一年になる。
    「…兄さぁは、帰るのか?」
     電話口で問い掛けると『あぁ』と短い返事に続いて『探していた誰かと、話は出来たかい?』と聞こえてきた。
     言葉に詰まったのは、何を、如何話していいか解らなかったからだ。
    何処から、如何、説明すれば、兄に解って貰えるだろうか。私と、月島のことを。私たちのこれからを。今を。説明した所で、解って貰えるとは限らない。否定の言葉が返って来るかも知れない。それは覚悟している。
     いつかは、言わなくてはいけないのだろうけれども、それなら、顔を見て話しをしたい。兄にも、両親にも。
    『…出来たんだな。』
     黙ったままでいると、察しの良い兄はポツリとそう零して、確か笑ったようだった。
    『その人と、一緒に居るのか?』
     兄の問いかけに「うん」と答えた声は震えてしまった。けれども、兄は『そうか』と漏らしただけだった。
    相手のことなど何ひとつ言及せず、ただ『大事にされているか?』とそんな問いを重ねてきた。
     言わなければいけないこと、話さなければいけないことが幾らも在る筈だというのに「うん」と答えるだけが精一杯の私に、兄は『そうか』と零し『そんならよか』と電話口で笑っていた。
    『…落ち着いたら、一度、そん人に会わせてくいやい。』
    わかった。と返事をして通話を切ってから、落ち着いたら。というのは、一体いつだろう。等と、そんな事を考えていた。

    ***

    「正月、どうしますか?」

    閉店後、二人きりになったカウンターで単刀直入にそう問い掛けると、鯉登さんはカウンターを拭いてくれていた手を止めて顔を上げた。
    「店は、どうするんだ?」
    聞こえたのは答えではなく別な問いで、思わず「あー…」と間抜けな声が漏れた。
    「今年は、…たしか、二日から開いていただろう?」
    「!よく、覚えていますね…」
    「まだ店主と客だったからな。二日には月島に会えるんだと思って、店が開くのを待っていた。」
     さらりと零された言葉は俺には中々の衝撃だったのだけれど、鯉登さんにはそんなことは少しも解らなかっただろう。
    「…そう、でしたか。」
     動揺を誤魔化しながら答えて振り返るに、確かに今年の正月は俺と鯉登さんは未だ店主と客だったと思い出す。
    俺は明治のことを思い出さないまま、夏頃から店に通って来始めた鯉登さんを気にしていた。…いいや、気にしていた癖に、其れを認めもせずに悪あがきをし続けていた。同性の、店の常連客のひとりであった鯉登さんに惹かれている自分を、少しも認められずに居た。そんな頃だった。
    今となれば、当時の自分を殴りに行きたいくらいだが、そんな事が出来る筈も無く。無事に今こうして鯉登さんと居られることは幸運なのだろう。
    「すいません。俺が、もっと早く…」
     俯きかけると、鯉登さんは「今更だ」と笑って「それより、今年はどうするんだ?」と重ねて問い掛けてきた。
     本当に何も気にしてはいないのだと、その笑顔で、声音で解る。ホッとしたというのが本音だ。小さく息を吐いて、気を取り直して口を開く。
    「うちは、いつも大晦日と元旦は休んで二日から店を開けていたんです。親父の頃から、ずっとそうで…」
    「そうか、じゃぁ…」
    「今年も、そのつもりだったんですが…」
    「休みを変えるのか?」
    「いえ…その…」
     先を言い淀む俺を鯉登さんは不思議そうな顔をして見詰めて来るモノだから、益々先が言い辛くなる。けれども、聞かない事には話は先に進まない。
    「っ鯉登さん」
    「?なんだ?」
    「鯉登さん、は、…その、どう、されますか?」
     他に聞き方は無かったのかと我ながら思う。
    「…どう…って…」
    「その、一般的には、正月には、実家に、帰ったり、とか…」
     なんとも歯切れの悪い物言いをした俺に、鯉登さんは一拍置いてから「実家には帰らん」ときっぱりそう答えた。
    「え?」
     思わず漏れた声は、純粋な驚きによるものだ。意外だと思ったのだ。おぼろげだが、明治のあの頃、正月には俺も一緒に鯉登さんの実家を訪ねていた記憶がある。其れが無くとも、世間的にはそうするのが一般的だと思っていたし、鯉登さんも、そういう人だろうと思って居た。
     親や兄弟を大事にして、行事ごとはきちんとする。そんなイメージを勝手に持ってしまっていた。
    「月島と、此処に居るつもりだった…」
    だから単純に、聞こえた其の言葉に驚いてしまった。
    「…いけないか?」
     驚いて、其れ以上に…
    「っそんな、ことは…っ」
     嬉しく思ったのは、しようが無いと思いたい。
    「…帰った方がいいか?」
     問われて、考えるより先に口が動いてしまった。
    「いえ。」
     出来た男なら、正月くらいご両親に顔を見せに行けば。とか、そんな台詞も言えたのかも知れない。それこそ、俺も挨拶にと言うべきだったのかも知れない。けれども俺には、そんな台詞は言えやしなかった。
    「…此処に、居て下さい。」
     口から零れたのは、そんな言葉だった。鯉登さんが此処に居たいと、居るつもりだったと言ってくれたことが単純に嬉しくて、ただそれだけだった。
    「俺と、一緒に、居て下さい。」
     今生では、二人で過ごす初めての年越しになる。
    明治の頃にも二人で過ごしたことが無いでは無いけれど、記憶を取り戻して再会してからは今度が初めてなのだ。出来るなら、二人で過ごしたいと思ってしまう。
    「今度の正月は、二人で、過ごしたい…です。」
    思って、しまった。
    「…月島。」
    聞こえた声に、伺うように顔を上げると、其処には笑顔の鯉登さんが居た。
    「…私も、そうしたいと思っていた。」
     にこりと笑うその顔にホッとして、それからほんの少し胸が痛んだ。俺と一緒に居なければ、ご両親は鯉登さんの顔を見られたんじゃないかと。そんな事を思ったのは、昼間の宇佐美の言葉が過ったからだろう。
     けれども、今は二人で過ごせる時間を大事にしたい。そんな風に思ってしまうのは、俺の欲だ。
    「っ正月、ゆっくりするなら、どこか、宿でもとりますか?今からでも、探せば、なんとか…」
     内心の小さな葛藤を誤魔化すように口を開くと「月島」と静かに名を呼ばれた。
    「何処にも行かなくていい。」
     そう言って、鯉登さんは真直ぐに俺を見ていた。
    それだけでも、十分なくらいだった。鯉登さんには、俺の本心が全部伝わっているんだと、その眼ではっきり分った。
    「ここがいい。ここに居たい。」
    「…はい。」
     今生で、再び巡り合えたこの場所に、二人で過ごすようになったこの店に、鯉登さんが居たいと言ってくれるのが、嬉しかった。
    嬉しくて、嬉しくて、それ以上、何も言うことが出来なくなった。

    ***

     佐渡の実家から、珍しく連絡があったのは、鯉登さんと話をした次の日のことだった。
     新米の出る季節に米を送るという連絡が来る他には、近しい親類の不幸ごとぐらいでしか連絡は無いのが常だから、年の瀬に親類か近所の何処かの家で葬式でも出たのかと身構えたが、電話口から聞こえてきたのはそんな話では無かった。
    『今年は帰って来るんじゃないのか?』
     唐突に。本当に唐突にそんな事を言い出した親父に面食らって、今の今まで正月に帰ったことなどないだろうがと言い返すと、考えもしなかった恐ろしい事実が判明した。
    『連れが出来たと聞いたから、今年ばかりは連れて帰って来るかと思ったのに、店開けるのか?偶には閉めたらどうだ。』
     言われた言葉の衝撃が大き過ぎて、一瞬何を言われたか解らなかった。
     どうやら、未だに商店街の面々と仲の良い両親の所には、とっくに俺と鯉登さんの話が伝わってしまっているらしい。
    何がどんな風に、何処まで伝えられているかは定かではないが、尾びれも背びれもついてさぞや大層な話になって伝わってしまっているのだろうことは想像に難くない。噂というモノは、得てしてそうしたものだ。考えるだけで眩暈がする。変な誤解や偏見を持つような話になっていないといいが、噂で伝わったような話に期待などしてはいけない。此れは、本当に一度帰ってちゃんと説明した方がいいだろうか。先ずは俺が一人で帰って…と、考えるうちに、此方の深刻さとは裏腹に、驚くほど呑気な声が聞こえてきた。
    『連れが出来て良かったな。』と、親父は笑いながらそう言ったのだ。
    『お前は一生一人だと思っていたが…安心した。』
    冗談のように話すその声には、言葉通りの安堵が滲んでいて親父の言葉が嘘ではないのだと嫌でも解った。
    『男でも女でも構わん、お前みたいなのの隣に居てくれるというんだ。その人を大事にしろよ。』
    あまりの言われように、言われなくても、大事にしていると言い返したら、親父は電話口で聞くには煩いくらいの大きな声でげらげらと笑っていた。あまりに豪快に笑うモノだから、此方もつられて笑ってしまったが、笑っている内にほんの少し泣きたくなった。
    『そのうち、落ち着いたら顔を見せにこい。二人でな。』
     親父のその声に「わかった」と返事をして通話を切った。
     落ち着いたら…春になったら、一度、休みを取ろう。
    佐渡へ帰るなら、桜の季節がイイ。島の桜は、未だキレイに咲くだろうか。もしも昔の儘なら、鯉登さんは、きっとあの桜を気に入るだろう。
    ふと、そんな事を思った。

    ***

    佐渡の実家から、特大の荷物が届いたのはそれから四、五日してからのことだ。結構な重さのあるその箱をどうにか二階の自宅まで運び終わると、タイミングを計ったように、今度は鯉登さん宛に鹿児島から荷物が届いた。うちに鯉登さん宛の荷物が届いたことに驚いていると、転送の届けを出していると聞いて、納得しながら、嬉しく思った。荷物はどちらからも何の予告も無く届いたモノで、そうと知って鯉登さんと二人で笑うしかなかった。
     店を閉めてからリビングで其々に届いた荷物を開けてみると中に入っていたのは其々の地元の食材や酒だった。
    俺の方に入っていたのは、大量の米と餅、それに乾物だ。年に数度送られて来る荷物同様、店でも使えそうなものが大半だが、一升瓶で入れられていた酒は地元の酒蔵の良いものだった。親父なりの、祝いのつもりかも知れないと思うと何だかこそばゆいような気持ちになった。
    一方の鯉登さんの方には鹿児島の焼酎や、醤油に味噌と、此方も食品が主で、餅も入れられていたが佐渡から届いたものとは形状が違っていてお互い珍しくて見比べてしまった。
    「佐渡の餅は丸くないんだな。」
    「そうですね。気にした事もありませんでしたけど。」
     鹿児島から送られてきた餅は丸く、ふっくらとした形をしているのに対し、佐渡の餅は、角型で、きちりと厚みの揃ったものだ。
    「正月の雑煮もその餅で作るのか?」
    「えぇ。親父達が居た頃は作っていましたね。…雑煮というか、佐渡の実家では善哉なんですけど。」
    「善哉!?雑煮じゃないのか?」
     鯉登さんが驚くのも尤もだろう。全国的に見てもそうしたものは珍しいようだが、佐渡では甘く煮た小豆に焼き餅を入れた、所謂『善哉』に似たものを正月に食べるのが一般的なのだ。実家でもそうだった。世間的な正月の雑煮はそうでは無いらしいと知ったのは、佐渡からこの町に移って数年経ってからだった。
    「そうです。他所ではあまり聞きませんけどね。」
    「初めて聞いた。…月島は、作らないのか?」
     問われてみれば、一人になってから態々作った記憶は無い。作れないわけでは無いが、一人分を作るのが億劫なのと、店の掃除と仕込みで二日の休みなどあっと言う間だからというのもあって、作ろうとも思わなかった。
    けれども、今年はひとりではない。
    「…今度の正月は、作りましょうか。」
     甘いモノが好きな鯉登さんなら、善哉はきっと口に合うだろう。話していたら、久しぶりに食べたくなってしまった。
    「それなら、私も手伝う。」
     そう言って笑う鯉登さんに「お願いします。」と答えながら、ふと視界に映った鯉登さんの荷物の中に緩衝材に埋もれた包みが残されていることに気が付いた。
    「鯉登さん、これ…」
    「うん?まだ何か残っていたか?」
     差し出すと、鯉登さんは受け取った包みをその場で解いて、ほんの少し驚いた顔を見せてから、小さく笑みを零した。
    「マフラーだ。かかどんが選んだんじゃろうな。」
     広げてみせてくれたそれはボルドーに近い深い紫のモノで鯉登さんによく似合いそうだと思った。
    「月島の分もあるぞ。」
     不意打ちにそう言われて差し出されたのは色違いの、此方は落ち着いた緑の濃い色をしていた。
    「いや、…俺の、って…」
    「手紙にそう書いてある。」
    「手紙…?」
     言われて鯉登さんの手元を覗き見れば、確かに小さなカードが握られていた。細かな字は読めないし、読むモノではないが、其処に一際大きく書かれていたその文字だけは、読む気が無くとも目に入った。
    「…誕生、日?」
     カードにあったのは『お誕生日おめでとう』と印刷された大きな文字だ。
    「あぁ、こないだがそうだったからな」
    「!?いつです!?」
     驚いて叫ぶように声を上げると、鯉登さんは然して驚いた様子も無く、此方を振り返った。
    「二十三日だ。」
     さらりと。事も無げに。過ぎた日を告げる鯉登さんに絶句した。
    「言ってくださいよ!!」と漏れた声は、これも叫ぶようなものになってしまった。
    「すまん。忘れていた。」
     申し訳なさそうに言うのは、其の言葉が本当なのだろう。
    「誕生日を祝うなんて、何年もしていなかったからな…」
    「そうなんですか?」
    「あまり、人付き合いをしてこなかったからな…」
     ひとりで祝うモノでもないだろう?と笑う鯉登さんに、どう返していいか言葉が見つからなかった。
    「二十三日…昔と、同じなんですね。」
     今のように、派手に祝うような事は無かったけれど、それでも、あの頃も、その日は特別だった。ささやかでも、その時出来る限りの祝いの膳を用意したりしたことは、なんとなく、覚えている。
    「よく覚えているな。」
    「今思い出しました。…もっと早くに気付けば…」
     頭を抱える俺に、鯉登さんは笑うばかりだ。
    「解っていたら…今年も祝えたのに…」
     恋人の誕生日なんていう大事な日を、何もせずに過ごしたことが口惜しくてそうぼやくと、鯉登さんは「月島」と俺の名を呼んでそっと手を取った。
    「毎日月島と一緒に居られるのだから、それで充分だ。」
     何を取り繕っているわけでも無い。何の慰めでもありはしない。鯉登さんは本心でそう言っているのだとは解っている。けれども、だからこそ…
    「…俺が祝いたいんです。」
     漏れた言葉は随分と大人げないものになった。
    その上、拗ねたような物言いをするのだから、並みの人なら呆れるだろう。けれども鯉登さんは「そうか」と笑うばかりだ。
    「来年は、その日は店を休みます。」
     言い切ると、鯉登さんは嬉しそうに目を細めて「わかった。」と零し「楽しみにしておく。」と笑みを深くした。
    「ところで、月島の誕生日はいつだ?」
     聞こえたその声に「忘れました。」と答えたのは流石に大人げが無いにも程があったかと思ったが、鯉登さんは「月島ぁ」と俺の腕に縋ってきた。
    甘えてじゃれるその仕草が可愛くて、わざとだと分かっていてもつい許してしまう「四月一日ですよ。」と、答えたら「なんだ、月島も昔と同じじゃないか。」と鯉登さんは笑っていた。
     そんなことまで覚えていたのかと、覚えたままで、俺を探し続けてくれていたのかと、今更、そんな事に、胸が締め付けられるような思いがした。

    ***

    『年内は 十二月三十一日 まで営業
     年始は 一月二日 より営業致します』

    店の前に貼りだした其の紙に一番に反応したのは宇佐美だった。
    「結局実家帰らないの!?二人とも!?」
    「二日から開くなら俺は助かるけどな。」
    「何!?百之助も帰らないの!?」
    「帰る。が、爺さんと婆さんの顔見て仏壇に手ぇ合わせて直ぐ戻る。長居はしねぇ。」
    「せっかく帰るならゆっくりすればいいのに。」
    「人の事言ってないでお前こそ実家に帰れ。」
    「煩いなぁ。この時期は忙しいのっ」
    「どーだか。」
    「どっかの誰かみたいにいっつも締切ギリギリで原稿くれる人が居るから忙しいんですけど!?」
    「マスター、ミックスジュースおかわり。」
    「ちょっと百之助、話聞いてる!?」
     信じ難いが、今のは尾形なりの気遣いだったりしただろうか。此方の事より、尾形に関心が移った宇佐美は此方には目もくれず、くどくどと尾形に説教を始めた。
     とうの尾形はと言えば、宇佐美の話など聞いてはいないのだろう。素知らぬ顔をしてスマホを弄り、ちらと此方に視線を寄越した。その口の端が、微かに上がったのを認めるに、やはり確信犯といったところだろうか。
     宇佐美が余計な口出しをしないように、間に入ってくれたのだとしたら、このミックスジュースくらいは驕ってやるべきだろう。癪だけれど。それでも、一応は感謝して新しく作ったミックスジュースを出してやると、尾形は直ぐにストローに口をつけて満足そうな顔をしてみせた。
    「百之助、話、聞いてないよね?」
    「聞いてまーす。」
    「絶対聞いてないっ。可愛くないっねぇマスター酷くない?」
     笑ってしまいそうになるのをどうにか耐えて「そうですね」と答えると、尾形はストローを咥えたまま方眉だけ上げてみせた。食えない男だ。

    ***

     十二月三十日。
     去年のこの日も、私は月島の店に来ていた。その頃は、店に通うのが日課になってはいたけれど、未だそれ程月島と親しく話をしていたわけでは無くて。注文や会計の際にほんの一言、二言、言葉を交わすだけだった。それでも、それだけでも、幸せだとも思っていた。
     月島が、同じ時代に生きているのかも解らなかった長い時間を思えば、顔を見て、声を聞ける。それだけでも、十分だと、そんな風にさえ思って居た。
    「去年の今日、どんな話をしたか覚えているか?」
     店を閉め、灯りを落としたカウンターでふと思い立って月島に問い掛けると、月島は眉根を寄せて難しい顔をして考え込んだ後、絞り出すように「すいません」と零した。
    「謝らなくていい。覚えてなくて当然だ。」
    「…でも、貴方は覚えているんでしょう?」
     恨めしそうに問い掛けて来る月島に笑いそうになる。
    「覚えているぞ。はっきりと。」
    「…俺は、どんな話をしましたか?」
    月島は本当に覚えていないだろう。それも無理はない。記憶に残るような話などでは無いのだ。
    「明日から冷えるらしいから、風邪を引かないようにと、そう言ってくれた。」
     なんてことはない、世間話だ。店の隅に置かれているテレビから聞こえてきた暮れの慌しさを伝えるニュースが耳についた。
    今夜遅くから雪がちらつくかもしれないと伝える気象予報士の声に「雪か…」と声を漏らした後だった。
    「ただの世間話でも、月島が私を気遣ってくれたようで、嬉しかった。」
     本当に、嬉しかったのだ。
    「…だから、覚えているんだ。」
     今でもはっきり思い出せる。その声を受けて過ごした暮れは、一人でも、寂しさは感じなかった。
    「…俺も、覚えていたかったな…」
     ボソリと漏らされた声は本音だろうか。月島が、そう思ってくれるなら、こんなに嬉しい事は無い。けれども…
    「…覚えてなくてもいい。」
     告げると、月島は驚いた顔をして私を見た。
    「…思い出してくれたのだから…いいんだ。」
     思い出せなかった頃の事を、悔いたりなどしないでほしい。そう思って告げた言葉に返ってきたのは、思いもかけない言葉だった。
    「…例え、思い出さなくたって、俺は鯉登さんを好きになっていましたよ。」
     だから、覚えていたかった。と零した月島は、私が思うより、ずっと私を想ってくれているのかも知れない。
    「…そうか。」
    「そうです。」
     何の迷いも無く。
    「そう、だったか…」
    「そうでした。」
     何の疑いも無く。
    「それは、嬉しいな…」
    「鯉登さんは、違いますか?」
    ごく当たり前のように。
    「俺が思い出さなければ、俺を想ってはくれませんでしたか?」
     真直ぐに問うてくる月島に、明治のあの頃を思い出す。
    「…いいや。」
     そうだった。月島という男は、そうだった。
    「…例え思い出さなくても、月島基を好きになっていた。」
     一途で、情熱的な、こうと決めたら譲らない男だった。
    この男は、月島基だった。明治の昔から、私の愛した、愛してやまない、月島基、その男だったのだと。
    忘れていたわけでは無い筈だのに、忘れていたかと迫られるようで、ほんの少し苦しくて、それ以上に、嬉しくて。
     泣き出しそうになってしまった私を、月島はそっと抱きしめてくれた。
    明治の頃より幾らか細くなったその腕は、それでも充分に逞しく、温かなものだった。

    ***

     一人でしていた掃除を二人ですると、こんなにも早く片付くものかと驚く内に、気付けば昼を過ぎていた。
     大晦日は店の大掃除をするのが『喫茶ツキシマ』の決まり事だが、いつもは夕方まで掛かっても終わりが見えなくて程々で諦めていた大掃除だが、今年は鯉登さんの手伝いのお蔭で、昼過ぎには納得のいくところまで片付いてしまった。やるとなったら徹底してやる鯉登さんのお蔭で、店の中はいつになくキレイになった。シンクも、換気扇も、コンロもキレイに磨かれて艶が出ている。掃除なんてものはやればキリがないのだが、それでも、これだけ片付けば充分だろう。
    「少し、休憩しますか?」
    「それより、買い出しにはいかなくていいのか?」
    「…そうでした。」
     いつも食材を仕入れている商店街の店は大晦日の今日まで営業して正月三が日は休みにしているところが殆どだ。二日から店を開けるためには、今日の内にまとめて仕入れをしておかなくてはいけない。
     あらかじめ確認してあったストックのメモを取出し、買い出しのリストを確認すると、呑気に休憩をしている暇はなさそうだと気付かされた。
    「…急いだ方がよさそうですね。」
    「だろう?」
    どうやら、休憩は全部終わるまでお預けにするしかないらしい。
    急いで掃除道具を片付けると、エコバックを手に鯉登さんと連れ立って店を出た。商店街の端から馴染の店を回り、一部は配達も頼みながら持てるモノは次々と持参したエコバックの中に詰めていく。平べったい布だったエコバックは、見る間に膨れていった。二人がかりでどうにか予定していた分の買出しを終え、持ち帰った食材と配達を頼んだ食材を全て整理し終えた頃には、陽はとっくに西に傾いてしまっていた。
    店の買出しをするのが精一杯で、結局、自分たち用には正月らしいものは何も用意出来なかったけれど、せめて、と、先日佐渡の実家から届いた蕎麦を使って、年越し蕎麦だけは用意した。荷物に入っていたメモに出汁のとり方まで丁寧に書いてくれていたが、出来上がったモノが正解かは解らない。というのも、親父の書いて寄越した鰹節と、鯖節を合わせて濃い目に作った出汁に合わせたのは、佐渡の醤油ではなく、鯉登さんの実家から届いた鹿児島の醤油だからだ。鹿児島の醤油は佐渡の其れよりは随分と甘く、出汁と合せると角の無い円い味わいになった。平茸と軽く焼き目を付けた白ネギを入れて煮立たせた中に蕎麦を潜らせると、悪くない出来だと我ながら思う。
    鯉登さんも気に入ったのか、或は、昼も碌に食べられなかった所為か、黙々と蕎麦を啜っている。
    「毎年、こんなことをひとりでしていたのか?」
    蕎麦を啜る合間に鯉登さんはふとそんな事を口にした。こんなこと、というのは、蕎麦…ではなくて、掃除や仕入れのことだろう。
    「…どうやってたんでしょうね?」
    言われてみれば尤もな話で、然しどうしていたかと振返ってみても記憶は定かでは無く、しみじみとそう思ってそのままを口にすると、鯉登さんはふはっと声を上げて笑ってみせた。
    「鯉登さんが居てくれて、良かったです。」
    知らずに漏れたその声に、鯉登さんは一瞬目を丸くして、それから「そうか」と小さく零した。少し俯いたその頬が、ほんの僅か色付いているようで、つい、手を伸ばしたくなってしまう。伸ばしても、良かったのかも知れないけれど。
    「…除夜の鐘、つきに行ってみますか?」
    「!行ってみたい!」
     子供のように、元気よく声を上げた鯉登さんについ笑って、それから「行きましょうか」と答えた。
     触れたくて、堪らないのだけれど、除夜の鐘をつけば、この煩悩とやらは消えるだろうか。

    ***
     
    母が贈ってくれた深緑のマフラーは、月島によく似あっていた。

    月島には未だ会ったことも無ければ、写真すら見たことも無い筈だのに、私の相手が、私と同じ男性であることも、勿論、伝えては居ない筈だのに、何を思ってその色を選んで贈ってくれたろうかと思う。
    聡い母は、或は、昔から、私が月島を探し続けていることを解っていただろうか。
    聞いたところで答える母ではないだろうけれど、今度帰ったら聞いてみたい。ふと、そんな事を思った。
    「どうか、しましたか?」
    「…マフラーが、似合っているなと思って。」
     除夜の鐘をついた帰り道、聞こえた月島の声にそう答えると、月島は照れ臭そうに笑って「そうですか」と零し「鯉登さんも、よくお似合いですよ。」と続けたかと思うと、不意に、手を繋いできた。
     夜更けとは言え、辺りには自分達と同じように鐘を突いた帰りの人や、初詣に向かう人が幾らも居て、中には見知った顔が幾つもあるというのに、月島はそれらに構う様子は少しも見せなかった。
    「…つき、しま?」
    「…嫌ですか?」
     小さく聞こえた声に、小刻みに首を横に振ると、月島は満足そうに笑って強く手を握り直してきた。
     繋がれたその手には、月島が贈ってくれた指輪がある。
    金属製の其れは、月島の手には冷たく感じないだろうかと、そんなことをぼんやり考えていると、月島の声が聞こえてきた。
    「…鯉登さん、すいません。」と。
     一体何を謝るのかと聞く前に、答えは聞こえてきた。
    「…煩悩、消せそうにないです…」
     寒さに低い鼻先を赤くさせた月島が、甚く真面目な顔をしてそんな事を言うモノだから「消さんでよか」と言う他なかった。
    恋人に、そんな台詞を言われて、他にどんな台詞が、返せるものか。
     私の答えに「ありがとうございます」と、ボソリと零した月島は、少し間をおいて「正月からすいません」などというから思わず笑ってしまった。

     手を繋いだまま店に帰りつくと、月島は言葉通りに私を抱き寄せ、咬みつくようなキスをくれた。昼間の疲れや眠気など吹き飛ぶようなキスだった。
    自宅へ続く階段を上る間、何度もキスを繰返して、靴を脱いだらそのままベッドまで連れて行かれた。
     貪るような月島の手が、唇が、不意に止まったのは、私の左手に月島が自身の手を重ねたその時だった。
     重ねた手を柔く撫ぜた月島は、そろりと私の手を取り上げて指輪の嵌ったその指にそっと口付けを寄越した。
    「…鯉登さん……音之進…」
     名を呼ぶその声に眩暈がしそうになる。
    「大事にします…大事に、させて下さい。」
     甘く、優しいその声に、溶かされそうだと思いながら懸命に腕を伸ばして月島に縋りついて、ひとつの傷も無いその背中に爪を立てた。

    ***

     煩悩が祓えないにしても限度がある。という反省をせざるを得ないのは目覚めたその時間が辛うじて午前中だと言える時間だったからだ。そうなった原因は自身なのだからどうしようもない。然し流石に此れは如何なのだと元旦早々から頭を抱えかけていると、鯉登さんが漸く目を覚ました。
    「…おはよう、ございます。」
    「…おはよう。」
    「あけまして、おめでとうございます。」
    「…そう言えば、未だ言って無かったな。」
    「…はい。」
    「…おめでとう。」
     未だ覚醒しきっていない様子で、ぼんやりと宙を見ている鯉登さんの顔を覗き込むと、鯉登さんは瞬きを数回繰り返して、ふと思い出したように「今何時だ?」と問うてきた。
    「…十一時、に、もう直ぐなりますね。」
     時計を確認してそう告げると、鯉登さんは十一時。と繰返して「酷い正月だな。」と笑ってみせた。
    「こんなのは、初めてだ。」
     正月早々に不興を買ったかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
    鯉登さんは愉快そうに笑うばかりだ。
    「…俺も、初めてです。誰かと、こんな風に正月迎えるの。」
    「…それは、嬉しいな。」
     嬉しい。と、繰り返す鯉登さんが愛おしくて、また、触れたくなってしまうところだったけれど「月島」と呼ばれた後に続いた言葉で我に返った。
    「腹が減った。」
     酷く現実的で、切実な一言だ。昨日はまともな食事と言えば夜に食べた蕎麦くらいのモノで、ただでさえ昼間動き回っていたというのに明け方まで『運動』をしていたのだから腹が減るのは当然の話だ。
    「…善哉、食べますか?」
    先日の話を思い出してそう問い掛けると、さっきまで眠そうだったのが嘘のように鯉登さんは勢いよく起き上った。
    「食べる!」
    寝癖のついた頭で元気よく答えるその様はまるで子供のようで、用意します。と答えながら知らずに笑っていた。燻っていた欲は、何処かに消えてしまったようだった。一先ず、そういうことにした。

    ***

     善哉を作るには、先ずは小豆の灰汁抜きから始める。
    小豆は手軽な水煮缶や出来合いの餡を使うという手もあるが、佐渡からの荷物に餅と一緒に小豆も入れられていた辺り、正月にこれを作れと、鯉登さん…だとは解っていないだろうけれど、俺の連れである人に食べさせてやれと、そういうつもりで入れられていたものなのだろう。とは言え、丁寧にやっていては時間が掛かる。手抜きではあるが、乾煎りをすることにした。
     水洗いした小豆をフライパンに入れ、小豆の色が黒っぽくなるまで強火で煎るのが乾煎りという方法だ。通常、小豆の灰汁抜きには三十~四十分程度かかるが、これならモノの五分で小豆の渋みを抑えることが出来る。
     乾煎りが出来たら鍋に小豆を移して…と行きたい所だが、何せ鯉登さんは腹を空かせている。俺も然りだ。
     こういう時こそ、圧力鍋が役に立つ。鍋にたっぷりと水を張って小豆を沈め、中火で加圧し、沸騰したら弱火にして十五分ばかり様子を見る。火を止め、圧力がしっかり下がってから蓋を開けて、小豆の固さを確認する。指で押して、豆が潰れる程度になっていれば十分だろう。小豆がすっかり浸かるよう鍋に水を足して蓋をせずに中火で加熱し、少しずつ砂糖を入れていく。鍋の中身が煮立って来たら、弱火にして、最後に塩を一つまみ加え、混ぜ合わせれば小豆は出来あがる。
     餅は佐渡の角餅を使うことにした。七輪ででも焼ければ良いのだけれど、街の中で其れをやるのは難しい。十字に切り目を入れて、レンジで焦げ目がつく位に焼けば及第点だろうか。
     炊き上がった小豆を椀に注いで、こんがりと焼けた餅を入れれば、子供の頃から慣れ親しんだ正月の定番の椀が出来あがった。
     食卓に着いた鯉登さんは興味津々で「本当に善哉のようだな」などと零していたが、塩を効かせた小豆は甘いモノを好む鯉登さんの好みにも合ったようで、あっと言う間に平らげて、おかわりまでしてみせた。
    「御実家では、どんなお雑煮だったんです?」
     興味が沸いてそんなことを聞いてみると、鯉登さんはおかわりした餅を咀嚼しながら暫し考えながら答えてくれた。
    「確か、海老が入っていた。と、思う。それと、豆もやし。」
    ぽつぽつと、記憶をたどりながら話している様子から見るに、当分其れを食べた記憶は無いということだろうか。
    「それも美味そうですね。」
    「あぁ、美味かったと記憶している。作れはしないんだが…月島にも、食べてみて貰いたい。」
    「じゃあ、今度、一緒に作りましょう」
     言葉は自然と口に出た。
    「作り方、調べて…一緒に。」
     鯉登さんの郷里の味を、鯉登さんと一緒に作るのも楽しそうだ。そう思っての言葉に、返事は少し間を置いて返ってきた。
    「…それなら、今度、作り方、きいちょく。」
     誰に、とは、聞かなかった。聞かなくても解ったからだ。鯉登さんが其れを聞くなら、相手はひとりしか居ない筈だ。
    どんなふうに聞くのか、俺とのことを、どんなふうに話しているのか、それとも、まだ話していないのか。気にならないと言ったら嘘だけれど「じゃぁ、楽しみにしておきます。」とだけ告げると、鯉登さんは照れたように笑って「…うん。」と小さく答えてくれた。
     本当は、ちゃんと話すべきなんだろう。お互いの家のこと、両親のこと。これから先の事を、もっと。
     けれども今は、これで良い。焦らずに、ゆっくり。俺と鯉登さんのペースで進めれば、それでいい。
     それで、いいんだ。俺たちは。

    ***

    「初詣、行きますか?」
     空になった椀を洗っていると、洗い終わった椀を拭いていた月島がそんな事を口にした。
     初詣。一昨年までは月島を探す為だけに殊更人の多い場所を選んで足を運んでいたが、去年は月島に会えるかもしれないと、この町の神社を訪ねた。訊ねはしたが、結局会えずじまいで、少しだけ寂しく思った記憶がある。
     けれどもその場所に、今年は月島と行けるのだ。
    「…人が、多いだろうか。」
     漏れた言葉に他意は無かった。元々人混みは得意な質では無いから、どうだろうかと思っただけだ。去年の様子では、田舎町の割には思ったより随分と人が多くて賑わっていたと記憶している。人混みの中には、商店街の面々や、他所から帰ってきた人たちもいたのだろう。
    そこに月島と二人で行けば、きっとそうした面々に出くわすのだろうなと、そんな事を考えていると、月島は何を思ったのか「やっぱり、止しましょうか」と言い出した。
    「今日は、家で、ゆっくりしませんか?」
     もう少し、寝たいでしょう?苦く笑ってそう言ってくれた月島に、そんな事は無いと言いたかったけれども口は勝手に「うん」と答えていた。
    「初詣には、明日、早起きしていきましょう。」
    「店を開ける前にか?」
    「えぇ。早起き、出来たら。」
     出来なかったら、次の休みに行けばいいんです。と笑う月島を「好きだ」と思った。
     こういう男だから好きなのだ。とも、この男を好きで良かった。とも、思った。
     私は、月島基が好きだ。好きで、好きで、しょうがないらしい。

    ***

    一月二日早朝、鯉登さんは確り早起きして「初詣に行くぞ」と元気よく俺を起こしてくれた。
    早起きし過ぎて、二日の境内は未だ社務所も開いていなかったけれど、人が少ないのは幸いだったかも知れない。
     今更、この神社に来るような誰に鯉登さんと二人でいるところを見られても困るような事は無いのだけれど、こうした所では静かな気持ちで過ごせるほうが良い。二人で並んでお参りをして、おみくじを引いてみると、鯉登さんも俺も揃って大吉を引いた。
    「こんなこともあるんですね…」思わずそう零したら、鯉登さんが「二人揃って大吉だぞ!もっと喜べ」と明るく笑うものだから、幸いは、怯むモノではなくて喜ぶものだと今更知らされたような気がした。
     過ぎる幸いは、不幸に転じる。等と幸いに慣れていない俺はどうにもよくない方向に考えてしまいがちだが、今の俺には鯉登さんが居るのだ。鯉登さんさえいれば、きっと、行く先は幸いに満ちているに決まっている。そうに違いない。そう思えた。
    「…そう、ですね。きっと、いい一年になります。」
    「今年だけじゃないぞ。この先ずっとだ。」
    きっとそうなる。きっぱりと、そう言い切った鯉登さんはふと息を吐いて「そうだろう?月島」と俺に問い掛けてきた。
    「えぇ、そうです。きっと、そうです。」
     答えた俺に、鯉登さんは満足そうに笑ってその手を差出して来た。差出された左手の薬指には指輪が光っている。その手を確りと繋いでさえいれば、何処まででも行けるような、そんな気がした。

    「マスター開店時間過ぎてんぞ!」
    開店前の店の前で待ち構えて声を張り上げたのは門倉さんだった。
    そしてもう一人「正月からデートか」と零したのは尾形だ。「そうだよ。」と答えてから、ハッとなって鯉登さんを見遣ると、鯉登さんは嬉しそうに笑っていた。
     その笑顔が余りに眩しくて、温かで、まるで陽のようだと。この人が俺の太陽だと。そんな事を、思った。


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    fujimura_k

    PAST2023年12月発行『喫茶ツキシマ・総集編』(番外編部分)
    月鯉転生現パロ。喫茶店マスターの月島と作家の鯉登の物語。総集編より番外編部分のみ。
    喫茶ツキシマ 総集編(番外編)例えば
    こんな穏やかな日々が
    この先ずっと

    ずっと
    続いていくなんて

    そんな事があるのでしょうか。

    それを
    願っても、いいのでしょうか。


    ***


    図らずも『公衆の面前で』という派手なプロポーズをして以来、鯉登さんは殆ど俺の家で過ごすようになった。
    前々から昼間は大抵店で過ごしてくれていたし、週の半分近くはうちに泊っては居たのだけれど、其れが週四日になり、五日になり、気付けば毎日毎晩鯉登さんがうちに居るのが当たり前のようになっている。
    資料を取りに行くと言ってマンションに戻ることはあっても、鯉登さんは大抵夜にはうちに帰って来て、当然のように俺の隣で眠るようになった。
    ごく稀に、鯉登さんのマンションで過ごすこともあるが、そういう時は店を閉めた後に俺が鯉登さんのマンションを訪ねて、そのまま泊っていくのが決まりごとのようになってしまった。一度、店を閉めるのが遅くなった時には、俺が訪ねて来なくて不安になったらしい鯉登さんから『未だ店を開けているのか』と連絡が来た事もある。
    19591

    fujimura_k

    MOURNING2022年5月発行 明治月鯉R18 『鬼灯』
    身体だけの関係を続けている月鯉。ある日、職務の最中に月が行方を晦ませる。月らしき男を見付けた鯉は男の後を追い、古い社に足を踏み入れ、暗闇の中で鬼に襲われる。然し鬼の姿をしたそれは月に違いなく…
    ゴ本編開始前設定。師団面子ほぼほぼ出てきます。
    鬼灯鬼灯:花言葉
    偽り・誤魔化し・浮気
    私を誘って

    私を殺して


     明け方、物音に目を覚ました鯉登が未だ朧な視界に映したのは、薄暗がりの中ひとり佇む己の補佐である男―月島の姿であった。
    起き出したばかりであったものか、浴衣姿の乱れた襟元を正すことも無く、布団の上に胡坐をかいていた月島はぼんやりと空を見ているようであったが、暫くすると徐に立ち上がり気怠げに浴衣の帯に手を掛けた。
    帯を解く衣擦れの音に続いてばさりと浴衣の落ちる音が響くと、忽ち月島の背中が顕わになった。障子の向こうから射してくる幽かな灯りに筋肉の浮き立つ男の背中が白く浮かぶ。上背こそないが、筋骨隆々の逞しい身体には無数の傷跡が残されている。その何れもが向こう傷で、戦地を生き抜いてきた男の生き様そのものを映しているようだと、鯉登は月島に触れる度思う。向こう傷だらけの身体で傷の無いのが自慢である筈のその背には、紅く走る爪痕が幾筋も見て取れた。それらは全て、鯉登の手に因るものだ。無残なその有様に鯉登は眉を顰めたが、眼前の月島はと言えば何に気付いた風も無い。ごく淡々と畳の上に脱ぎ放していた軍袴を拾い上げて足を通すと、続けてシャツを拾い、皺を気にすることもせずに袖を通した。
    54006

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    MOURNING現パロ月鯉 珈琲専門店・店主・月島×画家・鯉登
    脱サラしてひとりで珈琲専門店を営んでいた月島が、画家である鯉登と出逢ってひかれあっていく話。
    作中に軽度の門キラ、いごかえ、菊杉(未満)、杉→鯉な描写が御座います。ご注意ください。
    珈琲 月#1 『珈琲 月』


     そのちいさな店は、海の見える静かな街の寂れた商店街の外れに在る。
     商店街は駅を中心に東西に延びており、駅のロータリーから続く入り口付近には古めかしいアーケードが施さていた。年季のいったアーケードは所々綻びて、修繕もされないまま商店街の途中で途切れているものだから一際寂れた雰囲気を醸している。
     丁度、アーケードの途切れた先には海へと続く緩やかな坂があり、下って行くと海沿いの幹線道路へと繋がっている。坂の途中からは防波堤の向うに穏やかな海が見え、風が吹くと潮の香りが街まで届いた。
     海から運ばれた潮の香りは微かに街に漂い、やがて或る一点で別の香りにかき消される。
     潮の香りの途切れる場所で足を止めると、商店街の端にある『カドクラ額縁画材店』の看板が目に入るが、漂って来るのは油絵の具の匂いではない。潮の香にとって代わる香ばしく甘い香りは、その店の二階から漂って来るモノだ。
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    4993

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