林檎と包丁 耳にしたことのない音が寮室の狭い台所から聞こえてきた。
手に持っていた文庫本を閉じ、少年は音の出所に居る半身の名を呼びながら立ち上がる。
「アオガミ?」
返答は返ってこない。
「アオガミ、何かあったの?」
聞き慣れない音以外、異変は感じられない室内。返事を待てずに少年が扉を開くと、そこには。
「少年」
どこか、呆然とした様子で振り返り、少年を呼ぶアオガミの姿。その右手には僅かに果実の薄い黄色を覗かせた林檎が握られている。そして、右手には林檎を切る為に使われていた筈の包丁が握られていた。
刃は中程で折れており、既に包丁としての役目を果たせなくなった姿で。
「……え?」
少年が改めて台所を確認すると、まな板の上に包丁の切っ先がぽとりと落ちていた。
「君の所持品を破壊してしまった」
「破壊って、アオガミが壊しちゃったの?包丁を?」
「その通りだ。林檎を兎型に切ろうとしたのだが、慣れない作業を試みた結果か、包丁の刃の部分が勢いよく私の指にぶつかってしまった」
折れてしまった包丁と剝きかけの林檎をまな板の上に置きながら、アオガミが状況の説明を続けた。包丁の硬度はアオガミの装甲より弱かったからか、一瞬の間に半ばから折れてしまったという。
「すまない、少年」
借用した品を壊してしまったと、頭を下げて即座に謝ろうとするアオガミであったのだが。
「アオガミ、本当に怪我してない!?」
アオガミの謝罪の言葉を吹き飛ばす勢いで少年が叫び、アオガミへと近寄る。
「隠してないよね?本当に?念の為にイズンとか、イシュタルに回復して貰う?それとも、越水長官にメンテナンスの依頼を」
「少年」
息つく間もなく、アオガミを心配する言葉を紡ぐ少年をアオガミが呼べば、アオガミの左手を握ったまま半身が顔を上げる。室内灯に照らされている緑灰色の瞳が、不安故かゆらゆらと揺れていた。何より、彼の苦しそうな表情がアオガミの胸部に軽い痛みを齎すのであった。
「少年、私は無事だ。傷一つ無い」
少年に握られた指先を軽く動かし、アオガミは繰り返す。
「私は大丈夫だ」
少しでも、少年の表情が柔らぐ事を祈りながら。
「……そっか」
真摯なアオガミの声と視線が届いたのか、明らかに体の緊張が解けた少年が顔を伏せる。先ほどまでアオガミに向けられていた双眸は白銀の手へと向けられるのであった。
「なら、よかった」
ぎゅっと、暖かな両手に右手を力強く握りしめられる。
不注意で包丁を折ってしまったのも、少年に心配をかけてしまったのも、どちらもアオガミの落ち度である。故に、自分は反省をしなければならないとアオガミは考える。
だが、同時に。
「よかった……」
己に向けられる少年の暖かな視線と体温をアオガミは嬉しく思ってしまった。
先ほどまでの胸の痛みとは異なる情報に彼は戸惑いつつ、アオガミは少年が手を離すまで、身動き一つすることはなかった。
――後日。
「え、なんか凄い包丁が来た……?」
「長官に事の顛末を伝えたところ、用意してくれた品だ」
「俺、そんなに料理しないんだけどな」
明らかに高額の包丁セットに戸惑いつつ、料理に興味がある仲魔に使って貰おうかな、と隣で果物ナイフを使って兎型の林檎を作成するアオガミに微笑みかける少年。
そんな光景が、とある寮室の狭い台所にあったのである。