Passenger 電車が減速するひとときが、何とも言えず好きだ。
と、ラーハルトは思う。
どうせ大した事故じゃない。
線路わきで未知の救難信号を傍受したとか、つむじ風に煽られた世界樹がごっそり毒の花粉を飛ばしたとか。
『永遠の若さを手に ○○化粧品』
『欠陥品アウトレット 全品半額』
『洗濯革命 ナノ分子の強力浄化』
『歴史ある舞台○○ ついに終演』
賑やかな看板が、緩慢に通り過ぎていく。
線の塊だった高速の車窓が、徐々に収束し、像を結ぶ。
踏切のむこうで俯く会社員。薄汚れたベランダにはためくシーツ。
売春宿のネオンと、歯医者の自撮りポスター。
どこまでも続く四角張った世界と、その奥にあるくたびれた営み。
ささいな日常が、不意打ちのように視界に飛び込んでくる。
遅延に落胆する乗客たちを後目に、ラーハルトは降車ドアに耳を寄せる。
皮脂で汚れたガラスが生ぬるい。
通過駅でふと見上げると。
まただ。
「彼」だ。
雑居ビルの窓から、陰鬱な青年がこちらを見下ろしている。
灰色の髪と、高い頬骨。
整い過ぎた容貌をもてあますような、幼い表情。
もの言いたげに掌を開き、また握って。
ダンス教室なのか弁護士事務所なのか、看板がずれているせいで分からない。
「彼」は、ただそこにいて、ラーハルトが運ばれていくのを眺めている。
窓枠に添えた手を握って、また開いて。
俺を見ているわけじゃない。
と、ラーハルトは自分に言い聞かせる。
あの目は、遠いどこかに向けられているだけだ。
分かっている。
それより、今夜の契約だ。完璧に手配したはずだ。ターゲットとの相性は悪くない。マネジメント方針を的確に伝えるため、否、敬愛する上司の評価を得るため、手段は選ばない。競合他社の付け入る隙などない。相手の留学歴から夫の得意料理まで仔細把握済み、頭に叩き込んである。綿密に網を張って信頼を得た、これが最後の仕上げだ。彼女を取れれば事務所は安泰、業界での地位は数段上がる。ああ、そうさ。いつだって俺は完璧で、何もかも――
稲妻のように、謎の光景が脳を突き刺した。
――夕暮れ。
……夏の夕暮れだ。
さざ波のように変容する水色の空の下を、「彼」と歩く。
灰色に見えた髪は、残照をとらえて銀色に揺れている。
二人とも喋らない。
語らずとも、語るべきことをすでに知っているからだ。お互いに。
狭苦しい街角のパブに、幸福な中年男の背中が並ぶ。
店じまい中の質屋の主人が、くたびれたケリー・バッグを見つめている。
散歩道には、家路を急ぐ人々。家族連れ、学生、足の悪い老人。
人懐こい大型犬に濡れた鼻を押し付けられて、「彼」が笑う。
ラーハルトはブルーボトルコーヒー、「彼」はバスキン・ロビンスでジャモカアーモンドファッジを買って。
足元が不安な宵闇の公園に迷い込む。
分厚く重なる枝葉に透けて、橙の夕焼けが燃えている。
世界の終わりみたいに。
暗い木陰でキスする女の子たちを見やると、「彼」がつい、とラーハルトの袖を引く。
街灯が照らす広場まで、あと数十メートル。
そのわずかな間だけ。
視力を失いながら、二人の指が絡まっていく。
乾いた骨と皮膚がぶつかる、その感触。
その熱。
……気がついた時には、執着駅のベンチで顔を覆っていた。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
約束の時刻をとうに過ぎている。
震え続けるスマートフォンの焦燥も、もはやどうでも良かった。
やおら立ち上がると、見知らぬ階段を駆け抜けて。
逆方向のホームから、下り列車に滑り込む。
『終演』
『革命』
『欠陥』
『永遠』
逆転していく風景。
何だ。
何なんだ、これは。
俺は一体、何を考えているんだ。
あの駅で飛び降り、夜の街を駆けていく。
宇宙に流れるあらゆる時空において、たった一人に出会う確率は、まさに天文学的に低い。
太平洋に投げ入れた真珠を拾い上げるがごとく。
だが俺は、「彼」は、今ここにいる。
逃したら、また百万年待つことになる。
今度こそ、絶対に。
詩的な衝動に苦笑しながら、ラーハルトは全力で走った。
まだ三階の窓に存在しているはずの、運命の人の影を追って。