Lime...
「違う。その平たいやつに、野菜や肉を乗せる」
とラーハルトが呆れたように言う。
『平たいやつ』をフォークできちんと畳んで口に放り込んだばかりのヒュンケルは、どうしていいかわからず、そのままむしゃむしゃ平らげた。
「先に言ってくれ」
不味くはないが、どうりで、素朴な穀物の味しかしなかった。
「見ればわかるだろう、普通」
と、ラーハルトが酒場のテーブルに盛られた色とりどりの野菜と、良く煮込まれた肉の塊を手早く取り分ける。そのまま薄いパンのような皮に乗せて巻くと、一口齧った。
そして思い出したように、エメラルドみたいに輝くライムを取ると、すぱりとナイフで両断する。数滴振りかけて、また残りを頬張った。
「――よく母が作ってくれた」
わりと刺激的なレシピを繰り出すひとだった、と、もごもご呟く。
古来、スー族のものだったこの街は、今は中規模の都市と言っていいほどに栄えていた。旅人の為の酒場や宿も、探すのに困らなかった。
変わった香りと陽気な街並みに惹かれて立ち寄って、ついつい長居してしまっている。
ラーハルトは一通り食べ方を実演してやり、やってみろ、とヒュンケルに目で促す。
神妙に手順を観察していたヒュンケルは頷くと、同じように半月型の奇妙なサンドウィッチをこしらえて、かぶりついてみた。
美味しい。素手で食べる料理なんて、野営みたいだと思ったが。なかなか繊細で複雑な味わいだ。初めての食感と、鼻に抜けるスパイス、ライムの爽やかな後味。
上目遣いにラーハルトを見る。
「旨いと思うなら、そういう顔をしたらどうだ」
と、ラーハルトが憮然としながら強い酒をあおった。
お前に言われたくない気がするのだが、と、ヒュンケルは考え込む。
ラーハルトこそ、感情を極力、表出しないくせに。観察し続けたおかげで、もはやヒュンケルは彼の想いを読み取るプロフェッショナルだ。
耳の先がトカゲの瞬きくらい小さく揺れる、眼輪筋が緩んでかすかに目尻が下がっている、突然口調がやけに固くなる、瞬きの回数が平時の1.015倍くらいに増える――などは、おおむね、ラーハルトが嬉しい時のサインだ。
慣れてくると察知するのは容易だった。しかし、冷徹なる半魔族の感情を代弁してやると、仲間たちは奇術師でも見るような目でヒュンケルを見る。「何がどう違うのか全く分からない」と、良く言われる。
そして今はと言うと。眉根が若干開いて、額がおだやかだ。肩の力が抜けていて、二の腕の曲線が緩やか。乱暴な物言いだが、こういう時はだいたい、機嫌がいいのだ。
自分の考察に満足して、もうひとかけ、ライムを絞る。
「なにをニヤついているんだ」と、ラーハルト。
ニヤついていたか?
ヒュンケルはくるりと振り返って、酒場の壁に掛かった鏡に映してみた。
たしかに、頬が緩んでいる。最近の自分はこんな顔をするのか、と感心する。
「鏡で確認しなくても気づかんのか、それくらい」と、ラーハルトが数ミリ口角を上げた。
なんだかわからないが、ラーハルトの笑いのツボに入ったようだった。あと一押しがあれば、吹き出して笑うかもしれない。滅多に聞けない彼の笑い声が、何とも言えず好きだ。しかしあいにく、ヒュンケルには人を笑わせるセンスが絶望的に、無い。
「すまない。なんだか、面映ゆくて」
と、正直に言う。
「お前の表情を見分けることにかけて、どうしてこうも才能があるのだろうな、俺は」
俺自身は、いまだにどんな顔をしていいかも定かではないのに、お前の顔の方には興味が尽きないんだ。
そう言うと、ラーハルトが不機嫌そうにまたグラスを傾ける。
――不機嫌そうなだけだ。ちょっと嬉しそうだ。
この仏頂面の陸戦騎が、実は感情豊かで愛情深くて繊細で、からかわれたり避けられたりしてはへこみ、褒められたり頼られたりしては有頂天になり、忙しなくころころ表情を変えているのを知っているのは、きっと俺だけだ、とヒュンケルは思う。
俺だけだ。彼の父がいない今、この地上で、おそらくただひとり。
そう思うと、微笑みたくもなるではないか。
にまにましているヒュンケルをじろりと睨んで、
「何もかも理解したような気でいるなよ、貴様」とラーハルトが唸る。
「そんなことは言っていない。もともと、他人の顔色を読むのは得意なんだ」
胸を張るヒュンケルに、相棒はぐったりと額を覆う。
「そんなものは得意技とは言わん。心的外傷の一種だ。一刻も早く捨てろ」
「そうやって生きてきたんだ」
「だったら、俺が次に何をしようとしているか分かるか」
ヒュンケルは黙り込み、すぅと目を細めた。
「……読めたぞ」
「一応聞いてやろう」
「まなざしで気を引きながら、こっそりと、その恐ろしく辛いペーストを俺のスプーンに擦り付けようとしているだろう」
「不正解だ」
「うわ」
ぷしゅ、と爽やかな柑橘の霧が目の前で弾けた。
切ないくらいにキラキラした青い香りで鼻腔がいっぱいになり、ついでに目に染みる。
「何をする、ひどいじゃないか!」
「思いあがった罰だ」
ラーハルトは悠々と残ったライムをかじり、今度こそニヤっと笑った。
不満げに目を擦るヒュンケルの頬に、小さな水滴が光っている。
「それでも、お前の七面倒くさい感情の機微を残さず拾い上げられる奴なんて、俺しかいないぞ」
とめげずに言いつのるヒュンケルに、ラーハルトは両手を上げて、
「せいぜい努力してもらおうか。お前なんぞに、軽々語られてたまるか」
と言って、追加の料理を頼むべく店内を見渡した。
「努力するさ。せっかく親友らしくなってきたんだ。初めての、年の近い友だからな」
ヒュンケルはあっけらかんと、そんなことを言う。
「いちいち宣言せんでいい」
ラーハルトはそっぽを向く。
と同時に、命を分け合った『友』を、少し呪う。
ラーハルトの本心に一番近いのは自分に違いない、などと。可愛らしい自負を隠しもしないヒュンケルの、純朴な喜びように、何度打ちのめされてきたか。
知りもしないくせに。
俺の、本当の望みなど。
「そんなに避けなくてもいいではないか。お前にだって、通訳が必要だ。いつか誰かに恋をしたら、想いを伝えたくなるかもしれないだろう」
と、ヒュンケル。
悪気もなく傷に塩をすりこんでくるところは、流石魔王軍の元重役だ。
「植物か何かみたいに言うな。俺だって、言いたいことがあれば直接伝える」
極力、声音に出ないように。
このすさまじく鈍感な人間に、万が一にも悟られないように。
ラーハルトはラーハルトで、リスクを回避するエキスパートに成長しつつある。
――知られてたまるか。
ともだちができた、と無邪気に笑っている、孤独に生きてきた哀れな男。
相棒の甘ったるい希望を粉砕することなど、できそうになかった。
「大事なことだぞ、もっと鍛錬しろ。俺の仕事を増やすな」と、ヒュンケルが楽しそうに言う。
その額に輝くライムの雫を舐めとってやったら、どんな顔をするんだろう。もしくは、緩み切った頬を両手でつねりあげてやったら。
そんな衝動と戦いながら、ラーハルトは滋養に満ちたタコス料理の残りを食いちぎり、もうひとつのライムにナイフを当てる。
なぜか綺麗に切れず、甘くて苦い果肉のしぶきが、二人の間に漂った。
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