O holy night 北マレからオペラまで、肩をすくめて足ばやに歩いた。
特に目的があるわけではない。ただ、人混みに紛れてしまいたかった。
ノエルは苦手だ。
ただでさえ友達の少ないヒュンケルの周りの、誰も彼もがどこかへと帰っていく。当然のように、温かい両親の元へ、兄弟姉妹たちの元へ。
ジンジャーブレッドの甘さも、心ときめかせて贈り物を待つ雪の夜も、自分には新鮮だった。孤児院のうっとうしいお仕着せの賛美歌合唱は、普通の子供が想像するクリスマスの喜びとはかけ離れたものだった。
…いや、ただ単に、孤児である自分がひねくれているだけかもしれないけれど。
地味な装飾ながらもきらめくツリーの飾りつけはそれなりにわくわくしたが、本当の輝きがそこにはないことがよくわかっていた。
家族。
そんなものを諦めてから、もう何年経ったろう。幸いにも進学し社会に出ることができたが、誰かの家に属したことがないヒュンケルにとって、未だに未知の領域だ。
彼の恋人にとっては、もちろんそうではない。
ラーハルトも数時間前には飛び立った。ロワジー空港が混み合ってなければ、今頃はきっと大西洋上空だ。あと10時間もすればJFK空港。彼がいつも愚痴を言っている家族の下で、増殖した甥っ子や姪っ子のためにプレゼントを開いているのだろう。
クリスマスなんて。
苦笑いしながら、パートナーが去ってしまったせいで妙にがらんとしたアパルトマンを出て、鍵をかけた。隣の部屋からクリスマスソングが漏れ聞こえていた。多分サラ・ヴォーン。
じゃあ、そろそろ帰る。
ああ、両親によろしく。
なんてことのない、毎年のやり取り。
…どんな子供だって、この季節には家族のもとに帰るものだ。そんなことは分かっている。
何度か誘われたのに、色々と理由をつけて断ってきたのは自分だ。それも分かっている。
特にやることもないから、観光客の真似でもしてシャンゼリゼをそぞろ歩こうか。イルミネーションのシャンパングラスから流れ落ちる雫を眺めながら。
ぼんやりとしたまま結局パレ・ロワイヤルまで歩いて、お気に入りのベンチに腰を下ろす。
もうとっくに日は暮れていて、人通りもいつもより少ない。
針のような雪が頬を打つ。
家、へと向かう人々の表情を、一つ一つ観察する。
星より明るい子供たちの笑顔。幸せな父親と母親。手を取り合う年老いた夫婦。
なぜだかわからない、景色が滲んでしまう。
自分は生きている。両親が誰であろうが関係ない。
愛する人もいる。
こんなにも居場所があるのに、何を悲しむ必要があるんだろう。
それでも、理解しがたい謎の感情が背中から這い上がり、目元がつんと痛んだ。
回廊の奥で、誰かが調子外れに歌っている。
Fall on your knees,
O hear the angel voices,
O night divine,
…そう、あの高音は難しいんだ。
並んで歌わされた記憶が蘇り、深呼吸する。
雪はいよいよ降り積もりつつある。
凍える前に立ち上がらなければ。
さり、という密かな音とともに、薄い雪を踏みしめて誰かが目の前に立った。眩しすぎる天国のようだった視界が、温かい影に塞がれる。
見慣れた、仕立ての良いキャメル色のトレンチコート。去年彼にプレゼントした、アイスブルーのストールの端っこが視界の隅で揺れた。
ゆっくりと見上げると、ここにいるはずのない人物と目が合った。
思わず、また目を伏せた。
「ご両親が悲しむぞ」
震え声で囁くと、男は片眉をあげて、
「いつでも会える」
と言った。
「高いチケットのくせに」
「金なんかどうにでもなる」
「金持ちめ」
「だが、どうにもならないものもある」
涙をこらえて、まっすぐにラーハルトを見上げた。
「だからって、家族と過ごすクリスマスを引き換えにしてくれなんて頼んでいないだろう」
お前は帰らなきゃ。
俺と違って、行くべきところがあるんだから。
ラーハルトは黙っていた。
子供の笑い声。何かがぶつかる音、また笑い声。楽しげなおしゃべりが段々と遠ざかる。
突然、パリのど真ん中で、一瞬だけ静寂が辺りを包んだ。
降りしきる雪の音が聞こえるようだった。
「その通りだ」と彼は言った。
「今日だけは、家族と過ごさなければ」
そして、彼のほうに手を差し伸べる。
「チケットは2枚取り直した」
にやりと笑う。
「立て。数時間後には機上だ」
なんて強引な。
ぷふ、と吹き出して頭を抱える。
なんでお前はいつもそんな風なんだ。
少し位、心構えの時間をくれないか。
「じゅうぶん待った」
と、ヒュンケルの心中を読んだかのような言葉。
「パリに残る、家に帰るのは諦めるから二人で過ごそう、っていうわけでもないんだな」と笑いながら言うと、ラーハルトは真剣な眼差しで、
「俺が、お前の家だ。お前が俺の家であるように。
ただ今日だけは、お前は『家族』と一緒にいなければならない。俺だけのものではないんだ。だから、絶対に連れて行く」
と、静かに言われた。
いつか、聞くことができたらと夢見ていた言葉。顔を背けて、白く染まりつつある並木をじっと見る。油断したら、不覚にも泣き顔を見せてしまいそうだったから。
「覚悟しろよ、俺の両親も弟もお前に会いたがってる。もみくちゃにされるぞ」
と、ラーハルトが冷酷に微笑む。
声を出して笑い、改めて彼を見上げた。雪の中に埋もれそうな自分を見下ろす彼の黄金色の髪が、天使の輪に見えた。
「何か土産を買わないと」
嗚咽混じりに言葉を絞り出す。ラーハルトは、
「何もいらない。そのままで良い」
と言って、半ば強引にその手を引き上げてヒュンケルを立ち上がらせた
「時間もない。帰るぞ」と吐き捨てると、その手を引いて走り出す。
誰もが大切な場所へと帰って行く。
今まで、自分には帰る場所がない、不公平だ、とずっと思っていた。
なぜ、当然のような幸福が、俺には許されていないのだろうと。
だけど、そうではなかったんだ。今ならわかる。
ここにあった。
最初から、ここにあったのだ。
出会うのに、ちょっと時間がかかっただけだったんだ。