Midsummer 王都郊外。オークと白樺の混じり合う、かぐわしい夏の森。
降り注ぐ陽が、燃える緑を通り抜けて小川に注ぎ、宝石のような川魚の鱗をきらめかせる。
樹齢幾千年の高木に寄り添う古い小屋。その屋根から、リズミカルな槌の音が響く。
器用に板を打ち付けているのはラーハルトだ。
偶然見つけた隠れ家を修繕し、盛夏を涼しく過ごそうという計画は悪くなかった。だが、ヒュンケルはもっぱら周囲を散策しており、ラーハルトがほぼ全ての作業をてきぱきこなしている。不器用かつおおざっぱな元魔剣戦士は、大工仕事に恐ろしく向いていなかったのだ。
「ラーハルト」
切羽詰まったような呼び声。半魔の戦士は地上を振り返り、相棒の姿をみとめて眉をしかめる。「……一体なにごとだ」
ヒュンケルは胸いっぱいに水色の物体を抱えて、こちらに向かってくる。
「東の草地に転がっていた。暑さにやられたらしい」
ラーハルトが屋根から飛び降りて近づくと、ヒュンケルの腕の中で丸っこいベビーニュートが伸びていた。体表が生温い。呼吸は浅く、きつく目を閉じている。
「特に氷を好む亜種だな。この熱波の中を出歩くとは、馬鹿なやつだ」
とラーハルトが背を向ける。
「冷やしてやれば、生き返るだろうか」ヒュンケルが淡々と聞く。
「さあな」
「竜騎衆であるお前なら、どうすれば良いか知っているかと」
「野生の仔竜なぞにいちいちかまっていられるか。そいつの運命だ」
「しかし」
ラーハルトは槌を小屋の柱に立てかけると汗を拭って、小川の方へ顎をしゃくった。ヒュンケルは、じっとそちらを見た。やがてこくこく頷き、「やってみる」と重たいドラゴンを抱えなおした。
「休憩だ。俺は街へ買い出しに行ってくる」言うなり、ラーハルトは疾風のように消えてしまう。
「ああ、気を付けて」とその残像に声をかけて、ヒュンケルはモカシンを足だけで脱ぎ捨てると清流に足先を浸した。冷たい。
慎重にベビーニュートを浸してみるが、浅すぎて日差しが暑そうだ。少し考えた後、日除けにしていた外套を脱ぐと、シャツ一枚になってじゃぶじゃぶと中央まで歩み入る。
どうにか腰下くらいの水深を見つけた。つるつるした岩に背を預けて姿勢を安定させると、自分の胸に乗せた仔竜と一緒に、全身で小川に浸った。肩口に乗った竜の頭から漏れ出る鼻息が、ふすふすと耳元をくすぐる。
木漏れ日が水面で跳ねて、楽しそうに踊っている。川べりの草地が風に揺れる度、黄から青まで多種多様な緑色に変化する。
サファイアの鱗が澄み切った冷水に洗われ、夏空そのもののように鮮やかだ。
竜のしっぽが流れに揺らめき、物怖じしないイワナが一匹、興味深げにその先端をつついている。見慣れない光景に惹かれたのか、ミソサザイのカップルが頭上で歌い出した。
ヒュンケルも首を傾けて頬を浸し、火照った頭蓋骨を冷やしてみた。とても気持ちがいい。
――実は、川は苦手なんだ。
この場所を二人の棲家に選んだ時、正直に言おうか迷ったのを思い出す。
まだ恐怖心が残っているかと思っていたのに、意外に大丈夫だ。
静謐なる森林の恵みが、溺れかけたあの時の怒りと、いまだくすぶる心のしこりを溶かしていく。
守るべき命の重みが、彷徨い出そうな魂を優しく押しとどめてくれるようだった。
どれだけそうしていたのだろう。ほとんどうとうとしかけたところで、波が顔にかかって跳ね起きた。
ヒュンケル自身は冷え切ってしまったが、胸の上でぐったりしているドラゴンの様子にはあまり変化がない。
「……がんばれ。あきらめるなよ。ここに居てやるからな」
もうそろそろ日暮れだ。暗くなった川面から水をすくって頭にかけ、すべすべしたおなかをさすってやると、わずかに「きゅう」と泣き声が聞こえた。
「おい、そろそろ上がってこい」
いらいらした呼び声。ラーハルトだ。いつの間にか帰ってきていたらしい。
立ち上がろうとしたが、岩の上で仔竜の体重を支えていたため腰も背も痛い。ぐったりしたままのモンスターをどうにか抱き上げて、ぽたぽたとしずくを垂らしながら相棒の方へ向かう。
苦虫を嚙み潰した顔のラーハルトが、大きな布切れを一人と一匹の頭上に投げた。「ずっと浸かっている奴があるか」
「すまない。つい」言葉少なに小屋へ向かうヒュンケルの着衣はびしょ濡れで、ひたりと肌に張り付いている。露わになった形の良い尻を、なんとなく目で追うラーハルト。
すでに夕暮れ。傾いた光線が、体の起伏のひとつひとつを柔らかく強調している。
部屋の中に入ったとたん、ヒュンケルはあっけにとられて立ち尽くした。
ラーハルトを振り返り、「これ、なんだ」
「見ればわかるだろう」
修復したばかりのテーブルの上には、夕焼けを宿した巨大な立方体。たったひとつ鎮座しているだけで、部屋中の空気がひんやりと浄化されるようだ。
「こんな大きな氷、どうやって手に入れたんだ」手を伸ばして触れてみる。溶けはじめた表面に、水晶の粒のような水滴が伝う。
「街で手に入れた。いい商売を始めたものだな。テランの泉から汲んだ聖なる水を魔法使いが凍らせて、食用に露店で販売している」
ヒュンケルは感心して、しげしげと氷を眺める。酒樽くらいの塊。ラーハルト一人で、どうやって運んできたのやら。
「知らなかった。街の流行には付いて行けん」
「少しは情報収集につとめろ」と、半魔の相棒が腕を組む。
「本当にテランの霊水なのか……」ヒュンケルの見開いた目が、氷壁に映りこんできらきら光る。
「まさか。その辺の井戸水に決まっている」
「そうなのか!」
「貴様はどこまで世間知らずなんだ」
ラーハルトはすっかり使い慣れた槌を構える。そして、予備動作もなく一瞬で氷のてっぺんを打ち抜いた。
轟音とともに巨大な氷柱が砕け散り、こぶし大の氷の山が出来上がる。ひんやりした霧が部屋中に漂い、ダストとなった氷のかけらが流星のように輝いている。見事な一撃に、ヒュンケルは思わず笑ってしまう。
「器用だな」
「氷のゆりかごだ。一晩そいつをうずめておく」
ドラゴンをそっと卓上におろすと、ラーハルトがしゃらしゃらと氷をならしてベッドを作った。二人して一心不乱に氷をかきあげ、鼻先しか見えないくらいまで覆ってやる。すると仔竜はやっと安心したのか、ぽぉ、と青白く光る息を吐いた。
「助かるかな」
ヒュンケルは濡れた体を拭きながら、ひとつくしゃみをした。
「まず心配はない。人間なら死んでいるだろうが、こいつらはへたばるのも回復するのも早いからな。――それよりお前だ。とっとと着替えろ」
「ああ、さすがに冷えた」
びしょびしょのシャツを脱ぎつつ、また屋外へ戻って行く。
「――おい、その辺に脱ぎ散らかすなよ」白い背中を見ないようにしながら、ラーハルトは買い出しの荷物を拾い上げる。キッチンで古びた炉に火を起こし、夕食の準備に取り掛かった。
暗くなった小屋の外では、夏虫たちの愛の合唱がうるさいほどだ。
ヒュンケルは濡れた服を小屋の柵に放り、置きっぱなしだった外套を拾い上げた。靴はもうどこに行ったか分からない。
夜の森に目を慣らしながら、心地よい真夏の夜気が肌を包み込むに任せる。
一糸まとわず世界に向き合っていると言うのに、不思議と穏やかな気分だ。
漆黒の奥に、あの渓流のせせらぎが聞こえる。大魔王の野望も、人間の保身も、愛も憎しみも生も死も、我関せずと流れ続けてきた冷たい水。
やがて、淡い光の粒が、なにかの合図のようにあたりを飛び回り始めた。
夢のような情景に、先程相棒が砕いた氷片を想起する。
――いくら神速の陸戦騎といえど、あのサイズの氷塊を街から抱えて戻る途中、さぞかし注目を浴びただろう。
人混みが大嫌いなくせに。ヒュンケルのためとなると、彼は時々思いもよらぬほど大胆な行動に出るのだ。一言言ってくれればと思いながらも、じわりと温かいものがこみあげてくる。
「ラーハルト」
肩越しに、屋内の相棒に呼びかける。
「……ありがとう」
ややあって、調理の手を止めたラーハルトが呼び返す。「なんだって?」
ヒュンケルは黙って、闇に向かって微笑んだ。
「なんでもない」
そして声を大きくして、
「来い、見てみろ」
両腕を広げてみる。闇を慰める秘密の星空を、抱え込むように。
「蛍だ」
end.