Elegy「人間は、すごいな」
のんきに呟く相棒に、ラーハルトはくたびれた視線を投げる。
「……毒ガスで死に絶えた坑夫たちへの感想が、それか」
自分で言って、思わず息を詰める。
だが、どんなに感覚を研ぎ澄ませても、今漂っているのは馥郁たるカビくささだけだ。
「いえ、仰るとおりです。希少な鉱物は当時の街を活気づけ、坑道は恐るべき速度で拡がり続けたと伝えられます」
ガイドを務める初老の紳士が相づちを打つ。
「人間の強欲は、死に至る病が跋扈し始めてからも変わらなかった。彼らは掘って、掘って、掘りまくったのです」
ヒュンケルはよく整備された岩肌をそっと指でなぞってみた。
倒れ行く同業者に目もくれず先を急いだ、一攫千金を狙う若者たち。名誉欲や射幸心に、あるいはそれに類する怪物に支配され、瘴気の恐ろしさを忘れ去った、愚かな人々。
彼らのつるはしが、この壁を作った。
熱狂の痕跡。
「この遺跡が発見されたのは、つい最近のことです。古文書に一致する記載に、我々学者連中も興奮しました。地獄の帝王が封印された地下深くを、人間たちが後先を考えず掘り返し、世界に危機を招いた。その伝説が、真実だったのですからね」
考古学者はへんてこな帽子を少し直して、更に奥へと二人を誘った。
多くの犠牲者を出したというアッテムト鉱山の心臓部は、拍子抜けするほど小奇麗だ。
研究者たちの手によって照明が配備され、もはやただの観光名所と化している。
「一度は希望に栄えた街が、死の霧に覆われたのだろう。掘削と毒ガスの因果関係は明白だった。それでも人々は、逃げなかったのか」
ヒュンケルが問うと、学者はまた帽子を直した。
「ほとんどは逃げたでしょう。ですが、残った者たちがいました。鉱山の噂が噂を呼び、新たな人間も訪れた。命を懸けても財産が欲しかった。あるいは」
「あるいは?」
ラーハルトが、底知れぬ側道の闇を眺めながら聞く。
「突き動かされたのかもしれません。何か、大きな存在に」
老人はそう言いながら、すたすたと前を行く。
「ここに眠る地獄の帝王、とやらに操られたのか」
側道には、赤茶けた掌らしき痕があった。
仲間割れの末の血痕だろうか。
「そうとも言えます。ですが地獄の帝王は、必ずしもそれらしい顔をしていないものです」
学者は通路の奥に立ち、二人を振り返った。
彼が指さすその先には、茫漠たる空隙があった。
怪物が抜け出した跡にも見えるが、ただの空虚な穴でもあった。
「学者も魔術師も、世界の理を超えた何かを希求した時には、道を誤ります。仮説的な『進化の秘法』は、生物を高尚な次元に、神の領域に押し上げる可能性があった。しかし実際は、制御不能でグロテスクな、許されぬ科学でした。術者である魔族ピサロは、失った愛のためにこの技を希求した。結果、体も魂も壊れてしまったと、古文書が伝えています」
ヒュンケルは、じっと奈落を覗き込んでいる。
「地獄の帝王は――おそらく。常に、我々の傍らにあるのです」
悲劇の鉱山を後にして、宿場町の酒場に腰を落ち着けた。
なかなか刺激的な体験だった。
とくに興味深い情報は眠っていなかった。だが獣王の腕力もない非力な人間たちが切り拓いた広大な空間は、問答無用の重みを背負っていた。
「人間とは――ヒトの欲望というのは、すごいな」
と、ヒュンケルが繰り返す。
「一人では絶対に、あんなことはできない」
「仲間同士血で血を洗い、死のガスも恐れず進んだ奴らだ。どこが尊いというのだ」
と、ラーハルトのまっとうな意見。
ヒュンケルは返事をせず、何か考え込んでいる様子だった。
が、やおら振り向いて、隣のテーブルに声をかけた。
「情報があるぞ。ホルキアだ」
熱心に話し込んでいたグループが一斉に顔を上げた。
ヒュンケルはにこりともせず、彼らの地図の隅に指を伸ばす。
「ヴィオホルンの死火山。かつての魔王のねぐらだ。噴火で沈んだ城には、山ほどの財宝が隠されているらしい」
ラーハルトは、友の突然の行動に唖然としつつ、隣席の若者たちを観察した。
トレジャーハンターの集団か。
鉱山の遺跡を嗅ぎまわりに来たのだろう。命知らずの冒険者たち。
「なんで知ってる。あんた何者だ」
旅団の一人、年かさの男が穏やかに聞き返した。
「俺は内部を見たことがある。言えるのはそれだけだ。信じるも信じないも自由だがな」
それだけ言うと、ヒュンケルはまたラーハルトに向き直って、何事もなかったかのように酢漬けのオリーブを摘まんだ。
……種を蒔いた。
ラーハルトは何とも言えない表情で葡萄酒を舐める。
数十分後。彼らが立ち去ったのを見届けてから、声を落としてヒュンケルに話しかけた。
「お前は、掘り返されたくないのかと思っていた」
彼の、『家』だったあの場所。
家族が命を落とし、不死騎団が全滅した、呪われし地底魔城。溶岩に埋まったその姿は、もはや誰の手によっても救い出すのは不可能だろうと思われたが。
「何十年かかるか分からんがな」
と、ヒュンケルが少々酔いの回った目を細める。
「墓を暴くことが、鎮魂になるか?」
彼の家を壊した人間どもの手に、大切な思い出の地を渡すなど。ラーハルトには理解不能だ。
ヒュンケルは何も言わず、じっとテーブルに目を落としている。ややあって、「さあな」と返した。
「だが、彼らの存在がただ消えていくのが、何となく悲しいんだ。記録され、保存され、学びとなり、自由になって欲しい。それができるのが人間たちだけならば、託してみても良いかもしれない」
「解せんな」
ラーハルトは腕を組んで、はた、と気づいた。
深く沈んだ敵城を、何年もかけて掘り起こす人間たち。
彼らの知識欲と金銭欲が巨大な力となり、何人もの時間と生命がそこに費やされ、散っていく。
それは、壮大な復讐とも言えるのではないか。
「あ、そうだ」
当の復讐者本人が、素っ頓狂な声を上げた。
「……なんだ」
「もしいつか、地底魔城の最深部が公開されたら、お前に訪れて欲しいところがある」
「ああ」
地獄門、だろうか。
彼の父がそこで息絶えたという。神妙に頷いたラーハルトだったが、予想は外れた。
「説明が難しい。地図を書いておくから、頼んだぞ」
と、ヒュンケルはきらきらと目を輝かせながら、何事か書きつけ始める。
「……と言うと?」
「宝物の隠し場所だ」
びし、と示された紙片には、誰がどう見ても理解できそうにない、ただの四角と直線が並んでいた。
「よく光るガラス玉と、何かの種と、壁に埋まっていた貝殻。お喋りな木の葉っぱと、物知りのおじさんがくれた本。それに――」
ラーハルトは頬杖をついて、星印の書かれた部屋らしき四角を眺める。
「ガキの頃の財宝か。まったく」
「そうだ。全部お前にやるぞ」
「自分で取りに行け。付き合ってやるから」
そう言うと、ヒュンケルは不思議そうに首を傾げる。
「俺が生きているうちには、さすがに無理だろう。だから頼んでいるんだ」
ラーハルトは酒の残りにむせて、ごん、と杯を置いた。
「約束だ」
無邪気に笑う友に、言いたいことはごまんとある。
「……まあ、良いだろう。代金は高いぞ」
「何でもやるさ」
機嫌よく椅子に寄りかかるヒュンケルの額を軽く拳で突いて、ラーハルトは苦笑する。
彼がいない、遠い未来。
きっとそれは、鎮魂の儀式になるだろう。
だが考えるのは、まだ先で良い。
――ずっと先であって欲しい。
母が教えてくれた美しいレクイエムを振り払いながら、ラーハルトは最後の一口を呷った。