Savon 魔槍の柄を固定しなおして、ラーハルトはすぅと息を吐いた。
研ぐ手を止めないまま、少しだけ力を緩める。
しゃりん、という涼やかな金属音と、不規則に響く水音が混じって、ちょっとした和音を奏でている。
小さな宿だ。相棒が湯を使い始めると、温かな蒸気がラーハルトが腰かけるベッドまで忍び寄ってきた。
甘く煙たい、高貴な果物のような香り。
「何をそんなに見ている。珍しくもないだろう」
大都市、というほどの規模ではないが、比較的新しい商人の街だ。あのベンガーナの百貨店をやや縮小したくらいの、大型の店舗がそびえていた。
人々は着飾って足を運び、キラキラ輝く贅沢品を次々に手に取って、満たされた微笑みと共に帰っていく。
旅人の分際ではあるが、こういった施設なら一度で必要物資の買い出しが済むことも、二人は学んでいた。
そして時には人間たちの華麗な罠に引っかかり、なけなしの資金を崩して『宝物』を手に取ってしまう事もある。ヒュンケルも、意外なことにラーハルトも。
いまヒュンケルが立ち尽くしているのは、薄汚れた旅の青年にとって明らかに場違いな売り場だった。
御婦人方の唇を染める様々な赤。小さすぎるガラス瓶に揺れる、金色の液体。むせかえるようなスミレの、ジャスミンの、薔薇の香り。
カラフルな紙で包まれ、宝石のように陳列された手のひら大の塊。緻密な植生の描かれた空色のパッケージを手に取ったまま、じっと動かない。
「せっけんなら、まだ使えるのが残っている」
ラーハルトは一応くぎを刺してみたが、大体分かっていた。何故だか知らないが、ヒュンケルはこの無駄に高価なせっけんが欲しくてたまらないのだ。
無言で首根っこを掴み、会計のカウンターまで連行した。このくらいの価格なら買ってやってもいい。それに、このきつい空間から早く出たかった。
「この匂いだ」
と、ヒュンケルは言った。
「ずっと、試してみたかったんだ。子供の頃」
「何を」
売り子の前で銀貨を並べながら、ラーハルトが聞き返す。
「魔界の巨大な都市を訪れたら、この優雅な香りのせっけんごと噴水に飛び込んで泡だらけにして、その中で思う存分暴れる」
半魔の戦士は丁寧に会計を済ませた後で、ゆっくりとヒュンケルの方を振り向いた。
「なんだって?」
「安心してくれ。自制できる」
「当たり前だ! ……そもそも、なんだ。何故このせっけんなんだ」
「ミストに師事してまだ数か月の頃、周りに何人か大人がいた」
デパートを出て、のんびりと宿への道をたどる。
「生存に必要な、基本的な知識とマナーを教えるために、一時的に俺に関わった者達だ。高位のモンスターか、もしくは生粋の魔族だった」
水煙草を構えた貴婦人たちのカフェを通り過ぎ、行列のできる肉屋を通り過ぎ、ヒュンケルの横暴を免れた中心部の噴水も通り過ぎた。
「ひとり、印象に残っている男がいるんだ。カラスの濡羽みたいに黒く、長い髪の、背の高い魔族だった。綺麗な灰色の肌をしていて、慇懃無礼な。魔族の文学を教える教師だった」
ラーハルトは軽く鼻を鳴らして続きを促す。
「あの肌から、凄くいい匂いがしたんだ、いつも。ある日きっかけがあって、それが体を洗うせっけんの匂いだと知った。そんなもの使ったことが無かった――知性と文化の香りだ。人間よりもずっと洗練された、魔界の高度な文明の匂い」
まさか、地上のデパートで手に入るなんて。と、ヒュンケルは感心している。
きっかけとは具体的にどういう、と聞きかけて、ラーハルトは口をつぐんだ。
「幼かったその頃、表立って伝える気にはなれなかったが。なにせ、泥を啜ってこそ力を得られると思い込んでいた時期だ。だが彼の端正なたたずまいには、密かに憧れた。最初から魔界に生まれて、魔界の生き物として生きて来られたらどれだけ素敵だったろう、と。だから」
「野生児め。いつか『都会の』匂いに塗れたかった、と」
「そういうことだ」
笑いたいなら笑え。
と、ヒュンケルは自分で言っておいて、ひとりで笑い始めた。
――知らない笑い方だ。
ラーハルトも、義理で軽く笑ってやった。
内側から引っ掻かれるような不安が、極力顔に出ないように。
嫉妬と呼ぶにはあまりに未熟なこの感情に、気づかれないように。
「その教師は、結局、どうなったんだ」
何気ない口調で聞いてみた。ヒュンケルは、さぁ、と首を傾げる。
「死んだんじゃないかな」
昨日の天気の話題みたいな軽さでそう言うと、大事なせっけんを手の中で転がした。
水音が止まる。
律動的に刃を研ぐラーハルトの耳が、泡だらけのまま浴槽に沈み込むヒュンケルの満足気な口笛を捉える。
ばしゃん、という、子供みたいなスプラッシュ音が続いた。
最後の仕上げに、磨き上げられた槍の穂先を持ち上げてじっくりと観察する。我ながら良い手入れだ。
と、鏡面の如き刃を、何かが横切った。
眉間に谷間を作ってそれを追う。
虹色の泡が、ひとつ、またひとつと、浴室から漂ってきた。
魅惑的な、『都会の大人たち』の香りとともに。
侵しがたいあの白い肌、あの柔らかな起伏を撫で、銀色の髪に絡みつき、ねっとりと滑り落ち、裸体を凝視して膨れあがった、その球体。
見知らぬ友の皮膚に染み込んでいく、真珠色の見知らぬ粘液。
わざわざラーハルトのもとまで流れ着いて、あざ笑うように揺れている。
さかさまに映った自分自身に、ラーハルトはどんよりと指を伸ばす。
そして鋭利な爪先で、そのひとつを突いた。
……パチン。
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