Memories「あ」
間延びした声とともに、つい、とラーハルトのマントが引かれた。
「なんだ」
前を歩くラーハルトは振り返り、気まぐれな相棒を睨む。ヒュンケルは目を丸くしたまま、斜め上を指さした。
「見ろ、ラーハルト」
なんだ、敵か。
視線を追うが、雲ひとつない空が広がるのみ。
雪のかけらのような月がひとつ、浮いていた。
「……だから、なんだ」
「あれ、見えるか?」
ラーハルトはもう一度空に目をやる。やはり、白い月くらいしか見えない。
「まさか、昼間の月を見たことが無いのか」と問い返す。
「ある。だが、久しぶりだ。しばらく、見えなくなっていたから」
と、ヒュンケルが興奮気味に言う。
「意味が分からん。誰が見たって月だろう」
ラーハルトは半ば議論を諦めて、また歩調を速めた。
――ペースが遅れている。午前中には次の街が見えるはずだったのに。この調子で行ったら、港に着くまで三日はかかるぞ。やはりもう数時間くらいは飛竜で進むべきだった。もし予定の船を逃したら、スケジュールは総崩れだ。どうする、次の宿で移動手段を調達するか、それとも――
悶々と旅程を考えながら進むラーハルトの背に、そっとヒュンケルが触れた。
「あれを、なんと呼ぶか知っているか?」
また空の話か。
俺が忙しく計画を立てているのも知らずに、のんきな奴め。
と、旅の道連れに内心悪態をつく。
「知らん。昼間の月は昼間の月だ」
「子供たちの月、と言うんだ」
と、ヒュンケルが答える。
「聞いたことはあるな。子供は夜には寝かしつけられて、夜の黄色い月を見ないから、という話だろう」
そう言いながらラーハルトは、夜の森を駆ける子供の頃の自分を、ちらりと思い出した。普通の子供達が温かいベッドで眠る時間に、不吉な満月の下、全力で走る少年の姿を。
「そういう説もある。だが、違うんだ」
ヒュンケルは無感動なラーハルトの背に向かって話し続ける。
「父が教えてくれた。天体に詳しい人だったんだが――」
「お前の父はアンデッドモンスターだろう。日中うろついていられたのか」
「失敬な。父に弱点はなかった。それに、日光を恐れる不死者というのはその支配者が十分な力を持たない場合や野良ゾンビに限った話であって、通常は」
「よく分からんが、分かった。それで、なんで月がそんなに嬉しいんだ」
と、ラーハルトが投げやりに口を挟む。
「あれはな――子供だけが見る月なんだ」
ヒュンケルが嬉しそうに言う。
「大人になると、見えなくなってしまうからだ。朝の光に輝く月、青空が隠す秘密、夜から逃げて白く染まった巨大な星を見つけた時の、あの気持ちが。俺もそうだった。ある日を境に、まったく見えなくなったんだ」
ラーハルトはほんの少し、歩く速度を緩めた。
「ふと空を見上げても、もう、なんにもないんだ。父が教えてくれた星の名前も、月の満ち欠けの意味も。鮮やかだった星座はその色を失い、ただの記号になった。なんの興味も無かった。死んだ夏虫みたいに、朽ちていってしまった」
ラーハルトは立ち止まり、おもむろに宙を見上げた。
ヒュンケルはおずおず手を伸ばすと、立ち尽くす相棒の右手に自分の左手を絡めた。
ラーハルトは特に何も言わなかった。
「とても嬉しいんだ」
流れる綿雲が、水色の空を埋め始めている。
その真ん中を飛ぶ、少し欠けた月が、こちらを見ている。
「あれ以来、初めて見えた。俺にもまだ、見えるんだな」
お前と一緒にいるから。
言葉にならなかった想いが、ラーハルトの心臓に沁み込んでいく。
戦と忠義に生きる半魔の戦士は、軽くまぶたを閉じてまた開き、ゆっくりと視線を上げた。
そして、つないだ手に力を込めた。
――母さん……あれ、なに?
どこまでも自由な空に、真珠のように輝いていた、白いかけら。
やわらかな子供の心に降ってきた、宇宙の謎。
「……ああ」
ラーハルトは呆然と呟いた。
左手を額にかざして、目を細める。
「見えた」
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