Over The Rainbow 死ぬのは、どんな気分だろうか。
今の今まで、考えたこともなかった。
己が、その瞬間を恐れるかも知れないなどとは。
バルトスは静かにあぐらをかいて頭を垂れ、自らの罪を吟味した。
骸の化け物でありながら、無垢な人間の赤子を拾い育てた。
宿敵たる人間の勇者に息子ヒュンケルの未来を託し、魔王の敗北を予期していながら彼に門を開いた。
使命を棄てて主人の死を待つこの家臣に、楽な最期は許されぬ。自分の作り手たる魔王が死ねば、動力源を失いこの身も滅する。
かりそめとは言え隅々までを鍛え上げ、神経を張り巡らした騎士の体だ。この骨の一本一本から生命のエネルギーが抜き去られていくのは、どんな感覚だろう。崩壊の恐怖に打ちのめされながら、跡形もなく灰燼と化すその感触は。
――いや。恐れているのは、肉体の破滅ではない。
バルトスは座したまま、うす汚れた星形のペンダントを握りしめた。
愛する息子の贈り物。これを見て境遇を悟った勇者は、剣を収めたのみならず、子供の無事を約束してくれた。
父を守ってくれたのだ。
――この熱が。
空虚な肋骨に宿った温かい光が。
息子と過ごしたかけがえのない記憶が、偽の脳とともに混沌の闇へと還る。
そのことだけが、震えるほどに悲しく、恐ろしかった。
誇り高き地獄の門番に、このような感情があったとは。
……咆哮。
まさに煉獄からの呼び声。
魔王の断末魔はそれ自体が解呪の波動となり、地底魔城にくまなくこだましていく。
時は来た。
我が主よ、不甲斐なき部下を許し給え。
私もすぐに。
数秒。
数十秒。
「……なに……?」
目を開けて、六枚の掌をじっと見つめる。
もう冥土に着いたのか。それとも、絶命間際の夢だろうか。
消え去るはずの骸の腕が、まだそこにある。それどころか、新たな力が湧き出でるようだ。
どす、と壁を打てば、鈍い衝撃が肩まで響いた。
生きている。
「もしや」
禁呪の技で生まれた人形にも、奇跡が起こることがあると読んだ。
神の目に留まり、役割を得て、本当の生物として世界に放たれることがあると。
よろめく足で立ち上がり、あたりを見回した。
全てが新しく見えた。
いつも通りに揺らめくたいまつが、やけに鮮やかだ。土の匂い。倒れた仲間の血の匂い。
己の腕にまだ残る、幼い息子の肌の匂い。
ふつふつと、ある結論が湧いてくる。
――許された。
許されたのだ。
私は今や、魔王の生命無くして生きることができる。
死すべき運命から解放されて、愛するあの子と一緒に。
なぜだ。
もしや……ヒュンケルのおかげか?
幼子に情けをかけた、ただひとつの正しい行いを、神が見ていたのか?
それが、この身を救ったのか?
興奮と希望が全身を満たしていく。
『父さん』
これから何度、そう呼んでくれることだろう。
戦略も兵法も忠誠も忘れて。
今よりも少し背の伸びたヒュンケルの姿が、夢のように脳裏をよぎる。
『おれも、剣を習ってみたかったのに』
傷ひとつない白い手が、バルトスの古びた指骨を覆う。
『でも、重たくて、危なくて、きっと無理だな。誰かを傷つけてしまいそうだ』
朗らかに笑うわが子を抱きしめる。
この子にだけは、武器を握らせまい。
私が生きている限り、断じて。
『剣は相手を斬るのみならず、誰かを守るものでもある。だがお前には、もっと素晴らしい才能がある』
星空のように輝く瞳が父を見上げる。
『それって、何なの、父さん?』
ああ。
成長を見届けられるなんて。思ってもみなかった。
生意気盛りな少年の、控えめで笑顔に満ちた青年の、書を愛する穏やかな壮年の、まだ見ぬ息子の姿。
諦めていたはずの幸福が、現実となって降り注ぐ。
顔を上げれば、二度と戻らぬはずだった地下道が、まっすぐに息子のもとへと繋がっている。
はやく、ヒュンケルに教えてやらなければ。
たった一人で私を待つあの子に。
「終わった。すべて終わったぞ、ヒュンケル」
生きるのだ。これからもずっと、あの子と共に。
人里離れた、美しい森に身を潜めて。
悩みも恐れもなく、太陽のもとで。
戦慄きながら、一歩を踏み出した時だった。
「どこへ行く気だ」
耳慣れた、冷酷な声が響いた。
「裏切者め」
振り返った先に、黒い炎に似た影が燃えていた。
「バルトス。貴様、勇者に道を譲ったな。お前の、お前のせいで」
勇者との死闘の末に敗れつつも、一命を取り留めた魔王がそこにいた。
……信じていたのに。
憤怒に隠れた声なき声を、バルトスは正しく聞き取った。
「この、失敗作が!」
怒りと混乱に我を忘れた創造主が、恐るべき拳を振り上げる。
地獄の騎士、魔王の門番バルトスはただまっすぐに、運命を見つめていた。
逃げようとは思わなかった。
彼の頭蓋を砕かんとする最後の一撃は――やけにゆっくりと見えた。