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    sousemesemeriba

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    sousemesemeriba

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    通い妻オルグエのサンプル

    【プロローグ】

    都内の某駅で降りて徒歩十数分。
    都会の一部でありながら、畑や木造家屋に囲まれた田舎っぽい通りの中に、築五十年のボロアパートがある。
    今どきめずらしい木造建てで、外観はところどころ塗装が剥げていて、廃屋と変わりない。太陽側のベランダに男物の下着がはためいていることで、かろうじて生活感があった。
    ――はじめてあれを見たとき、ここは洗濯用の施設なのかと思ったが、あの人にそう言ったら「それ、他の住人の前では絶対言うなよ」と顰めっ面をされてしまった。
    「なつかしいな」
    そのアパートの二〇一号室がグエルの戦場だ。
    赤錆のついた鉄階段を上がって、インターホンのない扉を叩く。返事はない。
    「よし」
    手前に置かれているプランターを持ち上げて、下に隠されていた合鍵を取る。
    シリンダーに鍵をはめて、くるりと一回転。
    ドアを勢いよく開けながら、グエルは元気よく声を上げた。
    「お邪魔します!」
    ――攻防の始まりだ。

    ・・・

    リドリック・クルーエルは、かつて軍人として各国の戦場を駆け巡っていた。しかしある事件をきっかけにその名を捨て、数年傭兵として稼いだのちに戦争ビジネスの世界から足を洗った。
    いまは縁あってとある極東の島国で暮らし、民間の警備会社に就職して私立大学で警備員として働いている。
    『リドリック』の頃には妻子がいたが、今は昔の話だ。
    『オルコット』と名乗るようになってからは、身分証不要の格安アパートで男やもめ暮らしをしている。
    警備の仕事はシフト制だが、待つ者のないオルコットは夜勤に回ることが多い。誰もが眠る夜に制服を着て、懐中電灯を手に働き、明るい日差しをカーテンで遮って万年床で眠りに就く。
    六畳一間の部屋には小さなテーブルと小型のテレビのみが置かれている。玄関側の壁に設置されたキッチンの近くには、カップ麺だらけのゴミ袋が粗雑に縛ってあった。
    中年男の一人暮らしにしては清潔なほうだとオルコットは自負しているが、床に散らばったビールの空き缶のことは特に気にしていない。
    「う……」
    ぴったりと閉じていたはずのカーテンが風にあおられ、朝の光が射しこむ。傭兵時代に残った額の傷が照らされ、藍色の瞳がうっすらと開いた。
    何かの予感がして、オルコットは眉間に皺を寄せる。
    「お邪魔します!」
    同時に玄関の扉が勢いよく開けられて、張りのある男の声が耳を劈(つんざ)いた。
    ――ああ、やっぱり来やがった。
    グエル・ジェタークはオルコットが勤務している大学に通う学生だ。
    長い鬣のような髪を後ろでひとまとめにして、部分的に染められた桃色の前髪がアクセントになっている。
    黒インナーの上に羽織ったベージュの半袖シャツからは筋肉質で健康的な腕がすらりと伸び、スーパーの袋を二つ携えていた。
    グエルがずかずかと居間に踏み込んでくると、爪先がビールの空き缶を蹴り上げる。
    「あ。また飲んだのかよ? 少し控えた方がいいって言ったのに」
    「……また来たのか」
    「来て欲しくないなら、合鍵をあんなザル管理しないことだな。つーかあんた警備員だろ? 自宅の警備を怠ってどうする」
    この家に盗られるものなんてない、と二日酔いの頭を抱えなががら呻く。
    「はいはい、起きた起きた」
    グエルはいったん荷物を置くとこちらに寄ってきて、布団を引っぺがす。シーツを剥いでいるのを見て、オルコットはうわ最悪だ、とげんなりした。洗濯するつもりだ。もう二度寝ができない。
    「俺は夜勤だっつってるだろ」
    「それにしたってもう昼過ぎだぞ。仕事前に胃になにか物入れないと」
    グエルと出会う前は、なにも食べずに出勤することが多かった。深酒のせいで昼は腹が空かないし、休憩時間になればカップ麺や惣菜パンを食べられる。それで良いんだ――というオルコットの不摂生宣言はグエルにあっさりと却下され、買ってきた食材で立派なブランチを用意されるのだった。
    「ジェタークの跡取り息子にこんな狭い台所で料理作らせるわけには……」
    「今さらだろ。俺がやりたくてやってるんだ」
    肉や野菜を袋から出し、棚に揃えられた調味料を並べ、こなれた様子で支度する。オルコットはだるい身体を壁にもたれさせ、エプロンをつける彼の姿を眺めていた。
    くたびれたおっさんの家でせこせことつつましい家庭料理を作っているのは、あの世界的な軍需企業であるジェターク重工の社長令息だ。
    オルコットはジェターク社が作った兵器を使用したこともあるし、彼らが開発した戦車で同胞が轢き殺されたこともある。
    いずれはその軍事会社を継ぐ御曹司が、自分の会社ではなく元傭兵のアパートで、兵器ではなく手料理を作ってるのだから妙な話だ。
    ――もっとも、彼は自分との奇妙な因果関係など知らないが。
    そもそも学生と警備員が出会い、まるで通い妻のような真似をする関係になるのも滅多に聞かない話だが、そのはじまりは二年ほど前までさかのぼる。

    当時付属高校から進学したばかりだったグエルは、将来後継者として大企業のトップに立つべく学業に課外活動にと勤しんでいた。
    伝統ある家に長男として生まれた重圧にも負けず、日々邁進していた――が、苛烈な父親とたびたび衝突することがあったようだ。自分もそんな時期を経て大人になっていった記憶があるが、グエルが背負っているものは一般人とは重みが違った。
    個より全を最優先すべきという家風で、思春期の甘えがゆるされない環境。父親の言うことが家族の総意であり、逆らうことはゆるされない――しかし弾力の強いバネは、どれだけ上から押さえつけられてもいつかは飛び跳ねる。
    彼がまだ二十にもなっていない頃に政略結婚の話が持ち上がり、その縁談をめぐってグエルは父と人生はじめての大喧嘩をした。
    家を追い出された彼は行き場を失い、寝泊まりする場所に困った。教育に厳しい家庭だったためクレジットカードなども持たせてもらえず、バイトも禁じられていたのでたくわえがない。
    追い詰められたグエルが選んだのは、大学の構内をひとまずの仮住まいとすることだった。
    そこで夜間警備員の出番だ。

    ・・・

    午前二時の定時見回りを行っていたオルコットは、講義室の硬い長椅子で大きな体を窮屈そうに丸めて眠る、疲れた顔の子供を見つけたのだった。
    「出て行け」
    が、オルコットは容赦なく子供を揺り起こし、学籍番号を控えるとすぐ構内から追い出そうとした。
    「ちょっ、ちょっと待ってくれよ! 行くところがないんだ!」
    いきなり叩き起こされた青年は泡を食ってすがりついてくるが、こんな金持ち大学に通っといて『行くところがない』はないだろう、と鼻を鳴らす。
    おおかた遊びすぎて親に締め出されたか、さもなくば色ボケして同棲中の女に追い出されたとか、そんなくだらない事情に決まってる。何も偏見でそう判断したわけではなく、実際そういう困った学生が多いのだ。
    「友達に頭でも下げて泊めてもらいなさい」
    「でっ、できない! あいつらに知られたら心配かけちまう」
    ところが青年は食い下がり、冷たく切り捨てたオルコットの胴に抱き着いてくる。
    「お願いします! ここで寝泊まりすれば、誰にも迷惑かけずに済むんだ。あんたがちょっと見逃してくれれば……バイトで金貯まったら出て行くからっ」
    ライトがちらちらと照らす顔は端整なものだったが、いまは必死の形相で目に涙まで浮かべていた。
    言葉の端々からにじむ彼の人格は、なまけて親にお灸を据えられるようなタイプには思えない。
    「なんで帰る家がないなんてことになったんだ」
    とりあえず事情を聴いてみよう、と隣の席に腰を落ち着けたオルコットに、青年はついに涙を落としながら打ち明けた。
    「俺が、俺が悪いんだ。父さんに逆らってっ……、父さんの気持ちも知らずにっ!」
    「落ち着け。順を追って説明しろ」
    すみません、と謝りながら濡れた目元を擦る姿に、オルコットはいたたまれない気持ちになる。話も聞かず一方的に追い出そうとした自分に後ろめたさを抱いたからか、肩を震わせて呼吸を整えている彼の腕を引いた。
    「お前、警備室にこい。飲み物くらいなら出せる」
    「え……いや、でも」
    「家に連絡したりしないから安心しろ」
    潤んだ目で見上げてくる彼から視線を逸らし、何やってるんだ俺は……と虚脱感を覚えた。

    今日は警備責任者のナジも出勤していたので、話が早かった。
    「なるほどなぁ。進路から結婚からぜんぶ親の言う通りにしなきゃならん、反抗もしちゃ駄目だってのはキツいな。俺みたいな庶民には想像できない世界だよ」
    オルコットはグエルにインスタントコーヒーのおかわりを作ってやってから、ナジの隣の椅子に座った。
    「お前さんが飢え死にでもしたらどうするのかね、親御さんは」
    「父は……でも、大学を辞めて身内の子会社に勤めるなら、そこに席を用意すると言われました。だけど俺は、嫌、で……」
    グエルはその抵抗を自分のワガママだと認識しているようだが、オルコットは彼の選択に納得していた。
    『勘当するが食い扶持は用意してやる』というのは親の最低限の温情のように見えるが、実際なにも解決しない案だ。
    グエルは、親に自分の生き様まで支配されたくないと言っているのだから。
    それで父親の出した妥協案を飲まなければ住む場所まで奪われるというのは、苛酷すぎる処置に思える。
    オルコットは薄味のコーヒーを一口啜ってから尋ねた。
    「それで、なんで自分が悪いって思ったんだ。『父さんの気持ちも知らずに』?」
    「それは……」
    聞かされたのは、さらにどうしようもない話だった。
    グエルが家出した数日後に父が倒れて、入院したという。
    『ジェターク重工CEO・ジェターク氏、レセプション中に倒れる』――そんな記事をネットニュースで見た気がする。
    彼自身は面会を拒否されたが、身内から聞いた話ではジェターク氏はかなり深刻な状態だそうだ。秘書は社長が無理を押して働いているのを知っていて、他言無用と口止めされていたらしい。
    今はドクターストップを振り切って現場に復帰し、幹部たちと仕事を分担しながら働いている。
    「父さんは、自分の体のことを知ってたから焦ったんだと思う。『自分がいなくなっても、家族や会社のみんなを守れるように手を打っておかないと』って。そのためには、俺が見合い相手と結婚するのが一番合理的な手段だったんだ」
    「合理的ったってなぁ……二十の坊主に押しつける生き方じゃないと思うが」
    ナジが困った様子で頬を掻く。
    オルコットは、うつむく彼の顔をじっと見据えてたずねた。
    「お前はどうしたい」
    「……俺?」
    迷子のような瞳を見つめ返しながら続けた。
    「お前自身が、いま何をやりたいのかだ」
    グエルは青い瞳を揺らめかせて呟く。
    「分からない」
     音にならないくらいの息を吐き出して、オルコットは後ろ頭を掻いた。
    ――とにもかくにも、落ち着いてゆっくり物事を考える時間が必要だろう。
    しかしそう悠長なことも言っていられないのが、こいつは今日寝る場所もないということで……。
    「あ。なあ、オルコット」
    「なんだ? ナジ」
    同じように考えたらしい同僚が、立派な顎ひげをさすりながら朗らかに笑った。
    「お前、一人暮らしだったろ?」
    「……それがなんだ」
    マグカップを握ってぽかんとしているグエルをよそに、オルコットは薄々次の言葉を察して顔を顰めた。
    ナジは至って簡単なことだと言わんばかりに笑った。
    「この子、しばらくお前んちに住ませてやればいいじゃねぇか。男一人増えたところで変わんねぇだろう、あのオンボロアパート!」
    「おい……!」
    人の家をオンボロ呼ばわりとは――いやそれは紛れもない事実だ。グエルに間借りさせるなんてとんでもない。
    「他人の息子だぞ! しかもジェターク社のっ」
    「まぁ一応十八は越えてるんだし誘拐には当たらんだろ。畳一枚貸すくらい良いじゃねぇか、な? ジェタークの坊ちゃん」
    「えっ」
    いきなり話を振られたグエルはびくりと跳ねて、二人の顔を交互に見る。
    カップに添えた指を気まずそうに動かしながら目を伏せた。
    「そんな……迷惑かけられません」
    その殊勝な態度と言葉に、またオルコットのなにかが激しく揺さぶられる。
    「その『迷惑かけられない』ってのはなんだ。遠慮やら気遣いやらを抜いたらどうなんだ、お前の本音は?」
    つい圧迫面接ばりに詰めて質問すると、グエルは「うっ」と戸惑う。
    それからぎこちなく上目遣いにオルコットを見上げると、小さな声でおずおずと答えた。
    「そりゃ、泊めてくれたらありがたい。けど」
    「なら最初からそう頼め。荷物はそのバッグ一つか? あと二時間で退勤だからここで待ってろ」
    全部言ってしまってから、オルコットはしまった、と瞠目する。
    同じく目を丸くしたグエルが「いいんですか⁉」と驚いているが、明らかに喜びに満ちた表情を見ると『今のは冗談だ』なんて誤魔化せない。
    ぐっ……と詰まりながらこっくり頷くと、グエルはくどいくらい頭を下げて感謝した。
    「ハメたな、ナジ……」
    「なに? 俺は後押ししただけだがな」
    マグを両手で握って静かに喜んでいるグエルを置いて、部屋の隅に追い込んだナジの脇腹をど突く。この会社に入る前からの長い付き合いである同僚は鷹揚に笑い、オルコットの肩を叩くのだった。
    「お前があの坊ちゃんを『連れて帰りたい』ってカオしてたからな」

    ・・・

    仕事を終え、待っていたグエルを連れて自宅に帰ると、木造建てのアパートの前でグエルはほう、と息をついた。
    時刻は午前四時すぎ。
    早朝出勤の入居者がすでに洗濯物を干していた。ベランダとも言えない狭い柵から豪快にはみだし、ぱたぱたとはためいているボーダーのトランクスを見上げ、グエルはしみじみと言う。
    「ここ、洗濯物干すための小屋か?」
    「それ、絶対に他の住人の前では言うなよ」
    「は、え?」
    「俺の家だ。二階の角部屋」
    溜め息をつきながら指差して、すたすた歩き出す。グエルは「ご、ごめんっ」と慌てながらついてきた。
     ドアの前に立ったオルコットは、中に入る前に「そうだ」と足元に目を落とす。
    「合鍵はこのプランターの下だ。俺が不在のときはそれで開けるといい」
    「えっ⁉」
     グエルは驚いて白い横長の容器をどかす。自分が入居する前から置かれている土だけの鉢の下には、ストラップも何もない銀色の鍵が隠してあった。
    「強盗に入られたらどうするんだよ」
    「こんな小屋を狙う奴はいない」
    「悪かったって」
     不用心だなぁ、と鉢を戻しながら呟くグエルを中に招き入れる。
    畳六枚分しかないオルコットの部屋に足を踏み入れるときも、御曹司様はおっかなびっくりだった。
    「布団は一組しかないが、俺が長年使ってるのに寝るのは嫌だろうからこれ使え」
    押し入れに眠っていた濃緑の寝袋を投げてやると、グエルはわたわた受け取って舞い上がる埃で咳き込む。
    「あっ、ありがとう。これ、洗ってもいいか?」
    「好きにしろ。洗濯機は一階に共用のがあるが、それは洗えんだろうから近くのコインランドリーに行くといい」
    グエルは「共用……?」と首を傾げつつ頷く。
    「ああ。それと、ここは風呂もついてないからな。自分でどうにかしろ」
    「なぁオルコット。ここ、やっぱ洗濯干し用の施設なんじゃ……」
    「うるさい」
    自分で説明していてなんだこの家はと思わなくもないところだったのだ。
    それでも雨風をしのげるだけマシだろうと開き直り、あらためてグエルの正面に立つ。
    「この先のことが具体的に決まるまで、ここで寝泊まりしていい。家賃は元から無いも同然だから気にするな」
    「そんなの悪いよ。バイトの給料が入ったらすぐ払う」
    オルコットは眉を寄せた。
    大学で必死の釈明を聞いたときから思っていたことだが、この青年は少し真面目すぎるきらいがある。律儀で礼儀正しいのは結構なことだが、オルコットは追い詰められた若者からはした金をむしりとるような真似はしたくなかった。
    だから――グエルの申し出にはあえて答えず、その頭を無言で撫でた。
    「うわ! な、なにっ⁉」
    ……荒っぽい手つきだったせいで、撫でるというより掻き回す、という感じになったけれど。
    「金はもらわないほうがこっちも気楽なんだ。いいからお前は自分のことだけ考えてろ」
    「オルコット……さん」
    まっすぐに向けられる瞳にまごつきながら、オルコットは首を振った。
    「敬語やらも無理に使わんでいい。お前が楽なようにやれ」
    彼の右目の下にあるほくろをなんとなく眺めながら言う。グエルの瞳は、きらりと潤むと海みたいだった。

    金の話が一段落ついたところで、今度は家事分担の話になった。
    洗濯はそれぞれで。
    掃除はどっちがやってもいいから適当に。
    それから食事も各自で勝手にどうぞ、と言いかけたとき、グエルが率先して声を上げた。
    「じゃあ料理は俺がするよ! そのくらいはさせてもらわないと肩身が狭いから」
    飯はそんなに食わない、とすげなく言い返そうとして留まった。どうせ彼自身のぶんは自分で用意してもらわないといけないし、それで気が楽になるなら万年カップ麺製造所と化している台所くらい貸してもいいか、と。
    その判断がまずかったとオルコットが思い知るのはそれから約六時間後のことである。

    ボカンッ!

    夜勤後の仮眠をとっていたオルコットは、突然の爆発音に飛び起きた。
    ――襲撃だ!
    すみやかに腰を落として頭をかばいながら次弾に備える。鼓膜が破れないように耳も塞いで、目玉がまろびでないように指で眼窩も押さえた。こういった場合、即座に避難するのは悪手だ。戦場では目立った者から撃たれていく。
    まずはその場で防御態勢をとって次の攻撃がこないか確認して、それから周囲の様子を確認するのだ。
    戦場で咄嗟にとる行動は身体に染みついている。
    グレーのスウェットに身を包んだオルコットは、せんべい布団の上でいまだ衰えを知らぬ屈強な体を丸くして、数秒間その体勢を維持した。
    ……次の攻撃はない。ひとまず移動してよさそうだ。遮蔽物になるものを探そう。
    ここは俺の部屋だからテレビ台の陰に隠れるか、ベランダから外へ出て建物の壁をバリケードにするか――。
    寝起きの頭でそこまで思考を巡らせて、はたと思いとどまる。
    ……俺の部屋?
    そうだ。自分はいま小銃を持って戦場を駆け回る傭兵ではなく、平和な島国で安穏と暮らしているスウェット姿のオッサンだ。なぜただの警備員が襲撃を受ける?
    完璧な防御姿勢をとっていた手をそっと外して、霞む視界を何度かまばたきして調整すると、電子レンジの前で『爆発物』を持ったまま唖然としている同居人の姿があった。
    「オ、オルコット?」
    「……何をやってる」
    Tシャツにハーフパンツとシンプルな寝間着で立っているグエルは、体じゅうに白と黄色の破片を飛び散らせていた。その飛沫はレンジを中心として、コンロや床にまで散乱している。
    彼はものすごく気まずそうに視線を泳がせながら、無残な爆発物と化した卵を見下ろした。
    「ゆ、ゆで卵が食べたくて」
    「……『ゆでる』って言葉の意味、知ってるか?」
    「うううごめん……!」
    ぎゅっと目を閉じて、叱られるのを待っている子供のような姿に、オルコットはどっと疲れを覚えた。幼いうちに別れた息子を思い出すからだ。
    「はあ……。卵はレンジで加熱しようとするな。爆発する」
    「うん。次から気をつける。驚かせて悪い、寝てたのに」
    「それはもういい」
    溜め息をつきながら雑巾を持って台所に向かうと、グエルは申し訳なさそうにしながらもどこか輝いている目で見てきた。
    「それにしても、さっきの動き凄かったな。なんか軍人みたいだった」
    「……警備員だ」
    レンジを拭く手が一瞬ぎくっと強張ったが、グエルは気付かなかったようだ。
    「警備員って、違う職業から転職するケースも多いんだろ。その前は何の仕事してたんだ?」
    「似たようなものだ」
    きらきらと少年の瞳で尋ねてきたグエルははぐらかした答えに不満のようだが、正直に過去を明かすつもりはなかった。名前を捨てたときに記憶もすべて闇に葬ったのだ。
    そんなことよりもだ。
    「あんな自信満々に料理するって言っといて、大丈夫なのか? これ」
    「たっ、卵のことはたまたま知らなかっただけだ! これからはちゃんとスマホで調べてからやるっ」
     スマホ……? と首を傾げるオルコット。
    (こいつ、ド素人なんじゃないか……?)
    その予想は的中し、オルコットはそれから一週間御曹司クッキングの爆発音で起床することになる。

    ――ッパァン!

    「銃声か⁉」
    「うわ、うわっ、違う! これは! 『鶏肉をレンジでお手軽加熱』って書いてあったから指示通りにしただけなのに!」
    「鶏肉を蒸す時は先にフォークで穴開けるんだよ!」

    バチバチバチバチッ!

    「うわぁぁああ!」
    「何をレンジに入れた⁉」
    「違う! オルコットのつまみになるかなと思ってイカリング揚げてたら、コイツ、跳ねやがって……!」
    「イカはお前にはまだ早い!」

    しかも、しかもだ。
    共同生活を始めて二日後、一緒に夕飯をとることになったオルコットは、白米を研ごうとするグエルに度肝を抜かれた。
    「俺だって飯くらいは炊けるぞ。昔家族とキャンプに行って飯盒炊爨したことがある」
    「待て待て待て!」
    米に水を張り、それから台所洗剤を掴んだグエルの手を慌てて掴む。
    「まさかそれを使うんじゃないだろうな」
    「え? だって米洗わなきゃ」
    「洗う=洗剤じゃねぇだろ……!」
    いくらスマホという文明の利器があったところで、『米のとぎ方』なんて初歩の初歩の初歩はレシピに載っていない。
    炊飯窯をひったくって目の前で正しい研磨方法を見せると、グエルはしょぼんと肩を落とした。
    「よく考えたら、キャンプのときは父さんが米洗ってた……」
    「それにしたって、家で母親が料理するところ見てなかったのか?」
    がしゃがしゃと米を研ぎながら訊くと、グエルは「うん」と小さな声で頷いた。
    「母さんは、俺が小さいうちに家を出ていって。今はメイドとコックがいるけど、あの人らは家の者が厨房に入るのを嫌がるから……」
    グエルに気取られないように、こっそり顔を顰めた。またやらかしてしまった。
    「……すまん」
    「いや。こっちこそ、料理くらいはするって言ったのに面倒かけてばっかでごめん」
    しょんぼりと濡れた犬みたいな顔で謝るグエルに、胸が絞られる感じがした。
    『金持ちの息子なんだから生活には困らないはず』とか、『料理する母親がいて当たり前』とか、無意識に決めつけてはこんな表情をさせてしまう。
    「……水が濁らなくなるまで、同じように洗えばいい。あとはやってくれ」
    グエルに米を渡して、ぎこちない手つきで研ぐのを見守る。目盛りの見方を教え、分量通りに水を張った窯を炊飯器にセットした。
    ボタンを押すと軽快なメロディが鳴って、器械が作動しはじめる。
    「これで炊ける」
    「ありがとう」
    まだどこかしょげて見えるグエルのつむじを見下ろして、オルコットは無精髭の生えた頬を掻いた。
    「炊飯器、買ったはいいが一人だと全然使わなくてな」
    きょとんとした顔で見つめてくるグエルに唸り、そわそわと肩や首に触れながら言葉をひねり出す。
    「だから、その。わざわざ家で炊きたての飯を食うなんて、随分と久しぶりだって話だ。……たまにはいいもんだな」
    「え……」
    オルコットの言わんとしていることを理解したグエルは、にわかに顔が明るくなっていく。
    その眩しさをじかに浴びて焼け焦げそうになりながら、グエルの背を押した。
    「他のおかずもあるんだろ。何を作るんだ、ここで見てるからやってみろ」
    「うん」
    目に見えるほど喜びのオーラを発しながら豚肉のパックを取ったグエルは、掴んだそれを水道に持っていこうとしたので「肉は洗わんでいい」とさっそくストップをかけたのだった。

    大企業の御曹司を六畳一間のボロアパートで養うようになってから、三週間が過ぎた。
    「オルコット。もう四時だぞ、起きろよ」
    「ぐ……」
    シャッ! とカーテンが全開にされ、無情な日光が容赦なくオルコットの顔に降り注ぐ。
    「お前、大学は」
    「もう終わったよ。今日は午前だけだったから。でも、今日はあんたより先にバイトに行く」
    「そうか」
    遮るものがなくなって左腕で瞼を覆うと、グエルの手がひたりとそこに触れてきた。
    二十年前、『リドリック』の名を捨てるきっかけになった出来事の際に生身の腕を失い、今は鉄製の義手が嵌められている。
    「それまでに家事終わらせとこうと思ってるんだけど。あんたのこれ、どうやって洗うんだ? 洗剤使うからついでに」
    「食器じゃねぇんだ……」
    それもそうか、と手を引っ込めたグエルは、なぜかその場で正座して傍を離れようとしない。
    「なんだ」
    「なんでもない」
    寝起きの目には夏の太陽の光は痛く、慣れるまでに時間がかかった。陽射しを手で遮りながら傍らに座る彼の顔を見上げたとき、オルコットは紺青の瞳を瞠った。
    自分を黙って見下ろす、穏やかな表情。
    暑いからか、長い髪は後ろでひとつにまとめられ、いつもは隠れている健康的な首筋が晒されていた。しっとりした肌に浮かぶ汗がやけに目につく。
    夕暮れの橙がかった光を全身に浴びるグエルは、彼自身が輝いているようだった。
    「オルコット?」
    光の中で自然と伸びていた右手がびくりと固まる。
    「ああ……すぐ起きる。今日は出勤前に少しやることがあるから、早めに出る」
    「じゃ、もう夕飯作んなくちゃな」
    「頼む」
    額を押さえながら起きるとグエルも立ち上がり、いつの間にか買っていた黒のエプロンを付けた。
    三週間の間にずいぶん台所と打ち解けたようで、手慣れた様子で調理器具を準備している。
    その後ろ姿を眺めていたオルコットは、後れ毛が汗ではりついたうなじを凝視している己に気づき、視線を背けた。
    ――俺は、いったい何を考えてるんだ。
    『あの首筋に口付けてみたい』――などと。

    小さなテーブルには二人分の食事が並び、あたたかい湯気を放っている。
    まずはこの国の基本的な料理からマスターしたらどうだというオルコットの提案に従って、グエルは和食の練習に力を注いでいた。米はあれから洗剤を使わず綺麗に炊けるようになったし、味噌汁を作るために出汁をとることも覚えた。
    元々飲み込みは早い方らしく、基礎を教えてやれば応用は自力でできるようになっていった。
    今日の夕飯は炊きたての白飯に味噌汁、豚の生姜焼きが並んでいる。
    肉は少し焦げていたけれど、ここ数週間の大惨事を数多見てきたオルコットにとっては、それらしい食卓になっているだけでグッとくるものがあった。
    「いただきます!」
    「いただきます」
    行儀よく手をあわせて食前の挨拶をするグエルに、オルコットもあわせる。
    「豚肉、ちょっと硬い気がするんだけど。どうだ……?」
    おそるおそると言った顔で窺ってくる彼の前で、部分的に焦げた肉をかじる。焼き加減はべつに問題ない。若干味が濃い気はしたが、ご飯と合わせればちょうどいいくらいだった。
    「いや、美味いぞ」
    「美味い⁉」
    ぱあっと笑顔を咲かせたグエルは、自分のぶんに箸をつけ始める。オルコットの反応をはらはらしながら見守っていたのだと思うと、雑な感想は言えない。
    「米の固さも丁度いいし、味噌汁も悪くない」
    「そ、っか」
    へへ、とはにかんだグエルは、一度料理を口にするとあとは黙々と口を動かして、茶碗に米粒の一つも残さず完食した。
    喋らなくとも終始にこにこして頬を染めているのだから、そのふわふわがこちらにまで伝播してくる。
    「ごちそうさん」
    「お粗末さまでした」
    綺麗に平らげて手を合わせると、グエルがやたら古めかしい言い回しをするものだから、オルコットは小さく笑った。
    「嫁みたいな言い回しだな」
    さて、と使った食器をまとめて立ち、シンクまで運ぶ。いつもならグエルもすぐに並んで洗い物を始めるのだが、今日はなぜかその場に座りっぱなしだった。
    「グエル?」
    「あ。ああ、ぼーっとしてた」
    声をかけると皿を持ってきてくれた。だが、スポンジで食器を洗っているあいだは普段より口数が少なかった。夕飯の味はなかなかのものだったが、本人はなにか気に食わなかったのだろうか。

    一ヶ月も経つ頃には、家事の大半をグエルがこなすようになっていた。学業とバイトの傍らに家のことまでやるのは負担ではないかと思うのだが、掃除はまめだし、作る料理もだんだん凝ったものになってきている。
    おかげでボロ家が今まで見たことないほど清潔な空間となって、漂う空気すら新鮮に感じられた。
    しかも今朝は日を浴びに外に出ると、一階に住む大家の婆さんから野菜の詰め合わせを差し入れられたのだ。
    「あんた、甥っ子さん預かってるんでしょう? あの子、気持ちが良いねぇ。これ、何かの足しにしてちょうだい」と、なんだかホクホクした笑顔で渡された。
    『甥っ子』とはグエルがその場で作った方便だろう。
    確かに、赤の他人を下宿させているとバレるより面倒がない。
    しかし一人で暮らしているときにはほとんど話したことのなかった彼女が、あんなに幸せそうな笑顔になるとは……。
    部屋にダンボール山盛りの野菜を持ち帰ったオルコットは、グエルのはきはきした受け答えやピンと伸びた背筋を思い浮かべた。あれは年輩に好かれるだろう。
    ナジにそそのかされてうっかり始めてしまった奇妙なルームシェアだが、グエルはこんな貢物までオルコットにもたらしてくれた。
    ――人生、何が起こるかわからないものだな。
    冷蔵庫行きと常温保存の野菜を仕分けしながら、オルコットは人知れず口元を緩めた。

    「うわ、大家さんこんなに分けてくれたのか。何か作ってお返ししないとな」
    大学から帰ってきたグエルに大量の野菜を見せると、すぐに中身を確認して献立を考え始めた。
    最近は料理するだけでなく、冷蔵庫の中身まで計算したり、食費を考慮に入れたりしている。
    グエルは裕福な生まれのわりに庶民的な金銭感覚を持っていて、無駄遣いは一切しない。ここまでくると自分よりよほど立派に自活していた。
    「今日はバイトないのか」
    「うん。明日の夕方までゆっくりできる。あんたは?」
    「有給消化しなきゃならなくてな。今日明日と連休だ」
    「休みがかぶるの珍しいな。生活リズム真逆だから」
    一週間分の野菜を切ってジップロックに分けたグエルは、冷蔵庫へメニューごとに仕舞っていく。効率化まで図るようになったらしい。
    今日のぶんの食材を取って、料理を始めようとしたグエルに声をかける。
    「風呂はもう済んだのか」
    「いや、あとでゆっくり浸かってこようかなって」
    「なら、今から一緒に入りに行かないか」
    「えっ」
    持っていた袋をぼとりと落として、グエルが振り返る。
    「嫌ならべつにいい」
    「いっ、嫌じゃねーよ!」
    踏み込みすぎたかと退きかけたオルコットにグエルが食いつく。食材を全部冷蔵庫にしまって、エプロンを脱ぎ出した。
    「俺も行くっ」
    「気遣わなくていいぞ」
    「そうじゃない! 誘われると思ってなかったから驚いただけ」
    ばたばたと自分の荷物をまとめたグエルは、散歩待ちの愛犬のごとくつぶらな瞳でオルコットを見つめた。
    「銭湯に行くんだろ? 俺、やってみたいことがあるんだ」

    聞けば、この数週間の風呂は大学内にあるジムのシャワーで済ませていたらしい。生涯で銭湯を利用したことが一度もないという御曹司は、バスタオルと洗面用具一式を持って、そわそわとオルコットの横について歩いた。
    ――そんな良い場所でもないんだが。
    リゾートホテルや旅館との違いに戸惑わないか……というオルコットの懸念とは裏腹に、グエルは古めかしい番台や更衣室にいちいち感動して、浴場の壁に描かれた富士山にわぁ、と声を漏らしていた。
    「あったけぇ……」
    首までしっかり湯に浸かった彼は、溶けだしそうなほどぐでんぐでんにふやけている。
    「ジムはシャワーしかねぇから、湯船に浸かるの久しぶり……」
    「そうか。よかったな」
    ほわほわと頬を蒸気させて長いまつ毛を伏せているグエルは、とろけそうな声で呟いた。
    「今度からここ使う。きもちいい」
    「利用料も安いしな。そんなに気に入ったなら連れてきてよかった。客も常連しかこなくて、使いやすいぞ」
    義肢を外した左肩に湯をかけていると、胸のあたりに重みを感じた。
    無意識なのか、気の抜けたグエルが寄りかかってきている。
    とっさに周りの目を気にして視線を巡らせたが、一人の老人が体を洗っているだけで誰も見ている者はなかった。
    「おい」
    凭れかかってくる肩を押しのけようとして、思いとどまる。
    グエルは、実家を追い出されてからずっと落ち着かない生活を送ってきたのだろう。こうしてゆったりと湯に浸かる時間もとれず、緊張しっぱなしの日々だったんじゃないか。
    それがようやく落ち着けたのなら、少し肩を貸すくらいなんてことはない。
    素肌同士が触れ合っていることや、そこから伝わってくる体温は知らないふりをして、オルコットは静かにグエルの体重を受け止めていた。
    「……あんたは優しいな」
    リラックスしきった低い声は、耳元でかすかに響く。
    体と同じように濡れた音色はオルコットの鼓膜を振るわせ、胸の深くまで染み込んだ。
    「……俺が? そんなわけない」
    「優しいよ」
    くすっと笑ったグエルは、オルコットの腰に腕を回して、ぴったりとくっついてきた。左胸の近くにグエルの顔がある。
    「あんたは、良い人だ」
    触れ合っている部分がじんと熱くなる。
    なんなんだろうか。
    この時間は、いったい。
    裸の男に寄り添われ、柔らかい微笑を向けられている状況に内心ひどく混乱しながら、オルコットは左腕の付け根が疼くのを感じた。
    「親子水いらずですな~! 失礼しますよ!」
    バシャッ!
    突然の大声とともに水面が激しく揺れ、グエルがぴゃっと飛び去って行った。
    洗い場にいた老人が隣の浴槽に浸かったのだ。
    直前まで漂っていた妙な空気がグエルの体温とともに霧散していく。
    肌寒くなった左胸を一瞬寂しく思いかけたが、首を振って邪念を振り払った。
    隣箱に入った痩せぎすで禿頭の老人は、仕切り越しにグエルの背を撫でながら豪快に笑う。
    「いやあ、いまどき父子で銭湯なんて粋な家庭があるんですな。ほほ、あんたぁ親父さんにそっくりじゃ」
    「えっ⁉ おっ、俺は、その」
    なにがそっくりだ。赤の他人だよ、適当言いやがってこの爺。
    ……なんて言い返すわけにもいかないので、オルコットは乾いた笑いを浮かべながらしれっとグエルと位置を交代した。
    「そうですか。俺の息子にしちゃツラが良すぎる気もしますがね」
    「お? 親バカじゃの~! まあ確かに息子さんは美男子だけどね。あんたもなかなか男前じゃが……ワシの若い頃ほどじゃないのう!」
    ガッハッハと笑い声が大浴場に響き渡る。
    本当にさっきまでの湿った雰囲気はなんだったんだと思うほどムードもへったくれもない。
    「ワシ、昔は本当にイケメンでね。女房も今じゃ皺くちゃのババアだけども、当時はめんこい美人で、その高嶺の花がワシにゾッコンじゃったのよ! でもなんだかんだ今でも笑うと可愛らしいけどな」
    オルコットは据わった目で空笑いしながら、グエルの肩を抱き寄せた。
    「わっ、オルコットっ?」
    延々と嫁との思い出話を語る爺さんを遮り気味に、オルコットは声を張った。
    「いや、本当にこいつは出来た息子かもしれませんね。真面目で責任感があるし、要領が良くて家事もできる。ちょっと教えてやればあっという間に料理上手になったし」
    『家事』『料理』の単語が爺さんの逆鱗に触れたのか、えびす顔だった瞳をかっぴらいて対抗してくる。
    「なに? 飯ならうちの女房が一番じゃよ! 朝起きたらもうキッチンに立ってて、割烹着姿で魚の煮付けなんてこさえてなぁ」
    「うちのも俺が夜勤明けでしんどい朝に茶漬けなんか用意してくれてるんだ。こいつが来てから、部屋が片付いてない日なんて無くなった。よく気のつく立派な奴だ!」
    「なにぃ⁉」
    「ちょ、ちょっと二人とも落ち着いてくれ!」
    グエルはオルコットに首をホールドされたままバシャバシャと水面を叩く。ヒートアップした爺さんが先に立ち上がり、オルコットもグエルを携えたまま勢いよく立つと、銭湯いっぱいに響くほどの大声でグエルが叫んだのだった。
    「いい加減にしろぉッ!」
    ……と。いい歳した男三人が、寂れた銭湯でぎゃあぎゃあと騒いだところで、声を聞きつけた番頭のおじさんに揃ってお叱りを受けてしまった。
    謝罪で頭が冷めたオルコットは老人に詫びを言い、老人のほうも「ついムキになっちゃって」と恥ずかしそうにつるつるの頭を撫でるのだった。
    お爺さんが奢ってくれた牛乳瓶を、グエルは腰に手を当てて一気に飲み干した。
    「ぷはーっ! うめぇ! これがやりたかったんだ」
    口の周りを白くして笑うグエルに、オルコットも瓶を呷りながら苦笑する。
    乾いた喉にまろやかな液体が流れ込むと、なぜか満たされていく気がする。冷たい飲み物は火照った体によく染み渡って、爽快だ。
    愛妻家の爺さんとは銭湯の前で別れ、オルコットとグエルはアパートまで歩いて帰った。
    夜風が湯上がりの熱を適度に冷やして、心地いい。
    「面白いおじいさんだったな」
    グエルは入浴道具を入れたバッグを両手で抱え、朗らかに笑いながら歩く。部屋着にと貸してやったボロい黒Tシャツの肩にタオルをかけて、ハーフパンツ、サンダルとゆるい服装に身を包んだ彼は、普段よりあどけない印象だ。濡れた髪が街灯に照らされてつやつやときらめいていた。
    軽い足取りで進む青年の背中を眺めていると、にやけた顔が振り返る。
    その背後には満天の星空が広がり、頭上には白い満月を戴いていた。
    「知らなかったよ。あんたがあんなふうにキレるなんて」
    「あんまり言うな」
    年甲斐もなくヨボヨボの爺さんと睨み合ってしまったのを蒸し返されると、いたたまれない。自分でもなんであんなに躍起になったのか分からなかった。
    渋い顔でグエルの視線をかわしていると、隣に並んで下から覗き込まれた。
    青々とした瞳がじっと見つめてくる。
    「だけど、嬉しかった。あんなに褒めてくれて」
    売り言葉に買い言葉で出た台詞だったが、嘘はない。それで喜ぶのなら結構なことだ、とオルコットが目を伏せた瞬間。
    「でもな」
    くるりと首にグエルの腕が回され、歩みを止めた。ほぼ同じ位置にある顔が、鼻先が触れそうなほど間近に迫る。
    近くで見ると本当にまつ毛が長い。
    それから、右の泣きぼくろがよく目につくな――と現実離れしたところで感想を並べていると。
    「俺は、あんたの息子じゃない」
    唇に、柔らかいものが触れた。
    「グエル……っ、ぅ」
    自分の瞳が、ぐっと開いていくのを感じる。
    首から頬にスライドしてきたグエルの手が自分の肌を撫で、耳に触れてくる。
    銭湯の石鹸ではない、彼本来の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
    そのまま時が止まったかと思ったけれど――現実は変わらず続いていることを示すように、街灯がジジッと鳴いた。
    重ねられていた唇が離れて、二人の間に少しずつ隙間が生まれていくと、ぬくもりが逃げて顔が冷える感じがする。
    ちゅ、と音を立てて彼が遠のいていくと、とろりとした瞳に射抜かれた。
    グエルはオルコットの肩に右手をかけたまま、もう片方の手で自らの唇をそっと撫でる。
    濡れた瞳とほのかに染まった頬、いま触れたばかりの赤い唇を見たとたん、あの汗ばんだうなじを目にしたときの一瞬の情欲が蘇った。
    うっとりと見つめてくる男の頬を包み、今度はこちらから口付けた。
    「ん……っ、ぅ」
    ふにふにとした口唇を食んで、その奥にある熱を探る。固く閉じた門戸を叩くように唇を舐め上げると、戸惑いがちに開かれていった。
    「んん、ふ……っ!」
    ぬる、と粘膜が触れ合うとグエルの体が跳ねた。その腰を抱いて宥めるようにさすると緊張した体がほどけていく。
    その間も舌を絡めながら熱い口内を貪っていると、グエルの息が上がっていった。



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