恋知らぬ令嬢 っは、っは、っは、と犬のように発せられる荒い呼気。
覆い被さるその逞しい肉体はミケランジェロの彫刻を思わせる。これが一人の女吸血鬼に与えられた食事が作り上げたのだと思うとなんだか感慨深いような、不思議な心地になってしまう。出会ったばかりの若さだけでなんとか保たれていた肌のハリやツヤも栄養バランスを考えた良質な食事によって磨き上げられ、健全な輝きを放っていた。職業柄あまり陽光に当たらないからか息を荒くして肌を真っ赤に染め上げていなければ、あんまりにも白くて本当に彫刻と勘違いして鑑賞してしまっただろうなと自画自賛を込めて眺めていたら、その獲物を狙う飢えた獣と目が合ってしまい、その瞳に射抜かれてしまった。
――ああ、にげられない。
今更逃げるつもりも逃がすつもりも欠片も持ち合わせていないけれど、目の前の標的を必ず仕留める彼の退治人としての腕前は相棒である私はよく知っているので逆に彼に追いかけられてみるのも楽しかったかもしれないなと本当に今更なあり得ないもしもの話に私はそっと目を逸らした。
吸血鬼の目には人工の明かりはいささか眩しすぎる程で、けれど今は彼自身が逆光によって影となってしまっているので、その表情ははっきりと見えているし覚えている。
ああ、いつまでも私の可愛い5歳児だった彼はどうやられっきとした雄だったのだ。
甘やかしてやりたくなるような泣き顔も、私の出してやった料理を口いっぱいに頬張る顔も決して見飽きる事はないし、優劣つけがたいものであったけれど、こうして私が死なないようにこわごわと触れるその顔も、本能のまま動くことを自制しようと歯を食いしばるようなその顔をどうしてだかもっともっと向けてほしくて独占したくて仕方がなかった。
私の可愛い悪戯にいちいち腹を立てて殺しに来るあの顔が一番見たいものだと思ってた筈なのに、私を殺さないか不安がるその顔が今は何より愛おしい。
彼の全部を私で作り変えてやりたかった。締め切り前に泣いてぐずる彼を胸に抱いてどうしようもないくらいに甘やかして駄目にして、食事を前に口を開ける雛鳥のような彼を何度だって見たくて満たしてやりたくて、眠る彼の瞼に口付けたくて、何より今こうして私を貪るために、じっくり長く味わうために我慢を重ねる彼の腕が抱きしめるのは私がいい。
唇どころか顔にも体にもたくさんキスして何も纏っていない裸のままにくっつき合って全部あげたくて全部欲しい。死んだ私の塵に埋もれる彼の姿が見てみたい。
「ドラルク、ド、ぁ、ルク……ドラ、ルクッ」
うわ言のように呟かれる自分の名前と彼の熱をそのまま伝ってきたような汗が雨のように降り注いだその瞬間、私は自分の持つ欲求をはっきりと自覚したのだ。
ロナルド君の赤ちゃんを抱きたい。
彼の熱を肌から、内から感じたことでこの美しくも世界の何より面白い退治人との肌の触れ合いが全く違った愛情からきているのだと気付き、自分自身の鈍さというか箱入りと揶揄される部分に恥ずかしくて死にそうになってしまった。
でも仕方ないだろう。古くから生きる吸血鬼にとって同胞以外と肌を合わせるのは吸血の為の手段に過ぎず、多くの人間と関係を持つのは魅了の力を誇示し畏怖させるためでもあったのだと私は教わっていたのだ。犬とじゃれ合うようなものと言われたのも先入観ではあったのだろう。死にやすい体質もあって私はそれを吸血の手段として用いることはなかったが、ロナルド君に押し倒されてネグリジェのなかに彼の手が入ってきたのも若い男である若造の肌ツヤを整えてやろうみたいな感覚でいたのに!
裸のまま銀も聖水も武器も何も持たずに吸血鬼と抱き合って眠るロナルドくんの危機感のなさに苦言を呈したいような、普段殺しまくっている私を絶対に死なせてなるものかと簡単に抜け出せてしまえる程度の腕の力で私を抱いてる姿を見てしまえば退治人としての彼ではなく仕事に関わらない女性相手には上手く話すことも出来ずに挙動不審だったあの童貞らしい姿を思い出してしまえば、行為後に先に寝入ってしまったその未熟さすら可愛らしいものに見えてしまうのだから不思議なものだ。
すやすやと健やかに寝入る5歳児の腕の中から脱出しソファーベッドの周りに散らばる私達二人の衣服を集めて洗濯籠に入れてしまい、新しい下着を取り出してすぐにでも外に出られる服装へ着替えようとしていたら愛しい私の使い魔のジョンが帰宅したのが分かった。
「おかえり、ジョン」
「ヌヌイヌー!…ヌヌヌイ、ヌヌヌヌヌー?」
「うん、帰ってきたばかりのジョンには悪いけれど、お留守番をしばらく頼めないかな?」
「ヌヌヌヌン?」
「うん。ロナルド君の赤ちゃん産むまでロナルド君のお守りも頼めるかい?」
「ヌー!ヌヌヌヌ!」
任せてなんて快く頷いてくれるいい子のジョンにはお兄ちゃんになるんだよーと教えてあげれば嬉しそうにすり寄ってくる。可愛らし過ぎて後ろ髪を引かれる思いになってしまう。
けれど、死にやすい体質の私が出産するには御真祖様の協力は不可欠であって、安定期に入るまではお父様とお母様にだけは知られたくない。出産後にたっぷりと体を休められたならまだこの新横浜のロナルド君の事務所に帰ってくるのだから。
仕事が忙しいお母様は今まで通り滅多に顔を合わせないだろうけど、流石にルーマニアの実家に戻ればお父様に気付かれてしまう。だからルーマニアには戻れない。飛行機に乗って気圧に耐えるなんて今の私には出来るかも分からない。
この死にやすい体質のおかげで彼の熱が私の中で実を結んだことにすぐに気付けた。異物でも異常でもないこの異変が彼と私の子供なのだと分かってしまえば、この子が無事に生まれてくれるなら何だってしたいのだ。
生まれたこの子をロナルドくんと一緒に抱いて育てたいのだから信用出来て、安全な場所を提供してくれる相手……。
私は最低限の荷物を持ちまだ陽光が昇るのも時間があるため事務所から出てケツホバ卿に電話をかけたらよほど暇だったのか即出たのでどうせ『お前からかけてくるとは珍しいこともあったようだ』とかなんとかぐだぐだ言うだろうから先に用件を伝える。
「ロナルド君の赤ちゃん出来たのでお父様に内緒の方向で匿いながら里帰り出産させてください」
「は?」
なんか怒ってるっぽいけど、まあいいか。