十ニ畳ほどの居間に六畳の部屋が二間、風呂、トイレ、洗面所があるだけの手狭な平屋が尾形の住む家だった。
両親が幼い頃に離婚してから越してきたこの借家に住んでもう十年と少し。定期的に送られてくる更新の手続きを滞りなく済ませて五回目。
世間一般的に見れば築三十年は経過するこの家は古くて使い勝手が悪い。けれど尾形の物心着いた頃の記憶では、既にこの家で母と二人慎ましく生活していたため、今更不便とは思わなかった。そもそも親子二人だけで暮らすのであれば、これだけの広さがあれば十分だ。母も尾形も持っている物はそう多くないから尚更。
そんな住み慣れた家だが、一つだけ悩みがあった。
よく知らない人の声がすることだ。
それは時間を選ばず、ふとした瞬間に必ず外から聞こえる。「百之助」と名前で呼ぶこともあれば、「尾形」と苗字で呼ぶこともある。その声の主は男性と女性、二人分重なったような声だから歳のほどは皆目見当もつかない。
どうにか返事を誘いたいのか、知っている人間の声を真似することもあるが、到底似つかないため今日までずっと無視をしている。
そんなことばかり続くから、最初は自身が取り憑かれているものだと思っていたが、しばらく経ってそうではないらしいと気付いた。
学校に行ってる間や、外に出掛けている間はその声が聞こえてくることは一切無い。家にいる時だけ──さらに限定すれば自室にいるときだけ──その声は聞こえる。何度かその現象が繰り返されてようやく、それが「家につく者」だと思い至った。だが、思い至ったところで気味が悪い事には変わりない。
家にいれば姿の見えない怪異に名前を呼ばれるのが居心地悪く、その存在に気付いた初めの頃は、母親が帰ってくるまで外に出ていることもあった。しかし、特段危害を加えられることも無ければ、名前を呼んだきりぱったりと声は聞こえなくなる。そうして、そのうち慣れて気にならなくなった。
異変が起きたのは三週間ほど前の事だった。
その日は部活で帰りが遅くなり、尾形よりも先に母がいた。ただいまと言いながら玄関の敷居を跨ぐと、母が青ざめた顔をして、
「百之助?本当に百之助よね?」と聞いてくる。
何事かと思い話を聞くと、母が帰ってきて夕飯の支度に取り掛かっていると、自室の方から「母さん」と呼ぶ声がする。母曰く、それは確かに息子の声そのものであったと。
──帰ってきてるなら声掛けてよね。
そう思って、「なあに」と返事をしたがそれ以降全く返事がない。怪訝に思い息子の部屋の襖に手をかけ「お母さん忙しいんだけど」と言いつつ開けると、そこには誰もおらず、ただ深閑とした闇が広がっていた。
その直後、玄関の引違いが開く音に次いで息子の「ただいま」という声が聞こえてきたものだから母は混乱したという。
「あなた、小さい頃声がするって言ってたよね……」
「ああ、そういえば」
幼い頃、一度だけ母に怪異が出ると話したことがあった。母は黙って話を聞いてくれたが、かといって信用してくれたふうでも無かった。よくある子どもの思い込みと判断したらしく、
「大丈夫よ、そのうちどっか行っちゃうわ」とその時は宥めすかした。
「いやだわ……。本当に出るなんて……」
「大丈夫だろ。今までだって何ともなかったし。あれは何もしねえよ」
「今までって、あの時からずっと聞こえてたってこと?」
母は狼狽した表情を浮かべた。
「どうして言ってくれなかったの」
「なんの被害もないし、無視すれば済む話だから言う必要も無いかと……」
すると母は憮然として「私のせいね」と言った。
「どうしてそうなる」
「あの時まともに相手してあげなかったから、言わなかったんでしょう……。ちゃんと聞いてあげてれば──」
「どうにかなったか?見えないもの相手にどうしようって言うんだ。それにあの時は母さんだって精一杯だったろ」
離婚した直後で諸々の手続きと仕事に追われる母に弱さを見せられるほど、尾形は素直な子ではなかった。
「とにかく、向こうは声を掛けてくるだけで何もしないんだから無視してればいい」
それでも言い募ろうと母は何度か口を開きかけたが、結局「そうね」と言って夕飯の支度に戻った。
悄然と項垂れる母の背はひどく小さく見えた。
その日からだった。怪異がいつもと違う様子を見せ始めたのは──。
声が聞こえるのはいつもの事だが、物の配置が勝手に変わったり、テレビの電源がひとりでに付くようになった。それだけならまだいいが、この間なんかは母の足元に包丁が落ち、危うく怪我をするところだった。
その時ちょうど尾形もキッチンに居合わせていたから分かるが、あのとき母はたしかに包丁が落ちないようカウンターの奥に置いていたのを見ている。それが足元に落ちた。通常ではありえない事だろう。
長いことこの家で生活してきて初めての事態にさすがの尾形も当惑を隠せなかった。
「ねぇ、百之助。お寺の住職さんでも呼んでみる?」
夕食後、「お茶淹れるから飲んで」と母に引き止められて居座れば、そんなことを言われた。
「お母さん思うんだけどね、あのとき百之助だと思って返事しちゃったから、うちの中に招き入れたんじゃないかなって。だから、お祓いでもしてもらえば収まるんじゃないかしら」
「やめとけ。金がもったいねえ」
「やめとけ、って。それじゃあ引っ越す?」
そう言われれば口を噤むよりほか無い。
「何とかなるわよ」
母はなんでもないようにからりと笑ったが、尾形の内心は穏やかではない。
親子二人暮らし。母が今の会社で働き始めて多少の余裕が出てきたとはいえ、かつかつなのは変わらない。第一、寺の僧侶などはそもそも怪異が見えない人も多いと聞くし、お祓いをしたからと言って本当に怪異が収まる保証もない。そんなないないだらけに無駄な金を掛けさせたくなかった。
「……あのね、百之助。お母さんあの頃色々あって、ちゃんと面倒見てあげられなかったでしょ。そのことずっと気にしてたの。今更って思うかもしれないけど、困ってるなら頼ってほしいのよ」
長いこと生活に染み付いた怪異だから、慣れてしまって困ることは何も無かった──この間までは。
けれどこの先も包丁の一件みたいに、母に危害が加えられるのは本意ではない。かと言ってお祓い、という手段にも懐疑的で、どう答えるのが正解か分からず、尾形は窮した。
「素性のよく分からない霊能力者を呼ぶよりは建設的でしょう?」
気丈に振る舞う母を見ながら、お茶を煽る。結論が出ないまま、話し合いは平行線でその日は就寝した。
夜半、何かを叩かれる音で意識が浮上する。尾形は来たのか──と身構えた。
コンコン、と断続的に続く音に、そのうちカリカリと爪で引っ掻くような音も混ざり始めた。まさか窓から入ろうとしているのかと、目を開けて尾形は初めて気付いた。目覚めたばかりで判然としない意識じゃ分からなかったが、音は窓からではなく、廊下側から聞こえている。
コンコン、カリカリ、ガタン──。
物音は大きくなる。それは徐々に自室へと近づいてきているようだった。
尾形は逃げなければと飛び起きる。
──どこへ?
幸いこの家は平屋だから、窓から出れば外へ出られる。しかし玄関は鍵を閉めているから回って入れない。そうなると、母を一人残して逃げる事になる。それだけはしたくなかった。
そうしている間に、カリカリと執拗に引っ掻くような音から、ガリガリと苛立つような音に変わる。フローリングや巾木、壁、果ては敷居まで見境なく引っ掻いているようなその音は、やはり尾形の部屋へと近づいている。
しばらく耳障りなその音は続いていたが、ある瞬間ぴたりと止んだ。諦めたのかと息を吐いたのもつかの間、自室の襖が大きく揺れた。目を見開いてそちらを見ると、ほんの少しだけ襖が隙いている。そこから覗く間隙には、青白く骨ばった指が見えた。
驚いて出そうになった悲鳴を、なんとか飲み込む。──逃げなければ。そう思うのに、体は思うように動かない。指はゆっくりとした動作で縁を掴むと、少しづつ間隙を広げ、敷居が乾いた音を立てる。
怯懦で竦む体をどうにか叱咤し、後ろへと膝行る。じわりじわりと襖が開かれる度、尾形もまた後ろへと膝行る。だが、どこまでも距離を空けられるわけもなく、とうとう背中が押入れに触れた。
──ここまでか。
そう思った時、押入れの襖が開いた。振り向くよりも先に腕を捕まれ、中に引きずり込まれる。あっという間に尾形は暗闇に閉じ込められた。恐怖が限界だったのか、彼の意識はそこで途切れた。
目が覚めると、そこはいつもの自分の部屋で、見慣れた天井と照明が視界に入った。
「……夢?」
体を起こして部屋全体を眺める。部屋の襖はしっかり閉まっているし、押入れだって何ともなかった。
――あんな話をするから変な夢を見る。あるいは、懊悩が見せた幻覚か。
昨日の母との話し合いを思い出しながら、そう思い込ませる。
「百之助、起きてる? 遅刻するわよ」
母が居間から呼ぶ声が聞こえて、時刻を確認すると、いつもならもうとっくに支度をしてる時間だった。
慌ただしく自室を飛び出し、洗面所に駆け込む。
「おはよう。お母さんもう出るから戸締りお願いね」
「分かってる」
「玄関にお弁当と朝ごはん用のおにぎり置いとくから持ってくのよ」
そう言い残して母は一足先に家を出た。起きてこない息子に見切りをつけておにぎりを用意したあたり、さすがは母だと感心した。
「おはよう尾形ちゃん。今日元気ないじゃん」
ヘラヘラと笑いながら声をかけてきたのは、隣のクラスの白石だった。意識的に嫌味を飛ばす尾形に懲りずに声をかけ続ける稀有な存在だ。
「何の用だ。昼飯は奢らんぞ」
「ええー、だめぇ? 今月ピンチなんだよ」
「知るか」
相手をするのも面倒になり一蹴する。
「今日はいつもより冷たいのね。ヨシタケ悲しい」
「気持ち悪い絡み方すんな」
尾形は思わず顔を顰めた。
「ひどいよ尾形ちゃん。心配してやってるのに」
泣き真似をし始める白石に、尾形はますます距離を置きたくなって歩調を早めた。すると白石は「待ってよ」と追いすがり、腕を軽く引っ張った。
「え、これどうしたの」
「は?」
彼の表情は制服の袖から覗く尾形の手首に向けられている。白石の強ばった表情に自然と動悸がした。視線が向けられた先を辿ると、自身の腕にくっきりと手の形の痣が付いている。
「なんだこれ」
――今朝は付いてなかったのに。
そう思ってよく手形を見ると、それは随分と小さい手のようだと気付いた。女の手の大きさではなく、明らかに子どもの手のそれだ。あのとき引きずり込んだ相手はあの青白い手じゃなかったのか――。
そういえば、と尾形は押入れに引きずり込まれて意識を失う直前、何かを言われたような気がしたことを思い出した。それも、稚い子どもの声で。
だとすれば、あれらは一体――。
「尾形ちゃん、もしかして心霊スポットとか行った?」
「なわけあるか」
「だよね」
「ただ――」
「ただ?」
尾形は一泊置いて、呼吸を整える。
「変な声はする」
それだけで白石は察したのか、目を伏せた。
「いつから?」
「両親が離婚してからだから、十年くらい前だな」
白石は尾形の腕についた手形を、いつになく真剣な表情で見つめていたと思ったら、ふと顔を上げた。
「どっかでお祓いするとこ探しとこうか?」
白石は隣の寺町に住んでいるため、近隣には寺が多かった。おそらくつてはあるのだと思う。だが尾形は首を振った。
「いらん。そこまでしてもらう筋合いはねえよ」
「でも――」
「気にすんな。そのうちどうにかなる」
「どうにかって……」
白石の制止する声を振り切って尾形は教室へと逃げ込んだ。
家に帰ると、今日も母が先に帰ってきていた。キッチンで夕飯の支度をしている母に、「ただいま」と声をかけると肩が僅かに跳ねる。それだけで、何かあったのだと察しがついた。
「……出たんだな」
「出たというより、聞こえた、のほうが正しいかしらね」
「返事は」
「してないわ」
憔悴した顔のまま、母は再び包丁を握る。
尾形は昨晩の出来事を話すべきか迷った。言えば余計に母を不安にさせることは分かっているが、こうも通常とは違う動きをされると、母の言うお祓いとやらに頼るべきかと心が傾く。
知らず右の痣がついた腕を握ったまま考えあぐねていると、母が怪訝そうに見つめる。
「どうしたの?」
「……いや。なんでもない。着替えてくる」
母が何かを言う前に尾形はキッチンを後にした。
夕食後、親子は特段話すことも無く、黙ってテレビを眺めていた。母はしきりに息子の様子を窺っているが、肝心の本人は気付かないふりをしてバラエティ番組の話題を振る。母もそのうち諦めて、明日早いからと先に就寝した。
母も寝入ってしまった事だし、することも無いから自分も寝てしまおうと尾形は風呂に入った。
――しまった。
明日は世界史の小テストがあるのに、教科書を机に入れっぱなしだったことを思い出した。学校はもう締まっているし、忍び込もうとしたところでセキュリティが作動するから入れない。諦めていつもより早く登校して暗記するしかない。
幸いなことに世界史の成績は悪くないため、小テストくらいなら及第点でどうにかなる。
「……ったく」
悪態が口をついて出た瞬間、浴室の照明が明滅した。反射で顔を上げると、既に明滅は止まり、照明は何事もなかったかのように浴室内を照らしている。嫌な予感がしたが、築三十年も経つ家だし、越してきて十年。照明の調子が悪くなったところで不思議はない。自身にそう言い聞かせ、再び顔を下げた。
するとやはり照明が明滅を始める。そして顔を上げると止む。
昨晩の出来事もあり、気味が悪いと感じた尾形はさっさと体を洗うと、たいして湯船に浸かることもなく浴室を出た。
タオルで乱雑に水気を拭き取ると、寝巻きに身を包む。そうしている間も、気のせいとは思えないほどの視線を感じる。それが余計に気味が悪く、急いで洗面所を飛び出した。
自室へ続く廊下を足早に歩き、襖に手をかける。そこで緊張が解けたのか、そっと後ろを振り返った尾形は――見なければよかった、と後悔した。
開け放したままの洗面所の扉から、青白い手が覗いている。
急いで部屋の中へ逃げ込んだ尾形は、部活でもほとんど活躍の場がない木刀をつっかえ棒にした。これで多少の時間稼ぎにはなるだろうと思ったが、予想に反して襖はすぐに大きな音を立て始めた。
ガリガリ、と執拗に襖を引っ掻く音が部屋に鳴り響く。そこから少しでも距離を取ろうと尾形は後退る。すると後ろから、カタンと押入れの襖が揺れる音がした。
自分でも呼吸が浅くなっているのが分かる。耳珠を汗が伝い、口の中が渇く。
恐る恐る後ろを振り向くと、押入れの襖が隙いていた。
――今度はこっちか。
自室の出入口と押入れの両方に意識を向けたまま、横目で窓を見る。鍵は掛かったままだから、手こずれば昨日のような事になりかねない。今日はもう迷わず外に逃げ出そうと決める。あとはタイミングのみ。
再び押入れに視線を向けると、先程より広がった間隙から、小さくふくふくとした子どもの手が手招きしていた。
――昨日掴んできた手はこんなにも小さかったのか、と尾形は驚嘆した。
その瞬間、今度は自室の襖が殊更大きな音を立てて揺れる。つっかえ棒にした木刀はもう外れそうだった。
この状況の中、尾形の頭の中は、「なぜ」という疑問で埋め尽くされる。
昨晩見た青白く骨ばった手は、なぜ今までと違う様子を見せたのか? そもそも、背後で手招きしている子どもの手はなんだ? 本当はどちらかがデコイで、どちらかが本体だとしたら?
その間にも、自室の襖は大きく揺れる。そして、ゴトンと音を立てて木刀は外れた。
――入ってくる。
窓へと駆け出そうと一歩踏み出す。すると押入れの襖がいきなり大きく開いた。驚いて動きが止まったその隙を逃さず、中から小さな手が飛び出し、迷いなく尾形の足首を掴んで引きずり込んだ。
完全に不意を突かれたせいで、いとも容易く暗闇の中に閉じ込められる。尾形は昨晩と同じように、意識を失った。
一つだけ昨日と相違があるとすれば、意識を失う直前に――どこかで見た事がある子どもだ――そう思ったことだった。
目覚まし時計の音で目を覚ます。重い瞼を持ち上げると、見覚えのある天井と照明が視界に入った。昨日と全く同じ状況。起き上がり、布団をめくって足首を確認する。思った通り、そこには子どもの手の痣が付いていた。それを見た尾形は、今度は夢でないと確信する。
「なんなんだよ……。なんで俺なんだ」
引き攣れた声は朝の静寂に消えた。
「尾形ちゃん小テストどうだったよ?」
にやけ面で近付いてくる白石を睥睨すると、彼は顔を強ばらせてその場に止まった。
「……聞いちゃまずかった?」
それもそのはず、結局尾形は昨晩の出来事のせいで通常通りの登校時間となり、たいして教科書を暗記することもなく小テストに挑んだ。結果は推して知るべし。
「帰れ」
そう吐き捨てて尾形は踵を返した。
「ちょ、悪かったってば! 本題はそこじゃないんだって!」
どうにかして引き留めようとする白石を無視して階段を駆け下りる。――しつこいやつだと苛立ちながらも急ぐ足は止めない。
「尾形ちゃん待ってよ! 真面目な話があんの!」
テストについてもだが、怪異の件もあって、今の尾形は虫の居所が悪かった。いい加減にしろと言い返すために振り返ると、肩のあたりを何かが押した。
抗う事も出来ずに体が宙に浮く。耳元であの怪異の声が「早く」と言った。
白石の顔が悲痛に歪んでいるのがスローモーションのように見える。こんなことなら、母の言う通りお祓いでもしてもらえば良かったと後悔した。
「あぶねぇ!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた直後、背後から体を抱きとめられた。けれど重みに耐えられなかったのか、受け止めた人物と共に何段か階を滑り落ちる。
ゆっくりと目を開けると、階段の中ほどで落下が止まったらしいことが窺えた。安心したと同時に、心臓は大きく脈打ち、呼気は荒くなり、嫌な汗が背中を伝う。
――外まで付き纏うことなんて無かったはず。
「尾形ちゃん! 杉元! 大丈夫か!?」
白石が血相を変えて駆け寄ってきた。
「俺は大丈夫だけど。なぁ、あんた大丈夫?」
背後から脳天気な声がする。振り向くと、縦横に大きな傷が顔面を走る生徒がいた。大丈夫と言おうとしたが、いたずらに喉が鳴るだけでまるで用を成さない。
「とりあえず保健室行こうぜ。あんた怪我してるし」
彼はそう言って尾形の肩を軽く叩く。それだけで、強ばっていた体の力が抜けた。
「先生怪我した」
「またお前か、杉元。まずは失礼します、でしょうが」
堂々とノックもせずに保健室に入ると、杉元と呼ばれた生徒は開口一番そう宣った。保健医は「性懲りも無く喧嘩?」と呆れている。
「ちげーよ。怪我したの俺じゃなくてこの人。あとそんなしょっちゅう喧嘩しない」
嘘つけと口を挟んだ白石を杉元が小突く。じゃれつく二人を無視して保健医は尾形に視線を向けた。
「どこ怪我したの?」
「え、」
「足。ちょっと捻ったんじゃないかな。痣出来てたぜ」
杉元が白石を絞めながら言った。
「あらそう。ちょっと見せて」
痣、と言われて再び体が強ばった。どう見たって捻った痣じゃないのに、見せられるわけがなかった。
一向に見せる気配のない尾形を、保健医は怪訝そうに見る。
「どうしたの?」
「いや……。痣は捻ったやつじゃない、ので大丈夫です」
「そうなの?」
「それよりそっちの人見てやってください。俺を庇って階段踏み外してるんで」
それを聞いた保健医は顔を顰め、「ちょっと杉元」と詰襟を掴んだ。
「先生それパワハラ」
「生意気言うな。見せなさい」
大したことないのに、と杉元は口をすぼめて制服の裾を捲った。彼の言う通り、大したことは無いが、細かなかすり傷が多くついている。それにしても、人ひとり抱えて踏み外しておきながらこの程度で済むとは、頑丈にも程がある。「お前は本当に心配ばっかり――」と保健医は愚痴をこぼしながら手当をしていった。
「さ、次はあなたね」
保健医は再び尾形に向き直った。
「俺は別に――」
「大丈夫とは言わせないわよ。白石からあなたも一緒に踏み外したって聞いてるから」
このタコ坊主――白石を睨めつけると、当の本人は明後日の方向を向いて知らぬ存ぜぬを突き通している。
保健医の圧に負け、諦めて制服の裾を捲った。
「かすり傷はちょっとあるわね。痣もたしかに――」
保健医の表情が強ばった。どうやら気付いたようだ。白石と杉元も同じような表情をしている。
「……見なかったことにしてくれませんか」
尾形がそう言うと、保健医は当惑した顔をした。
「そうしてほしいなら。けど、大丈夫なの?その、虐待ではないんでしょうけど……。明らかに手の形だし」
言いにくそうに彼女は尾形の顔色を窺う。
「大丈夫です。どうにかします」
「どうにかって――」
「本当に大丈夫ですから」
反駁は許さないとでも言いたげな尾形の視線に押し負け、保健医は口を噤んだ。
手当が終わると、尾形は保健医の心配を跳ね除けて保健室を飛び出した。
「あんた素直じゃないんだな」
いつの間に追いついたのか、杉元が後ろを歩く。
「お前には関係ないだろ。それともなんだ、礼でも言って欲しいのか」
「腹立つ言い方。まあいいけど、言ってくれるなら白石に言ってやれよ」
「は?」
なんで、とこぼせば「ちょっと頼まれて」と杉元は肩を竦めた。
「いたいた!ちょっと二人とも歩くの早くない?」
「白石が遅いんだろ」
「もー、ちょっとは優しくしてよ。いいの?ここで泣くよ?」
「はいはい」
杉元は適当に返事をする。
「そうだ、尾形ちゃん紹介するね。こいつはご近所付き合いの長い杉元佐一くん。今年の新入生よ」
「杉元、佐一」
その名を聞いて尾形は思い出した。目の前の男は入学早々三年生と一悶着起こした問題児だ。なにが原因かは尾形自身忘れたが、三年生が喧嘩を売って殴り合いになったことだけは覚えている。結局、先に手を出した三年生が非を認め、痛み分けとなった。
「問題児の、って今思ったろ」
「まあな。それにしても一年だったとは」
よく見ればその顔は傷ばかり目立って隠れているが、まだ頬はまろく、全体的にあどけなさが残る顔立ち。加えて上履きのラインの色が違う。たしかに一年生のようだ。
「ていうか、俺、タメ口きいちゃだめじゃん」
杉元は慌てたように言う。それもそのはず、尾形は二年生で、杉元の先輩になるからだ。
「今更構うかよ。好きにしろ」
杉元は虚をつかれたような顔をしたあと、白石に顔を向けた。
「尾形ちゃんがいいって言うなら、いいんじゃない」
そう言われた杉元は尾形に向き直り、「えっと、ありがとう?」と首を傾げながら言った。
「そこは素直に言えよ」
「あんたに言われたくねー」
顔を顰める杉元の鼻をつまむ。
「生意気な後輩だな。ついでにそのあんた、ってやつやめろ」
つまんだ鼻を離すと、むくれた顔をして「じゃあ尾形」と杉元は言った。
「ところで白石に頼まれたことってなんだ」
昇降口に向かいながら、杉元に気になっていたことを質問する。
「ああ。尾形が取り憑かれてるみたいだから、どうにかしてやってくれって」
「……おい」
地を這うような低い声に、白石の肩は大仰に跳ねた。
「だって心配だったんだもん」
「もんとか言うな。」
「たしかにもん、てのはちょっとな……」
杉元は僅かに引いたような表情を浮かべている。
「一応俺も先輩なんだけど」
悄然と肩を落とす白石を横目に、杉元は「それで、」と続ける。
「白石が話通しておくから、尾形の家に行ってくれって頼み込んできたんだよ。しかも今日」
「……ひとつ聞きたいんだが、杉元は霊感があるのか?」
「いや、さっぱり」
あっけらかんと言ってのける杉元に、尾形は目を見開いた。霊感がないのになぜ杉元に頼み込んだのか。近所付き合いが長いならなおさら、どういった為人かを白石なら分かっていそうなものだが。
「霊感ないって言うとみんなそういう顔するんだよな」
いたずらっぽく杉元は笑った。
「絶対視えないし、祓うことも出来ない。なのになぜか原因を当てることが出来る。ちょっと人より勘が鋭いだけの、霊感なんて呼べないものがあるんだ。毎回そう言ってるのに、すぐこういうことに駆り出すから……」
隣で黙って話を聞いている白石は更に小さくなった。
「調子いいやつだからな」
「まあ、そこに助けられてる場合もあるんだけど」
杉元が助け舟を出すと、途端に白石の顔色が明るくなる。「調子いいやつ」という発言を、すぐさま体現してくれる有能な同級生だと尾形は思った。
「なあ、原因を当てるってどうやるんだ?」
「虱潰しにそれらしきものを探すだけ。なんて言うか、見れば分かるんだよ。なんとなくで。そこから目が離せなくなるっていうか、視線を固定されるって言った方が正しいかな。逆にそれを見るまでは分からないから、探し当てるのが大変なんだ」
「アナクロだな」
「たしかに性能はよくないよな。よく聞くような、気配で遠くから分かるとかってのは全くないから」
自嘲気味に笑うと、杉元は僅かに肩を落とした。それだけで、白石に付き合わされて苦労してきた様子が窺える。
「そうだ。話は変わるんだけど、取り憑かれてるってどういうこと?俺詳しく話聞いてないから、どういう状況なのか教えてほしい」
尾形は今の家にずっと昔から住まう怪異について、掻い摘んで説明した。
声が聞こえること。今まではそれ以外の被害は一切無かったこと。母が返事をしてから怪しい動きを見せ始めたこと。そして、先程ついに階段から突き飛ばされたことも。
「そりゃ変だな」
「変か」
「それまでと違う動きを見せるってのがな。あと急に声真似が上手くなるってのも……。低級なやつなんかそんなこと起こらないらしいし、悪さなんて程度が知れるんだけど。しかも十年も経ってかぁ」
「杉元もそこが引っかかるか」
これに異を唱えたのは白石だった。
「いやー、でもさ、実はいつでも尾形ちゃんのこと殺せるから勿体ぶって大人しくしてた可能性はない?」
「なんで?」
「能ある鷹は爪を隠す、的な?」
「うーん、その理論はちょっと難しくない?いつでも殺せるなら、引っ越してきたときに殺せばよかったわけだし。十年経って実行に移す理由が分からない」
話を聞いていた尾形は、たしかに、と納得した。そこまでの実力があるなら、今実行に移すのは道理がない。しかも、未成年者とはいえ高校生だ。殺すなら、越してきた当初――まだ幼かった頃のほうが手にかけやすい。
そこまで考えて、ある疑問が浮かんだ。
「なあ、幽霊って成長すると思うか?」
「「幽霊が成長!?」」
二人は声を揃えて驚嘆した。
「仮の話だがな。手をかけやすい幼子の頃ではなく、成長した今手をかける理由が、向こうも成長して賢くなったからだとしたら?」
突然上手くなった声真似、親子への明確な殺意、夜半の急襲。どう考えても、知能指数が上がっているとしか思えない。
今まではそういった計画を立てられるほどの知能が無かったから、声をかけることしか手段が思い浮かばなかっただけ。何かのきっかけで学習したのなら、今の尾形に手をかけるのも道理がある。
それに反駁したのは白石だった。
「無理がある気もするなぁ。近所の坊さんが言うには、幽霊ってのは死んだ瞬間で時が止まるらしいし」
「無理……か」
杉元は白石の意見とはまた違う考えがあるのか、なにか考え込む様子を見せた。
「成長は無理でも、なにかほかの影響を受けて変化するとか……」
「幽霊って変化すんのか?」
「創作話なんかじゃ悪い気が溜まって無害だったものが害を成すようになる、なんてよく聞くけどな」
所詮創作だしなぁ、と呟いて杉元はまた考え込んだ。
「なあ、ほかになんか無かったの?」
「ほかに――ああ、子どもは気になるな」
「子ども?」
「ああ。例の怪異が出ると、必ず部屋の押し入れに子どもの霊が出る。そいつに二回、引きずり込まれてる」
「だから腕と足に痣があったのか……」
白石が納得したような表情をした。次いで、「でもなんで?」と疑問を投げかけた。
「それが分かれば苦労しねえよ。俺としては、デコイかなんかかと思ったんだが――」
「デコイ?」
単語の意味が分からなかったらしく、白石が首を傾げるとすかさず杉元が「囮って意味な」と補足した。
「つまりどちらかが囮で、尾形の気を引いてる間に手をかけようとした、と」
ああ、と首肯する尾形に白石が「でも」と言いながらそっと手を挙げる。
「幽霊ってチームプレーすんの?」
「聞いたことないなぁ。親子だったならありそうだけど」
「子どもの霊が出たのはこの間が初めてだから、それはないと思うが……」
ここにきて三人の間にしばし沈黙が降りた。子どもの顔は見覚えがある気がしたが、誰なのかは思い出せない。あの青白い手の怪異が親なのだとしたら、ずっとその存在を隠していたのだろうか。
――なぜ?
今の今まで隠し通す理由が分からない。わざわざ今まで隠しておいて、ここで姿を現す道理とはなんだ。
それとも、ほかの霊を使役できるようなやつだったのか。そうなると、なぜもっと早い段階でそうしなかったのか、という疑問が再び浮上する。
考えてみても、なにもかもが分からない。曖昧模糊とした憶測ばかり飛び交う。残るは――
「……どこかで見たことがある顔の気がしたし、誰かに恨まれたかもな」
怨恨の可能性か、と杉元は誰に言うともなく口にする。
「痣以外にも被害出てるの?」
「いや。そいつからはそれくらいしか」
「なら、怨恨もまた違うんじゃないか?押し入れに引きずり込んでおきながら被害が痣だけなんて、よっぽど恨んでるなら首くらい絞めてそうだけど。俺だったら一回で仕留めるためにそうするね」
「それは俺も同感だ」
「二人とも物騒なこと言わないでよぉ」
渋面を作った白石が口を挟んだ。
「考えたところで結論は出ないだろうな」
諦めたように尾形はため息をついた。
「そうだな。そんで結局、原因がなにかを探るには、俺が尾形の家にお邪魔するしか方法がないんだけど――」
行っていいの?と杉元は尾形の顔を覗き込んだ。
尾形は返答に窮した。勘だけで原因を当てられるなんて言われて、すぐ信用できるほど単純ではない。とはいえ、このままだといずれ母にも被害が及ぶだろう。既に殺傷沙汰になりかけているから、あれらは日を置かずに実行に移しそうだ。
どうしたものかと考えあぐねていると、
「今すぐとは言わない。本当に困ったら声掛けてくれ」と杉元は付け足した。
これに難色を示したのは白石で、「おい杉元」と声を荒げた。
「本人が望まないのに無理強いは良くないだろ。急にこんなこと言われたって、信用できない気持ちは分かるし」
「だからって――。杉元だって見ただろ、あの痣を。今夜にでも何かあったらどうすんだよ」
杉元は眉尻を下げて、しばらく押し黙っていた。そしてふと、思い出したようにリュックを床に下ろすと、ファスナーの引手から何かを取り外した。
「効果あるか分かんねえけどこれ貸しとく」
渡されたのはお守りだった。
「交通安全用じゃねえか」
「だから効果あるか分かんねえって言ったじゃん。でも無いよりマシだろ?」
人好きのする笑みで押し付けられ、尾形は不承不承ではあるが、お守りを受け取った。
「これで妥協してくれるか、白石」
尾形は白石に問う。
「……次なんかあったら絶対杉元連れてくからね」
彼もまた、不承不承といったふうに引き下がった。
家に帰ると中は未だ暗いままだった。母はまだ帰宅していないらしい。いつもの癖で誰もいない空間に「ただいま」と声を掛けた。すると居るはずのない母の声で「おかえり」と返事が聞こえる。
体が硬直した。――明らかに霊障の頻度が増えている。
早鐘を打つ心臓を押さえつけながら、視線を動かす。あの青白い手はまだ見えない。するとまた、「おかえり」と聞こえる。
――おかしい。
いつもなら無視をすれば一度きりで止むはずの声が、今日は繰り返されている。異変を感じて後ろ手に引違いに手を掛けると、「おかえり」と戸の向こうから再び声が聞こえた。しかも今度は焦れたような口調で。
戸は開けず、慌てて後ろ手のままサムターンを降ろす。ぎこちなく振り向くと、櫺子のついた引違いには、磨りガラス越しに人影が写っている。引違いを隔てた向こう側に、それはいた。
ヒュッ、と喉から息が漏れる。あのまま気付かず開けていたら、恐らくは――。
戸の向こうを睨みながら、尾形はゆっくりと後退る。踵が上がり框に当たった。音を立てないように靴を脱ぎ上がり込む。
一向に返事がないことに苛立ち始めたのか、怪異は先程よりも強い口調で「おかえり」と繰り返した。
――頼むから消えてくれ。
胸中で願うも虚しく、今度は引違いを叩き始めた。
ガタガタ、ガリガリ、ドン――。
激しく揺らしたと思ったら一瞬音が止まる。かと思えば、激しさを増して戸を叩いた。しまいにはのべつまくなしに「おかえり」を繰り返す。この頃にはもう母の声ではなく、男とも女ともつかない声が狂ったように叫ぶだけだった。
杉元から借りたお守りを取り出すと、御神璽が割れる音がした。もはや用を成さなくなったお守りを握りしめ、廊下を膝行る。
ガチャリ――。
サムターンの上がった音がした。
「嘘だろ――」
顔を上げると、引違いがゆっくりと滑っていく様が見えた。慌ててさらに後ろへ膝行ると、背中が自室の襖に当たった。恐怖と既視感で動きが止まると、突然襖が開き、強い力で体が引きずり込まれる。
――やっぱり。
予想はしていたが、幾度となく沸き起こるなぜという疑問が脳内を占める。
――恨まれるようなことでもしたか。
そう思うと、まるで考えを読み取ったかのように稚い声で「お礼です――」と子どもは言った。
その瞬間、強烈な眩暈に襲われて意識が遠のく。次は目覚めないかもしれないという恐怖で抗おうとするも、抵抗虚しく視界が暗転した。
「……け。百之助!」
強く体を揺すられ目を開けると、泣きそうな顔をした母が覗き込んでいた。
「か……さん」
乾いた喉からは引き攣れた声しか絞り出せない。
「ごめんね――。お母さんが頼りないばっかりに」
ついに母は泣き出してしまった。声を上げて泣く母を見るのは久しぶりで、当惑したまま動けずにいると、強い力で抱きしめられた。
「もうここ引っ越そう。お金ならなんとかなるから」
母の華奢な腕に包まれて、ようやっと体から力が抜ける。
――さすがに限界か。
自身も母も、もう耐えられないだろうと尾形は悟る。こうなれば後輩だろうとなんだろうと、使えるものは使ったほうが身のためかもしれない。
ごめんね、と泣きながら謝る母の背に手を添える。記憶よりもずっと痩せた体がひどく愛おしく思えた。
「白石いるか?」
次の日、尾形は隣の教室に顔を出すと、白石の所在を聞いた。
「白石?一年のとこ行ったけど」
そうか、と言い残し教室を離れる。中央階段を登り、三階へと向かう。彼がどの組へと向かったか分からないが、杉元を探していることだけは見当がついた。
虱潰しに探していくしかないと諦めて、登りきった先を曲がると、見計らったかのように二人と鉢合わせた。
「その様子だとなんかあったんだな」
尾形のひどく憔悴した顔を、表情の翳った杉元が見つめる。
「お守りは効果あった?」
「身代わりにはなってくれたようだ」
「尾形ちゃん……」
心配そうな白石と目が合った。いたたまれなさに襲われ、頭を掻きながら視線を逸らす。
「杉元」
「なに?」
「一度うちに来てくれるか」
二人は一度顔を見合せ、安心したような表情を浮かべた。
「いつ行けばいい?」
「できれば今日。無理なら明日。なるべく早いうちがいい」
「分かった。今日行く」
尾形は無言で首肯すると、ポケットから借りたお守りを取り出した。
「もう使えないだろうが、一応返す」
御神璽の割れたお守りを杉元の手に握らせる。彼は困ったように笑んで、「お役御免かぁ」とこぼした。
「部活はいつ終わるの?」
「十八時には終われそうだ」
「じゃあ俺の方が早いね。昇降口で待ってる。白石は?」
「俺も一緒に行っていいなら待ってるけど……」
「好きにしろ」
「じゃあ、杉元と待ってるから」
放課後、と約束を交わし、尾形は教室に戻った。
顧問が急遽私用で帰ったため、部活は自主練となった。それをいいことに尾形は少し早めに切り上げ、部室を後にする。昇降口に向かうと、杉元と白石が話し込みながら待っていた。
「あれ、早かったじゃん」
尾形に気付いた白石が顔を上げる。
「自主練だったから早めに切り上げた」
「意外と緩いよね、剣道部」
「弱小だしな」
自嘲気味に笑うと、白石もつられたように笑った。
「尾形」
杉元に呼びかけられてそちらに視線を向けると、お守りを差し出された。
「今度はちゃんと厄除け準備しといたから」
聞けば昨日の帰り、わざわざ神社に寄って買ったらしい。「貸すだけだぞ」と杉元は釘を刺した。
「……お人好しだな、お前」
「素直にありがとうって言えよー」
お守りを受け取って、むくれた表情をした杉元の鼻頭をつつく。
「お手並み拝見だな」
尾形が挑発するように言うと、「言ってろ」と杉元も強気な瞳で返答した。
自宅への帰路を歩きながら、昨日の出来事を簡潔に話す。
「俺も母親ももうダメだと判断して、近いうちに引っ越すことにした」
「そうか……。それじゃあ身が持たないもんな」
「ああ。引っ越すと言っても次の新居までは今の家にいることになるから、そのつなぎと言ったら悪いが、原因を探ってもらおうと思ってな」
俺は構わないけど、と言いながら杉元は怪訝そうに尾形を見る。
「原因を当てたところで取り除くことも払うことも出来ないから、それ以上のことは本職の人にお願いするしかないけど」
「いずれにせよ母親は引っ越すつもりでもう動いてるからな。僅かな間のその場しのぎでもいい」
対処法が見つかるのならそれで――。
自宅に帰ると、ちょうど帰宅した母と鉢合わせた。
「おかえり――って、お友達?」
「いや、ちが――」
白石が慌てて尾形を肘で小突いた。
「初めまして!隣のクラスの白石由竹です」
「えっと、杉元佐一です。せ、先輩にはいつもお世話になってます」
「あら、お友達に後輩の子も一緒なの」
にこやかに挨拶する白石と、人好きのする笑みを讃える杉元に、母はすっかり気をよくしたようだ。
「お前友達だったか?」
「んもー、泣いちゃうぞ。じゃなくて、そこは適当に合わせておいてよ」
母に訝しまれない程度の声量で白石とやり取りする。
「とりあえず上がって――あ、いえ……その……」
母は連日の怪異について思い出したのか、二人を上げることを躊躇った。
「あの、先輩の家で起こってる件について、今日は相談を受けて来たんです」
杉元が隠さず言うと、母ははっとしたように顔を上げ、尾形に視線を向けた。
「こいつがもしかしたら原因が分かるかもしれんと言うから。引っ越すまでの間だけでもなにか対処できればと思って俺が頼んだ」
「そうなの……」
「嘘だったらはっ倒しておくから安心してくれ」
「おい」
聞き捨てならないと言ったふうに杉元がぞんざいな口をきいた。
「ふふ、頼もしいわね。それじゃあ上がってもらおうかしら」
安心したように母は笑んだ。
「……俺のこと疑わないんだな。尾形のお母さん」
普通は信用しないけど、と杉元は小声で付け加えた。
「こう見えて結構タフだぞ、あの人」
そうじゃなければ女手一つで手のかかる男児をここまで育てられない。
「そうだ、お夕飯食べていくでしょ?」
確定事項のように母は二人に聞く。途端に白石が喜色をあらわにした。
そこまで許した覚えはないぞ、と言わんばかりに尾形は白石を睨めつける。だが当の本人は、そんな視線など意に介さないように無視をした。
「いいんですか?」
「もちろんよ。初めて連れてきてくれたお友達だもの」
これには杉元が肩を震わせた。必死で笑いを堪えているようだ。
人間関係の希薄さが露呈したところで痛くも痒くもないが、こうも笑われると思うところがある。後で苛めてやろうと尾形は腹の底で決意した。
「古臭い家で悪いけど。さ、入って」
母はにこやかに笑って玄関の鍵を開けた。その瞬間、杉元の眼光が鋭利になったのを尾形は見逃さなかった。
獲物を見つけたときの獣のような剣呑さ。射抜くような鋭さと、殺気にも似たなにかを孕んだ瞳が、ある一点を見据える。視線を辿るとそこには、下足入れの上に母が職場から貰ってきた猫のぬいぐるみが鎮座していた。
「……杉元」
「うん?」
声を掛けると杉元の瞳から剣呑さは消え、いつもの表情に戻っていた。
「とりあえず入れよ」
「ああ、そうだな。お邪魔します」
杉元は視線をぬいぐるみに向けたまま、敷居を跨いだ。
「できるまでの間ゆっくり待っててね」と言い残し、母はキッチンに立った。
「杉元」
「なに?」
「玄関のぬいぐるみ、気になったか?」
白石はどうやら杉元の視線に気付かなかったようで、驚いた表情をして彼を見た。
「気になった。多分あれかなって思うけど、一応家の中全部見てみないと確信は持てないかな」
杉元は眉を寄せて悩まし気な表情を見せた。
「あれじゃない可能性も?」
「ないとは言いきれない。話を聞く限り、その怪異は土地、あるいは家に最初からいたんだろ。どうみたってあのぬいぐるみは新しいから、あれが直接的な原因なのか判断が難しい」
よく見ていると、尾形は感嘆した。
「でも、押し入れの子どものほうは?あっちに関わってる可能性もあるよね」と白石が口を挟んだ。
「たしかにな。しかもあれは母さんの同僚の手作りらしい」
あのぬいぐるみは母が会社の同僚から貰ってきたものだ。趣味で手芸をしている人らしく、いつも世話になっているからとプレゼントしてくれた。
「もしその人が尾形ちゃんのお母さんを恨んでいたとしたら……」
「怨恨の可能性も捨てきれなくなってきたな」
杉元は顎に手を当てて考え込んだ。
「とりあえず、色々見させてもらってもいい?」
「ああ。母さんの部屋は本人に聞いてもらってからになるが、それ以外は好きに見てくれ」
そう言うと、杉元は「それじゃあまずは尾形の部屋かな」と腰を浮かせた。
自室へ案内すると、「失礼しまーす」と言って杉元は襖を開けた。六畳間に押し入れと机。小さな本棚が置いてあるだけの簡素な部屋。
杉元は問題の押し入れに近づくと、そっと中を覗く。中板には普段使っている布団一式と、予備の布団が置いてある。天袋には季節物の衣類が仕舞ってあった。中板の下を覗くと、卒業アルバムなどが入ってるダンボールが1つあるくらいで、体を折りたためば人ひとり入るくらい余裕の広さだ。
「なんかあったか?」
「いや、どうかなぁ。ダンボール開けてもいい?」
「ああ」
一通りダンボールの中身を確認するも、これといったものは見つからなかった。
「多分ここには何もないと思う」
「じゃあやっぱりあのぬいぐるみ?」
白石が僅かに声を落として言った。
「可能性は高まったな。でも、まだお母さんの部屋は見てないから、確定ではない」
杉元はそう言うと、次に母の部屋に入る許可を取り、彼女の部屋へと足を踏み入れた。
尾形の部屋と同じく六畳間と押し入れがある構成。その他に化粧台とクローゼットが置いてあった。押し入れは開けても良いと言われたので、早速中を覗く。
中板にはやはり布団一式と、予備の布団やシーツが置いてあった。天袋や中板の下には、尾形と同じように季節物の衣類やアルバムらしきものが収納されている。他には資格の参考書や、もう読まなくなった本がまとめられていた。いずれも引っかかるものはない。
振り向いて首を振る。二人は顔を見合わせて、やはり、といったような表情をした。
「こいつが原因なのか」
尾形は玄関へと向かうと、下足入れのぬいぐるみを手に取った。
怪しいところなど何一つ無さそうに見えるが、手作りのぬいぐるみだ。解体すれば中から怨詛の綴られた紙の一つや二つ、出てきてもおかしくない。
「そうは見えないけどなぁ」
杉元はそう言いながらぬいぐるみを眺める。可愛らしい猫がアンティーク調の鏡を持っているデザインだ。華美ではないから、どこに置いても馴染むだろう。
「そういえばここは?」
白石が玄関横の片引きを指さす。
「洗面所だ」
「開けていい?」
「何もないとは思うがな」
そう言って尾形は引手に手をかけた。開け放たれた戸の向こうには、年季の入った洗面化粧台が佇んでいる。それを見た杉元は何かに気付いた表情をした。
「それちょっと借して」
言われるがままぬいぐるみを託すと、先程と同じ位置にそれを置き直した。
「……合わせ鏡だ」
言われて初めて、尾形もそれに気付いた。片引きを隔てた向こう側にある下足入れ。建具を開けっ放しにしてしまえば、ちょうど洗面化粧台とぬいぐるみの鏡が向かい合わせになる。
「合わせ鏡はいつから?」
「母さんがこのぬいぐるみを貰ってきたのがたしか三週間くらい前で……」
――異変が起き始めたのも三週間前だったはず。
「ここ開けっ放しにすることは?」
「ある」
古い家だから湿気が籠りやすく、換気のために開け放しておくこともあった。
三人は顔を見合わせる。
――これが原因だ。
古来より合わせ鏡は魔を発生させると信じられてきた。あるいは、霊道を作るとも。
おそらく、気にせずここにぬいぐるみを置いた結果、知らず知らずのうちに異空間を作り出してしまった。それがもともと居着いている怪異に影響し、さらに母が反応を示した事で活発になったのだろう。
「でも、それだと押し入れの子どもはどうなるの?」
残るもう一つの疑問を白石が投げかけると、
「それが分からないんだよなぁ……」と杉元はため息をついた。
「……もっかい押し入れ見てみない?」
言い出したのは白石だった。
「さっきなにも出なかっただろ」
「でも見落としてるかもしれないじゃん。それに、分かんないままで今晩も過ごすの、気持ち悪くない?」
そう言われると、尾形もその気になってしまう。
それじゃあ、ともう一度自室の押し入れを開けて、杉元が入り込んだ。
「なんもないだろ」
「ないな……ん?」
杉元が何かに反応した。中板の使っていない予備の布団を捲りあげると、カタン、と何かが畳の上に落ちた。拾い上げると、それはミニカーだった。
「尾形の?」
「いや、俺のじゃ――」
拾い上げたそれをよく見ると、ひらがなで小さく名前が書いてあった。
「ゆうさく?尾形ちゃんの知り合い?」
白石が怪訝そうに覗き込んだ。
――どこかで聞いたことがあったような。
親戚かと思ったが、両親は離婚しているから父方の親戚とは会わない。
母もここに地縁がないから、親戚は遠い他県で会う機会がほとんどない。だから会えばそう忘れることもないはずだった。
――けれど、どこで?
「百之助、ご飯できたよ」
タイミング良く、襖の向こうから母が顔を出した。
「母さん、ゆうさくって人、知り合いにいたか?」
これ、と母にミニカーを渡す。すると母の顔が僅かに強ばった。
「一回しか会ったことないから、忘れちゃったのね」
「会ったことあるのか」
「ええ。いずれ話しておこうと思っていたから、ちょうど良かったかしら。続きはご飯食べたらにしましょ」
誘われて三人は居間へと向かった。
食事を終えたあと、母は全員分のお茶を淹れてくれた。暖かいそれを口にしながら、母が口を開くのを待った。
「あなた、何年か前に街でばったりお父さんと会ったこと覚えてる?」
「え――」
「たしか、中学上がってすぐくらいじゃないかしら」
そんなことあっただろうかと記憶を弄れば、たしかに入学式の帰りに離婚した父親とショッピングモールで会ったことを思い出した。
「ああ、あったな。そんなことも」
「そのときに一緒に連れていた子どもが勇作くんよ」
はっとして顔を上げた。母は穏やかに笑んで、
「可愛らしい子だったわね」
そう呟いて目を伏せる。
初めて会ったとき、まだ彼は稚くて喋り方も舌っ足らず。母に歳を聞かれれば「四歳」と答えるのに、示した指は三本のままだったりと、年相応の拙さを持ち合わせた素直な子だったと記憶している。
「勇作くんね、一ヶ月前に亡くなったの」
尾形は驚いて目を見開いた。
「足を滑らせて縁側から落ちて、打ちどころが悪かったみたいでそのまま……」
母の同僚が偶然、父親の現在の家の近くを通った時、葬式の案内看板に名前が出ていたそうだ。父親は有名な上場企業グループで働いていて、その苗字を名乗っているのは近隣でも彼しかおらず、軽く有名人扱いだった。息子の訃報は一気に広まり、母の耳にも及んだ。
「どうしてこれが出てきたのか分からないけど、最後の挨拶のつもりかしらね」
母はミニカーを手に取る。
「……お礼って」
「お礼?」
尾形は連日起こった出来事と、昨晩言われた事を母に話した。最初は少し青ざめた顔をしていたが、話を聞き終えると、複雑そうな面持ちになっていた。
「あの子、あなたに懐いていたものね」
「そう、だったか?」
「あら、それも忘れたの?」
――このミニカー一緒に探してあげたじゃない。
そう言われて、記憶が鮮明に蘇った。
父親と鉢合わせたあの日、母は久しぶりに会った彼と少しだけ立ち話をしていた。再婚したことや、今働いている職場や、お互いの子どもの話で盛り上がっている。
性格の不一致で離婚したことが嘘みたいに、穏やかに話をしていた。この二人は距離が空いていた方が上手く付き合えたんだろうと思った。
他愛ない身の上話を聞いていても対して面白みがなくて、尾形はぼんやりとどの部活に所属しようかと思案する。
すると、制服の裾を弱々しく引っ張られた。視線を下に向けると、勇作と名乗った子どもがこちらを見上げていた。
その子はにっこり笑うと、「あそぼ」と尾形に手を伸ばす。子どもの相手はしたことがなく当惑していると、焦れたその子は尾形の手を取った。
勇作は「あっち」と指さして、おもちゃ屋へと引っ張る。二人に後で迎えに来て欲しい旨を伝えて、手を引かれるまま一緒におもちゃ屋のテナント前に向かった。
ミニカーのショーウィンドウ前で立ち止まると、勇作は「これ、もってる」と古めかしいセダンのミニカーを指さした。遊び相手がいて嬉しいのか、舌っ足らずながらも楽しそうにその子は話をする。対する尾形は相づちを打つだけの、傍から見れば一方的なコミュニケーションだったが、勇作は終始にこやかだった。
二人が迎えに来た頃、名残惜しかったのか、勇作は例のミニカーを見せようとポシェットを探った。たいした時間稼ぎにはならないが、もう少し一緒に居たかったのだと思う。けれどいくら探してもミニカーは出てこない。父親に「どこかで落としたのか」と言われて、勇作は泣き出した。
「おとしてない。あるもん」と大粒の涙を流す彼を見てられなかったのか、自分でも驚いたことに「一緒に探してやる」と言ってしまった。母はその言動が意外だったのか驚いた表情をしていたし、父親は呆れていた。
そこから広いショッピングモール内をひたすら歩いて探す。それでも見つからなくて、誰かが拾って持って帰ったのかもしれないと諦めの空気が流れたとき、父親の鞄の中からミニカーは見つかった。
父親も預かったまますっかり忘れていたらしい。自慢のミニカーを掲げて見せる勇作のまろい頬を、尾形は自然と撫でた。
「ミニカーが見つかって嬉しそうだったわね、あのときの勇作くん。あなたも帰り際に飴なんかあげたりして。子守りできたんだなって感心したのよ」
「でも、なんで――」
「よっぽど思い出に残ったんだろ」
口を挟んだのは杉元だった。
「たったそれだけでか?」
「尾形にとっちゃたったそれだけでも、その子にとっては大事な記憶なんだよ」
すると白石も笑って、
「だから助けたんだよ。お礼です、って」と言った。
「もうすぐ四十九日でここに留まれるのもあと少しだから、最後に会いに来たのよ、きっと」
母はミニカーをそっと撫でた。
その後、母は杉元に言われた通りぬいぐるみの配置を移動すると、あれだけ激しかった怪異は鳴りを潜めた。
最初からここに住まう怪異だったから全く活動しなくなったわけではないが、以前と同じく無視をすれば済む程度に収まった。時々聞こえるその声に、苦笑しながら尾形は肩を竦める。
勇作の方はと言うと、彼もその後ぱったりと姿を表さなくなった。脅かす驚異も無くなって安心したのかもしれない。
ミニカーは一度、母が父親に事情を話して返しに行ったことがある。けれど父親は「あの子が百之助に置いていったものだから、持って帰ってくれ」と言って、母はそのまま持ち帰ってきた。
それ以来ずっと、ミニカーは机の上にいる。
そんな出来事があってから一年。結局ずるずると貸家に住み続け、高校卒業を間近に控えた冬に親子は引っ越した。
今はなんの怪異もなく快適に過ごしているんだとか。
あの貸家にまだ怪異が居座っているのか。離れてしまった現在では分からない。