体温に触れる その日の様々な用事をこなして宿に戻ったときに肩に伸し掛かった疲労感は相当なものだったが、それでもかなりの充実感に満たされていて気分は悪くなかった。いや、むしろ昂揚感がずっと続いていたと言っていい。
だから、ベッドに並んで腰を下ろしたとき、〝その〟気になったのはモクマの中では至極自然なことであった。
「チェズレイ……」
宿のベッドは二つ。それでも相棒と同じベッドに腰掛けたのは、少しの距離でも離れ難かったからだ。チェズレイの艷やかな髪を一房手に取りながら、彼の目を真っ直ぐに見つめて言う。
「お前に触れたい。許してくれるか」
「……ええ。いずれこうなる予感はしていました」
「その回答は百点とは言えんね。俺はお前さんの意思を訊いてる」
「フッ、フフフ……まさかあなたに逃げ道を塞がれるとは。雰囲気を読んでくださらないなんて、甲斐性のない方ですねェ」
チェズレイは小さく笑い、目を閉じて深くため息をついてから、髪に触れるモクマの手を取って己の頬に当てさせた。
「どうぞご随意に。私も、あなたの熱に触れたい」
「……ありがとな」
モクマはチェズレイの肩をそっと押してベッドに横たえさせた。
ヴィンウェイでの騒動が落ち着いて、二人で南国を訪れたのは、モクマの母と数十年ぶりに再会するのが最大の目的であったとはいえ、バカンスの気分がなかったと言えば嘘になる。もっと正確に言えば、新婚旅行とか蜜月とか、そういう類の気持ちだ。
自分たちの肩書きは相棒やら主従やらと表されるもので、婚姻関係を結んだわけではないものの、一生を一緒に歩むことを約束したのだから事実上の伴侶であると少なくともモクマは考えている。それに、互いの家族(片方は変装であるが)に相棒を紹介するというのは、ある種の契約の儀式と呼べるのではなかろうか。
そう、本日一番の大仕事はチェズレイを伴って母の元を訪れることだった。決心はしたつもりだったし、気負うことはないと頭では思っていても、やはり数十年という月日は長すぎたようだ。いざ事態に直面するとガチガチに緊張してしまった。
『落ち着いてモクマさん。深呼吸、深呼吸』
『そ、そうね……ヒッヒッフー! ヒッヒッフー!』
『モクマさァん。私、ドレミファソラシドを歌いたくなってきてしまいました』
『だっ、大丈夫! 大丈夫だから催眠術はナシね!』
相棒が隣にいてくれて助かった。冗談めかして空気を軽くしてくれなければ、母の家の玄関前に立つまでに相当な時間がかかってしまったことだろう。
本当に、チェズレイがいてくれてよかった。隣に立つこの男を、ああ愛しいなあ、と本気で思ったのだ。そうしたら手を繋ぎたくなったし、抱き締めたくなった。チェズレイの綺麗好きを知っているから、勝手にはできなかったけれど。宿に戻るまで我慢するくらいの分別はモクマにもある。
そうして二人きりの空間で、モクマはチェズレイに許されて、彼に触れる権利を得た。真っ白なシーツの上に横たわるチェズレイのシャツのボタンを上から一つずつ外していく。
……この南国へ二人で来たのは、チェズレイの療養も目的の一つであった。ヴィンウェイの騒動からさほど間は空いておらず、実のところ彼の傷はほとんど治りきっていない。服を脱がされて曝け出されたチェズレイの肌には、痛々しいほどの負傷の爪痕が残っていた。
モクマは傷の一つ一つをつぶさに観察する。じっと無言で見下ろす相棒の目線に耐えかねたのか、チェズレイはわずかに身じろぎして、顔を逸しながら呟く。
「自分で言うのもなんですが、惨い有様でしょう」
「ああ、そうね」
「顔だけは免れましたが、美からは程遠い体だ。……幻滅なさいました?」
「馬鹿言え」
どうやらモクマが黙っているのを、醜さのあまり気持ちが萎えたのかと解釈したらしい。まったくこの相棒は、人の心を読むのに長けているくせに、こと自分に向けられた情となると途端に感受性が鈍くなるのが困りものだ。そんな不器用なところも可愛げの範疇ではあるのだが。
「この傷だってお前さんの風味だろ。きれいだよ、チェズレイ」
いつだったか、空飛ぶ城のお姫様に言ったことがある。
『だって、君はほんとにすてきだ。たぶん、傷があるから余計に』
改めて、あのときの発言は真理だったと思う。こんなに傷だらけでも、この相棒はモクマにとっては一等美しい。
「世辞だけは達者ですねェ」
ああ、駄目だ。モクマ自身も数十年来の逃げ癖を治すのに難儀したが、チェズレイも上辺だけの賛辞に慣れすぎたせいで、他人からの想いを受け止めるのが下手すぎる。ルドンゲンの山小屋でモクマの本気をようやく知ったくせに、咀嚼して飲み込むことがまだろくにできないでいるらしい。
「もう、お世辞じゃないってば。こいつは思い知らせてやらにゃならんか」
ふざけた声から低音にシフトさせつつ、モクマはぐっと顔を近づけた。
「キスしても?」
「どうぞ」
チェズレイは少し顎を上げてモクマを迎える態勢を取る。間近で見ても肌荒れ一つない滑らかな頬に、けぶるような長い睫毛。まるで人形めいた現実感のない美貌でも、かすかな緊張を孕んだ浅い呼吸が、彼を生命の宿る肉体だと知らしめる。潤んだ瞳が見守る中、モクマは彼の柔らかな唇に己の唇を重ねた。互いに口を閉じたままの、触れるだけのキスだ。深く口付けるのはチェズレイにはまだ早い。
唇だけでなく、チュッとリップ音を立てて顔全体にもキスを降らせる。チェズレイはくすぐったそうに目を細めた。
顔から首筋へ。喉仏も頸動脈も余すところなく、手のひらで撫でつつ唇でも彼の肌を味わう。そのまま鎖骨まで降りていき、そこへ強く吸い付いた。
「ンッ」
「えへへ、痕つけちゃった」
傷を免れて白いままだった箇所を、あえて鬱血させる。己の手によって増した濁りに、モクマはどうしようもない悦びを感じてしまう。このままチェズレイの全てをモクマの濁りで上書きするつもりだ。
「痛かったら言ってね」
肩から上腕へ、上腕から手首、手の甲、手のひらへ。反対の腕も同様に。
「あ、あァ……」
力加減は調節しつつ、無傷なところも、傷の上も、お構いなしにモクマの手のひらと唇が這う。初めは触れられる感覚に戸惑いを見せていたチェズレイも、それが己を害うものでないと覚えたのか、吐息が次第に熱を帯びてきた。
次いで鎖骨から胸、鳩尾、脇腹、臍、そして下腹へ。モクマの想いを刻み込むように、チェズレイの体をなぞっていく。熱をくまなく与えられ、チェズレイの瞳が恍惚に蕩ける。唯一身に着けたままの下着の中で、彼が緩やかに兆しているのがわかった。
「モクマさん、私、わたし」
「うん?」
「だめです、輪郭がたもてなくて、とけてしまいそう……」
「うんうん、気持ちいいんだねえ」
感じていることを素直に告げてくれるのは良い兆候だ。普段の遠回しな言葉遊びも会話する分には楽しいけれど、今のチェズレイに必要なのは心を開くことだった。熱に浮かされて思うがままに言葉を口にすればいい。
太腿に触れると、チェズレイの体がピクリと跳ねた。脚を少し開かせて内腿にキスをすると、あァ、と上擦った声が上がる。腿の裏を撫で、膝から足の甲まで滑り下り、爪先にもうやうやしく唇を落とす。モクマの無骨な手足と違って、桜貝のような爪に肉刺一つない足の裏と、こんな末端までがきめ細かに整っていることにいっそ感動してしまう。くすぐったいのか、それとも感じているのか、チェズレイの手がギュッとシーツを握り締めた。
「モクマさん、モクマさん、もう」
「悪いけど、やめてやるわけにゃいかんね」
「あっ、あ、溢れてしまう……!」
チェズレイの声に焦りの色が混じる。そのまま決壊してしまえとモクマは思う。彼は他人の想いを受け止める器が小さすぎるのだ。目一杯溜めて溢れさせて、その都度限界を広げていけばいい。モクマが彼に注ぎたい情はまだまだ到底物足りない。
反対の脚を抱え直して、再びなぞっていく。
「あ、ァ……〜〜〜〜〜ッ」
脚の付け根を撫でながら膝の裏に口付けたとき、チェズレイの足の指がキュッと丸まったかと思うと、強く目を瞑って全身を震わせた。
「まだ触っただけだったんだが、上手くイけたみたいだねえ」
「触っただけ、なんて、嘘ばっかり……」
チェズレイは天井を見たまま何度もまばたきを繰り返して、胸を上下させながら掠れた声で言う。
「ただ触れるだけがこんな、心地よいはずが」
「んー、俺が何か特殊なことしたと思ってる? 別になんもしとらんよ。愛撫ってのは気持ちいいもんさ」
あいぶ、と口の中で呟いて、チェズレイは黙ってしまった。
軽く絶頂までしたのはモクマにも意外だったが、モクマの手の熱に感じ入るだろうことは初めから見込んでいた。全身を丹念に撫でられる経験など、恐らくこれまでのチェズレイには経験がなかっただろうから。初めて接する他人の体温は、冷えた心にはさぞ沁み入るだろうとの予想はビンゴだったようだ。
「……あなたは、私を抱きたいのではなかったのですか? 撫でてキスするだけで満足なのですか」
「いんや、抱くつもりだよ。けどお前さんが想像してるような、脚を開かせて突っ込むだけの行為とは違う。俺は愛を確かめ合いたいの」
まだ抱えたままだった片脚の爪先にもキスをすると、チェズレイは再び口を噤んだ。
「ほい、次は背中ね」
「待って、モクマさん」
体をひっくり返そうとするモクマの手を制するように掴んで、チェズレイが懇願の眼差しを向ける。
「一つ、わがままを聞いて頂けませんか」
「おおっ、珍しい申し出だ。いいよ、何が望みだい」
「……すぐにわかります」
チェズレイは体を起こすと、準備してきますと言って寝室を出ていってしまった。怖気づいて逃げた、わけではないのだろう。彼は詐欺師のくせに、こういうときに詭弁を弄することはしない。モクマは大人しくベッドの上で待つことにした。
やがて寝室の扉が開かれた。モクマはぼんやり壁に向けていた目をそちらに向けて、思わず「えっ」と驚愕の声を漏らした。そこに立っていたのが、空の楽園のお姫様だったからだ。
彼女はバスローブに身を包んで、しずしずとベッドに歩み寄る。
「君……」
「ねえ、ニンジャさん。あなたは私を抱ける?」
そう問う彼女の菫色の瞳には不安が浮かんでいた。
どう答えるのが正解なのかわからない。だが、これが相棒の言う〝わがまま〟ならば、断らない方がいいのかもしれない。一度唾をゴクリと飲み込んで、モクマは腹を決めた。
「……おいで」
差し出した手の上に、お姫様の白魚のような手が重ねられた。
隣に腰を下ろしたお姫様がバスローブの紐を解こうとするのを、モクマが首を横に振って止める。
「どうして?」
「そうだな、上手く言えんが……君の子どものために、かな」
お姫様の瞳に浮かんでいた不服の色が、目を丸くするとともに戸惑いへと変化する。
チェズレイの真の望みは読めないままだ。それでも、彼女の裸を見るのは違うと思った。相棒のためにこそ、それはしてはいけない気がしたのだ。
「キスをしてもいいかい?」
「……ええ」
お姫様は瞼を閉じて唇を薄く開く。モクマは彼女の頬に手を添えて、そっと己の唇を重ねた。角度を変えてもう一度。舌を入れることはしない。相棒にもまだしていないことを、彼女相手にするわけにはいくまい。
唇を離すと、彼女を抱き寄せて背中に触れた。バスローブ越しに背を撫でながら、少しずつ腰まで降りていく。子どもをあやすのとは違う、性感を引き出すような色めいた指遣いだ。ただ、絶対に乱暴にはするまいと細かく神経を使った。彼女の尊厳を蹂躙した男と同じになってはなるまいと。
何度か手を上下に往復させていると、モクマの腕の中でうっとりと熱い吐息を溢していたお姫様の唇から、少しずつ湿った声が漏れ始めた。モクマが腕を下ろしてわずかに体を離すと、彼女は震える手で顔を覆ってしまった。
「あなたの優しさが、他の男たちに少しでもあったのなら……」
その言葉は、お姫様の声で紡がれたものではあったが、誰が呟いたものかがわからないほどモクマは鈍感ではなかった。眼の前の愛しい相手を胸に抱き寄せ、今度はあやすように背中を叩く。
どうやら自分の選択は間違っていなかったようだ。相棒は、他者に翻弄されるばかりだった大切な人が、誰かに優しく愛されることを願っていたのだろう。役に立てたと自惚れるつもりはないけれど、望みに添うことはできたはずだ。
「大丈夫。ここに君を傷つけるやつはいないよ」
胸に縋りついたお姫様は無言で頷いたようだったが、肩を震わせるのは変わらなかった。腕の中の大事な人の心まで守れたらいいのに。モクマは己の欲張りな願いを自覚しつつ、抱き寄せた背中をずっとあやし続けた。
「お、目が醒めた?」
薄っすらと目を開けたチェズレイは、モクマに背を抱かれて眠っていたことに気がついた。いつ眠りに落ちたのかが記憶にない。被っていたはずの母の仮面も剥がされているようだった。
「ご迷惑をおかけしまして……」
「迷惑だなんて! かわいい相棒の貴重なわがままだもの、存分に堪能させて頂きました」
モクマが楽しそうに言う。気を悪くしていないのであれば幸いだが、チェズレイには少しばかり申し訳無さが付きまとう。
「続き、しましょう」
元はモクマの希望で抱かれるはずだったのに、自分のわがままを優先した挙げ句に寝落ちしてしまったのだ。今からでも遅れを取り戻さねば。
「んーにゃ、楽しみは次にとっとこうや。今日はこうして裸のお付き合いできただけでも十分だよ」
言われてみれば、モクマも自分も下着を身に着けただけの状態である。肌同士が密着しているのに、さほど不快感を覚えないのが不思議だった。
「まだ眠いんだろ。目がちゃんと開いてないよ」
「ええ……ではお言葉に甘えて」
チェズレイは首の下に敷かれたモクマの腕に再び頭を預けた。目を閉じて視界から情報を遮断する。そうしていると、不意に蘇る感覚があった。
「モクマ、さん、あなた……」
眠気混じりの声で背中の相棒に問う。
「山小屋で、こうしてくれていた?」
「……ああ。あんときゃお前さん、体が完全に冷え切ってたからね」
どうりで憶えのある温かさだと思った。どうして忘れていたのだろう。こんな優しさに触れていながら、随分と薄情なことだ。
「礼、を」
言わねば。そう思うのに、意識はどんどん沈んでいく。
「起きた後でいいよ」
顔にかかった髪を太い指で払われる感触を最後に、チェズレイの意識は眠りの国へ旅立っていった。