さざなみが、寄せては引く/仙樹仙&ナル樹で樹のノロケシーンif/樹+蔵+桑(一瞬名前だけミノルも) 亜空間は樹を語り部に、静かな線香花火を、ぱちり、ぱち、とはぜさせる。ぱち、ぱちと、それは何の喝采もなく、静かに、しずかに、ちいさくはぜるのだ。それはちょうど、“仙水”の別人格について樹が語っていた時のこと。ナルという女性人格について、樹はこのように語った。
「オレはよく彼女に悩みを打ち明けられ、そして慰めた。忍とカラオケに行くと、ナルはいつもひょこりと顔を出し、決まってオレに『守ってあげたい』をリクエストしたものさ。彼女はいつもうれしそうに、――そしてさびしそうに、オレの歌声に耳を寄せていたよ。彼女はたいてい『悪女』や『あの娘』を選び、歌いながらぼろぼろ涙をこぼしていた。オレはそんな彼女の肩を抱き寄せ、そして胸を貸していた。これからも、きっとそうするだろう」
桑原は頭を両手で抱えながら、くるいそうな胸中で、くちを大きく引き結ぶ。一方の蔵馬は、淡々と、指摘するのだった。
「それは、少々“話が違う”んじゃないか? お前は彼女を守りたいと歌いながら、その実、“あの娘”のことのみを真に愛するあなただった、ということになるが」
「それの、なにがおかしい?」
「すべてさ」
言われて、樹は気分を害するでもなんでもなく、むしろ心底うれしそうに、ふっ、と、口端をわずか上げる。蔵馬も、ことばのわりにつめたいかおはしていなかった。こちらもふっと、わずか、そうだともすればまんざらでもないような。樹とのやりとりの、その含蓄に、桑原はすぐ気付く。
「おいおい、蔵馬よォ…お前、コイツの言ってること、まさか理解しちゃいねぇだろうな?」
「少々、心当たりがあってね」
「ぬぁにぃ!?」
動揺に目をひん剥く桑原は、警戒する猫のように両肩をびくりと縮こまらせた。蔵馬は安心させるようにとでも、諸手のひらを掲げ、補講をするのだった。
「ああ、勘違いさせたならすまない。ちょうど、母の音楽の趣味と一致していたんだ」
「ああ、そうゆう…」
ほっ、と安堵に肩の力がどっと抜け、同時に、変な汗が出ていたことにも桑原は遅れて気付く。音楽の趣味。洋楽を好む桑原には心当たりがなかったが、どうも、蔵馬には通じていたらしい。くつくつと、上機嫌そうにのどで笑む樹は、引き続き親しげに話しかけてくる。
「なかなか、良い趣味の母親を持っているじゃないか。大事にしろよ」
「貴様に言われると不愉快だ」
「おや、それは失礼」
一転ぴりりと警戒に神経を尖らせる蔵馬に妖狐のすがたを錯視して、桑原は肝の冷える心地がした。さきほどの指摘しているようで話に乗っていたらしい蔵馬との温度差に、それでも樹は動じない。恐らく、慣れているのだろう。他人の、空気の変化に。多重人格だという仙水に寄り添っているということは、そういうことなのだろうと、桑原は頭の隅で思う。
「そうだ、ナルとのエピソードをもう少し聞かせてやろう」
「聞いてはいないが」
「まあ、聞け」
蔵馬の対応に樹はこの亜空間に漂う塵の一片ほどにも動じず、上機嫌でノロケを続ける。
「あれは、彼女と沖縄に行ったときのことだ。彼女の、ささやかな夢さ。かわいいものだろう。彼女が水着でめいっぱい泳いでみたいと言うから、プライベートビーチ付きの宿を利用した。オレは気にしないが、彼女が人目が気になると言うのでね。思い切ってビキニを着たい、と、言う彼女とともに、もうずいぶん慣れたサイズ直しの裁縫に精を出したよ。ああ、彼女ののびやかな緊張ときたら、陽光に揺れるかげろうよりはるかに愛おしかった…
蟲寄に戻ってきてから、スーパーマーケットのパン売り場でミノルとともにサータアンダギーを見かけたときには、ナルが沖縄でうれしそうに両手でにぎりしめていたものだな、と、そのはにかむ笑顔を思い出し、思わず買って帰ったものさ。ナルは、たいそう喜んでくれたよ」
静かに聞いていた蔵馬が、区切りと察し、口を開く。
「……消息不明だった、と聞いていたが…ずいぶん、逃避行を満喫していたようだな」
「勘違いするな。忍もオレも、ただ霊界に行動を勘繰られるのが虫に触った、それだけのことさ」
なあ、ところで裏飯は?と、思っても桑原は口を挟めず、ちらり横目に見れば目を再度ひん剥き身を乗り出したくなるような状況になっていた。ごつん、と、ぶつかる場所もなく空振りするあたま。握った手が変な汗に滑るのに、だのにぎゅっと握ったそこに、ああ、剣が自然現れる――
「!
忍、裏飯を殺せ!」
なれあいは、ここまでだ。時は、来た。
ざしゅり、と、斬り割いた亜空間。時は、時は、ああ、時は来た。コミカルにいくらおどけてみても、心音は、動いてやいなかった。ああ、ああ! ちくしょう、あんなやつの話なんぞ聞いてるんじゃなかった! 悔やんでも、時は戻らない。ああ頭の中だけそれが戻り、だのに、ああ、だのにいくらも、うごきやしない。
時は、来てしまったのだ。
その後、真の闘いを経て、仙水忍の、真の目的を、知る。彼が霊界に行く気を毛頭持たず、そして樹もそのつもりだったからこそ、霊界は忍の死期が近くとも霊界に来る予定者のリストには把握できていなかったのだと、その意味で忍が消息不明だったのだろうと、遅れて桑原たちは思った。忍のたましいは、静かな風がさらうべくだけ、ただ、ただ在ったのだ。柳にでもかどわかされたようだ、と、在るべき場所に“還って”行った彼を、彼らを、ただぼんやりと、見送ることしか、ああ、できなかった。色々と、考えさせられたけれど、今はそれをする時間の余裕もなし。
人間界に帰って、日常に、戻る。そこに、ああ、けれどただその同じ空の下に世界のなか彼らふたりだけ欠いているのだと、そのことだけがただ、どこかふしぎだった。ほんの少し前までは、知りもしなかった相手なのに。世界から彼ら去ったのだと、そのことだけがただ、ただどこかまるで哀しくでもあるような、それは間違いなく錯覚だ。ただひととき、語りを聞いただけの、それだけの相手なのに。ただ少しの間闘った、それが成した痕というだけにはわずか巨きくもちいさな喪失感を、それでもほとんどの者はたいてい知らず、世界は、うごいてゆく。世界は、うごいてゆく。ああ、少しだけ、花を撒きたい。沖縄の海にでも? ふるり、と、ちいさく揺らした髪が、それでも肯定じみ、蔵馬の手持ちを使うでもなく、街の花屋に、足を向かせる。たとえば彼らがここで生きていたとき、きっとこんなふうに街とも関わったろう。そのあかしとして、その、しるしとして、証明を、ただすこしの刹那欲したのだ。センチメンタルというにはささやかなこのかかわりのあかしを、ここに、そこに、どこにでも彼らが在ったのだというそのあかしを、そこにかりそめ築きたくて。
花を、撒いた。遠くの海には行けなかったけれど、花を撒いた。桑原のほおには冷たい風が、それでも灼熱じみてそよぐ。さらわれていった彼らのどこかに、この風よ、通じていればそれがいい。そうでなくても、ただ、願いたかった。彼らの、とこしえの平穏を。あんなふうに、おおきな花火を打ち上げて去っていったヤツらのこと忘れ得ようか? 花は、風は、彼らにいつか、伝えてほしい。どこかで、幸せに過ごせよ、と。ただそのひとことの、手向けだけを。
さざなみが、花弁を寄せては引き、いくつかは底知れぬ遠くへと、そしていくつかは浜辺へと、打ち上げてまたさらい、また打ち寄せる。散り散りに、去っていくそれは、何か予知じみて桑原の胸をざわつかせた。ああ、この予感よ真実となるな。ただそれだけを、密かに願った。
終