綿毛の君と傘帽子の君④第4章
視界の端から端まで、華やかな場所。
僕が今まで来ることの出来なかった場所。
ついさっきまで感じていた、母さんへの後ろめたさは、いつの間にか消えていて、代わりに湧き上がる興奮が、ぼくの胸を満たしていた。
気になる出店を見つけ、兄さんに声をかけようとした瞬間、黒いものが僕の胸元まで勢いよく飛び込んできた。
あまりの勢いに、僕は其の儘後ろに倒れてしまう。
背中と腰が強く痛む。
兄さんは、慌てて先程飛び込んできた黒いものを両腕で抱えあげ、僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫だ。怪我は慣れっこだからな」
本当は驚きと痛みで泣きたかったけど、兄さんに心配なんかさせたくなかったから強がった。
でも、我慢をしていると鼻の奥がツンと痛んで、また泣きそうになる。
どうにか自分から視線を逸らしたくて、話題を探す。
目に泊まったのは、さっきの黒い塊だった。
よくよく目をこらすと、自分が黒い塊だと思っていたものが、おかしなお面を着けた犬だと言うことが分かる。
異国風の仮面と、氷柱のような形状の牙は印象的だ。
「その犬は?」
『この子は、僕の友人の 縺>縺」縺です。
友人が失礼しました。』
兄さんの友人の名前が書かれていることは分かったけど、不思議と読み取ることができない。
名前の部分だけ、文字が滲んでいるようだ。
ここでも正直に言うべきか、どうしようかと、考えあぐねる。
『…文字でも駄目でしたか』
兄さんは、ぼくが言わなくても、ぼくが考えていることが分かってしまったようだ。
その時の兄さんの笑顔は寂しそうで、胸がきゅっと苦しくなった。
『では、この子のことも、好きに呼んであげてください』
兄さんも、兄さんの友達も、本当の名前で読んであげたい。
でも、ぼくにはその術がないのだと突きつけられた。
「…クロ。クロはどうかな?」
我ながら安直な名前をつけてしまったと思う。
気に入ってくれるだろうかと、兄さんに持ち上げられた、彼を薄目で見上げてみる。
クロは気に入ったのか、僕の頬や口元を、分厚い舌で舐めまわした。
彼の鋭い牙が当たらないよう、気をつけてくれているようで、ちっとも痛くない。
擽ったさから、くふりと声が漏れた。
『気に入ったみたいですね』
クロの舐め取り攻撃をなんとか躱し、兄さんの持つ巻物へと目を移す。
「そう、みたいだな。
よかった」
大きな黒い頭を撫でてやると、仮面を下の瞳が気持ちよさそうに細められた。
柔らかい毛並みが手に心地よくて、離しがたかったが、僕たちは二人と一匹で屋台巡りを始める。
唐辛子屋、団子屋、農具屋、神具屋、占い屋。
目移りするほど多くの出店が道沿いにずらりと並ぶ。
その中でも、ぼくが一際惹かれたのは飴屋だった。
猫や兎、金魚や鶴などの、艶々しいの動物たちには、今にも動き出しそうな勢いがあった。
加えて、甘い香りを纏っていて。
『飴細工ですか、綺麗ですね。
どれがいいですか?
どれでも買ってあげますよ』
ぼくは、余程熱心に見ていたのだろう。
恥ずかしい。
恥ずかしさのあまり、つっけんどんな物言いになってしまう。
「買わなくていい!
…綺麗だから見ていただけなんだ。
だから…」
買わなくていいんだと続けようとしたが、その声は、毎度あり、と威勢のいい店主の声によってかき消されてしまう。
『もう買ってしまったので食べてください。
美味しいですよ』
兄さんは、ぼくが1番気になっていた、兎型の飴をぼくに手渡した。
すごく、すごく嬉しい。
だけど、さっき意地を張ってしまった手前、素直にこの飴を受け取ることができなかった。
「僕はいらないって言ったじゃないか。
僕は受け取らないぞ!」
無駄な意地を張っていることは、自分でもわかっているけど、素直に甘えるなんてできない。
どうせ、ぼくは、可愛くない子どもだ。
だんだん自分が惨めに思えてきて、目頭が熱くなる。
なんとか泣き出す寸前の顔を隠そうと俯いたが、それは兄さんの手によって阻止されてしまった。
正面には、兄さんの困ったような微笑があって、それを見た途端、堰を切ったように ぼくの目からぼろぼろと涙が溢れだした。
なんだか悔しくて、嬉しくて、胸がいっぱいになって苦しくて。
クロは、ぼくの足元をソワソワと行き来し、不思議なお面越しに、不安げな瞳で僕を見つめている。
兄さんは、みっともない ぼくの泣き顔から目を反らすことなく、僕が泣き止むまで、僕の顔を、ただ見つめていた。
ぼくが落ち着いたのを確認すると、兄さんはもう一度、飴細工を差し出してくれた。
ぼくはそれを受け取ると、ゆるりと口元に近付けた。
口に含むとまったりとした甘さが舌の上で溶けだして、よだれが奥から奥から湧き出してくる。
『美味しそうですね、一口貰っても?
見ていたら、食べたくなってしまいました』
恥ずかしそうに頬を掻きながら、スミレの花のようにに微笑む姿が愛らしかった。
僕は直ぐに飴を差出し、兄さんのに唇にあてがってやる。
すると、兄さんは、意外にもガリッと兎の耳を噛み砕いてしまう。
「兄さん、それじゃあ折角の飴細工が勿体ない」
それに可哀想だ、そこまで言ってしまうと、今度は 兄さんが可哀想になるから、言わない。
『それは、すみませんでした。
この兎にも悪いことをしてしまいましたね』
耳の欠けた兎を見つめて、兄さんは分かりやすく肩を落とした。
ぼくの中では特別だった兎を、壊されてしまったことが少し寂しくて、指摘をしたけれど、こんなに落ち込むなんて、なんだか申し訳ない気持ちがしてきた。
「いや、いいんだ…」
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
意を決して口を開いてはみるが、ぱくぱくと鯉のように口を開閉するだけで、肝心の言葉がでてこない。
それを見兼ねて、兄さんが「口を開く」。
『ねえ、アンドルーさん。
僕の名前を、もう一度、訊ねてくれませんか?』
初めて聞いたものよりもら、ずっと、鮮明に聞こえた。
頭の芯にこびり付いて、思考を霞ませる。
「兄さんの、ほんと、のなまえ」
ぼくの頭は、ろくに働こうともせず、兄さんの言葉を、ただ繰り返す。
『そうです、僕の本当の名前は―』
「ほんとーの、な、まえは?」
『ビクターです。
さぁ、僕の目を見て、僕の名前を読んでください』
冷たい手が僕の片頬を撫でる。
鋭く尖った爪が、ぼくの頬に軽くくい込み、ちくりと痛む。
「ビクター?」
『そうです、やっと呼んでくださいましたね!
あぁ、なんて幸せなんでしょう…』
ビクターは言葉の通り、とても幸せそうに瞳を蕩けさせた。
『これで、もう、逃げられませんね』
ああ、これは危ないなと感じたけれど、ぼくは もう、逃げ出そうとは思えなかった。
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その夜、村では轟くような犬の遠吠えが聞こえたという。