りんごといっしょさらさらと清い水が流れ、緑の木々に囲まれた雲深不知処。
その中のかなり奥まった場所に第二公子が大事に大事に世話をしているウサギたちがいる。
第二公子だけでなく弟子たちもかいがいしく世話をしているが、最近そこに全く種類の違う動物が紛れ込んでいた。
「りんごちゃん、ここにいたか〰️」
大きな耳に黒い体毛のロバは声の主をちらっと見ただけで、川べりに佇み再び草を食む。
「久々に小屋に行ったら居ないから心配したぞ~。思追に聞いたらウサギたちの所だって言うからさ」
足場の岩をひょいひょいと飛び越えて、魏無羨はロバの側に立った。だが、ロバは魏無羨を見ない。
「おいおい、無視するなよ。せっかくいいもの持ってきたのに」
魏無羨は真っ赤な実を2つ取り出した。
そのとたんに、ロバは魏無羨を振り向く。
「おっ、わかった?さすがりんごちゃん。お前の名前とおなじ林檎だぞ」
1つを差し出すと、ロバは器用に魏無羨の手から林檎を食べた。
もう1つは、魏無羨が齧る。
「んー、美味しい!」
岩に腰を下ろした魏無羨は、はあと息を吐く。
「そういえば、りんごちゃんとしばらく歩いてないよな」
魏無羨が雲深不知処から出る時は藍忘機が一緒か弟子たちが一緒で、最近はロバと行動することがなくなっていた。
時々、雲深不知処の中を藍思追や藍景儀ら弟子達が歩かせてくれてるようだが、ロバの人の言うことを聞かない気性と気まぐれさでかなり苦労しているらしい。
それに鳴きだしたら声がうるさいらしく、馬たちと一緒の小屋にいられず、奥まった場所なら多少鳴いてもいいだろうとウサギの所に連れていかれた。
持ち主として魏無羨は申し訳なく、なにか対策を考えないとなと思っていた。
「あ、そうだ」
雲深不知処には抜け道が存在する。
以前、焼き討ちにあった際にもそれが活躍して藍曦臣が逃げおおせることができた。
その中の1つで、ここから近い場所に裏山の草原に抜け出る道があることを魏無羨は知っている。
人が1人通れるぐらいで、厳重な結界が張られているが、結界を破ることなど魏無羨には朝飯前だし、元に戻しておけば気づかれることはない。
広い場所で久しぶりに伸び伸びと過ごせばロバのストレスと運動不足も解消されるだろう。
「よし!りんごちゃん、行くか!」
魏無羨は立ち上がりロバの手綱を持つと、自分の食べかけの林檎をロバの前にかざして誘導しながら、草原へと続く抜け道を目指して歩いて行った。
「よいしょっと」
馬の世話を済ませ、ウサギたちにあげる人参や大根の葉や牧草を入れた籠を藍思追は持ち上げた。同じように馬の世話をしていた藍景儀がその様子を見て声をかける。
「思追!ウサギのとこに行くのか?」
「うん。多分、魏先輩もそこにいらっしゃるだろうから」
「魏先輩が?」
「りんごちゃんがウサギのとこにいるだろ?魏先輩が探していたから教えたんだ」
ああ、と藍景儀も納得したらしい。
「俺も行くよ。なら林檎を忘れちゃ駄目だな」
馬たちに与えるエサの中から林檎を1つ素早く取った藍景儀はにっと笑うと、馬がブルルと文句を言った。
「ごめんごめん、今度はちゃんとあげるから!」
馬に謝りながら慌てて藍思追の持っている籠の中に林檎を入れる。馬達が騒ぐ前に馬小屋から2人は退散した。
「馬もロバも林檎が本当に好きだな」
「りんごちゃんも大好物だもんね」
「林檎さえあげればりんごちゃんはご機嫌だもんな。……何だよ」
ふふっ、と藍思追が楽しそうに笑ったことに気がついた藍景儀が唇を尖らせた。
「いや、景儀って何だかんだ言ってもりんごちゃんが好きなんだなぁって」
「あいつ、頭がいいんだよなぁ~。他の奴らと俺とは見分けがついてるみたいだし。指笛すると俺だとわかるのかちゃんと反応するんだぜ」
両手を頭の後ろに組み、自慢げに藍景儀が話す。
動物でも人でも藍景儀はよく懐かれる。
それは藍景儀が口ではいろいろ言いながらも面倒見がいいことがわかるからだろう。
「それにりんごちゃん、魏先輩が大事にしてるしな」
「りんごちゃんも、魏先輩を大事にしてるよ」
なんせ、魏無羨がこの世に戻ってからの付き合いの1人と1匹だ。お互いを大事にしているのは傍から見ていてもわかる。
「でもさぁ、最近りんごちゃんは雲深不知処を出てないだろ?運動不足だとストレスが溜まるんだってさ」
「前は、魏先輩と動きまわっていたからね」
馬小屋でやたらと鳴いたこともそのストレスが原因らしい。ウサギたちと過ごすようになってからは少しはマシになったが、運動不足もストレスも完全に解消とまではいかない。
「夜狩りに連れ出すにもなぁ……」
「りんごちゃんを魏先輩が連れて行ければいいんだろうけど、そうなったら含光君が……」
魏無羨が雲夢へ一度戻った時も、ロバを置いていくようにと藍忘機は言った。
魏無羨を雲夢から藍忘機自ら連れ帰った時に、ロバがいると困るからか~と周りは納得したフリをしたが、そうでないことは雲深不知処にいる誰もが知っている。
魏無羨とロバが揃うと雲深不知処から出ていくーー
姑蘇藍氏の共通認識であった。
どこででも生きていける術を持つ魏無羨だ。もし雲深不知処を出なくてはいけない事態に陥った場合、迷わずロバを連れて出ていく。
もちろん、弟子たちは魏無羨を慕っているのでどこにも行ってほしくはない。
だが、先達たちが恐れているのはそうなった時の藍忘機の様子の方だった。
ロバはうるさいが、雲深不知処から出してはならぬと訳のわからない決まりごともその為で、どうやら人質ならぬロバ質なのがりんごちゃんらしい。
「とりあえずさ、魏先輩とりんごちゃんのことを話そうぜ」
「そうだね」
ちょうどウサギたちのところに着いた2人は、足元に寄ってきたウサギたちにエサを与えた。
フワフワとした白いウサギたちは美味しそうにエサを頬張る。
「あれ?魏先輩、居ないな」
「もう帰られたのかな?」
次から次へと集まるウサギにエサをやりながら、ここにいるはずの姿がないことに2人は胸騒ぎがした。
「ちょっと川の方を探してくる」
藍景儀がそう言い残して、その場から離れる。
違和感は魏無羨が居ないことだけではない。
ロバの姿もない。いつもならウサギと一緒に姿を現すはずなのに。
「景儀!!」
藍思追の声に川の方に向かっていた藍景儀が振り返る。
「りんごちゃんも居ない!!」
「!!」
藍思追の言葉に弾かれるように藍景儀は走り出した。
何があったのかわからないが、まずは含光君に知られる前に魏無羨とロバを探さなくては。
籠の中から林檎を掴み出した藍思追はそれを懐に入れると自分も探すべく走り出した。
パチリという肌を走る微かな感覚に藍曦臣は外を見た。
(誰かが結界に触れたか?)
雲深不知処には何個かあまり知られていない抜け道があり、そこには宗主自らの結界が張ってあった。
ただ、無理矢理破ったという感じでない感覚とすぐさま戻された様子に、藍曦臣はどうしたものかと思案する。
(雲深不知処に入ったわけではなさそうだが)
今日、そこを通るという話も聞いていない。
破るにしても戻すにしてもそれなりの霊力がいる。そしてそれができるのは雲深不知処でも数限られた。
悪いものではないようだが、やはり確かめておく方がいいかもしれない。
藍曦臣は立ち上がると寒室を後にした。
ハアハアと荒い息遣いで階段をかけ降りてきた藍景儀に門番たちは驚いた。
「どうしたんだ?そんなに急いで」
「う、魏先輩は、ここに来た?リンゴちゃんと」
膝に両手をつき、身体を支えながら藍景儀が苦しそうに尋ねる。
「いや、今日はお見かけしてない」
藍景儀の様子に戸惑った門番の返事に藍景儀は降りてきた階段を再び駆け上がりはじめた。
「何かあったのか!?」
「魏先輩を探してる!もしかしたら、りんごちゃんが逃げたのを追ってるのかもしれないけど!もし、先輩がここに来たら探してたと伝えて!!」
「りんごちゃんが逃げた!?」
「景儀!他の奴にも声をかけろ!一人じゃ探せないぞ!」
「わかった〰️!!」
門番たちの視界からあっという間に藍景儀の姿が消える。
「りんごちゃんが逃げるか?」
「まあ、雲深不知処を出るならここを必ず通るだろうけど、ロバだからなあ」
神経を逆撫でするような声を出し騒ぐ魏無羨のロバは雲深不知処では厄介者だ。
勝手気儘に雲深不知処内を歩かれると間違いなく怒られる。藍景儀が慌てるのも頷けた。
「早く見つかればいいけどな」
白い雲が点々とある青い空にとんびがピーヒョロロと鳴きながら飛んでいる。
「あー、いい天気!」
ごろりと草の上に寝転んだ魏無羨はロバがどこにいるか確認しながら、雲深不知処の外を満喫していた。
久しぶりにロバの背に乗って草原を走り回った。
馬よりは乗り心地は悪いがなかなか早さもあって魏無羨の気晴らしにもなったし、ロバも喜んでいた。
枯れ草よりも青草を好む魏無羨のロバは走り回った後、ムシャムシャと草を食んでいる。
雲深不知処へと流れ込む小川もあり、ここはロバを遊ばせるにはうってつけの場所に思えた。
「ここに囲いを作ってりんごちゃんの遊び場を作りたいなぁ。沢蕪君にお願いしようかなぁ」
「何をお願いかな?」
自分を覗き込む穏やかな顔に魏無羨は慌てて飛び起きた。
「沢蕪君!?」
「やはり貴方か、魏公子。裏山への結界を破るなんて他の誰もしないからね」
魏無羨の横に腰を下ろした藍曦臣はふふふと笑う。
「あー……もしかしてそれで沢蕪君がここに?」
「それもあるが、ちょっと、ね」
ちらりと藍曦臣はロバを見た。大体の予想はあっていたが、まさかここにロバが一緒にいるとは思っていなかった。
「魏公子、貴方がりんごを連れ出したことは誰か知ってるかい?」
「いや、誰も」
「それは、まずいかもしれない……」
真剣に考え込む藍曦臣にふざけている様子はない。
「えっと、りんごちゃんは連れ出したらいけなかった?」
「いや、そうではなく、貴方とりんごが一緒に雲深不知処から消えた事がいけない」
「は?」
意味がわからないと眉間にシワを寄せた魏無羨の前を思念珠がふよふよと宙を漂いながら、藍曦臣の手の平に乗る。
手に乗せた藍曦臣は目を閉じ思念を読み取った。
藍曦臣の整えられた眉がぴくっと動き、ゆっくりと双眸が開く。口元も引きつっている。
「魏公子、叔父上にも知られたようだ。とても慌ててらっしゃる」
「えっ、思念珠は藍先生から!?なんで!?俺、何か悪い事をした?」
「…………」
どう説明すれば魏無羨に伝わるのか藍曦臣は再び考え込んだ。
弟は魏無羨が側から居なくなることを恐れているーーー
魏無羨が居ない時の藍忘機の様子を魏無羨は知らない。
夜狩りも行き先や内容を知っていても藍曦臣には弟がそわそわしている事がわかる。
そして、16年前に見た弟の狂乱した姿は藍曦臣にも藍啓仁にも鮮烈に残っている。
まだ友人であり、恋人ですらなかった時であの荒れ様。
晴れて恋人になり、道侶となった今は想像することすら怖い。
『魏無羨がロバと逃げた!忘機が気づく前に捕まえよ!』
叔父にどのように伝わったのか不明だが、今、雲深不知処では魏無羨はロバと『逃げた』事になっているらしい。
自分が居ない雲深不知処の混乱ぶりが目に見えるようで藍曦臣はこめかみに手をあてた。
「魏公子、一度雲深不知処へ戻ろう。忘機が気づく前に」
「藍湛が?」
「少し誤解があるようだ。貴方が姿を見せれば誤解も解けるだろう」
さっさと立ち上がった藍曦臣を見ながら何だかよくわからない魏無羨が立ち上がると、その頭上を影が過る。
ピィー!と指笛も聞こえ、魏無羨と藍曦臣は空を見上げた。
御剣の藍氏の一団が見え、指笛もそこから聞こえている。
反応したのは、ロバが先で耳をピクピクさせるとグォーグゥーと鳴き始めた。
「りんごちゃんが鳴いてる!」
ロバの鳴き声を聞き付けた一団はわーわー言いながら猛スピードで方向を変えて、こちらに向かってくる。
その鬼気迫る勢いに魏無羨は後退り、藍曦臣は頭を抱えた。
「魏先輩〰️〰️!!」
うわわーんと御剣から飛び降りた藍景儀が泣きながら魏無羨に飛び付いてくる。
一緒に降りてきた者たちはロバを捕まえに行ったりこちらに走ってきたりと忙しく動いていた。
「うわっ、なんだ、何で泣いてんだ!?」
「もう、なんでこんな所にいるんですかぁ!探したんですよおぉ!!」
「お、おう……」
あまりの様子に戸惑いながら、魏無羨は藍曦臣を見た。
藍景儀が泣きたくなる気持ちもわかる藍曦臣は、こほんと咳払いをする。
「景儀、雲深不知処はどうなってる?」
「みんなで魏先輩とりんごちゃんを探してます。俺たちは裏山から外を探そうと飛んでたんです!」
目をごしごし擦り、鼻水をずびびと音を立ててすすり、藍景儀は答えた。
「一体、なんだってそんな大掛かりに?」
唯一、この状況を生み出した人物がこの状況を把握してないことに気づいた藍景儀が魏無羨に噛みつく。
「魏先輩がりんごちゃんと一緒に消えるからいけないんです!!含光君に知れたら怖いでしょ!!」
「藍湛に知れたら怖い?どして?」
「わからないんですか!?」
「何をわかれって言うんだよ!」
ケンカになりそうな2人の間に藍曦臣は割り込んだ。
「景儀、今はそんなことを言ってる場合じゃない。叔父上が、魏公子がりんごを連れて遁走したと勘違いしてらっしゃる。一体どうしてそんなことに?」
「えっ、先生がもうご存じなんですか!?多分、俺が手伝ってもらおうと声をかけた誰かに聞いたんだと思いますが……」
「その時、お前は何と言って手伝ってもらった?」
「りんごちゃんが逃げたかもしれない、魏先輩もいない、と……」
「それだ」
人から人への伝言は焦れば焦るほどおかしく伝わる。
いつの間にか『魏無羨がりんごと逃げた』に変わっていてもおかしくなく、それを藍啓仁が聞いたとしたら、さっきの思念珠の内容も納得いく。
「もし、忘機も同じ内容で聞いていたら……」
「ねえ!さっきからみんな藍湛、藍湛って。一体何なんだ!?」
自分の問いに全く答えてくれない藍曦臣と藍景儀に、魏無羨がしびれを切らして叫んだ。
話し込んでいて魏無羨を置いてけぼりにしていた2人は、はっとする。
「魏公子、早く戻ろう!」
「そうです、そうです!早く!」
「おいっ!」
抗議する魏無羨を無視して、藍曦臣と藍景儀は魏無羨を引っ張って雲深不知処へ引き返した。
し……ん、とした雲深不知処に藍景儀が首を捻る。
異様な静けさに藍曦臣は、これはとため息をついた。
魏無羨とロバが見つかったと先に知らせたので、混乱は落ち着いているだろうとは予測できた。
それでも人の気配はあるはずだし、何人かは動いていないとおかしい。
考えられることは2つ。
1つは藍啓仁が戻ってくる魏無羨を怒る為に待ち構えていること。
2つは藍忘機の耳に間違った話が伝わったこと。
「何か静かですね?」
藍景儀の声が静かな雲深不知処に響いた。
「あ~、藍先生がおかんむりなんだろうなぁ……謝ってくる……」
「私も一緒に行こう」
「あ、俺も行きます」
これから藍啓仁の大目玉を喰らう魏無羨の背中に哀愁が漂う。
だが、藍曦臣と藍景儀はそれだけで済まないのではないかと嫌な予感がしてならない。
「魏先輩」
あと少しで松風水月の部屋という所で、藍思追が待ち構えていた。
「ご無事で何よりです」
にこりと笑うその顔が少し引きつっている。
それだけで藍曦臣も藍景儀も大体を察した。
「思追も俺を探したの?ごめんな、心配をかけたな」
「いえ、そんな。それよりも……」
「魏嬰」
ただ名を呼んだだけなのに、藍曦臣、藍思追、藍景儀には地の底から響く声に聞こえた。
「あ、藍湛!」
嬉しそうな魏無羨だけが気づいていない。
「どこに行く?」
「え……っと、ちょっとやらかして松風水月の
藍先生の所まで……」
「それならば必要ない。私が代わりに謝っておいた」
「藍湛が!?わー、ありがとー」
ありがとー、じゃないですよ!含光君の目が怖いですよ!と藍景儀が心の中で魏無羨に突っ込む。
「あ、でも、何で?お前、知ってたの?」
「うん」
ヒョオオォと見えない冷たい風が吹く。
これ以上ここに居ては巻き込まれる。
「忘機、魏公子。私達はそろそろ行くよ」
藍曦臣の言葉に藍思追も藍景儀もうんうんと首振り人形のように頷く。
「ありがとうございました、沢蕪君。思追も景儀も探させて悪かったな!」
ぶんぶんと手を振って笑う魏無羨に、罪悪感を感じながらも3人はその場を離れた。
「あのぉ、沢蕪君」
おずおずと藍景儀が藍曦臣に声をかける。
「言わなくてよい、景儀。気持ちは同じだ」
叔父と弟がどんなやりとりをしたかは不明だが、叔父から不問をもぎ取った弟はさぞかし……とそこまで考えて藍曦臣は止めた。
「今回は魏公子の自業自得だということで我々は納得しよう」
『やった事はやった奴が責任をとる』
いつも魏無羨が言っている言葉が脳裏に浮かんだ藍思追と藍景儀は、魏無羨の無事を祈った。
「でね、草原をりんごちゃんも走れて楽しそうだった!」
「君は?君も楽しかった?」
「俺?ああ、久々にりんごちゃんと走れて楽しかった!」
静室まで今日あったことを話しながら魏無羨と藍忘機は歩く。
仕事が早めに済んだと藍忘機と連れだって歩く魏無羨は、今日はいい1日だったなあと暢気に満足していた。
「りんごちゃんのストレス解消には時々走り回れる場所が必要と思うんだ。今日行った所に柵を作ったら駄目かな?」
「柵を?」
「そう。そしてりんごちゃんにも伴侶を選んでやるのはどうだろう?」
「伴侶……」
「ここはもうりんごちゃんの家だし、家族がいたら寂しくない!」
家、と藍忘機は呟き歩を止めた。
「藍湛?」
「魏嬰、私は君とりんごが一緒に雲深不知処の外に行く事が嫌だ」
「へ?」
「君は躊躇なくりんごと何処かに行きそうで」
「俺を風来坊みたいに言うなよ~」
そこで魏無羨は、藍曦臣と藍景儀の態度を思い出す。
「あ……あ~、そうか、そうか。そうゆうことか」
ロバと雲深不知処を出た事がまずいと、藍曦臣は言った。
含光君に知られたら怖いと藍景儀は言った。
つまりは、皆が藍忘機の気持ちを知っていたからだ。
「だから、今回みたいに急に居なくなるのはやめろ、ということか?」
「そうだ」
「みんながお前を恐がってたけど?」
そこには藍忘機の返事はない。質問に対して藍忘機が口を閉じたら絶対に話さない。
「……わかった。ならりんごちゃんを連れて雲深不知処からは出ない。だから、裏山の草原にりんごちゃんが遊べる場所と柵、そして伴侶を選らんでやってほしい」
「兄上と話し合おう」
魏無羨はほっと息を吐いた。どうやらロバの運動不足とストレス、両方の解消ができそうだ。
「しかし、何だって俺が出ていくとかそんな風に考えるんだか……」
「君が置いて行くことに慣れた人だからだ」
「何だよ、それ」
「そして、雲深不知処は君が居なくなることを恐れている者たちが多い」
雲深不知処内の空気がざわついている。
執務室に居ても藍忘機にはわかった。
居ない、と囁く小さな声には焦りが含まれ、どこにいった?ともう少しで走り出しそうな足音。
「魏先輩が、りんごちゃんと逃げたって?」
声を押さえてはいるがはっきりと聞こえてきた内容に藍忘機は身体中の血が逆流するかと思った。
「ここは俺の家で、みんなは家族だろ?勝手に居なくなったりするもんか」
魏無羨が照れたように笑う。
さっきまでささくれだっていた藍忘機の気持ちが、その一言で消えていく。
「ああ、もう!なんて顔してるんだよ…そんなに驚くことか?」
困ったように魏無羨は藍忘機を見上げるとその手を取った。
「ほら、静室に戻ろう」
ぐいっと藍忘機の手を引っ張り前を歩く魏無羨の揺れる長い髪を藍忘機はじっと見た。
この不安は消えない。
だが、不安になる度にこうやって確かめればいいだけの話だ。
「魏嬰」
「ん~?」
「とても心配した」
「それは…悪かったよ」
「本当に悪いと思っている?」
竹影堂と書かれた静室の門まで来た時、藍忘機は繋いでいた手を解くと、魏無羨を抱き締める。
「……うん」
「では、罰を受けてもらわねば」
「…………はい?」
「叔父上には不問にしてもらう変わりにちゃんと罰を受けさせると約束してきた」
きらりと琥珀色の瞳が光り、藍忘機から不穏な空気を感じた魏無羨はこれはまずいと思う。
「俺、やっぱり藍先生の所に行ってくる。雲深不知処もかなり騒がせたみたいだし、やったことの責任は取らないとな!」
藍忘機の胸を押し、腕から逃げようとした魏無羨だが、それは藍忘機が腕に力を入れたのでかなわなかった。
「叔父上には納得いただいている。そちらは大丈夫」
「ら、藍湛…因みに罰ってどんな……?」
恐る恐る尋ねた魏無羨をちらっと見下ろした藍忘機はヒョイと魏無羨を肩に担ぎ上げた。
「罰は罰」
「だからっ!その罰の内容を……」
「言わない」
トントンと藍忘機は魏無羨を抱えたまま軽やかに静室の階段を上がった。
沢山の木材を見ながら藍思追と藍景儀は落ち込んでいた。
今から若い弟子たちでロバの柵を作るのだが、そんな気分ではなかった。
「魏先輩、見ないな……」
「そうだね……」
やはりあの時、見捨てない方が良かったかと藍思追も藍景儀も反省している。
「大丈夫だ。魏公子は静室で発明品を作っていたらしいからね」
藍曦臣が安心させるように弟子に穏やかな口調で告げた。
「本当ですか?」
「発明品を作り出したならお姿が見えなくてもおかしくないですね」
藍忘機と魏無羨が揉めたのではないかと心配していた弟子たちは素直に喜ぶ。
揉めたことは揉めた。
藍忘機の【罰】が魏無羨を2日ほど起き上がれない状態にした。
だがその後、魏無羨は突如として発明品作りに没頭して7日後に1つの発明品を作り上げた。
それを弟が大事そうに懐に入れていることを藍曦臣は知っている。
一見、魏無羨が以前作った風邪盤に見えるが、藍忘機にとってはそれよりも価値のあるもの。
藍忘機と魏無羨、お互いの霊力を籠めることにより、お互いがどの方角にいるか差し示す藍忘機と魏無羨だけの相互盤。
手に持ち眺める弟の顔は幸せに満ち溢れていた。
「さて、りんごちゃんの為に柵を作ろう!」
弟子たちの元気も戻り、雲深不知処は静かだが活気が戻ってくる。
やがて裏山に広い柵が立てられ、その中で番のロバが仲よく草を食む姿はウサギと並んで皆の癒しとなった。
同じ頃から、魏無羨がどこにいても藍忘機がすぐに見つけ出すので、相互盤の存在を知らない弟子たちは、さすが含光君、と新たに尊敬されている。
居場所が簡単にわかるため、魏無羨は相互盤を作らなければ良かったとちょっと後悔したが、道侶が肌身離さず持っている相互盤を取り上げることはしなかった。
ただ時々、修理をすると藍忘機から相互盤を預かった日だけ、こっそりと羽を伸ばしていることは内緒である。