太陽と雲と①<一>
岐山の教化司で行われる清談会には、各地の仙門が集まっていた。
岐山温氏、蘭陵金氏、姑蘇藍氏、雲夢江氏、清河聶氏の五大世家を中心として仙門は形成される。
中でも長年仙門の長たる仙督を務める岐山温氏の力は絶大で、他の四家でさえ一歩退く程である。
それでも、四家が纏まれば岐山温氏に対抗しうる力になるために、温氏は四家を蔑ろにするわけにもいかず、その均衡は保たれていた。
まだ若い宗主というものが軽んじられる仙門において、姑蘇藍氏の宗主・青蘅君こと藍和同は穏やかな気質と端正な容姿、優雅な立ち振舞いから十七歳でありながら一目置かれていた。
堅苦しい家規が家訓石に刻まれた姑蘇藍氏の中で育ちながらも柔軟な思考と発想で宗主としての統率力も優れ、どの世代からも尊称で呼ばれるほどの人物だ。
その青蘅君が、本日の清談会に誰かの手を引いて参加しているとたちまち噂は流れ、その相手が誰なのか、皆が興味津々であった。
「阿優、きつくはないかい?」
「……大丈夫です、兄上」
手を引く相手を気遣いながら階段を登るハラハラ顔の藍和同に比べて、引かれている方は子供らしいふっくらとした頬に少し朱を浮かべて不満そうだ。
「きついならば、兄が抱えて……」
「兄上! 結構です!」
今にも抱き抱えそうな兄の行動を咎めた子供はぎゅっと兄の手を握る。
「そうかい? きつくなったら言うのだよ?」
まだ心配そうな声で話しかけてくる兄に対してふうっとため息をつく。
好奇な人々の視線が前後左右から突き刺さる。
今まで人前に出たことがない子供は自分が注目されることに慣れていない。だが、兄を支えていくと決心したからには必要な事だと、萎れそうになった心を奮い立たせた。
体が弱かったせいで、雲深不知処の外へ出たことがなかった。季節の変わり目には必ず体調を崩す自分を両親よりも大事にしてくれたのは七つ年上の兄である藍和同だ。
宗主の血筋に生まれながら情けないと嘆く藍優を、誰でも何かしらの欠点はあるものだ、体は段々強くなる、そうなったらこの兄を支えてくれと優しい言葉で藍和同は励ましてくれた。
その言葉の通り、七つを過ぎた辺りから体は丈夫になり、先日結丹ができるほどまで強くなった。
剣技や実技を学び始める年に間に合った藍優は、体が弱かった時分に蓄えた知識とこれから学ぶ実技で宗主の一族としての責務を果たそうと今日、仙門の前に出ることを決めたのだ。
「青蘅君」
広間に入るなりに、炎の柄が描かれた衣服を身につけた偉丈夫に呼び止められて、藍和同と藍優は足を止めた。
「温宗主だ」
こそりと兄が耳に囁き教える。きゅっと唇を噛みしめ、少し兄の後ろに控えた藍優は兄のするように礼をした。
「本日は可愛らしい供をお連れだ。どなたかな?」
「はい、弟の藍優と申します。藍優、温宗主だ」
「初めまして」
挨拶をすれば、不躾な視線が頭から爪先へと注がれる。値踏みをするようなその視線に藍優はじっと耐えた。
「なるほど。お体が弱いとおっしゃっていた弟御か。お年はいくつか?」
「はい、十になりました」
藍優の返答に、ふむと温宗主は顎に手を当てた。
「なら若寒と年が近いか。先日、成人した三男坊だ。誰か、若寒を呼べ」
周りに控えていた温氏の者が慌てて公子を呼びに走る。
「三男坊だから、自由すぎて親の言うことを聞かない。困った息子だがな」
苦笑する温宗主に藍和同がにこりと微笑む。
「私も子供時分はそうでしたよ。これからいろいろ学びたいと思ってます」
「青蘅君のように向上心があればよいが、どうもあやつはやる気がない」
「まだ遊びたい年頃です。いずれはひとかどの仙師になりましょう」
「だとよいがな……」
何でもない世間話をする二人に藍優はふうと息を吐く。
温三公子・温若寒。
年は十二で、正妻ではなく妾から生まれた。
上の第一公子と第二公子とはうまが合わず、学問も実技も適当にやるらしく、温氏の数多いる子供たちの中でも問題児だ。
だが、それも母親の身分が低い為かそんなに重要視されてはおらず、このまま仙師にならずとも遊んで暮らせるいい身分だ。途中で家督を引き継いだ兄たちが、自分達の安泰の為に温若寒を害さないならば、と条件つきであるが。
しかし、その心配もないだろうというのが世間の認識。
温氏の三男は出来損ない。勇猛で血気溢れる温氏に生まれながらその気概すら持たない軟弱者。
誰もがそう温若寒を評した。
「お呼びと聞き、参りました」
温氏の衣装に身を包んだ男の子が、温宗主の後ろに現れた。
意思の強そうな眉と通った鼻筋、不機嫌さを隠さないへの字の口元に、どかどかと足音を立ててやってくる態度。
藍優は思わずぽかんとそれを見つめた。
「こらっ! 客人の前でお前はっ!」
「私を叱る為に父上はお呼びですか? それならば私は退散いたし……」
文句を言う父親に、手で耳を塞ぎながら温若寒は視線を前方に向けて言葉を途切らせた。
藍優をじっと見つめてくる視線は、先程の温宗主と同じで人を値踏みするもの。子供らしさが抜けた瞳に、藍優は兄の後ろに隠れぎゅっと衣服を握りしめた。
藍優の様子にハッと我に返った温若寒はごそごそと袖を探り中から何かを取り出すと、足早に藍優に近づき手を差し出した。
「やる」
ぶっきらぼうな声に戸惑い、兄を見上げた藍優に藍和同はにっこりと笑い頷いた。
「手を出しなさい」
兄に言われるように手を出した藍優に温若寒は機嫌を良くしたのか、ころりと何かを手の平に落とした。
綺麗な色紙に包まれたものは、最近流行りの飴玉だ。裕福でなければ手に入らない嗜好品。
初めて見たそれに、藍優の目が輝く。
「……ありがとう……」
おずおずと藍優が答えたら、温若寒は顔を赤くし怒ったように踵を返して行ってしまった。
「わ、私は何か粗相を…?」
慌てた藍優に、藍和同は苦笑し、温宗主は頭を抱える。
「愚息が本当に失礼を。藍二公子のせいではないので心配なきよう。全くあやつは……」
ぶつぶつと息子に対して文句を言う温宗主を尻目に、手の平の飴玉を藍優はじっと見つめる。
「良かったね、阿優」
「ですが、兄上。温公子は怒ってました」
「ん~…あれは、怒ってるのではないとおもうがね……?」
曖昧に答えた兄の言葉に首を傾げながら、手の上の飴の包みを開けた。黄金色に輝くその飴は、甘く少し塩辛い味がした。
「父上っ!!」
バンッと勢い良く開けた扉から、飛び込んできた息子に、温宗主は顔をしかめる。
「ちょうど良かった。昼間のお前の態度について説教を……」
「そんなことはどうでもよいのです!」
「そんなこととは何だ!?」
温宗主が怒鳴ると周りに控えていた者たちは首を竦めた。
仙督をつとめる温宗主の威厳は生半可ではなく、誰もが恐れる。だが、この三男坊には全く通じない。
家の事などどうでもいいと、普段からそう豪語する温若寒だけは、他の子供とは違って親の機嫌を取ろうとはしなかった。
「私が常識知らずの恥知らずなど誰もが知っていることです。現に、藍氏から私の態度で何か抗議がはいりましたか?」
十二才にしては達観している物言いが、温宗主の怒りに油を注ぐ。
「馬鹿者! お前の態度が許されるのは温氏の公子だからだ! お前自身だからではない」
「そんなことは重々承知です。いずれ、兄上方が宗主になられたあかつきには、私もこの家から追い出され一人で生きていくこともわかってます。今しかない特権ならば今使います」
飄々と言い放つ息子に、温宗主はぐぬぬと唸る。
跡継ぎになるために、子供たち本人とその母親とその親族たちが躍起になる中、温若寒と母親は早々にその努力を放棄した。
第三公子を産みながら、中級仙門の出である温若寒の母親は正妻よりも目立つことを嫌がり、温若寒にも言い含めた。それが、血で血を洗う温氏において生き残る術であり、我が子を守る手段だと信じていたからだ。
もちろん、それを息子にも徹底させ、兄上方よりも目立つなと口酸っぱくいった結果が現在の温若寒だ。
その為、他の兄弟からは自分を脅かす存在とは認識されず、平々凡々で気楽な日々を送れている。
「ですから、父上、お願いがあります」
「……願い?」
滅多に何かをねだることをしない息子の初めての願い事に温宗主は怒りよりも好奇心が勝る。
「先程の娘御を私の妻に貰いたいのです」
「娘……?」
はて、と顎に手を当てて温宗主は考える。今日、誰からも娘は紹介されなかったがと記憶を探った。
父親の煮え切らない態度に、イライラしだした温若寒はダンと足を鳴らした。
「居たではないですか! 藍宗主と一緒に!白い肌の目の綺麗な娘です! 藍氏の校服を着ていたので藍氏の仙子でしょ!?」
温若寒の言葉に、ああっ! と思い出した温宗主は、我慢できずにあっはっはと笑い出した。
「何ですか、父上!」
「いや、ククッ、そうか。うむ、そうだな」
笑いを止められず温宗主は巨体を揺らす。
実は温宗主も初め、藍宗主の隣にいた子供を女児と勘違いをした。弟、と紹介されてまさかとジロジロと見てしまったが、なるほど兄と似ている部分があると納得する。
美形揃いの藍氏の一族だ。息子が見間違えてもしょうがない可愛さだった。その将来を見据えて妻にと望んだ息子の審美眼はなかなかのものだ。
「初恋か?」
澄ました息子の頬がほのかに赤くなる。
「そんなこと、関係ないでしょう!」
「いやいや。世家同士の婚姻はどこも気になるもの。ましてや政略結婚が主な世家において、娘御ならば好いてくれている相手から望まれたいものだ。お前が遊びの気持ちならば諦める方が良かろう」
クソオヤジと温若寒は吐き捨てると開き直り、そうです、と認める。
「俺はあの娘に一目惚れした。だから妻に欲しい」
敬語もかなぐり捨てて本音を吐き出した息子に、父は満足しながら非情な言葉を告げた。
「それは無理だ。お前とは一生縁がない」
「はぁ!? なんで!?」
身を乗り出して責める温若寒に、温宗主はきっぱりと引導を渡した。
「藍二公子だからだ」
どうやって自分の部屋まで戻ってきたのか、温若寒にはその時の記憶は残ってない。
ただ鮮烈な衝撃と、妻にはできないという事実と……激しい怒りだけはいつまでの腹の底にあった。
「あれが男!? 白い肌にバチバチの睫に桃色の頬に、りんごのような赤い唇のくせに!?」
怯えるように藍宗主の後ろに隠れた様など深窓のお嬢様に思えた。
今は貧相な身体つきで弱々しいが、何年か後には絶世の美女に成長し、誰もが求婚するようになる。その前に、早く婚約だけでもしておきたくて、下げたくもない頭を下げて(実際は下げてもいないが)大嫌いな父親に頼んだというのに!
何かを強烈に欲しいと感じたのは初めてだった。多くを望むな、欲を持つなと母親から言われて育った自分はこれまでもこれから先も、何も望まずに生きるのだろうと考えていた。
だが、あの娘だけは手に入れたい衝動が押さえられなかった。やはり、温氏の血が自分には流れていると思い知らされた。
「それなのに、男!?」
今頃、この話を父親から聞いた他の兄弟たちは、やはり常識はずれは人を見る目がないと蔑んでいる頃だろう。
蔑まれることなど慣れているのでどうでもいいが、男と見抜けなかった己の間抜けさに腹が立つ。
寝台の上に胡座をかいて、腕組みをした温若寒はムスッと顔をしかめた。
飴まで手渡して他人の機嫌を取ろうとした自分はかなり相手には滑稽に見えただろう。
だけど…………
「笑うと可愛かった……」
びくびくしていたのに、手の中に落とされたものが流行りの飴だとわかると途端に目が輝いた。その表情の変化があまりにも鮮やかで可愛くて、ありがとうの声は鈴を転がしたように愛らしく、それが顔に出そうになったからその場から逃げた。
「でも、男……」
男は妻にはできない。
胸も無い、いい匂いもしない、身体は硬い、声は低い、そして子が成せない。
温若寒は自分が父親になったら、子供を大事にしようと思っていた。宗主の立場でないなら跡継ぎをたくさん作る義務はない。母のように悲しみ苦しむような者を作らないためにも、一人の妻とその間に生まれた子だけを大事に生活する。それが夢だった。
ごろりと寝台に寝転がり、天井を見上げた。
「男は子供を作れないよなぁ……」
当たり前の事をぼそりと呟き、大きなため息が出る。だが、どうしても顔がちらついて頭から離れない。
「あっ!」
いい思いつきが脳裏に閃き、体を勢い良く起こした。
「そうだ!
友達になればいいんだ!」
親友という形で手に入れればよい、とわかると部屋から飛び出した。
どうにかして友達になるべく、まずは藍二公子の情報を集めようと温若寒は行動をおこした。