ブラウン色に恋 受けた依頼先は、結構立派なパーティ会場。かつ、除霊仕事だと感づかれないようにして欲しいと言われてしまっては、さすがにいつものような職場用のスーツでは向かいづらかった。
だいぶ昔に買った、ちょっとだけ上等なスーツをクローゼットの中から取り出す。たしか、試着の時に一度袖を通してみた限りだったか。たまに手入れくらいはしていたものの、まさか駄目になってはいないだろうかと広げてみれば、保存状態はひとまず良好。
なにかあった時のために、こういうのも手元に置いておいた方が良いだろうと思って買っておいたんだ。その「なにか」は会社員をやっていた頃には結局起こらず、三十も四つ越えたこの年になってから、ようやくお鉢が回ってきた訳だが。
芹沢はそういう場に向いていないので、あらかじめ別件の依頼に回ってもらった。さすがに頼もしさが増してきたといえども、注がれたシャンパンの扱いに困り果てる姿が目に浮かぶ。代わりにエクボを連れて依頼場所へと向かうことにした。なんせ悪霊には、ドレスコードなんぞひとつも存在しない。
結果としては、依頼は無事に解決。ただ、思った以上に時間を取られてしまい――俺はモブと約束している待ち合わせ場所へと、そのままの格好で向かう羽目になった。
約束とは今晩の夕飯。つまり、勿論、デートだ。
モブとは、あいつが大学生になった頃から付き合っている。本当は高校生の頃に告白をされたんだけれども、まあ、色々と逃げ回った結果だ。そんな抵抗など意味を成さずに捕まってしまったのだから、もう言い訳すらもできないが。
「モブ、すまん待たせた」
「いえ、大丈夫です。お仕事お疲れさま――」
大学二年生になったモブは、シャツを一枚羽織った、ラフな格好をしている。おしゃれなレストランへ向かう訳でもなし、いつものラーメン屋だとか蕎麦屋がせいぜいだ。めかし込んでしまった今の姿じゃ、こっちこそ少々浮くか。やっぱり、家で着替えてから向かうべきだったかもしれない。
そう思いながらも、装着した腕時計に目をやる。もうすっかり夕飯時な時間帯へ、さて行くかと声をかければ、
「モブ?」
ところが、モブからの返事がなかった。
「…………」
固まっている。
一体どうしたのかと、目の前で手を振ってみた。それでもすぐには反応がなく、待つこと数分。やっと意識を取り戻したかと思えば、今度は勢いよく、がしりと俺の手を掴んでくる。
「な、な……なんですかその格好!」
「あー……今日の依頼先、結構上等な場所だったんだよ。それでいつものスーツじゃなくてさ……これ、結構前に買ったんだけど、すんなり着られたんだぜ? やっぱちゃんと筋トレして体型キープしてたおかげ……って、モブ?」
また、固まっている。
しょうがなく、俺は捕まれた手を一本一本、指から離すことにした。そうやって中指まで終わった頃に、
「…………もしかして、似合ってない?」
とこぼせば、ほどけかけていた手が再び力を取り戻して、がしりと掴んでくる。だから力が強いんだって。
「そんなことないです! すごい似合ってます!」
「あ、ありがとう」
「すみません、ちょっと……びっくりしただけで」
「まあ、いつもと違うもんな」
スーツはブラウン、ネクタイは赤。髪型も、ちょっとだけ変えた。社会人なんてのは、ほとんど毎日決まったものを着て繰り返しがちだから、違和感がすごいだろう。
「モブくん、痛い痛い」
ところで、ずうっと強く手を握られてはいないだろうか。耐えきれずに俺が訴えれば、モブはハッとして手を離す。
「あの」
「うん」
そして、可哀想なくらいに首筋からじわじわと熱をあげて、最終的には顔まで真っ赤に染めはじめた。
「だ、抱きしめたいです」
それは、俺の台詞なんだが。
可愛い可愛い俺のモブは、そんなことを言ってきた。どうやらいつもと違う俺に対して、存分に照れているらしい。少し俯きがちなまま真っ赤に染めて、いや、本当に可愛い彼氏なのである。
だけれど、残念ながらここは外だ。不特定多数の前で堂々と熱い抱擁を交わす訳にはいかず、俺の方こそ抱きしめたい気持ちを必死になって押し殺す。
「……今は、お外だからダメです」
「ですよね……」
そうやって、しょぼくれる姿がますます可愛い。
水に濡れたチワワかモブか、可愛さの天秤が激しく揺れてしまうレベルだ。俺は思いきり下唇を噛んで、なんとか耐えた。勘弁してくれ、俺の弟子がとんでもなく可愛すぎる。
「ほら、はやく飯食いにいくぞ」
そう絞り出す声なんか、もうぶるぶる震えて大変だった。こんな状態のまま暫く過ごすだなんて、まず無理だ。適当に近場のファミレスにでも寄り、お冷やでも飲んで、すばやく気持ちを切り替えよう。
「あの、そしたら」
「うん」
「せめて、感想を伝えたいんですけど……」
「へ」
感想?
ひとまず歩き出した足取りは、ところが、順調にはいかないらしい。
「……感想が言いたいの?」
俺の質問に対して、隣を歩くモブが「はい」と言いながら頷く。はいじゃないだろうとは、思う。けれどモブは俺の了承も得ないままに、口を開いた。
「すごく、上品で大人っぽいなって……いつものスーツ姿も格好いいし、見慣れていて安心できるんですけど、そういう感じもすごく良いですね。姿は大人っぽいのに、師匠の表情はいつもどおりだから……その、ギャップっていうんですか? そういうのが、」
「いやいやいやいや待って」
俺は歩く足に急ブレーキをかけて、モブの前に立った。
なんだこの生殺し。こんなべたべたに口説かれておいて、真顔で歩けると思うか? いいや、歩けない。気にせずファミレスまでずかずか向かえるカップルが、もしこの世にいるんだったら、そいつらは間違いなく狂っていやがる。
「ど、どうしたのモブくん」
「どうもしてないですけど」
「だってその……え、ほんとどうしたの」
「だから、どうもしてないですけど」
頭の回転には自信のあるこの俺が、途端にショートするほどの衝撃だ。
何かを言おうとして、しかし上手く抽出できずに思わず俯く。次第に心臓の鼓動に合わせ、頭のてっぺんにまであがってくる熱を感じ、さらに一層、モブの顔が見られなくなった。
だって、三十も越えた男が、十四も年下の奴に褒められ真っ赤になる姿だなんて、結構きついじゃないか。
「師匠……あれ、もしかして」
「夕飯さあ!」
モブが、俺の様子にとうとう気づく気配を感じた。気づかれる訳にはいかず、俺は半ばやけくそになりながらも腹から声を出して、それを封じる。
「…………やっぱ、俺ん家で食わない」
そうして、今度の声はアンバランスにもずいぶん小さくなってしまった。そんな俺に対し、果たしてモブはといえば、
「ふふ、師匠かわいい」
だなんて、余裕の彼氏面だ。いや、紛うことなく彼氏なんだけれども。
もう、十分気づかれているんだろう。モブの指先が、俺の指先をくすぐるように繋いできた。それから俺の家の方向へと進む足取りに、やめろとも離せとも、どうにもこうにも言えやしない。
「師匠の家についたら、抱きしめさせてくださいね」
そしたらこの了承だって、わざわざ口にしなくたって良いんじゃないかと。
「…………」
そうに違いないと判断した俺は、黙ったままモブの後ろを歩くことだけに、ただただ専念しようと心に決めた。